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 その町に越してきて三か月が過ぎる頃になっても、私にはなかなか友だちができませんでした。
 学校で仲間はずれになっていた、というわけではありません。休み時間に皆でドッジボールをするとか、女の子たちで集まっておしゃべりをするとか、そういう仲間にはちゃんと入れてもらえました。時々ちょっとした意地悪をする子はいても、寄ってたかって無視されたとか、苛められたとか、そういうことはなかったのです。
 ただ、特別に仲のいい友だちというのが、なかなかできませんでした。よく一緒に帰るとか、どちらかの家に遊びに行くとか、そういう友だちが。
 これは、私がよそ者だからとか、田舎は閉鎖的だからとか、おそらくそういうことではありませんでした。私の方が壁を作ってしまうというか、楽しげにはしゃいでいる子たちを見ると、ちょっと遠巻きにしてしまうようなところがあったのです。
 そんな調子では、すぐに誰かと心から打ち解けるというふうにはいきません。それでも後にはちゃんと、この町で親友と呼べる相手ができたのですけれど、それはもう少し先のこと。とにかくこの頃の私は、学校が終わったあと、一人で辺りの探検ばかりしていました。
 そうすると、途中でよくお隣のケン坊と行き会いました。ケン坊はたいてい、年の近い男の子たちと野球をしたり、チャンバラや虫取りや、鬼ごっこをしたりしていたように思います。
 その中でも、ちょうどその時期に男の子達の間で流行っていたものがありました。凧揚げです。
 凧揚げといったら、普通はお正月にするものだと思うのですが、その年は、誰が始めたものか、なんだか秋の変な時期に流行りだして、しばらくの間、みんなが夢中になってやっていました。
 私も揚げてみたかったのですが、故郷の町で持っていた凧は、向こうの友だちにあげてきましたし、それに、こちらの子ども達が持っている凧は、いっぷう変わっていました。赤色の下地に凝った絵が描かれていて、形も単純なひし形ではない、鬼をかたどった複雑な図案をしていました。何より、天辺に大きな弦がついていて、高く揚げるとそれが風を切って、ぶんぶんと大きな音が鳴るのです。何人もの子ども達が一斉に揚げていると、その少しずつ高さの違う音が重なって、遠ざかったり近づいたり、不思議な音楽のよう。
 それがとても羨ましくて、自分でも揚げてみたくて。だけど、ほかの女の子たちはあまり凧に興味がないようでしたし、ひとりだけ男の子たちの仲間に入れてもらうのは、それでなくとも気が引けました。
 それで、私はずっと、彼らの姿を遠くから羨ましそうに眺めるだけでした。ですが、ある日、帰りにケン坊に行き会ったとき、その手に例の凧が握り締められているのを見た私は、ついに我慢できなくなり、思い切って凧を貸して欲しいと頼みました。
 ケン坊はにやっと笑って、気前よく「いいよ」と言いましたが、その後で首を捻りました。
「でも、今日はもう暗くなるから、明日な」
 私は大喜びでぶんぶんと頷きました。ケン坊は自慢気に笑っています。
 そうして私は、次の日の学校が終わった後、近所の空き地で凧を貸してもらうという約束を取り付けました。その日の夜は興奮のあまりなかなか寝付けず、秋空を勢いよく裂いてぶんぶんと唸る凧の姿を瞼の裏に浮かべては、一人にやにやとしていたのでした。
 翌日、学校が終わるなり、私は走っていったん家に帰り、ランドセルを玄関に放り出すと、居間でくつろいでいた叔父さんに「ケン坊と凧揚げしてくる」と伝えました。両親は共働きで帰りが遅かったのですが、一緒に暮らしていた叔父さんは、家の片隅に工房を持って、何か細工物を作る職人をしていたようでした。それで、私が学校から帰ってくるころには、たいてい叔父さんだけが家にいたのです。
「暗くなる前には戻っておいで」
 叔父さんの声を背中に聞いて、「はあい」と叫び返すと、私は喜び勇んで家を飛び出しました。
 約束の空き地までは、家から子どもの足でゆっくり歩いても、ほんの三分ほどのものです。その道を、待ち遠しくてたまらなかった私は、顔を真っ赤にして力いっぱい走りました。途中、すれ違った近所のおじいさんが驚いて、「何をそう急ぐんだね」と話しかけてきましたが、私は「凧揚げ!」とだけ叫んで、ろくすっぽ挨拶もせずに駆け抜けました。
 息を切らして空き地に着いても、ケン坊はまだ来ていませんでした。
 私は空き地の隅に積んであったブロックの上に腰を下ろし、そわそわしながらケン坊を待ちました。帰りの会が長引いたのかもしれないし、私は楽しみのあまり走って帰ってきたけれど、ケン坊はいつもどおりゆっくり歩いて帰ってきているかもしれない。だから、そのときはただ待ち遠しいだけで、不安に思ってはいませんでした。
 私はしばらく立ち上がってうろうろしたり、また座ったりしながら待っていましたが、ケン坊はなかなかやってきません。その頃の私は時計など持っていませんでしたし、何より人を待っているときの時間は長く感じますから、正確なところはわかりませんが、それにしてもやけに遅い。私は心の中で時間を数えだしました。
 いち、に、さん、し、ご、ろく……。
 その数が三百を数えても、ケン坊はまだやってきません。六百を過ぎたあたりで、私は数えるのに飽き、やめてしまいました。
 そうしてまた立ち上がって空き地をうろうろするうちに、私は突然一つの可能性に思い当たりました。ケン坊は私より一学年上なのです。もしかしたら、この日、私は五校時で終わりだったけれど、ケン坊は六校時まであったのかもしれません。
 私はきっとそうに違いないと思い、再びブロックの上に腰を落ち着けて、おとなしく待つことにしました。
 ところが、それからいつまで待っても、ケン坊は姿を現さなかったのです。
 やがて日が傾き始め、六時の鐘が鳴りました。町内放送が優しいおねえさんの声で、子どもは家に帰りましょうと告げます。
 私はそのときにはとっくに半べそになっていました。いつまでも望みを捨てきれず、あとほんの一分もしたら、ケン坊が角を曲がって走ってくるのではないかと思うと、その場を立ち去ることもできずに、じっと空き地の隅にうずくまっていたのです。
 ですが、いつまでもそうしているわけにはいきません。放送に後押しされて、私はようやくとぼとぼと家に帰る道を歩き出しました。
 すると、そのときになって、息を切らして走ってくるいがぐり頭の人影が、道の向こうに見えるではありませんか。
 私は泣きながら駆け寄ると、息を切らしているケン坊に食って掛かりました。ケン坊は何度も「ごめん」と言い、困ったような顔をしていました。
 ケン坊は、道々友だちと遊んでいるうちに、つい夢中になって、うっかり私との約束を忘れてしまったとのことでした。そうして、六時の放送でようやく思い出し、慌てて走ってきたのです。
 子どもにはありがちなことですが、すっぽかされた当人からしてみれば、笑い話ではすみません。さんざん泣き喚いてなじる私に、ケン坊は何度も謝って、明日こそちゃんと凧を貸すし、今日の詫びに、今度、とっておきの秘密の場所を教えてやるからと言いました。
 何度も必死であやまるケン坊の顔をみているうちに、やがて気も治まって、鼻を啜りながらではありましたが、私はようやくおとなしく家路につきました。
 凧については、この次の日にちゃんと借りて、今度こそ六時の放送まで目いっぱい楽しむことができました。ですがそれよりも、しばらくしてから教えてもらった「秘密の場所」の方に、私は夢中になりました。
 ケン坊はそこまで行く間、何度も振り返って、「他のやつには秘密だぞ」と念を押しました。
 私たちの家から海岸沿いまでは、歩いてすぐです。家から五分も歩くと、貝がらのたくさん落ちている狭い砂浜があり、そこから浜辺に降りてさらに進むと、変わった形の岩が、海面からたくさん突き出していました。その上を伝って歩いていくと、岸壁が深く波にえぐられて、ちょっとした洞窟になっているところがあります。
 その入口は狭くて、外からはすぐ行き止まりになっているように見えるのですが、足を踏み入れて少し進むと、細く左に折れる隙間があるのが分かりました。狭い岩の通路には、上のほうに小さな裂け目があって、そこからかすかに太陽の光が漏れてはいるのですが、中は薄暗く、足元はでこぼことしていて、ゆっくり気をつけて進まないと、うっかり足を滑らせそうになります。
 しばらく歩くと、奥に、ちょっと開けた空間がありました。その真ん中には大きいくぼみがあり、水がちゃぷんと音を立てて揺れていました。ぱっと見には大きい水溜りのように見えますが、覗き込むと、これがなかなか深いのです。後で分かったことですが、それはただの潮溜まりではなく、底のほうではちゃんと海に繋がっていました。
「秘密の場所って、ここ?」
 わくわくする気持ちを抑えきれずにそう聞くと、ケン坊は頷きながらも、まだ何かとっておきを隠している悪戯顔でした。
「ちょっと、こっち見てみ」
 ケン坊の手招きに従ってしゃがみこみ、水の中を見下ろすと、何かが奥の方で小さく光っているのが分かりました。
「あれ、何?」
「中で、光る花が咲いてるんだ」
 ケン坊は、得意げにそういいました。
 海の中で咲く花なんて、それまで見たことがありませんでした。まして、光る花なんて。ですが、顔を近づけてじっと目を凝らすと、たしかに水の中の、海面から二メートルほど下のところに、細い細い木の枝のようなものが伸びて、そこに白い小さな花がついているのが見えます。
 花は、水の動きに合わせて緩やかに揺れ、ゆったりしたリズムで明滅を繰り返しています。私はしばらく、夢中になって花の灯りに見とれていました。
 じっと見つめていると、花の周りをちらちらとよぎる、小さな小さな影が見えます。私はそれを指さして、ケン坊に聞きました。
「あれは? 動いてるやつ」
「魚だよ。生まれたばっかりのちっこいやつが、あの花につられて集まってくるんだ」
 今の時期にしか見られないんだと、ケン坊は得意満面に言いました。
「他の場所にも咲いてるんだけど、海の中だし、明るいとよく分かんねえし。だからって、夜に泳ぐわけにもいかないしさ」
 なるほど、この洞窟なら昼間でも薄暗いので、花が光っているのがよくわかります。
「満ち潮のときは、来たらだめだぞ。水が上がって、入れなくなるから」
 ケン坊はそう言いました。私はうんうんと頷きながら、目はすっかり花に釘付けです。
「他のやつには、教えるなよ」
 ケン坊は、もう一度そう念を押しました。私は何度も頷いて、また水中の花と、その周りできらきらと光る魚たちの鱗に見とれました。
 それからしばらくの間、学校帰りにはその洞窟にそっと忍び込んで、ゆらゆらと光る白い花を見てから家に帰るのが、私の日課になりました。ケン坊の言う「今の時期」というのがどのくらいの期間なのかわかりませんでしたが、何日も目を離すと、次に行ったときには枯れてしまっているのではないかという思いが、胸から離れなかったのです。
 あれは、何日目のことだったのか。私は前の晩に嫌なことがあって、子ども心に鬱々とふさぎ込み、その日の日中を、あの花を見に行くことだけを楽しみにして過ごしました。
 その頃の私は、普段のように一旦家に帰ってから遊びに出かけるのではなく、学校からまっすぐその秘密の場所に向かっていました。家からそう遠くないところでしたし、何十分もぼうっと花を見つめ続けているわけではありませんから、それで問題なかったのです。
 ですが、その日に限っては、私はすぐに家に帰る気になれませんでした。前の日の晩に、両親がひどく口喧嘩をしていたのです。
 二人は、よそのお宅と比べて、特に仲が悪かったわけではありません。普段はそれほど喧嘩になることはないのですが、その晩は、いつもと様子が違っていました。何がきっかけだったのかは分かりませんが、気付くとふたりともが険悪な様子でにらみ合っていました。母は夜の九時にもならないうちに「もう寝なさい」と言い、私はおとなしく部屋にこもりました。
 布団に潜って、ぎゅっと手で耳を押させていても、壁越しに、二人の言い争う声が聞こえてきます。果てには、お皿が割れる音が混じる。聞かないようにしようと思っても、耳が勝手に必死になって、居間の物音を拾おうとします。とても眠れはしません。
 その頃の私には、眠れない夜のおまじないがありました。お気に入りの硝子の小瓶を月明かりに透かして、中で泳ぐ小さな魚にうっとりと見とれるのです。
 普段であればそうしているうちに、だんだん眠くなるのですが、この日ばかりは、とても寝台から抜け出しておまじないを試す気にはなれませんでした。寝なさいという言いつけにそむいて布団を出ると、もっと悪いことが起きるのではないか。そんな根拠のない予感に縛られて、私は身動きひとつせず、じっと眠れない夜を過ごしました。
 どれほどの時間が経ったか、いつしか両親の喧嘩の声が聞こえなくなりました。それでようやくうとうとして、だけど、すぐに浅い眠りからはっと目が醒めます。その度に耳を澄まして、口論が聞こえてこないかを確かめる。そんなことを繰り返しているうちに、やがて夜が白み、次の日の朝になりました。
 一晩明けても、二人の仲直りはまだのようでした。二人とも、私にはいつものように話しかけてくるのに、お互いの間では必要最低限のことしか口にしません。何か仕方なく口を利いたと思っても、その声が堅く、とても冷やかなのです。
 家の中に、重い空気が流れていました。時々、叔父さんがふたりを宥めるようなことを言ったり、気を遣って私に話しかけたりしてくれましたが、焼け石に水というものでした。
 朝からそうした次第だったものですから、この日は家に帰るのが憂うつだったのです。両親の帰りは普段から遅かったので、気にせずまっすぐに帰ったところで、二人ともまだ帰宅してはいないというのは分かっていたのですが。
 そういうわけで、この日の私は、いつものように五分や十分ではなく、いつまでもぼんやりとしたまま、水中の光を見つめていました。花の灯りは、ゆっくりと緩やかに明滅するように揺れ、その周りを小さな魚たちが泳ぐのが、ちらちらと目に付きます。
 それをじっと見つめているうちに、私はだんだんと眠くなってきました。
 考えてみれば、前の晩はほとんど眠れていなかったのですから、当たり前のことでした。これはいけない、帰って部屋で寝よう。そう思いはするものの、睡魔は泥のように重く頭の芯をしびれさせ、体は思うように動きません。仕方なく、ほんのちょっとだけ、そこでうとうとしていくことにしました。五分だけ。
 それでも、水面を見つめたまま眠って、うっかり落ちでもしたら大変だと、そう考えるくらいの頭は残っていました。私はふらふらと後退り、少し足元が高くなっているあたりに腰かけて、体操ずわりで壁にもたれました。
 その途端、自分が目を閉じたという意識もないまま、夢の中にすとんと落ち込みました。



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