小説トップへ   次へ


 紀子はコンタクトをした目に強い痛みを感じて、瞬きをくり返した。
 いつものことなので、慌てはしない。コンタクトがずれたとかゴミが入ったとかいうことではなく、単純に目が乾燥しているのだ。紀子は苛々しながら、引き出しに入れっぱなしになっているコンタクト用の目薬を出した。
 目薬を差すのは、昔から苦手だ。どうしても目を瞑ってしまう。でも、まめにやっておかないとあとが辛いことが分かっているから、何度も失敗しながらもどうにか点眼した。
 紀子はこぼれた目薬をハンカチでぬぐって何回か瞬きをすると、パソコンのディスプレイに視線を戻した。
 画面に延々と並ぶ数字。給与計算の時期には恒例のことながら、いつ見てもうんざりする。
 だが、嫌いな仕事だからと言って、手を抜いた挙句に計算ミスでもあった日には、やれ追給だの翌月に相殺だのと、かえって余計な事務処理が増えてしまう。それに、万が一にでも支払いそのものが遅れた日には、他の社員たちから非難轟々になることだろう。
 あと二時間。いや、一時間半もあれば、だいたい仕上がるだろうか。紀子はパソコンの画面の隅にある時刻表示をのぞき込んだ。午後八時半。紀子はため息をつく。今日もまた遅くなってしまう。
 紀子が住んでいる部屋の最寄り駅まで、電車でだいたい三十分。そこからアパートまでは、さらに徒歩で十分かかる。駅前から乗れるバスもあることはあるが、そちらを使えばかなり遠回りになって、余計に時間がかかる。この辺りは都心ほど物騒ではないし、人通りの少ない道が長く続くほどの田舎でもないが、それでも一人で夜道を歩くのはやはり嫌だ。だからといって、しょっちゅうタクシーを使うほどの給料はもらっていない。
 今ごろ課長たちは行きつけの居酒屋で、ご機嫌に盛り上がっている頃だろうか。それともウィークデイのことだし、ほどほどにして解散しようという頃合だろうか。
 今日、残業中に課長がとつぜん飲みに行くぞと言い出した。紀子も誘われたが、給与の支払いが遅れたら困るからと冗談のようにして、ひとり断った。
 そうしたら係長が横から、だったら俺も手伝うよ、と言ってくれた。その気持ちは素直に嬉しかったものの、人に手伝ってもらうと手順が狂って余計に面倒だと思ったので、紀子は笑って断った。それより私の分も飲んできて下さいと皆を見送った。それが午後六時半ごろの話。
 断らなければ良かったとは思わない。今日飲みに行っても明日がんばって取り戻せるような程度の遅れなら、そもそも連日にわたってこれほど残業していないのだから。
 だが、時間が経つにつれてひどくいじけた気持ちになっていくのを、紀子は自分で止められなかった。残業そのものも嫌いだが、一人で取り残されたときが一番辛いと、そんなことをぼんやりと思う。
 上の役職の人が同席する飲み会は、行ってみればそれほど楽しくないのは頭で分かっているが、仲間はずれになってみるとなぜか妙に楽しそうに思えてくるから、自分勝手なものだ。自分で断っておいて、今さら拗ねるのはみっともない。そう思い直そうとして、紀子は首を振った。

 そもそも紀子は、五年ほど前に新卒でこの会社に採用になったとき、一般事務という名目で雇われたはずだった。そのときには今よりも総務課の人員が一名多く、経理事務は他の先輩が受け持っていたのだ。
 入社三年目の秋だった。その先輩が家庭の事情で急きょ辞めることになり、すぐに後任が見つからなかった。それでやむを得ず、その先輩が受け持っていた業務をほぼ半分ずつに振り分けて、係長と紀子の二人で任されるようになった。あくまで後の人間が決まるまでのいっときの間という約束で。課長はそのとき確かに「急いで誰か探すから」と言っていたはずだが、その話はいつの間にかなかったことになっている。
 今にしてみれば、一人減らされた状況でなんとか対応できてしまったのが、まずかったのだと思う。無理なら無理ときちんと態度で示すべきだった。
 そうなる前から残業はあったが、それまではせいぜい一時間か二時間残るくらいのことで、特に忙しい日でも、せいぜい八時ごろまでしかかからなかった。それが毎日八時まで残るようになり、やがて九時、十時まで残業する日が頻繁に出てきた。決算時期には、連日十二時近くまで残るようなことさえある。
 どんなに遅くなる日でも、男性職員のように泊り込むわけにもいかず、紀子は必ず終電で帰る。他に誰かが残っている日の方が多いが、最後になることも度々だった。
 残業代も、実際に働いた分の五分の一くらいを、申し訳ばかり申請している。開き直って全額請求したら気持ちがいいだろうと思いながらも、実際に自分が会社の帳簿に目を通す立場になってみれば、とてもそんなことは実行に移せない。
 それに、紀子ばかりではなく他の社員達もけっこうな量のサービス残業をやっている。その中で自分の分だけきちんとなどとは、とてもできるものではない。だからといって全員分のサービス残業をきっちり是正したら、この会社はすぐに潰れてしまうだろうと思えた。
 そういうことをつらつらと思い出せば、今の状況が余計に腹立たしくなり、紀子はまたため息をついた。
 余計なことを考えている間にさっさと仕事を済ませて、一本でも早い電車で帰ろうと、紀子はやっと気を取り直すことに成功して、もう一度ディスプレイを睨んだ。

 仕事で外出していた紀子は、自社の入居ビルに飛び込んだ途端、小さく眩暈がするのを感じて額を押さえた。
 昨日までは雨が多かったのに、今日はうってかわって日射しが強かった。まだ五月だというのに、歩いてほんの五分の銀行への行き帰りだけで汗を掻いてしまった。
 紀子はエレベータを待ちながら、ちょっとぼうっとした。いつからだろう。雨の日には靴が濡れることに苛立ち、天気のいい日には日射しの強さに文句をつけるようになったのは。
 昔は違った。雨の音が好きで、雨上がりの澄んだ空気が好きで、日差しが射すと気分が明るくなった。天気を楽しむ余裕をなくしたのは、いつからだっただろうか。
 紀子が何とはなしに感傷にひたっているうちに、エレベータのランプが灯った。誰か降りてくるかもしれないと思い、ちょっと脇に避けて待つ。
「……でした! すいません!」
 扉が開くなり、エレベータの中から飛び出してきた力一杯の謝罪に、紀子は面食らった。
 思わずまじまじと見つめている紀子の前で、二人連れのサラリーマンが降りてくる。同じビルに入っている他の会社の人たちだろうか。どちらも何となく見たことがあるような気はしたが、少なくとも同じ会社の社員ではない。
 一人が眼鏡がずれるのも気づかない必死の形相で頭を下げていて、その謝罪を受けている方は、うんざりした様子でそっぽを向いていた。
 思わず彼らを目で追ってしまった紀子だったが、エレベータの扉が閉まろうとするのに気づいて、慌てて飛び乗った。まさか残って堂々と聞き耳を立て続けるわけにもいかない。
「分かった分かった、もういいよ」
「申し訳ありませんでした……」
 閉まる扉の向こうから、遠くそんなやりとりが聞こえてきた。
 何の失敗をしたかは知らないけれど、情けないなあ。
 何気なくそう考えてから、紀子は自分が嫌になった。いつからこんな意地悪な考え方をするようになったんだろう。

 月曜日の午後三時。残業しない『主義』の何人かの社員達が、もう終業時刻までの残り時間をカウントし始めているような顔でそわそわしている。彼らの心ここにあらずといった態度を横目に、紀子は思わずため息をつきそうになり、ぐっとこらえた。
 電話が鳴った。紀子は条件反射で、すぐさま電話機に手を伸ばす。一度息を吸って、笑顔で応対する心の準備。それから、二コール目の途中で受話器を上げた。
「はい、有限会社ヒラシマ商事でございます。はい、……はい。お世話になっております。はい、八島でございますね。少々お待ちくださいませ」
 電話応対のときは、相手に見えなくても必ず笑顔で。挨拶や謝罪を口にするときはきちんと頭を下げる。そういうのは相手には目で見えなくとも、きちんと気配が伝わるものなのだと、入社したときに仕事を教えてくれた先輩が言っていた。とてもいい教えだと思う。思いはするのだが、おかげで電話を取るときにたいへん気合がいる。
 外線は手が空いている者が取る決まり、というのは建前で、一番下っ端で、しかも総務を担当している紀子が必然的に、真っ先に受話器を取らざるを得ない。ほとんどはただ取り次ぐだけとはいえ、いちいち自分の作業を中断するのはかなり苛立たしいものだ。その苛立ちが、応対する声に出ないようにと、それにもまた気を遣う。
「紀ちゃんごめん、ちょっとパソコン教えてもらえるかな」
 受話器を置いた紀子に向かって、営業課長がすまなそうに声をかけてきた。プレゼン用の資料がうまく作れないのだという。紀子は笑顔で頷いて席を立った。営業課長の机に向かう途中、隣の席の係長に目線を送って、自分の仕事を中断することを謝罪した。大変だな、という感じの苦笑が帰ってくる。
「いや、ごめんごめん。せっかくこの前も教えてもらったのにさ、何回やってもグラフがちゃんと作れないんだよ」
 営業課長は本気で申し訳なさそうにしていた。紀子は内心の苛立ちを押し殺して、気にしていないですよという笑顔を作る。
 同じ課の部下に訊けばいいのになんでわざわざ私なのよ。そう、腹の底では毎回のように吐き捨てながらも、結局断れはしない。嫌な顔ひとつできない。だから紀子に聞いてくるのだ。いつものことだった。
「ええと、まず、その棒グラフの上で右クリックしてください。そう、で、『元のデータ』っていうところを……そうです、それからさっきの表のここの列をですね」
 画面を覗き込みながらひとつずつ手順を説明すると、課長は大喜びで相槌をうちながら、何回も礼を言った。これだけ喜んでもらえると、こちらも嬉しいことは嬉しいのだが、おかげで余計に断りづらい。
「いや、助かった。いつもごめんね」
 そう言う営業課長に笑顔で「いいえ」と答えて、紀子は自分の席に戻った。係長が苦笑しながら小声で「お疲れ」と言ってよこした。
「紀ちゃん、ちょっと、あとでこれの在庫の確認、頼めるかな。今日中でいいからさ」
 今度は向かいのデスクから、先輩社員の一人がそう声を掛けてくる。紀子は「はい」と短く返事をして、書類の束を受け取った。また出そうになったため息をこらえる。相手は上司でもなんでもない平社員だが、自分より五年も前に入社した人間に向かって、まさかぞんざいに対応するわけにもいかない。
 まったく総務係と言うものはそれが仕事とはいえ、本当に雑用ばかりだ。本務ではないことまで、誰からでも気軽に頼まれる。そのおかげで、勤務時間中はなかなか自分の仕事を進められない。
 今日も遅くなるんだろうなと思って、紀子は目蓋を揉んだ。毎日帰りが遅くなることが、一番辛い。
 家庭も持っておらず、親元を離れた一人暮らしで気楽なものとはいえ、自分の時間をゆっくり持てないのは、やはり精神的にしんどい。ふと気付けば、最近はすっかり好きだった映画も観ていないし、昔から楽しみに読んでいた小説の続きがずいぶん前に出ていたのに、いまだに買ってもいない。趣味どころか、洗濯も下の階の住人を気遣いながら夜中にやっていて、食事もほとんどコンビニ弁当が続いている。
 とはいえ、男性社員には紀子よりずっと長時間残業している人もいて、自分だけ「これ以上は無理」とは、なかなか言い出しづらい。もちろん、自分は女だから、男性とは体力が違うからと、そう言おうと思えば言える。だが、それは口に出したくない。つまらない見栄だが、ここで見栄を張ることをやめてしまえば、もう頑張る気力がわいてこないような気がするのだった。
 このままでは、そのうち身体を壊すんじゃないかと、紀子はときどきそう思う。もしも私が仕事中に倒れたら、皆もこれまで私がどれだけ辛かったか、ようやく気付いてくれるだろうか。時々そんなことを考えては、自分で馬鹿馬鹿しくなる。自己中心的で子どもっぽい、くだらない空想だ。

 三ヶ月ほど前、うつ病と言って仕事に出てこなくなった社員がいた。それなりに残業の多い人だったが、他にもっと遅くまで残っている人はいくらでもいた。だが、だからと言って病人を責めるわけにもいかなかった。とにかく話を聞こうと、総務課長と一緒にアパートまで出向いてみると、彼は少しばかり顔色が悪かったが、たいしたことはなさそうに見えた。紀子は内心で、なんだただの甘えじゃないかと思った。だが、診断書はきちんと出ているので、もちろん文句の言いようもなかった。
 結局、とりあえず数ヶ月は様子を見ながら休職するということで、話はまとまった。いっそ辞めてくれれば後任を探せるのにと、紀子は頭の隅でちらりと考えた。冷たいようだが、休んでいる間、同じ課の他の社員にしわ寄せがいくのだ。
 その一件から少しして、課長が「うつ病と心の健康」とかいう研修をやりだした。
 言いたいことは分かるのだが、その準備の手伝いで、紀子はまた余計に残業するはめになった。挙句の果てには、紀子自身も勤務時間中に一時間の研修を受けさせられた。
 せめてリラックスできる体操だとかアロマセラピーだとかを教えてくれる講師を呼べばいいのに、経費節減の一環だろう、課長自らが講師となった「うつ病とはなんたるや」という、ひどく退屈な研修だった。早く仕事を片付けたいときに、そんな話を聞くために拘束されて、紀子は聞いている間中ひどく苛々していた。当然のように、中身は半分も頭に入ってこなかった。
 まだうつ病の社員は復職してこない。彼と同じ課の社員達は、その穴を埋めるためにけっこうな残業を強いられている。出てきても結局は気まずい思いをするだけではないかと、紀子はそんなことを思った。可哀相だけれど、辞めてしまったほうが本人のためなんじゃないだろうかと。
 紀子はふと、もの思いから我に返った。単純作業をしながらの考えごとだったが、つい手が止まっている。
 いけないと口の中で呟いて、紀子は気合を入れるように深呼吸した。能率よくやらないと、残業が増える。帰りが遅くなればまた能率が落ちるのだから。
 今日は無理やりにでも、少し早めに帰ろうか。紀子はそう思って、カレンダーを睨んだ。月末までの日数を目で数えて、内心で肩を落とす。駄目だ。今日さぼったら、その分明日からが慌しくなりすぎる。
 休みでも取って、どこかに行きたいなあ……。
 一瞬、そんな夢想をする。数日前、久しぶりに高校の同級生から電話があったのだ。海外旅行の誘い。三泊四日、南の島へ。
 電話で話したときにはそれほど心惹かれなかったし、だいたいパスポートもとっくに切らしていた。むしろ、会社に休暇を出して旅行に行こうとしている友人に、皮肉を言いたくなったくらいだ。
 でも今は、行きたいような気がする。忙しく観光地を回る旅ではなくて、日常から離れてゆっくりした時間を過ごす。
 またいらないことを考えていることに気づいて、紀子は自分に呆れた。そんなことを空想している暇に、さっさと仕事を進めてしまおう。 



小説トップへ   次へ

inserted by FC2 system