キーリカは居室で画布に下絵を描いていた。当初の予定では、下絵は姫君のお姿を拝見しながら描くつもりだったのだが、下手に本物を見ながら書くと、どう己に言い聞かせても醜く描くことができなくて、やめてしまった。 キーリカの手は一応動いてはいるが、なかなか作業は捗らない。納得しないまま手を動かしているせいで、線から迷いが消えないのだ。頭で分かっていても、つい無意識に見たままの姫君のお顔を描こうとしてしまう。それで何度も消してはまた描きなおすということを繰り返していた。 普段だったら制作に取り掛かれば他のことなど頭に入ってこないのだが。今度ばかりは気が進まないのと、余計な考えごとに邪魔されるのと半々で、なかなか集中できない。描いては手を休め、また描こうとしては手が止まり、という調子だ。 キーリカは嘆息して頭を振った。あまりにも何度も消したり描いたりしているので、画布が痛みはじめていた。 幸いにも予備はたくさん用意してあった。キーリカは描きかけの一枚を諦めて画架から取り外し、新しい一枚を立てかけた。今度はちょっと構図を変えて、椅子にお掛けになる姫君の肖像を描いてみる。 しばらく首を捻りながら挑んだ結果、今度はそれなりに平凡な少女らしいものの輪郭ができてきた。 だが、キーリカは納得がいかないような思いをもてあまして、また首を捻った。これにそのまま色を乗せたところで、ただ平凡というだけの、ひどくつまらない絵になるだろう。 いや、ご要望からすると、それでいいのかもしれない。ここは妥協するべきだろうか。キーリカは心を決めかねて、頭を抱えて唸った。 「まだ悩んでいるの?」 そのお声と共に、姫君が侍女を伴って入っておいでになった。今日の姫君は、薄赤色のドレスを纏っておられて、そちらもやはりよくお似合いになっていた。 姫君は画架のそばに空いた椅子をご自分で引き寄せられて、ちょこんとお掛けになった。 「どう。描けそうかしら」 「それが、なかなか……」 キーリカはつい弱音を吐いた。 「何なら、気分転換に付き合って差し上げてもよろしくてよ」 姫君は澄まし顔でそんなことを仰いながらも、その視線は興味深そうに絵の道具の上をさまよっておられた。その好奇心に溢れたご様子に思わず笑みを零しながら、キーリカは「ぜひお願いします」と頭を下げて、手を休めることにした。 よく見れば、姫君は手に分厚い本を持っておいでだった。キーリカの視線にお気づきになった姫君は「さっきまで図書室にいたの」とご説明をくださった。 「殿下は、お勉強熱心でいらっしゃるのですね。今は何を読んでおいでですか」 「ああ、これ? 『東方山河起源諸説』よ」 戯曲か文学か、はたまた詩集の類かと思ってお訊ねしたキーリカは、思わず面食らった。それは大陸東部の地質学にまつわる研究が記された、有名な学術書だ。かなり硬い内容のはずである。 「ええと、面白いですか?」 「興味深いけれど、ちょっと退屈ね」 それはそうだろうと、キーリカは思った。学都の大学で教科書にするような書物だ。 「読んで、お分かりになりますか」 「そんなに本格的に学んでいるわけではないわ。概要だけ分かればいいの。幅広い教養を身につけたいのよ」 そのお言葉に曖昧に頷きながらも、この姫君はいよいよ変り種だぞと、キーリカは思った。この近隣で言われるところの貴族の女性の教養とは、詩才であったり、踊りや刺繍や楽器の腕のことだったりするのが普通なのだ。 「いろんな道具があるのね。触っても平気?」 姫君はそう話題を移され、キーリカが頷くのをお待ちになってから、床に散らかった画材をひとつひとつ御手にとられた。キーリカはしばらくそのご様子を微笑ましく見守っていたが、つい理由をお聞きしたいという衝動に負けて、口を開いた。 「殿下はもしかして、お嫁に行かれたくなくて、それで肖像画を醜く描けと仰せなのでしょうか」 姫君はちょっと目を丸くされて、首を横に振られた。 「まさか。なんでそんな風に思ったの」 「いえ。理由が思いつかなかったので、当てずっぽうです」 「面白いことを考えるのね」 姫君は笑い飛ばしておしまいになった。考えが外れたかなと思いながら、キーリカは何気ない顔を装って別の話題を振ってみた。 「そういえば、イサーク殿下は、最近ご婚約されたそうですね」 今度は姫君の顔が、ほんの少し曇ったようだった。 「ええ。お兄様から聞いたの?」 「アンナ様とご一緒にいらっしゃるところに、偶然通りかかりまして」 「そう」 姫君は、何事もなかったかのように頷かれたが、ほんの少し視線が彷徨ったのに、キーリカは気づいた。 兄君と話しておられたときの姫君の輝くような目を、弾む表情を、キーリカは思い出していた。 姫君は実の兄君に思いを寄せておられるのではないかと、キーリカにはそう感じられたのだ。異母兄妹でご結婚される例というのは、珍しくはあるが、高貴の方々の間ではないでもない。 自分の邪推というものだろうかと思っていたが、今の姫君の表情を拝見して、なんとなくその考えは当たっているように思えた。 しかし、それで他国に嫁がれるのがお嫌なのかと思ったが、そちらはあっさりと否定されてしまった。嘘がお上手なのか、それともすっかり諦めておいでなのだろうか。 「アンナ様、とても素敵な方ね。早くお義姉さまとお呼びできたらいいのだけれど」 姫君が、憂い顔でそう仰った。キーリカは驚いたような、それでいてどこか納得するような、奇妙な気持ちになった。やはりあのお二人は身分違いの恋なのだろう。 「もしかして、どなたか反対しておいでなのですか」 まさか、アンナ様を慕っておられるというのは本当ですか、などとお聞きするわけにはいかなかった。それでもう片方の疑問についてお聞きしてみると、姫君はため息混じりに頷かれた。 「陛下が渋い顔をしていらっしゃるの。上のお兄様やお母様は賛成しておいでなのだけど」 それでは、貴方ご自身は賛成なのですかと、思わず聞きそうになった口を、キーリカは慌てて噤んだ。 「でも、陛下もきっとそのうちお認めになるわ」 姫君は明るい表情を作って、そう仰った。 「そうですか……」 それ以上何も言えず、キーリカは間の抜けた相槌を打つほかなかった。姫君はなんでもないことのように軽い口調を作られて、 「ちょっとだけ、お兄様をとられるみたいで、寂しいけれど」 そうぽつりと仰った。 姫君は椅子から立ち上がられると、御手を後ろに組まれて部屋の中をちょっと歩かれた。それから振り向かれて、 「もともとね、肖像画をあまり可愛くないように描いてもらいましょうかっていうのは、お母様が仰ったのよ」 そう仰った。話を逸らされたことを忘れるほど、キーリカはその言葉の内容に驚いた。てっきり姫君のご意思なのだと思っていた。 「王妃様が、ですか。いったいどうして」 「お母様のご実家が、苦労なさったから」 「ご実家……」 キーリカは鸚鵡返しに呟いた。王妃様はどちらのご出身だっただろうか。もしかしたら噂話くらいは聞いたことがあったかもしれないが、この辺りの生まれでないキーリカには、咄嗟には思い出せなかった。 「ええ。お母様は、西のシルヴァン国の王家から嫁いでおいでになったのだけど、お母様のひとつ上のお姉さまが、とってもお綺麗な方だったのですって」 姫君は、ちょっと表情を曇らせて、そう仰った。 「でも、お綺麗すぎたのね。お隣の、フラグウィンド帝国の皇帝陛下に見初められて、強引に、妾妃にされてしまわれたそう」 その話は、キーリカには初耳だった。当時は人々の口に上った話題だったかもしれないが、既に十数年以上前のことであるし、キーリカ自身はそのころ、まだ母国で絵の修行をしながら暮らしていた。 「その後もずいぶんとご苦労なさったそう。正妃様に苛められて、何年かたつと皇帝陛下のご寵愛も遠のいてしまって、最後にはとうとう濡れ衣を着せられて、処刑されておしまいになったのよ。お気の毒に」 それは憶測交じりの噂話だろうか、それとも王妃様に宛てられた姉君からの文に記された事実だったのだろうか。どちらにしても、その話をこの姫君にお聞かせになったのは、実の母君であることは間違いないだろうと、キーリカは思った。いずれとびきり美しく育つに違いない娘への教訓として。 「では、絵のご指示は姫君のご意思ではなかったのですね」 キーリカはどこか痛ましいような思いでそう言った。いくらそうした教訓を聞かされて育ったとはいえ、年頃の娘が美しく装いたくないはずもないのに、少々お気の毒なことだと思ったのだ。 だが、姫君はにっこりとお笑いになって、首を横に振られた。 「いいえ。お母様が、あまり可愛く描いてもらうのはよしましょうかって仰ったから、私がどうせなら醜く描いていただきたいわって申し上げたのよ」 キーリカは一瞬、言葉に詰まった。 「どうしてそんなことを」 キーリカは目を白黒させて問い返した。目一杯お美しく描けば、もしかするとこの絵もその種の悲劇を呼ぶかもしれないが、そういう災難を避けるためであれば、ただ単にいくらか控えめに描くだけで済むだろうと思えた。 姫君はまた椅子にちょこんと座られて、微笑まれた。ものわかりの悪い絵師にも苛立たれることなく、きちんと噛み砕いて説明してくださるおつもりのようだった。 「だって、初めから不美人だと思われていれば、政略結婚なのだから醜い妻でもかまわないって、ちゃんと割り切れるような、そういうご器量のある方のところに嫁げるかもしれないでしょう」 キーリカは思わず絶句した。まだ十二歳の、見た目にもまだまだ少女めいた姫君のお口から聞かされると、痛ましいような話だった。そう思うのはキーリカが気楽な暮らしの平民の芸術家で、貴族社会の婚姻制度に馴染みがないからだろうか。世の娘御たちが恋物語に目を輝かせるような年頃で、そんなお考えをお話になるのは、悲しいことであるような気がした。 「ご縁だから、どうなるか分からないけれど。できればそんな方と共に、国や領地を支えたいと思うわ」 そのためにお勉強してるのよ、と、姫君は仰った。 愛されることが女性の幸福だと、姫君はそうはお思いにならないのだろうか。それとも、ご自分の幸福を考えておられないのか。キーリカにはそのお心は計りかねた。 「陛下ははじめ、反対なさったのだけど。お母様が助け舟を出してくださったの。伯母様のお話を引き合いに出されて」 「いや、しかし……」 「なあに?」 キーリカはずっと頭の片隅で気になっていたことを口にした。 「私ごときが今さら殿下を不美人に描いたところで、すぐに嘘だと分かってしまうのではないでしょうか」 キーリカの問いに、姫君はゆっくりと首を横にお振りになった。 「だからこそ、貴方なの。貴方、高名な画家なんでしょ」 キーリカは謙遜するべきかどうか迷って、曖昧に頷いた。近隣の各国を転々としながら高貴の方の肖像画を描く機会が多かったものだから、名を知られているのは間違いない。 「だから、貴方が描けば、それが本当ということになる。違う?」 姫君は自信ありげにそう仰ったが、キーリカは納得できなかった。 「ですが、殿下のお顔をご存知の方は皆、私の絵を嘘だと仰るでしょう」 王宮に足を踏み入れる者の数は、かなり多い。姫君の身の回りの世話をするものはほとんど住み込みだろうから、彼女らが真実を外で言いふらす機会は少ないにしても、政務のために出入りする官僚や、警備に詰める兵士たち、社交の場に集う貴族達などもいる。姫君を直接見知る者は、口を揃えて姫君はこんなお顔ではないと言うだろう。 「あのね。私はまだ十二歳なのよ。社交界へ顔を出すようになるのは、まだ先。外に顔を出すお仕事を拝命することも、もうしばらくはないわ」 姫君はそう仰って、大人びた微笑をお浮かべになった。 「直接私の顔を見知っている人の数は、そんなに多くないのよ。その人たちが、いくらその絵は本物と違うと言ったって、大抵の人は、身びいきか点数稼ぎのおべっかとしか思わない。そうでしょ?」 キーリカは唸った。いやしかし、と反論しようとしたところで、扉の外から姫君をお呼びする侍女の声が聞こえてきた。 「あら、いけない。また歴史の先生をお待たせしちゃうわ。それじゃ、またね」 退出される姫君を見送りながら、いやはやこれは自分の目が節穴だったと、キーリカは認めた。ちょっと大人びたところはあっても、悪戯っぽくて勝気な、普通の少女でいらっしゃると、そう思っていた。王家の女性にしては普通すぎるくらいだと。 キーリカは急に可笑しくなって、一人残された部屋で笑い出してしまった。 そして、画架の上に載っていた平凡そうな少女の下絵を、迷わず引き裂いた。 また下絵に行き詰まり、ちょっと外の空気を吸おうと廊下に出たキーリカは、ふらふらと覚束ない足取りで歩くうちに、イサーク殿下と行き会って、慌てて膝を折って礼をした。ご公務でいらっしゃったのか、殿下は礼服を身につけておられた。 「ああ、テルドマンド殿先日は失礼しました」 「いえ」 キーリカが顔を上げるのを待って、殿下は庭園の方を示された。 「もしよければ、しばしの休息にお付き合いいただけませんか」 「あ、はい。喜んで」 キーリカは驚きながらも、反射的にそう答えていた。王子殿下はにっこりと微笑まれて先に立って歩かれた。 殿下に従って歩く侍女たちは、手に茶器を持っていた。一人が持っていた道具を他の侍女に預けると、無言のままそっと離れて引き返す。キーリカの分を用意させるのだろう。それに恐縮するような思いで、キーリカは殿下のあとに従って歩いた。 殿下は庭園の隅にある小さな東屋に向かわれた。 「あれが迷惑をかけていませんか」 殿下は卓に腰を落ち着けられると、侍女が茶器を並べるのをお待ちになりながら、そう仰った。 あれ、と仰るのは姫君のことだろう。慌てて首を振ってとんでもないと申し上げたキーリカに、王子殿下はちょっとお笑いになった。 「妹は、ずいぶんあなたに懐いているようです。どうも仕事の邪魔をしているようで申し訳ないのですが、滞在されている間、よければこれからも話し相手をしてやってください」 あれは懐かれているのかと思いつつも、キーリカは汗をかきながら「私などでよろしければ」と答えた。 出されたお茶に口をつけると、ふわりと花の香りがした。食事の折に出されるお茶からもずいぶん高級そうな香りがしたが、これも相当だ。キーリカはますます恐れ多いような気がしつつも、まさか王子殿下にふるまわれたお茶を断るわけにもいかず、おとなしく口に含んだ。他国の王宮に滞在して絵を描いたことは過去に何度もあったが、王族の方のお茶にお呼ばれしたのは初めてだった。 「そうそう。アンナも、ずいぶん熱心に貴方の絵の話をしていました」 王子殿下の振られた話題に、キーリカはますます恐縮した。 「そういえば、お二人のご婚約は……」 キーリカはそう口にしかけて、ひやりとした。お気に触られただろうか。 「ああ、妹が何か言っていましたか」 王子殿下は苦笑されたが、幸いにもお気を悪くされたふうではなかった。 「どうも陛下は以前から、私の相手を他に考えてくださっていたようで。正式に婚約していたというわけではなかったのですが」 そういえばこの王子殿下も姫君も、国王陛下を父上とは仰らないのだなと、キーリカはふとそんなことに気づいた。そういうものなのか、それともお父上との間に距離があるためなのかは分からないが。 「ですが、近いうちに陛下もお認めになるでしょう。陛下にとっても、私がアンナを娶った方が、かえって都合がよろしいはずですから」 都合がいい、という言葉の響きと殿下のお優しげな声音の落差に、キーリカはぎょっとした。 「ご都合、ですか……」 「ええ。兄上がすでに立太子として立っておられるのですから、私はいずれ兄上の臣下になります。そのことをはっきり外に示すには、早いうちにあまり身分の高くない妻を迎えたほうがいい」 殿下は淡々とそうご説明なさった。 キーリカは何も言えなかった。王族であればそうした感覚は普通のことなのかもしれないが、これまでの王子殿下の印象が親しみやすく暖かかった分、無性にやるせないような気持ちになった。 庭園でお会いしたとき、お二人は仲睦まじい恋人同士のように見えたのに、あれはキーリカの錯覚だったのだろうか。 「では、殿下はそういったことをお考えになって、アンナ様をお選びになったのですか」 余計なことを言っているという自覚を持っていたが、キーリカは自分で止められなかった。皮肉めいた口調にならなかったのが、せめてもの幸いだったが。 キーリカは俯いて、お茶の表面に映る自分の、落胆した顔を見た。いい年をして、まだ自分の中にも純情な部分があったものだ。 「いや、そういう言い訳は後から考えました」 キーリカがはっとして顔を上げると、殿下の青い瞳には、姫君のものによく似た悪戯っぽい煌きが宿っていた。 「彼女を、愛しているんです」 王子殿下は照れたようにお笑いになって、そうはっきりと仰った。 |