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 改めて考えてみれば、とても簡単なことだった。全部投げ出してしまうというのは、今まで思いつかなかったことが不思議なくらい、いい考えのように思えた。背負い込もうとすればするほど、次の荷物がやってくる。その循環は、耐えている限り終わらないのだ。
 一旦それに気づくとやけに晴れ晴れとした気持ちになって、紀子は潔くパソコンの電源を落とした。もう手は震えていない。
 出来上がっていた方の書類をきっちり並べて係長あての簡単なメモを挟み、机の上に置く。終わらなかった方の書類の山には、もう少し詳しいメモを添えた。
 これを丸投げにしていきなり自分がいなくなったら、係長は泡を食うだろうなと思うと、紀子は急にひどく申し訳ないような気分になった。それで、一度しまいかけたペンをもう一度出して、メモの最後に「ごめんなさい」と書き足した。そうすると、やけにほっとした。
 窓の鍵が閉め忘れられていないか、エアコンのスイッチを切り忘れていないか。給湯室のポットの電源はきちんと抜いてあるか。紀子は浮き立つような気持ちでひとつずつ点検し、最後にフロアの鍵をしっかり閉めて、階段へ向かった。この時間はエレベータは止められている。
 管理会社がルーズなおかげで、屋上の鍵が壊れっぱなしで入り放題なのは前から知っていた。紀子はリズムよく階段を上り、晴れやかな気分でビルの屋上に出た。会社は六階建ての貸しビルの、四階と五階を借り受けている。こうして残業したときにエレベータが使えないから、いちいち上り下りするのが大変だと、いつもは不満ばかり抱いていた。でも、こうしてみれば高いところというのは眺めがよくて、なかなかいいかもしれない。会社の窓から夜景を楽しむ余裕がなかったことが、今になってもったいなく思えてきた。
 損した分を取り返すようなつもりで空を仰ぐと、きれいな星空だった。昼間のオフィスはまだ初夏だというのにパソコンの熱のせいで蒸し風呂のようだったが、夜の屋外はまあまあ涼しい。風が乾いていて、気持ちよかった。
 紀子は大きく息を吸った。本当にいい気分だった。時間が遅いので灯りは消えがちだが、見下ろす夜景もまあまあだった。
 こんな素敵な夜に、こんな気分でふわりと宙に舞って死ねるなら、なかなか悪くない。少なくとも、ある日過労で倒れて、いじけた気持ちのまま病院で死ぬよりは。
 今日の紀子は長めのスカートを履いていたので、屋上の柵を乗り越えるのが一苦労だった。だが、苦労した分、眼下に見下ろす街並みは絶景だった。
 とても気分がいいから、あとちょっとだけこの夜景を堪能して、それから軽く足を踏み出そう。こういうことは、あまり深刻にならず気楽にやったほうがいい。紀子は浮き浮きするような気持ちでそう考えた。

「何してるんですか」
 とつぜん聞こえてきた男の声に、紀子はびくっと肩をこわばらせた。
 振り返ると、男がひとり、柵の向こうで所在なさげに佇んでいる。誰もいないと思っていたのに。
 男は絶妙にださい黒縁メガネにお坊ちゃんっぽい髪型と、くたびれた感じの背広の、なんとも風采の上がらない見た目だった。暗いから分かりにくいが、たぶんまだ若い。自分と同じくらいか、少し下だろうか。
 紀子はその男の顔に見覚えがあるような気がしたが、知り合いではなかった。こんなところにいるからには、同じ貸しビルの中に入っている別の会社の社員だろうか。
「あの、どうしたんですか」
 返事をしない紀子に、男は困ったように問いかけなおした。
 男のその気弱げな声を聞いているうちに、紀子はだんだん腹が立ってきた。
「何よ、せっかくいい気分だったのに、邪魔しないで」
 紀子はとげとげしくそう言った。水を差されたことが悔しいような気がした。
「いや、その、飛び降りようとしているように、見えるんですが」
 男は躊躇いがちにそう言った。
「他になんに見えます。一人で静かに飛び降りようとしてるんですよ。何、止めるつもりですか」
 紀子がまくしたてるように言うと、男は困ったように口をぱくぱくさせた。
「いや、あの」
 男は何ともはっきりしない。紀子は呆れて大きく溜め息をついた。
「だいたい、そちらこそ何で、こんな時間にこんなところにいるんです。誰かと逢い引きでもしてたんですか」
 恋人などいそうには見えない男への嫌味のつもりでそう聞くと、男は何か口の中でもごもご言った。
「聞こえないんですけど」
 紀子が苛々をつのらせながらそう言うと、男は困ったような表情で言い直した。
「いや、それが、僕も飛び降りようと思って」
 紀子はぽかんとした。
 間抜けな沈黙が二人の間に降りた。
 男と紀子は、しばらくぼんやりと見詰め合った。
 やがて、どちらからだったか、二人ともくすくす笑い出してしまった。なんて間抜けな場面、馬鹿みたいな会話。
「なあんだ。そっちはどうしたの」
 紀子は笑いながら、そう聞いた。親近感からか、男に少し興味が出てきた。
「はあ、まあ」
 男はまた口ごもった。
「なに、はっきりしなさいよ」
 紀子が言うと、そうですねと男は情けないような相槌を打って、それからぽつりぽつりと話し出した。
「仕事がですね、なんだか最近、失敗ばっかりするんですよ」
 男は悲しそうに眉毛を落として、そう言った。
「大したことじゃないよって、最初はみんな笑って許してくれたんですけどね。なんだか失敗したらいけないって思えば思うほど、頭が白くなっちゃって。だんだん、同じ失敗を何回もやるようになってきて」
 紀子は呆れた。そんなに気が弱くて、よく世の中渡ってこれたものねと思って、いや渡れなかったから今ここにいるのかと考え直した。
「だんだん周りの人も呆れてきてるのが、よく分かるんですよね。ひどい迷惑かけてるんです、僕。自分でもよく分かってるんですよ。こんな駄目な人間、生きてても仕方ないんじゃないかって思いはじめたら、つい」
 言い終えて、男は長い長いため息を吐いた。
「もしかして、貴女もですか」
 男は顔を上げてそう聞いてきたが、紀子は首を横に振った。
「一緒にしないでよ。私はミスとかじゃなくて、残業が終わらなくて」
「はあ。大変ですね」
 男は頷いて、そう相槌を打った。
「毎日やってもやっても終わらないし、他にも遅くまで残る人はいるけど、なんだか、こんなにムキになってやってるのって、自分だけみたいな気がしてきて」
 言っているうちに段々腹が立ってきて、紀子は靴のかかとで屋上のへりを叩いた。
「上司には今ごろになって、そんなにきっちりやらなくていいよ、なんて言われるし。もっと早く言ってくれっての」
 悪し様に言いながら、紀子は係長の顔を思い出して、また悲しくなってきた。一生懸命やっている姿勢を、それなりに評価されているんじゃないかと思っていた。それなのに、ただの空回りだったのかと思うと、とても悲しい。
「何のために頑張ったのかわかんなくなって、急に馬鹿らしくなってさ」
 言ってるうちに、紀子の目から涙が滲んできた。本日二回目だ。
 こらえきれず、紀子がべそべそと子どものように泣いている間、男は途方に暮れたように、紀子が泣き止むのをただ待っていた。
 紀子はけっこう長い間、べそをかいていた。
 やがて涙がおさまった頃、紀子はなんだか急にしらけた気持ちになった。男が慰めるでも共感するでもなく、ただぼんやり途方にくれていたからかもしれない。
「どうします」
 紀子が泣き止んだのを待って、男が気弱な口調で聞いてきた。
 紀子は鼻をすすって、ハンカチで顔をぐちゃぐちゃに拭いた。最初から落ちかけていた化粧は、もうめちゃくちゃだろうと思った。
「なんか、笑ったり泣いたりしたら、疲れちゃった。家に帰るわ」
 飛び降りる気力がどこかに行ってしまった紀子は、ぼやくような調子でそう言った。
「そんで今日で仕事、辞めることにするわ。飛び降りるなら、どうぞ」
 紀子はそう言って、場所を譲るように手で示した。止めるのもなんだか不親切な気がしたから、引きとめようとも思わなかった。
「あ、ええ」
 男は一応頷きながらも、困惑したように突っ立っていた。
 紀子はそれからまた苦労して柵をよじ登ると、男の横を通り過ぎて屋内に戻るドアへ向かった。
「それじゃ」
 紀子は男にそういい残して、屋上を後にした。
 だが結局、男はすぐに紀子の後をついてきた。
「なに、そっちもやめるの」
「はあ。一人で飛び降りるのも、なんか寂しくなっちゃって」
 男が本当に寂しそうに言うので、紀子は呆れた。
「なにそれ」
「いや、考えてみたら、僕も辞表出せばいいことだし。いままで気付かなかったのが馬鹿みたいですけど」
 男はそう言って、肩をすくめた。
 そうね、と紀子は同意して、階段を一段ずつ踏みしめるように下りた。何故か今ごろになって、膝が笑っていた。足元に夜景を見下ろしている間は、一度も怖いと思わなかったのに。
 男はそれには気付かないようで、ぼんやりした口調で言った。
「でも、辞めるなら、明日からいきなり来なくなるのはやめといた方がいいですよ。たぶんぼろくそに言われるし、もし給料もらえなかったりしたら面倒だし」
 さっきまで飛び降りようとしていた人間にしては、やけにしっかりしたことを言うものだ。紀子は呆れて、男の顔を見た。やっぱりぼんやりした顔だった。
「明日にでもちゃんと辞表出して、一か月後に辞めるとかにしたほうが、絶対いいです」
「あと一か月も堪えるの嫌よ」
 紀子は思わず正直にそう言った。だが、男は首を横に振った。
「でも、あと一か月だけで終わりと思ったら、なんとなく我慢できるような気がしませんか」
 その男の言葉に、紀子はちょっと考えた。
「そうかなあ。でも、うん。そうかもね」
「でしょ。その間に仕事探せばいいし」
 男は頷きながら言い添えた。自分が情けないから死んでしまおうなどと言っていたわりには、まったく現金なものだった。
 もしや初めから紀子を引き止めるための芝居だったのだろうかと訝しく思って、紀子は男の顔を見上げたが、とてもそんな機転が利きそうには見えなかった。やっぱりただ現金なだけだろう。
「残業の少ないところをね」
 紀子はそう付け足した。
「僕はもうちょっと大雑把にできる仕事を」
「それがいいんじゃない」
 そう紀子が男に同意したところで、ちょうど階段が終わりだった。
 ビルの外に出ると、やはり風がまだ冷たかった。紀子はぶるりと身震いして、男の方に振り向いた。
「私、向こうのほう。貴方は」
「僕はこっち」
 男は紀子の帰り道と逆のほうを指差した。
「じゃあね。健闘を祈るわ」
「そっちも」
 そう別れを告げると、二人は背を向けて、反対方向に歩き出した。

 疲れきって帰るなり倒れるように眠り込んだ紀子が、机の上の書類に貼ったメモの存在を思い出したのは、翌朝の、それも出勤途中のことだった。
 駅のホームから出たところで唐突に思い出した紀子が、言い訳を考えながら大慌てで会社に向かったところ、フロアではすでに出勤していたらしい係長がメモを読んで、真っ青になっていた。
「おっま、心配しただろうが!」
 係長は紀子の顔を見るなり、そう怒鳴った。
 何事かと集まってきていた社員達に気まずい思いをしながら、紀子は平謝りに謝りたおした。
「あーもう、よかった、自殺でもしてるんじゃないかと思った」
 そう安心して座り込んだ係長を見ると、とても嘘八百の言い訳を並べ立てることもできず、紀子はただ悄然と説教を受けた。
「とにかく、できないと思ったことは、ちゃんとそのときに言ってくれよ」
 係長はそう言って説教を締めくくると、紀子の机から書類をいくつかとりあげた。
「いいかげん経理の社員をちゃんと探すように、俺からも課長に頼んどくからさ」

 係長のその言葉のおかげで、紀子はそのままなし崩しに辞表を出しそびれてしまった。
 そういえば例の屋上男はもう辞表を出しただろうかと、紀子は自分が辞めそびれただけに、ちょっと気にしていた。あれから見かけることもなかったので、なんとなく罪悪感を覚えながら通勤していたのだが、一月半ほど経った頃の帰り際になって、紀子は例の男とビルの前でばったり会った。
「なあんだ、辞めてなかったの」
「そっちこそ」
 明るいところで見ても、やはり男の顔は情けなかった。だが、ほんの気持ち、その表情に余裕ができたように見えた。
「残業は、どうなりました」
 男はすぐに立ち去らず、そう紀子に訊いてきた。
「うん、それが、なんとか人手を増やしてもらえることになりそうだから、もうちょっと頑張ってみようかなと思ってるところ。そっちはどう」
「いや、僕の方はあの次の日、課長に辞めますって言っちゃったんですけど。そしたら皆から引き止めてもらって。まだ時々変なミスするけど、まあ、なんとかフォローしてもらいながら」
 そう言った男の表情は、どことなく嬉しそうだった。
「そう。いいんじゃない、それで」
 紀子がそう頷くと、男はありがとうと言って、目を糸のようにして笑った。その表情につられて、紀子も笑い返した。
 二人はどちらからともなく、それじゃあと手を挙げて背を向けると、軽い足取りでそれぞれの帰途に着いた。

(終わり)

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