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 キーリカは再び下絵と睨み合っていた。
 もう、何とか姫君を説得して美しく描こうという気持ちはなかった。姫君の仰ることが、分かるような気がしたからだ。
 姫君のご母堂はシルヴァン国から嫁いでおいでだったと仰った。かの国では、かつて何度も女王が即位したという記録があり、才のある者は男女を問わず登用しようという気風が目立つと聞く。きっと王妃様も、この国へおいでになってご苦労されたのだろうなと、姫君のお言葉を思い出すうちに、キーリカはふとそんなことに思いいたった。
 姫君が近い将来、これまでのご努力を役立てることの出来るような、そんな土壌のある国へお輿入れされることになったらいい。キーリカはそう願った。妻をただの美しい飾りと思うような夫のもとへ嫁がれることになれば、それはあの姫君にとってはたいへんご不幸なことだろう。もしかすると、ただ単に愛の無い結婚よりも。
 肖像画がお役に立つかどうかは分からないが、少なくとも姫君のお気持ちを汲んで、ありのままの姫君の絵を描くのはきっぱりと諦めることにした。
 だが、まだキーリカは悩んでいた。ただ適当に不器量なお顔に描くだけというのでは、どうしてもキーリカ自身の気持ちが納得しない。単に仕事として手抜きをしたくないということではない。あの姫君を描くのに、ただ平凡なだけの絵では気が済まないような気がするのだ。面立ちを美しく描かずとも、何かやりようがあるのではないか。
 姫君の選択が正解なのかどうか、キーリカには知りようもない。ただ、どうやらご自分のお心を秘めたまま、他国へ嫁いで為せることを為そうとしておられるそのご意思が、自分のやりたいことばかりを追って何もかも振り捨てて生きてきたキーリカの目には、ひどく眩しく思えた。
 だから、その姫君の肖像を、ただ平凡な絵にはしたくない。
 しかし、どう描いたらよいか分からない。髪を掻き毟るキーリカの頭に、ふと、アンナ嬢のお顔が浮かんだ。
 そうだ、アンナ嬢。美貌ではなくとも、お優しく控えめなお人柄が一目で分かる、あの令嬢。
 キーリカは描きかけの画布を捨てて、新しいものを立てかけた。眼が覚めるような思いだった。
 ようやく自分のなすべきことを悟って、キーリカは木炭の欠片を握り締めた。

 下絵のだいたいのところを描き上げたキーリカは、頭の中で彩色の手順を考えながら、しばしの休憩を挟むことにした。いったん筆を取ると没頭してしまうので、その前になるべく英気を養っておきたいと考えたのだ。
 少し前から、侍女が部屋に食事を運んでくれていた。さっさと食べて膳を下げてもらわないと、王宮の下働きの者達に迷惑がかかってしまうのだろうと思いながらも、絵の作業を中断したくないからと、そのままにしておいてもらっていた。
 改めて口に運ぶと、冷めていてもやはり宮廷料理は美味だった。貧しい舌しか持たない者にはもったいないようだ。見目も美しく豪華なもので、中には海魚を使った料理も混じっている。この王都は海から荷馬車が三日ほどかかるような土地なのに、どうやって保存しているのだろう。そこにかけられた手間を考えると、恐ろしいような気がした。
 食事を摂っている途中、扉を叩く音が聞こえてきた。
 訪問者は姫君だった。御手にはまた何かしら学術書のようなものを持っておいでで、今日のドレスは白く可憐な意匠でいらっしゃった。キーリカは慌てて立ち上がりながらそれを拝見して、姫君は何を着ておられてもお可愛らしいなあなどと思った後に、ああ、姫君はもしかしたら損をしておられるのかもしれないなと考えた。お姿のお美しさのせいで、お心の気高さよりもまず先に、見た目の印象が先立ってしまう。
「あら、いまごろお昼だったの。食べながらでけっこうよ」
 姫君は寛大にもそう仰ると、書きかけの下絵を覗き込まれた。まだお顔の中についてはざっとしたあたりをつけているだけで、詳しく描き込んでいない。
「あとどれくらい?」
「ええと……五、六日くらいでしょうか、たぶん」
 キーリカは適当にそう言った。実際のところ、描き始めてみないと分からないのだ。
「そう。ねえ、私もお茶だけお相伴してもいいかしら」
 姫君がそう仰るのに、キーリカは形ばかり頷いたが、侍女は仰せの前から姫君の分のお茶を用意していた。
「ねえ、絵師さんはどうして画家になろうと思ったの」
 姫君はお茶をお召しになりながら、そうお尋ねになった。キーリカは何か答えようとしたが、とっさに思いつかず、しばらく考え込んだ。姫君は答えを催促されることなく、お茶の香りを楽しみながら、待っておられる。
「ええと……そうですね。なろうと思ったと申しますか、気付いたらなっていたと申しますか」
「なあに、それ」
 姫君はお呆れになったように聞き返されたが、キーリカはひと言で答えづらくて、唸ってしまった。
「ええと。今日の殿下は、お時間はございますでしょうか」
 姫君がその問いにお頷きになったので、キーリカははじめから話すことにした。己の生い立ちから。

 キーリカは物心ついたときから絵が好きだった。もともと貧しい靴屋の三男坊で、とても子どもの落書きに使う紙など買えようはずもなかったから、もっぱら絵は地面に木の枝で描くものばかりだった。
 子どもながらも両親の靴屋を手伝うようになる頃には、さすがに日がな一日路上に絵を描いているというわけにはいかなかった。それでも手先が器用だったので、ときどき町外れの森から手ごろな太さのある枝を拾ってきて、それを削ったものをナイフで引っかいて、そこに小さな絵を彫ったりしていた。
 ある日、父親の知人と言う変わり者の学者が、その枝に刻まれた絵が精密であることに気づいて、キーリカに声をかけた。自分は研究で生き物の外見を記録する必要があるのだが、絵が下手で難儀している。時々手伝わないかと。
 キーリカは喜び勇んでその日銭仕事を請け負った。靴屋はそれほど儲かっていなかったし、他にも兄が二人と妹が一人いたから、三男坊が手伝わなくてもじゅうぶん回るように思われた。
 初めて紙に木炭や筆で絵を描くと言うことを知ったキーリカは、実に熱心に数々の記録画を書き付けていった。その手伝い賃の半分は両親に手渡し、残りの半分で一番安い紙と筆を買って、やはり手が空くたびに何かしら描いていた。
 父親は当初、息子の道楽にあきれ返っていたが、やがてキーリカの絵がどんどん上達していくのを見て、ふと気まぐれのようにその中の数枚を店の軒先に飾ることにした。
 何年か経つころ、たまたま靴屋を訪ねたある年配の客が、それに目を留めた。その人物は、領主様のお屋敷の召使いだった。うちの旦那様は絵がお好きだから、お気に召すかどうか分からないが、何枚か借りていってもいいだろうかと、その客は言った。
 まさか息子の落書きにそんな申し出を受けると思ってもいなかった父親は、目を白黒させながらそれを承諾し、その次の日には、キーリカは故郷の街を治めておられる男爵のお屋敷に呼ばれていた。
 男爵はキーリカにお抱えの画家を紹介し、必要な画材くらいは援助してやるから、しばらくこの男のもとで修行をしてみないかと、手を差し伸べてくださった。この辺りと違って、キーリカの生まれ育った大陸の南部では、権力者が画家や彫刻家をお抱えになって芸術作品を作らせるようなことは、比較的普通に行われている。
 その日から、キーリカは水を得た魚のように、日々さまざまな絵を描いた。思いついた手法は片端から試し、見たままを描く写実的な絵から、物語の場面を空想して描いたものまで、師匠の指導のもと、めちゃくちゃな数の絵を描いた。早朝からお屋敷に伺って、夜も更けるまで気の済むまで絵を描いて帰る、そんな日々が長く続いた。
 何よりも、師がよかった。絵描きの常識というような狭い視野に囚われることも、自分の作風を弟子に押し付けることもせず、ただ必要に応じて技術を教えたり助言をしたりするだけで、あとはキーリカの自由に描きたいものを描かせてくれた。
 男爵は気に入った絵を時折召し上げては屋敷に飾られ、やがてそれをご覧になった男爵のご友人から、ちらほらとキーリカに肖像画のご依頼が来るようになった。
 やがてその数が増えるにつれて、キーリカの日々は、肖像画を描くことにほとんどの時間が費やされるようになった。何なら断ってもいいと男爵は仰ってくださったが、男爵とのおつきあいのある方々の絵を断っては、角が立つ。それで、すっかり困ってしまった。
 それでも何年かの間は、ご依頼のあるにまかせて肖像画ばかりを描き続けていたキーリカだったが、そうこうしているうちに、自分がなぜ絵が好きだったのか、分からなくなってきた。肖像画に取り組んでいても、絵を描いているという気がしなくなった。
 それである日思い切って、旅に出たいと男爵に願い出た。肖像画以外の絵も描きたい、世界中の見たことのない美しいものをこの目で見て絵にしたいという思いが、日々強くなる一方だったのだ。
 長年目を掛けていただきながら、その恩を知らないような申し出に、男爵はお怒りになるかと思ったが、意外にも快くお許しくださった。その代わり、時々でいいので描いた絵を寄越すようにと、それだけを仰って。
 男爵はお怒りにならなかったが、家族は激怒した。領主様のおかげでここまで取り立てていただいておきながら、この恩知らずがと。キーリカは半ば勘当されるように家を出て、それからは故郷に立ち寄る機会があっても、生家には一度も顔を出していない。ただ時折、絵と肖像画の少しばかりの金を包んで、人に届けてもらうばかりだ。

「以来、あちこち放浪しながら絵を描いております」
「でも、こうしてまた肖像画を引き受けているじゃない」
 姫君は不思議そうにそう仰ったが、キーリカは笑って頷いた。
「ええ。肖像画を描くことそのものは嫌いではございませんし、北部の方々は、私の母国の辺りに比べると、それほど絵を描かせるということに熱心ではございませんから。お声のかかる頻度も、忙しすぎず、ちょうどいい按排で」
 そうキーリカがご説明すると、姫君はふうんと相槌を打たれて、卓に肘をつかれた。少々お行儀が悪い。
「いいなあ」
 姫君の意外なお言葉に、キーリカは首を傾げた。たしかに、キーリカ自身は好きなことができる今の境遇をありがたいことだと思っているが、それにしてもまさか、王族の方から羨ましいと言われる日が来るとは思わなかった。
「私も、男に生まれたかったわ」
 姫君は、ため息をついてそう仰った。自分の生きる道を選べたらよかったのに、と。
「それならずっと、お兄様のお傍でお力を添えることができたかもしれないもの。お兄様が、そうされようとしているみたいに」
 そのお言葉に、キーリカは納得して頷いた。先日はああ仰ったが、やはりできることならお国に留まりたいと思っておいでだったのだ。それは叶わないと諦めていらっしゃるだけで。
「ご兄妹仲が、よろしくていらっしゃるのですね」
 他に言えることを思いつかず、キーリカがそう申し上げると、姫君は黙っておしまいになった。何かお気に障られただろうかとキーリカが困っていると、姫君はしばしの沈黙の後に、ぽつりと言葉を落とされた。
「可愛いローザ、って。お兄様はいつもそう仰るの」
 姫君は御手に持っておられた学術書をぎゅっと抱き締めて、下を向かれた。
「お兄様にとって、私はいつまでも甘ったれでわがままで、ひとりでは何も出来ない、可愛いだけの妹なのよ」
 それが堪え難いというように、姫君は俯いたまま、お続けになった。
「さすがは俺の妹だ、って。そう言って欲しいの。可愛いローザじゃなくて」
 だからせめて、いつかどこか遠くの国へ嫁ぐことになっても、そこで認められて、お兄様のお耳によい噂が届くように、そのたびにお兄様が私のことを誇ってくださるように、そんなふうになりたいのと、姫君は仰った。
「それとも、仮にも一国の王女がそんな私情で政治に関わろうだなんて、とんだ心得違いかしら?」
 姫君は真面目なお顔でキーリカにお尋ねになった。キーリカは即答せずに少し考えて、首を振った。
「一介の絵師には、姫君のお思いになられることが正しいかそうでないか、分かりかねます。ただ、恐れながらも、イサーク殿下を羨ましく思います」
 キーリカが口にした見当外れの答えに、姫君は怪訝そうなお顔をされた。
「私にも妹がおりましたが、妹が真面目に家業を手伝っている間にも、さぼって絵ばかり描いておりましたので、たいへん嫌われておりました。一度くらいは、それほど慕われてみたかった気がします」
 キーリカは冗談めかしてそう言った。
「でも、画家として成功しているのだから、妹さんも今はあなたのことを認めておいでなんじゃないかしら」
 姫君が真摯なご様子でそう仰ってくださったので、キーリカはちょっと言葉に詰まった。
 妹は、キーリカが男爵の援助を受けるようになる直前に、あっけなく病気で逝ってしまった。まだ子どもと言っていいような齢だったのに。
 当時、家にはとても医者にかかるような金はなかった。今のキーリカであれば、どうにかできたかもしれないのに。せめてもう少し早く、自分が絵で成功していればと、キーリカは後で何度も思った。
 だが、姫君にその話をするのも忍びなくて、キーリカはただ頷いた。
「そうかもしれませんね」
「きっとそうよ」
 姫君はそう念を押された。そのお言葉が嬉しく、キーリカは頬が綻ぶのを感じながら、絵の方を手で示した。
「さて、それではそのお言葉のお礼に、私がこの絵に魔法をかけて差し上げましょう」
 キーリカはそう言って笑った。
「あらあなた、画家ではなくて魔法使いだったの?」
 微笑んで軽口に乗ってこられた姫君に、キーリカは笑って首を振った。
「いいえ。でも、絵描きにだけ使える、特別な魔法があるのです」
「まあ。どんな魔法かしら」
 姫君のご質問に、キーリカは一礼して答えた。
「幸福なご結婚を呼ぶ魔法を。王女殿下を本当に必要とされる方こそが、この絵をご覧になって殿下をお妃にと望まれるでしょう」
 姫君は面食らった様子で目を瞬かれたが、やがて微笑まれた。
「それは素敵な魔法ね」 



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