小説トップへ   2.歌う貝がらへ


 それは水の中で、きらきらと光を弾いていました。
 青く澄んだ海でした。岸壁にゆったりと押し寄せる波頭が、やがて弾けて細かい真っ白な泡になる。その白さと、水の深い青色との対比が、今も目に焼きついています。

 海の中に光るものを見つけたのは、その町に越してきたばかりの頃でした。
 詳しいことは覚えていませんが、両親の仕事の都合だったようです。車に四時間揺られてようやく新しい家に着いたのが、この出来事の前日のこと。夏休み明けから通う小学校を訪れた、その帰り道でした。
 私は手続きにまだまだ時間のかかりそうな母を置いて、自分だけ先に帰るところでした。女の子が一人でよく知らない町を歩いていたと言えば、無用心に聞こえるかもしれませんが、このあたりは相当な田舎でしたし、昼間ならば子どもが一人でふらふらしていても、今ほど心配されない時代でもありました。
 私はまっすぐに帰らず、探検がてら辺りをうろうろしていて、その海辺にたどり着きました。適当に歩いてはいましたが、まるきり偶然行き当たったというわけでもありません。ずっと波の音が耳に届いていましたし、何より潮の匂いがしていますから、近くに海があることはちゃんと分かっていました。
 錆びかかったガードレールの下を見下ろせば、すぐそこが海になっていました。周囲に視線をめぐらせると、左手の方には砂浜もあり、遠くに泳いでいる子ども達の姿が見えます。
 生まれた町にも海がありましたが、そちらの水は山々の木々を映し込んだ濃い緑色で、海面にはよく色んな海藻がぷかぷかと浮いていました。比べてこの町の海は、まるで夜空を水で薄めたような、深く澄んだ青色です。それがあまりに透き通った水だったので、離れたところからは、どこか作りものめいて見えて、あの中には生き物など棲んでいないのではないかという気がしたのを、よく覚えています。
 それでも、近づいてみれば、足元からさっとフナムシたちが逃げ出し、岸壁にはヒトデの干からびたのや、フジツボなどが張り付いています。更に目を凝らしてよくよく見ると、水中ではちゃんと、魚が鱗を銀色に光らせていました。
 ところが、海の中で光るものは、それだけではありませんでした。もっと奥底の方で、魚の鱗とは色合いの違う何かが、きらきらと輝いているのです。
 どうにも気になった私は、海に飛び込んで確かめることにしました。もともと海辺の町の育ちで、服を着たまま泳ぐことなどしょっちゅうでしたから、ほとんど躊躇いませんでした。
 私は夏の日差しに熱くなったガードレールをまたぎ、音を立てて海に飛び込みました。水は、慣れた故郷の海に比べると冷たくひやりとしていましたが、手足が凍えるほどではありませんでした。
 海中でぐいと目を開けてみると、自分の体が巻き起こした泡が静まる頃には、澄んだ水越しに、辺りがよく見渡せました。足の下には、さきほど目にした魚が鱗を煌かせて、くるくると踊っています。更に下を見ると、海底にゆらめく海草や、砂の間をもぞもぞと動く貝まで、しっかり見つけることができました。
 底はそれほど深くはなく、精々が二階建ての建物くらいのものです。ゆっくり泳ぎながら周囲を見渡すと、ずっと下、底の方で何かが小さく光るのが分かりました。
 ここまで来たら潜ってみないわけにはいかないと、私は張り切りました。いったん水面に上がり、大きく息を吸って、また海中へ。
 泳ぎは昔から得意でしたが、潜る方は初めてのことでしたから、最初からはうまくいきません。私は何度か海面に戻り、息を継ぎました。
 それでも繰り返し挑むうちに、段々と要領が分かってきて、やがて、私はゆっくりと底の方へ向かっていきました。

 水底に射し込む日射しは、夜空の色の海水に柔らかく漉されて、ちょうど月の光のよう。私は思わず目的を忘れ、いっとき辺りの光景に見とれていました。
 やがて、小さな銀色の魚の群れが、すうっと鼻先を過ぎりました。その鱗の煌きに当初の目的を思い出し、足元に目を凝らすと、少し離れた所で何かが光を弾いています。
 近づくと、光るものは、砂の間から遠慮がちに姿を覗かせていました。体が浮かび上がってしまわないように、バランスをとりながら顔を寄せると、小さな小さなカニが、慌てて逃げていきます。
 なるべく砂が舞い上がらないように、そっと掻き分けると、丸くて平たいものがいくつか姿を見せました。
 それは月光のような日射しを受けて、きらきらと銀色に煌いています。間違いなく、海上から見たあの光でした。
 丸いものは、五つほど埋まっていました。それを手のひらに拾い上げた途端、急に息苦しくなってきて、私は慌てて水を掻き、海面に向かいました。

 ざばりと音を立てて顔を出すと、太陽の光は燦々と眩しく、どこも月明かりに似ているようには思えませんでした。
 立ち泳ぎで息を整えて、そっと握り締めていた拳を開くと、その中には、銀色のコインが鈍い光を放っていました。
 それは、外国の硬貨のように見えましたが、額面や文句の類は何も刻印されていませんでした。代わりに魚をモチーフにしたと思われる繊細な模様だけが、控えめに刻まれています。いつからあの場所に沈んでいたかは分かりませんが、藻もついておらず、錆一つ見当たりませんでした。
 しかし不思議なことに、コインの表面は、水中で見たときのようには煌いていないのです。しっとりと落ち着いた輝きは、まるで、見慣れぬ明るい陽光に驚いて、萎縮しているかのようでした。
 私はしばらく考え込んで、五枚の硬貨を大切にポケットにしまうと、岸に向かって泳ぎ始めました。

 真夏のことで、濡れた服は、歩いているうちに半分がた乾いてしまいました。帰り着いた私は、着替えもせずに部屋に飛び込み、まだ解いていなかった荷物の中から、おもちゃ箱を引っ張り出しました。
 中身を順番にあらためることももどかしく、まとめて床の上に引っ繰り返すと、奥の方から目当てのものが転がり出てきました。薄荷の飴玉が入っていた、青い硝子瓶。私はそれをきれいに洗って中に水を満たすと、拾ってきたコインをそっと沈めました。
 きっちりと蓋をしめて、瓶を夕日の射し込む窓辺に置くと、思ったとおり、五枚のコインは海の底にあったときと同じように、きらきらと輝きだしました。

 その日から、眠れない夜の楽しみがひとつできました。羊の数を百まで数えても寝付けないときには、そっと寝床を抜け出して窓辺に向かい、硝子瓶を月明かりにかざすのです。
 すると、瓶の底に沈んでいたはずのコインは影も形も見えず、その代わりに、五匹の小さな魚が、小さな小さな鱗を銀色に光らせて、くるくると楽しげに踊っているのでした。

(終わり)

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