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 貝がらを耳に当てると、波の音が聞こえる。
 私の生まれた海辺の町では、そういうふうに言っていたと思います。実際にやってみると、さあさあという、波のような、テレビの砂嵐を柔らかくしたような、あるいは人の囁きをたくさん集めたような、そんな音がしたものです。
 ですが、小学校のときに越してきたその町では、よその土地と少し、勝手が違うようでした。
 貝がらを耳に当てると、歌が聞こえる。子ども達は、口を揃えてそう言うのです。
 私は初め、彼らがよそ者の私を担ごうとして、そんな嘘を言っているのではないかと思いました。他愛のない意地悪。私が真に受けて音を聞こうとするのを見て、その姿を笑おうという按配。
 ですが、彼らは皆、口を揃えて同じことを言いました。初めに私にそれを教えたのは、隣の家に住んでいた、ひとつ年上の男の子でした。次は、同じ年の床屋の息子と、花屋の娘さんの二人連れ。それから、別の日にたまたま家に遊びに来ていた、双子のはとこ。
 あまりにも皆がそう話して聞かせるので、私は遅ればせながらようやくその話を信じはじめ、はとこ達が帰るのを見送ったあと、一人でそわそわと海岸へ向かいました。彼女らと一緒に行かなかったのは、まだどこかで疑っていたからです。
 砂浜にたどり着くなり、私は貝がらを探しにかかりました。砂浜には、ちょっとしたごみと一緒に、色んな種類の貝がらが落ちています。
 手ごろな渦巻き貝は、すぐに見つかりました。拳を握り締めたくらいの大きさで、欠けたところの無い、きれいな貝でした。
 本当はその場で試してみたかったのですが、私はひとまず貝をポケットにしまって、家に帰ることにしました。少し離れたところで、何人かの子どもたちが泳いだり、砂浜で遊んでいたりして、その中には、歌う貝の話を私に聞かせた子もいたのです。
 私は、彼らに揶揄われているのではないかという疑いを、消し去ることができませんでした。私がいそいそと耳に貝を当て、歌が聞こえるのを今か今かと待っている姿を見て、彼らが一斉に笑い出すのではないかと考えると、その想像がとても怖かった。
 部屋に戻った私は、それでもどこか浮かれるような気持ちで、渦巻き貝を耳に当てました。ですが、聞こえてくるのは、故郷の町でよく聞いていたのと変わらない、さあさあという波のような音ばかり。何度か試しても、音の調子は変わりませんでした。当てる耳を変えてみても、特に違いはありません。
 やっぱり、からかわれたのだ。半分は疑ったままだったとはいえ、私はひどく落胆しました。
 それも、最初は「がっかりした」というくらいのものだったのですが、時間が経つにつれて、だんだんと悲しくなってきました。彼らがどんな気持ちで私に嘘を聞かせたのかと思うと腹も立ち、一度は渦巻き貝を窓から放り捨ててしまおうとしたのですが、きれいな貝がらでしたし、貝がらそのものが悪いことをしたわけではありませんから、思いなおして、おもちゃ箱の奥の方に放り込んでしまいました。
 どこかに飾っておこうかとも思ったのですが、目に付けば、家族の誰かが「どうしたの」と聞いてくるでしょう。両親に、他の子どもたちに意地悪されたと知られるのは、何だか耐え難いような気がしました。

「何で、嘘つくの」
 私がそう言うと、お隣のケン坊は、きょとんとしました。いったい自分は何か嘘をついただろうか、といった表情です。
「なんだよ。変ないいがかり、つけるなよ」
「貝がらを耳に当てたら、歌が聞こえるって、このまえ言ったよね」
 私はそう言い募りながら、悔し涙が滲んでくるのを必死で堪えていました。
「言ったよ」
「何でそんな嘘つくの」
「はあ? 嘘じゃないって」
「だって……」
 私はさらに食ってかかろうとして、ケン坊の顔をきっと睨みました。ですが、ケン坊はずいぶんと訝しげな顔をしています。ばれたか、というような照れくさい笑みでも、悪戯の成功にほくそ笑むにやにや顔でもなく、本当に不思議そうな顔をしているのです。
「もういい」
 私は言うと、ぱっとケン坊に背を向けました。
「あ、おい」
 ケン坊が呼び止めましたが、私は振り返らず、走って自分の家に駆け込みました。きゅうに、怖くなったのです。皆が嘘をついているのではなく、自分にだけ聞こえていないのではないかと、そんなことを思いついて。
 私はもう一度、おもちゃ箱の奥から渦巻き貝を取り出し、そっと耳に当てました。ですが、前と同じ、さあさあという波の音が聞こえるばかり。角度を変えてみても、じっと待ってみても、歌なんて、ちっとも聞こえてきやしません。
 私はそれ以上、他の子どもたちに確かめてみる気になれませんでした。誰かが「それはだまされたんだよ」と言ってくれればまだいいけれど、もし、誰もがあの不思議そうな顔で、「え、聞こえないの」と言ってきたら、私はどうしたらいいのか。そう考えると、怖くて。
 何がいけないのだろう。私は一人、悩みました。この町に生まれて、ここの海で取れたもの食べて育った子にしか聞こえないのかもしれない。あるいは私が疑り深いから、信じない子の耳には聞こえないようになっているのかもしれない。ですが、自分の頭の中でいくら考えたところで、答えは出ませんでした。
 私はしばらく悩んだ末に、もうこのことについては考えないことにしました。
 以降、誰かが「貝を耳に当てるとね」と話しかけてきても、ふうんと気の無いそぶりで相槌を打って、興味がないという顔を作りました。ですが、私の心の隅の方には、いつも貝がらのことがひっかかっていました。よそ者の私には歌ってくれない、けちんぼの貝。

 この町に越してきて、二か月ほどが経った頃のことです。
 もうそろそろ、残暑の名残りも去ろうかという頃合いでした。紅葉が少しばかり色づきはじめた学校の帰り道に、大きな黒い犬を飼っている家がありました。毛が短くて、耳がちょっと破れていて、厳つい顔の犬。
 私は昔から、犬が苦手でした。三歳のとき、咬まれて怪我をしたことがあるのです。三歳児の頃の記憶なんて、他は何も残っていませんが、よほど怖かったのでしょう、その一件だけは今でも鮮明に覚えています。それ以来、犬を見ると、どんなにおとなしそうな犬でも咄嗟に逃げ出したくなります。ましてこの犬は、吠えこそしないものの、大きく、見るからに怖そうな顔つきをしていました。
 その黒い犬は、もちろん庭に繋がれていました。紐は長く、犬はいつも庭の中を好き勝手にうろうろしていましたが、もちろん道路の方までは出てくることができないようになっていました。
 それがその日に限って、どうした具合か、犬がびゅうと飛び出してきたのです。首輪から赤い紐がぶらさがって、勢いよくアスファルトの上を引きずられていました。
 私は思わずその場で固まって、息を呑みました。その音に気付いたように、犬が私の方を振り返ります。その黒ぐろとした瞳と、ばっちり視線が合いました。
 何を思ったのか、黒い犬は、私の方に走り寄ってきました。
 仰天した私は、とっさに犬に背を向けて駆け出しました。ちゃっちゃっちゃっと、後ろからアスファルトに爪があたる音が続きます。犬が追いかけてきている。
 私は必死で走りました。このときより必死で走った記憶は、他にありません。息を切らし、足をもつれさせながら、走って、走って、走って、
 どん、と誰かにぶつかって、後ろにひっくり返りました。
「いってえ……」
 相手は、お隣のケン坊でした。向こうも後ろにひっくり返って、お尻をさすっていました。
「何だよ、慌てて」
 私はケン坊に謝ることも忘れ、転んだまま、首だけで振り返りました。へっへっへっへっという、犬の息が近づいてくるのが聞こえたのです。
「いぬ、犬が」
 私が這うようにしてケン坊の後ろに隠れると、ケン坊は拍子抜けしたような顔でしゃがみ込んで、犬に向かって手を伸ばしました。
「ジョン、おいで」
 犬は舌を出し、ケン坊に勢いよく飛びつきました。鼻先を押し付け、ケン坊の顔といわず手といわず舐めて、擦り寄って甘えます。
「こいつは怖くないよ」
 ケン坊は、犬の背を撫でながら、ちょっと得意げな笑みを浮かべました。
「触ってみ」
 私は真っ青になってぶんぶんと首を横に振りました。わん、とジョンが鳴きます。首を傾げて、「何で、何で」と言っているように見えます。その様子には愛嬌があったかもしれませんが、私はそれでもびくっとして後退りました。
 ケン坊はしばらくそんな私を呆れたように見ていましたが、やがて「ジョン、おいで」と、首輪からぶらさがっていた紐を手に取りました。ジョンはおとなしく従って、嬉しそうにケン坊の後に続きます。
「こいつ、藤間んちに帰してくる」
 ケン坊はさっさと歩き出しました。私はほっとして、少し離れた後ろをついてゆきました。怖かったのは怖かったのですが、さっきは家と反対方向に逃げてきてしまったので、どうせ帰り道は同じです。それに、ジョンが間違いなくあの家の庭につながれるのを見届けて、安心したかった。
 ご機嫌のジョンが何度かくるっと振り返り、私に向かって、わん、と鳴きました。そのたびに私は立ち止まって、ジョンが前を向いてまた歩き出すまで、遠巻きに様子を見守ります。ケン坊はときどき振り向いて、その様子を可笑しそうに笑っていましたが、もう触ってみろとは言いませんでした。
 ケン坊はジョンの飼われている家までたどり着くと、チャイムも鳴らさずに引き戸をがらっと開け、「藤間あ」と中に叫びました。
 すぐに家の中から、くせっ毛の男の子が出てきました。知らない顔でしたが、ケン坊と親しそうに見えたので、きっと同級生なのでしょう。
「ジョン、外に出てたぞ」
「あれ、悪い。ありがとな」
 男の子はくせっ毛をがりがりと掻くと、紐を引き取って、「ごめんごめん、散歩の時間だったもんなあ」とジョンの頭を撫でました。
「じゃあな」
 ケン坊は用事が済むと、さっさと家路に着くようでした。私も、なんとなくその後ろについて歩きました。別々に歩こうと言ったって、どうせ家はお隣です。
 ケン坊はしばらく黙って歩いていましたが、ふと思いついたように、私の方を振り返りました。
「犬、苦手なのか」
「うん」
 私が思いっきり頷くと、ケン坊は腑に落ちないような顔をしました。その表情はまるで、犬が嫌いな人間がこの世にいることが不思議で仕方がないとでも言いたげです。
「なんで」
「咬まれたから」
「ジョンは咬まないよ」
「……、うん」
 私は一応頷きました。何と言われても、怖いものは怖いのです。でも、とりあえず反論するのは止しました。咬まないというなら、咬まないのでしょう。
「あ、そういえば、お前さ。こないだ、貝がらのこと」
 私はぎくっとして、肩を竦ませました。
「嘘つきって言ってたじゃん。試したの?」
 あまり蒸し返したい話題ではなかったのですけれど、ケン坊の声が、責める調子でもからかう調子でもなかったので、私はおそるおそる頷きました。
「……うん」
「その貝、まだ持ってるか」
「家にある」
「ちょっと見せてみ」
 前の日までだったら、首を振って「もういい」と逃げ出したでしょうけれど、このときの私は、素直に頷きました。何となく、助けてもらった恩義のようなものを感じていたので。

 私は「ただいま」と声をかけて家に入ると、おもちゃ箱の奥にしまってあった渦巻き貝を取り出して、また表に出ました。
「これ」
 手の平に載せて差し出すと、ケン坊は得心がいったように頷きました。
「これじゃだめだよ。種類が違うんだ」
 私はぽかんとしました。そんな可能性は、まるで考えていませんでした。
 ケン坊は親指で、海岸の方を指差しました。
「ついてこいよ。暗くなるまで、もう少し時間あるだろ」
 私は素直に頷くと、再びケン坊の後にくっついて歩き出しました。
 海岸まで着くと、ケン坊はきょろきょろして、波打ち際の貝がらを探しました。もう水も冷たいというのに、遠くには、まだ泳いでいる子どもたちの姿が見えます。
「あ、あった」
 ケン坊はしばらくうろうろした後、足元から水色の貝がらを拾い上げました。やや小振りで、口のところが少しばかり欠けてはいたけれど、丸い、きれいな貝でした。
「もっかい、やってみ」
 私はおっかなびっくり、貝を耳に寄せました。ケン坊は真面目な顔をして、私の反応を見守っています。
 最初は、本物の波の音と、遠くの子どもたちのはしゃいだ声しか聞こえませんでした。ですが、じっと耳を澄ましているうちに、かすかにキン、キン、と、硝子のコップをはじくような音が聞こえてきます。私は目を丸くしました。
 音は、少しずつ高さを変え、リズムを変えながら、調子よく響きます。その音は、人が歌う声のようには聞こえませんでしたが、打楽器を鳴らすような音とは違う、微妙な色合いというか、揺らぎのようなものがありました。
 なるほど、これは歌だと、私は納得しました。貝が、歌っている。
 それに耳を澄ましているうちに、なんともいえない安堵が、胸のうちに湧き上がってきました。歌う貝の話を教えてくれた子たちに悪意がなかったということが、ようやく飲み込めたのです。
 貝の小さな歌声は、どこか楽しげな調子でした。安堵が通り過ぎた後の胸が、だんだんと浮き立ってきます。
 その思いが、顔に出ていたのでしょう。じっと見守っていたケン坊は、私が何も言わないうちから、満足そうに笑いました。
「ありがと」
 耳から貝を離して、拾い主に返そうとすると、ケン坊は首を振りました。
「やる」
 私はいっとき、水色の貝を見つめました。丸い滑らかな表面が、傾いてきた太陽の光を、鈍く虹色にはじいています。
 私は顔を上げて、ケン坊にもう一度「ありがとう」といいました。
「別に」
 ケン坊はすぐにそっぽを向きました。
「大事にしまっとく」
 私がそう言うと、ケン坊はぱっと振り向きました。
「何で」
 驚いた様子のケン坊を見て、私はもっと驚きました。聞き返されたことの意味が分からなかったのです。
 まごまごしている私に、ケン坊はちょっと呆れたようでした。それでも、私がまるで訳が分かっていないのを悟ったらしく、気まずそうに頭を掻きながら、ちゃんと説明してくれました。
「ずっと潮騒の聞こえないところに置いとくと、寂しがって、悲しい歌を歌うんだ」
 そういうのが好きなやつもいるけど、と、ケン坊は呟くように言いました。
 今にしてみれば不思議な話でしたが、貝が海を恋しがって悲しむという理屈は、子供心に何となく、しっくりとくるものでした。私は納得して小さく頷きました。
「それなら、窓の外に置いとくことにする」
 私やケン坊の家の辺りまでは、じゅうぶん潮騒が届きます。その窓辺なら、きっと貝がらも寂しくないでしょう。
 ケン坊は私の返事に満足そうに頷くと、何も言わずにくるりと背を向けて、家の方に歩き出しました。私もその後ろについて歩きます。もうじき、日が落ちる。子どもは家に帰る時間です。
 海岸沿いの家々から、夕飯の支度をする音と、カレーの匂いが漂ってきました。
 ケン坊が歩きながら、とぎれとぎれに口笛を吹きます。ちょっと不器用なメロディーは、よく聞くと、貝がらの中から聞こえてくる歌と同じものでした。

(終わり)

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