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 ぷくぷくと、誰かが下の方で吐いたらしい小さな泡が、水面にのぼっていきます。ゆらり、ゆらりと、体を包む水が優しく揺れています。
 水面の方からもぼんやりと光が射しているけれど、それよりも、目の前にある花の方がもっと明るい。周りに何万匹と泳いでいる仲間たちの、まだ柔らかく透き通った鱗が、花の灯りを弾いてきらきらと輝いています。
 花は、ゆっくりと明滅している。それは別にいい匂いがするわけでも、食べられるわけでもなく、ただ光っているだけなのですが、それが大切な指標であることを、私たちは生まれながらに知っています。
 私たちは花の周りをぐるぐると回りながら、しばらくの間、あたりに漂う小さな藻だけを食べて、あとはただ花に見とれて過ごしました。
 やがて日が経ち、水が少しずつ冷たくなってくるにつれ、花は少しずつ灯りを落としてゆき、やがてまったく光らなくなる日がやってきます。
 そうすると、群れの中の何匹かが、落ち着かなさげにくるくると回り始める。いっときすると、彼らは待ちきれないように体の向きを変えて、すいっと花の傍を離れ、どこかへ向かい始めます。すると、他の仲間たちもなんとなくその後を追い始め、いつしか皆が一塊になって泳ぎだす。私も慌てて、その後ろについてゆきました。自分だけ置いていかれてはたまりません。
 ひとたび泳ぎ始めれば、後は体が勝手に動きました。水を掻き分け、尾をくねらせて、すいすいと進む。もう安全なねぐらを離れて、遠い海へ行かなければならないのだと、体がちゃんと知っていました。それでも、ほんの少し名残惜しいような気がして、私は一度だけくるりと反転し、花のあった方を振り返りました。花の白さは、やはり水の中で目立っていましたが、あの柔らかい光はもう灯っていませんでした。私はそれを確認すると、あとは前を向いて、まっしぐらに泳ぎました。仲間たちとはぐれないように。
 泳ぎながら、ときおり食べ物を見つけてはせいいっぱい大きく口を開き、喉に滑り込む小さい藻や虫を、慌てて飲み下します。その間も、水を掻く尾の動きは止めません。悠長にしていては、やがて冷たい水に追いつかれて、凍えて身動きがとれなくなってしまうということを、私たちは誰に教わるでもなく知っています。
 ときどき、大きな魚がやってきて、大きな大きな口を開けて、群れの真ん中をつっきりました。そのたびに、群れは二つに分かれて、どうにかやりすごそうとする。何とか飲み込まれずに済んだ仲間は、大急ぎで魚の体の横を擦り抜け、また合流し、先へ先へと進みます。
 そういうことが何度も何度もあって、そのたびに仲間たちの数が減っていくのが分かりました。ですが、誰も途中で振り返りはせず、ただ先へと急ぎ続けます。少しでも多く、生き延びるために。
 長い長い間、大きな魚の影に怯えながら、必死で泳いでいると、やがて突然、その瞬間がやってきます。
 暗い夜空のような青色から、柔らかく暖かい青緑色へ。体を包む水の色がその瞬間を境に、まるで違ったものになりました。同時に、一気に体を包む水がぬるくなるのを、鱗の隙間に感じます。それに勇気付けられて、自分の尾ひれの動きが、段違いに力強くなるのが、自分でも分かりました。口に入る水の味もまた、わずかに変わったようです。
 その頃には、仲間たちは初めの五分の一も残っていませんでした。ですが、誰も悲観することなく、明るい水の暖かさを喜びながら、ただただまっしぐらに暖かいほうを目指します。
 水の色が変わった地点を境目に、周りを行き交う魚の種類が、変わったようでした。見かける数も増えました。その中には小さな体格で、ゆったりと泳ぐものが多いように思われます。前の海に比べると、どこかゆったりした風景。
 そのまま何日も何十日も泳ぎ続けて、やがて、また水の色が変わる瞬間がやってきます。今度は、透き通ったあざやかな翠色へ。
 水面越しに、力強い太陽の光が鱗を暖めます。周りを行き交うほかの魚の群れたちも、陽気な海にあわせて身を飾るのか、鮮やかな色の鱗を持ったものが増えてきました。ときおり、小さな小さな魚の群れに行きあいます。私たちは精一杯口をあけて、その群れの中に突っ込みます。
 さらにまっすぐ泳ぎ続けていた私たちは、やがて、海底から白い岩が林のように立ち並んでいるところにたどり着きました。その岩の輝きに不思議な郷愁を覚えて、ふと周りを見渡すと、生まれたときには何万匹もいたはずの仲間たちは、もう数百匹ほどしか残っていないのでした。
 海底から突き出す岩は、生まれた海のあの白い花を思わせるような、ごく淡い輝きを放っています。縦に長いその岩が、いくつもいくつもにょっきりと生え、その間に海草や、さまざまな貝や、色とりどりの魚の姿が見えます。妙に足の長い蟹もいます。魚たちの鱗の一枚一枚が、海底の白い砂の一粒一粒が、射し込む太陽の光を受けて明るく輝くような、そんな海でした。
 私たちは誰に言われるでもなくその海域に留まりました。何度も日が昇っては暮れるのを数える間、近くを通り掛かる小さな魚や虫をつつき、白い岩の周りをゆったりと巡って過ごします。時を待ちながら。
 そうやって過ごすうち、私たちはある日突然、鱗を包む水が一気にぬるんだことに気付くのです。それにあわせて、岩の輝きがわずかに変わります。白々とした淡い光から、青みがかった色へ。
 それを見たとたん、何とはなしに、胸びれの付け根がむずがゆいような感じがしました。皆もそうなのか、ゆったりとしていた仲間たちの泳ぎが、戸惑いがちに揺れ始めます。
 そのうちにまた、群れの中から数匹が、忙しなく尾びれで水を掻き分け出します。彼らはしばらくの間、うろうろと辺りを行ったり来たりして、やがて思い切ったように頭をついとある方向に向け、力強く泳ぎだしました。それにつられて、私たちは皆、尻尾の向きを揃えて、白い岩を背にしたのです。
 再びの長い長い旅を予感して、私は背びれを震わせます。恐ろしいような、心躍るような、懐かしいような、色々な思いが混在した、不思議な気持ちです。鱗の表面をすべるように流れる淡緑色の水が、さよならと囁く。このあたりで初めて出会った美味な小魚への未練が、ほんのちょっと、私の尾びれの先を引っ張りました。
 やがて、速さを揃えてまっしぐらに泳ぐうちに、時おり種類の違う魚の群れと行き会います。ですが、前の旅とは違って、私たちを丸呑みにするような大きな魚に出会う回数は、ずいぶん減っていました。
 いや、そうではない。私は唐突に、自分の思い違いに気付きました。海から大きな魚が減っているのではなくて、私たち自身の体が、大きくなっているのです。
 何日も何日も泳ぐうちに、またふっと海の色が変わり、鱗の隙間を冷たい水にくすぐられます。ですが、体に蓄えた脂もずいぶん厚くなり、そうそう凍えて泳げなくなる心配はありません。私たちは迷わず、前とは逆に、水の冷たい方にと向かって泳いでゆきます。前のときよりも水を掻く尾は力強く、ずっと早く進むことができているのを、自分たちの体で感じます。
 遭遇することは減ったとはいえ、ときにはまるで島のような大きな大きな影もみかけました。その顎を運よく逃れても、時に誰かが力尽き、すうっと失速して、引き離されていくのが、振り返って見なくても分かります。
 それでも皆で、何かに呼ばれるように、まっすぐに泳いで、泳いで、泳いで……
 再び、水の色が変わりました。少し緑がかった深い青から、夜空を水に溶いたような、澄んだ群青へ。
 斜めに差し込む陽の光が、何か他のものに似ている。その色を目にした途端、私は妙に懐かしい気持ちに包まれました。そう、ここは、この海は。
 岸が近づきます。波に削られて入り組んだ岩々の間を、ほんの百匹ほどになってしまった仲間たちが、迷うことなくすいすいと縫って奥へ向かいます。仲間の一匹一匹、どの鱗を見ても、その下の筋肉の躍動に、隠しようもない喜びが溢れている。
 岩に遮られて、陽がほとんど届かない一帯にたどりつきました。誰もがためらうことなく、すうっとそこを潜ります。やがて、白い小さな光が、遠く前方に見え始めました。生まれたときに見た、あの白い花の灯りが――
 私は肩を揺すられて、はっと目を覚ましました。
 辺りはずいぶんと暗く、一筋の細い光が斜めに闇を裂いています。私は状況がつかめず、慌てて辺りを見回しました。そうすると、暗い中にぼんやりと、ケン坊のいがぐり頭が目に入りました。
 私は目をぱちくりさせました。
「何やってんだよ……」
 ケン坊は、どうやらがっくりと頭を落として、呆れ返っているようでした。ここまで走ってきたのか、汗まみれで息を切らしています。
 暗闇を裂く一条の光は、ケン坊が手に持っている懐中電灯でした。
「帰るぞ」
 ケン坊は私の手を引いて、立ち上がらせました。それから私は上を見上げて、目を瞠りました。切れ目からかすかにのぞく空が、すっかり夜の色に染まり、ちかちかと星が瞬いている。もう、辺りはとっくに夜なのです。
「帰ってこないから、大騒ぎになってたんだぞ」
 ケン坊は言いながら、懐中電灯を動かして、足元を照らします。ぶつぶつ言いながらも、私のまだ半分眠ったような足取りに合わせて、ゆっくり歩いてくれました。
「リョータんちで晩飯もらって、遊んでたんだ。帰ったら、おまえがいないって、大騒ぎになってるんだもんな」
 もしやと思い、慌ててここに来てみたところ、案の定、私がひとり眠り込んでいたと、そういうことのようでした。ケン坊は一丁前のお兄さんのような説教顔をして、私の頭を小突きました。
 ケン坊が怒っているのは、単に遅くまでふらふらして騒ぎになったからということだけではなくて、満潮になったらあの中は水が上がって危ないんだと、そういうことのようでした。あと半時間でもしたら、足場はすっかり浸かってしまうとのこと。大潮のときなど、大人でも足が着かないほどだそうです。
 そう聞いても、私には実感がわいていませんでした。それよりも、先ほどまで見ていた長い夢の残像を、ぼうっと追いかけていました。
「変な夢、見てた」
 そう言うと、ケン坊は呆れたように、もう一度私の頭を小突きました。
「のんきなこといってんなよ。あーあ、帰ったらめちゃくちゃ怒られるぞ」
 私は思わず両親の怒鳴り声を想像して、ようやく怖くなり、ぎゅっと肩を竦めました。
 ケン坊のその予言は、ばっちり当たりました。帰りついたあと、私たちは自分たちの両親ばかりか、捜索していた近所の大人たちにも、たっぷり説教と拳骨を頂戴しました。どちらかというと私よりも、ケン坊の方が。慌てふためいて私を探しにいったときの様子から、ケン坊が何かそそのかしたのだと思われたのでしょう。
 両親は、昨夜の喧嘩がもとで私が家出をしたのではないかと、ずいぶん後悔したようです。これは私にとっては嬉しい誤算でしたので、ちゃっかりそういうことにしておきました。おかげで、その一件からしばらくの間、両親は気味が悪いくらいに仲良しでした。
 翌朝、学校に行くために家を出た私は、玄関のすぐ前でケン坊に行き会いました。ケン坊は散々拳骨を喰らって、頭にこぶを作っていました。それを見た途端、私は急に申し訳ないような気持ちになって、殊勝な様子を作って謝りました。
「ごめん」
 ケン坊は「別に」と鼻の頭を擦ってから、
「それより、誰にも言わなかったか?」
 そう真面目な顔で聞いてきました。あの秘密の場所のことを言っているのだと分かり、私はぶんぶんと首を縦に振りました。
「よし。偉いぞ」
 ケン坊はにかっと笑うと、学校に向かって走り出しました。まだまだ遅刻になるような時間ではありませんでしたが、きっと早く着いて、始業の時間まで友だちと目いっぱい遊ぶつもりなのでしょう。
 ケン坊が勢いよく走っていく方向の、どこか遠い所から、誰が揚げているのか、凧が勢いよく風を切る、ブンブンという音が聞こえていました。

(終わり)

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