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 六月中旬の夜。紀子はその日もまた、残業していた。
 会社の決算時期が近かった。毎月十日締め二十五日払いの給与計算も重なり、仕事が連日十一時すぎまでかかっていた。
 紀子はこめかみを揉みながら、プリントアウトした書類を電卓片手にチェックをしていた。便利な給与計算ソフトを使っていても、こういうのは結局一度は手計算で点検しないと、とんでもない間違いをすることがあるのだと、経験上知っていた。
 頭痛が朝からひっきりなしに続いていた。痛むのは頭だけではない。目も痛かったし、肩もガチガチに凝っていた。ついでに先週から歯が痛むのだが、これもどうも虫歯ではなくてストレスで痛んでいるんじゃないかという気がする。前にも似たようなことがあったのだ。
 紀子は半分ほどチェックが終わったところで、顔を上げて時計を見た。そうするといつの間にか九時をまわっていて、紀子は動揺した。時間が飛ぶように過ぎている。何で、と思った。自分はそんなにぼうっとしていただろうか。
 驚く紀子の様子を見ていたのだろう、隣の席で同じく残業していた係長が、大きく伸びをしながら「あーあ、疲れたなあ」とぼやいた。
「もう今日は帰ろうぜ。たまには早めに帰らないと、体がもたないよ。……って、九時じゃあ別に早くもないけどさ」
 笑いながら言う係長の顔を見て、紀子は一瞬その話に乗ってしまおうかと思った。だが、ちらりと卓上カレンダーを見て、結局は首を横に振る。
「うーん。明日に回すと余計プレッシャーになって辛いんで、今日はもうちょっと頑張って、そのぶん明日早く帰ることにします」
「そうかあ? んじゃ、俺ももうちょっとだけ頑張ろうかな」
 係長はそう言って、机の上に置きっぱなしの栄養ドリンクのビンをつついた。
「あ、どうぞ、こっちは気にしないで帰っちゃってください。もう三十分もしたら、私も帰りますから」
 紀子はすらすらと嘘っぱちを言った。口では帰るといいながら、終電まで残るつもりだった。どうせ総務係だから、鍵はいつも預かっている。
「んー、うーん」
 係長は煮え切らない返事を寄越して、こちらの手元を覗き込んだ。
「今やってるの、給料の方だよね。あとは明日でもなんとかなるさ。最悪、二、三日振込みが遅れたって、一緒に謝ってあげるから」
 冗談めかして言われたその言葉がじんと胸に沁みるような気がして、紀子は微笑んだ。気遣いは正直に嬉しかったが、やはりそういうわけにもいかない。
「大丈夫ですよ、若いですもん。体力余ってます」
 また嘘八百だ。だが、笑ってみせる紀子に対して、係長は引かなかった。諭すような表情になって、紀子の顔を覗き込んできた。
「紀ちゃん、真面目でいいんだけどさあ。そんな何でもかんでもきっちりやってたんじゃ、くたびれちゃうでしょ。もうちょっと手を抜いていいんだよ」
 何故だろう。その言葉にかちん、ときた。
 係長は親切心から言っているのだと、もちろん紀子にはよくわかった。分かっていながらも、それでも紀子の頭は、瞬間的に沸騰した。
「あたしが真面目にやらなかったら、誰がやってくれるんですか!」
 自分がそう実際に叫んだかと思って、紀子ははっとした。だが、係長は怪訝そうな表情でこちらの返事を待っている。
 現実には口をほんの少し開いただけで、声は出ていなかった。そのはずだ。現に周囲に残っている誰もがこちらを振り返ることなく、普通に仕事を続けている。
 紀子は言葉を飲み込むと、急に冷静になった。『誰がやってくれるんですか』も何も、紀子の仕事はやろうと思えば誰にでもやれるようなものだ。代わりができる人間は、いくらでもいる。
 突然、ひどく悲しくなった。係長が悪意で言ったのではないことはよくわかっていた。残業の続く部下を気遣ってくれただけだ。少し単純なところはあるけれど、いい人なのだ。もう三年の付き合いで、よく分かっている。向けられた親切に対してかんしゃくを起こすほうが、どうかしている。
 何か気の利いた軽口で返せばそれでよかったのに、紀子の口からは何も出てこなかった。せめて笑おうとしたけれど、頬がひきつっただけだった。しかたなく、紀子は黙って顔を前に戻すと、再び書類を手に取った。
 少しして、突然涙が滲んできた。
 紀子はコンタクトがずれたフリをして、ハンドバッグを持ってトイレに向かった。目も本当に痛かった。紀子はコンタクトを外して、持ち歩いているメガネに変えた。涙が止まらない。
 鼻をすすったら静かな廊下に響くかもしれない。紀子は個室からトイレットペーパーを切り取ってきて、そっと鼻を押さえた。情けなかった。
 分かっている。自分が勝手に仕事を抱え込んで、ひとりでパニックになっているだけだ。自分の仕事の仕方が悪いのだ。一人でできないなら、ちゃんとそう言って泣きつけばいい。それくらいのことでクビになるはずもないのだから。
 昔から何かを始めると、きっちりやらないと気がすまない性格だった。その分、人に合わせて適度にうまくやるということが苦手だった。自覚があったからこそ、なんとかして職場になじもうと頑張って、人の頼みを断れなくなった。だからといって本当にうまくやれているかと言えば、そうでもない。
 今も、フロアに残っていた社員たちに、性格が悪いと呆れられているだろう。
 要領よくやれない。気の利いたことも言えない。そういうことができなければ、社会では駄目なんだと、紀子は悟るように思った。上手に空気を読めない人間には生きている価値がないんだと、見えない誰かにそう言われたような気がした。
 誰からも好かれるなんて無理だけど、それでも無理して愛想をよくして、職場になじもうと頑張ってきたつもりだった。だが、いまひとつうまくやれない。せめて、仕事を一生懸命頑張れば、自然に周りから認めてもらえると思っていた。それで、それなりには何とかやれているつもりだった。ついさっきまでは。
 気のせいだった。これじゃ駄目なんだ、こんな自分じゃ……。

 紀子は席に戻って、どこか呆然としたまま仕事を続けた。やがて一人、また一人と、社員達が仕事を切り上げて帰っていく。
 午後十一時前、最後に残った係長がひとつ伸びをして、パソコンの電源を落とした。結局、帰らずにこの時間まで付き合ってくれた。紀子の赤い目を見て気にしながら何も言わず、ただ自分の仕事を続けて。
 その気遣いが嬉しいようで、だがそれ以上に、自分の気の利かなさがいたたまれなかった。紀子は途中、何度か謝ろうとして口を開いたが、結局何も言えなかった。
「もう遅いよ。今日はここまでにして、駅まで一緒に帰ろう。こんな時間に一人歩きは危ないだろ。あとは明日でも何とかなるよ」
 係長の言葉に、紀子は笑顔を作って頷いた。
「はい。あ、でも、私は今すぐ出ちゃうとちょうどいい電車がないので、あと十五分くらいしてから帰ります。係長はそろそろ出ないと、厳しいんじゃないですか?」
 紀子は自分でも驚くほどにこやかにそう言った。電車の時間は本当のことだった。係長の家は各駅でないと止まらない駅の近くなので、早めの便に乗らないと、結構な距離をタクシーに頼る羽目になると聞いていた。
「そうか。じゃあ、悪いけど先に出るよ」
 係長はそう言ったものの、疑わしいような視線を紀子に向けてきた。
「ホントにすぐ帰るよな」
 念を押す係長の言葉に、紀子は笑って頷いた。
「ええ。さっきはすみませんでした」
 そう付け足した紀子に、係長は苦笑して軽く手を振った。
「いいよ、それより気をつけて帰れよ。近道じゃなくて、明るい道を通るんだぞ」
「はい、お疲れ様でした」
 係長は紀子の様子を気にしながらも、机を片付けて帰っていった。
 そして紀子は一人になった。自分のデスクの周辺を残して消された電気が、いつも以上に侘しかった。
 終電までにはあと一時間ある。それまでに、今作りかけている書類だけでもやってしまおう。明日の日中にやるとまた、他の雑用に追われてはかどらないから。
 せめて任された仕事だけでもきっちりやらなきゃ。嫌な奴と思われても、気が利かなくても、とりあえず仕事さえしっかりこなしていれば、そうそう追い出されることはない。紀子は自分に言い聞かせるように、口の中でそう繰り返した。
 係長に嘘をついたことに、罪悪感はなかった。
 紀子はひとつ伸びをしてからディスプレイを見つめて、給与計算ソフトに数字を打ち込もうとした。
 何故か、手が全く動かなかった。
 あれ、おかしいなと、紀子はぼんやり考えた。さっさと仕上げようと思うのに。今日コレを上げられなかったら、よけい明日が大変になる。
 紀子は首をかしげて、もう一度キーボードに手をかけた。そこまでは普通にできる。
 だが、その先は、なぜか指が言うことをきかなかった。紀子は指先が自分の意思と無関係に細かく震えていることに気付いて、急に苛立った。
 今日中に終わらせきれないと、明日の朝からまたこれの続きをやらないといけなくなる。勤務時間にやるとなれば、頼まれる雑用や電話の応対に邪魔されながらの作業になる。そんな調子では、また明日も今日なみに遅くなってしまうだろう。
 でも多分、これを仕上げてもやっぱり明日は遅くなるんだろうなと、紀子は突然、悟るように思った。そして明後日も、その次の日も。
 先週の土日は、二日とも昼すぎから出勤して、夜まで仕事をした。土曜日に朝から出れば日曜日は休めたと思うのに、どうしても朝から起きられなかったのだ。こんなペースでは、また今週も二日とも出勤しないといけない。
 そしてそれだけ頑張っても、自分はきっと社内で浮いたままなんだ。仕事を押し付けられるか、そうでなければ気を遣われる。そう思うと、目の前が暗くなるようだった。
 忙しいのは今の時期だけ、決算が終われば落ち着くんだから。そうしたら、毎日八時ごろまでには帰れるようになる。時間ができれば、きっと気持ちにもゆとりができて、色んなことをもっと楽にやれるようになる。きっとそう。
 紀子はそう思って、気を取り直そうとした。だが、うまくいかなかった。
 本当にそうだろうか。だいたい、採用されてしばらくの間は、色々と分からないことが多くて悩んでいたけれど、それでもきっとそのうち慣れて余裕ができてくると、そう楽観的に思えていた。
 だが、現実はどうだろう。毎年毎年、前の年はまだ楽だったと思う。今頑張っても、来年はもっとひどくなるんじゃないだろうか。
 もう、いいんじゃない。
 自分の中から聞こえたその声は、まるで天啓のようだった。
 もう頑張らなくてもいいんじゃない、全部投げちゃったってさ。どうせ誰にでも代わりのできるような仕事ばっかりだもの。 



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