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 部屋に運ばれた晩餐を食べ終えたキーリカは、どうしても食べきれずに残した料理を侍女が運び出していくのを、未練がましく目で追った。
 毎日のように豪華なお料理がいただけるのは大変ありがたいのだが、いかんせん量が多すぎる。貧しい家で生まれ育ったキーリカにしてみれば、まだ食べられるものを捨ててしまうということがどうにもいたたまれない。翌日また食べるからどうか残しておいて欲しいと言いたい衝動を堪えるのに必死だった。
 その言葉をぐっと飲み込んで、キーリカは食器を片付けて下がろうとする侍女に声をかけた。
「あのう、今からちょっとお庭を散策してもかまわないでしょうか」
 キーリカはそう申し出た。とにかく腹ごなしをしたかった。
 この部屋の近くは勝手にうろうろしてかまわないと、あらかじめ言われてはいる。それでも夜間にあまり出歩いて、うっかり他国の間者か何かと疑われてはたまらないという不安があったのだが、憂うつなままで食事をした上、勿体無くて目一杯食べてしまったものだから、どうにも胃がもたれて仕方が無い。
「ええ、まだ外も明るうございますし。ただ、なるべく、暗くなるころにはお戻りくださいませ。宮内とは言え、なかなか広うございます。道にお迷いになってはいけませんので」
 侍女がにっこり笑ってそう答えたのを聞いて、キーリカは飾り硝子越しに窓の外を見た。そう言われてみれば、たしかに外はまだ明るかった。
 この辺りは比較的緯度が高い。南の方の国で生まれ育ったキーリカは、思えば遠い国まで来たものだなと、今さらのようにそんなことを思った。
 ともかく、外出してかまわないとの了解は得た。キーリカは画帳を持っていこうかとちょっと迷って、結局やめた。美しい景色があれば、目に焼きつけてしまえばいい。
 キーリカは薄手の外套を羽織ると、おっかなびっくり居室を出た。廊下には、美しく滑らかな石が敷き詰められている。見目には麗しいが、冬はさぞ冷えようかと思われた。
 中庭に出ると、東の空が宵闇に染まりはじめており、そこに低く月が顔を出していた。残照と青白い月光とに両側から照らされて、庭園はまた昼間とは違った趣を見せている。まだ昼の微熱をはらんだ風が、花の香りと共にふわりとキーリカの頬を撫でた。
 キーリカは大きく深呼吸して庭園を見渡してから、反対側の人影に気づいて、慌てて目を凝らした。
 先客は二人連れのようだった。キーリカは急ぎ膝を折って、顔を伏せた。片方の人影が姫君でいらっしゃることに気づいたのだ。姫君ご自身は儀礼は気にしなくてよいと仰せだったが、もうお一方も身分の高い方であろう。頭を下げたまま耳を澄ますと、お二人は何ごとかお言葉を交わされながら、キーリカのいる方へ向かっておられるようだった。お二人の足音が近づいてくる。
「あら、絵師さん。お散歩?」
 姫君の方が先にキーリカにお気づきになって、そうお声を掛けてくださった。顔を伏せたまま「はい」と返事をするキーリカに、もうお一方の声が届いた。
「ああ、あなたが」
 その声は、少年のもののようだった。
「これの兄のノルド・イサークです。あなたが妹の肖像画を描いてくださる画家の方ですね」
 キーリカはぎょっとした。それは第二王子のお名前だった。
「はい、殿下。キーリカ・テルドマンドと申します」
 慌てて答えながら、キーリカは更に頭を下げた。
「ああ、どうか、顔を上げて楽にしてください。私も妹と同じで、堅苦しい行儀作法は苦手なものですから」
 王子殿下は、まるで驕ったところのない、柔らかい声音でそう仰った。キーリカはそのお言葉に従って顔を上げ、声の主を仰いだ。
 イサーク殿下と仰ると、たしか姫君とは腹違いの兄上になられるはずだ。見ればお年頃は十七、八歳といったところだろうか、御髪の色は濃い栗色でいらっしゃるけれど、青い瞳の色合いは姫君とよく似ておられた。
 まだ面立ちに少年らしい柔らかさを残してはおられるが、どこか精悍なふうで、しかし乱暴な雰囲気は少しもせず、口元にお浮かべになる笑みは優しげでいらっしゃった。これは王子殿下の絵も描き甲斐がありそうだなと、キーリカはつい習慣でそんなことを考えた。
「妹がわがままを申しているそうですが」
「まあ、お兄様。それでは私が気まぐれで周囲をからかっているように聞こえるではありませんか」
 姫君は頬を赤く染められて、そう兄君に抗議された。
 その表情を見てキーリカはおや、と思ったが、それについては何も言えなかった。王子殿下は苦笑しながら、妹君のお顔を見下ろされた。
「お前はいつも、突拍子のないことを言い出すから」
「もう。私には私の考えがありますのよ」
「折角なのだから、精一杯可愛く描いてもらったらいいのに」
 イサーク殿下は優しくそう仰った。キーリカは思わず内心で「もっと言ってくれ」と思ったが、まさかそうは口には出せない。「私もせっかくのお美しい姫君ですから、できれば存分に筆をふるいとうございます」と、そう遠慮がちに申し出るに留まった。
「ほら。思い直したらどうだい」
「もう決めたことですもの」
 王子殿下は、そう頬を膨らませられた妹君に苦笑を向けられて、その御髪を優しくお撫でになった。その仕草は愛情深くていらっしゃった。
 姫君は拗ねてそっぽを向いてしまわれたが、兄君は慣れておられるらしく、その姫君の態度をお叱りにはならなかった。ご兄妹の仲睦まじいご様子に思わず微笑んでいたキーリカに、王子殿下はちょっと共感を求めるような視線をお向けになった。
 だが、王子殿下が何か仰いかけた途端、姫君がくるりと振り返られて、兄君のお袖を引かれた。
「お兄様、チェスに付き合ってくださるお約束ですのに、時間がなくなってしまいます」
「あ、これはお引き止めしてしまいまして」
 キーリカが恐縮して一歩下がると、王子殿下はたしなめるように妹君をご覧になったが、仕方のない奴だと仰いながらも、妹君のわがままが可愛くて仕方がないというような目をしておられた。
「では」
「また明日ね、絵師さん」
 お二人の後姿にしばらくぼうっと見とれていたキーリカは、そのお姿が見えなくなる頃にようやく我に返って、宵闇が降りるまでの僅かな時間、散策の続きを再開することにした。

 翌日、午前中は姫君にお時間をいただいて素描をしていたキーリカだったが、昼からはお作法の授業があるということだったので、手が空いてしまった。それで昼食の後にまた庭園の散策に出ることにした。今度は画帳を持って。
 姫君の素描はまだ今のところ、見たままのお可愛らしいお顔のままだ。なんとかして姫君の絵を醜く描くというのを止められはしないかと、キーリカは諦め悪く溜め息をついた。今日の午前中いっぱい、素描を重ねれば重ねるほどその思いは強くなったが、姫君にさらに重ねてお願いするわけにもいかなかった。
 いったん頭を空にしようと思ったキーリカは、画帳の新しいページを開いて、手遊びに目に付くものを描き留めることにした。庭園に遊ぶ小鳥や蝶、虫、王宮の建物、空、それから花壇の花々。どちらかといえば野趣に溢れる野の花の方がキーリカの好みだが、たまには庭師の手で丹精込めて手入れされた花を描くのも悪くない。
 そうしてどれくらい経っただろうか。無心に手を動かし続けていると、ふっと目の前に影が差して、キーリカは顔を上げた。
「あら、熱心にお仕事中なのかと思ったら」
 キーリカの目の前に立っておられたのは、日傘を差された姫君だった。お作法の授業は終わられたのだろうか。
 姫君は悪戯っぽく笑っておいでで、キーリカの脱線をお咎めになられる様子はなかった。
「ちょっと息抜きにと思いまして……」
 キーリカは頭を掻いて、そう弁明した。姫君はお笑いになって、キーリカの手元から画帳をお取り上げになった。
「息抜きにも絵を描くの?」
「ああ、はい。私はどうも手を動かしているほうが、何もしないで座っているよりも落ち着くようです」
 姫君はふうんと相槌を打たれて、画帳の頁をお捲りになった。
「綺麗ね」
 姫君はぽつりとそう仰った。その声音は気のない世辞を言うそれではなく、キーリカには意外なお言葉だった。
「本当は、人物画よりも、こうしたものを描いているほうが好きなのです」
 なんとなく照れながらそう告白したキーリカに、姫君はちょっと表情を曇らせて、お言葉を下さった。
「こんなに綺麗な絵を描くのに、わざと醜い絵を描くのは、いやよね」
 キーリカはそのお言葉に、はっと顔を上げた。もしかしたらと期待したのだ。
「ごめんなさい。でも、よろしくお願いね」
 だが、姫君はそう仰っただけだった。キーリカは落胆したが、一介の絵師にわざわざお謝りになった姫君に対して、さらに食い下がって何か申し上げるわけにもいかず、ただ恐縮して首を縮めるばかりだった。
「いけない、先生をお待たせしてしまうわ」
 姫君は急にお顔をお上げになって、そう仰った。
「ああ、まだお作法の授業の途中でいらっしゃったのですね」
 キーリカは納得してそう頷いたが、姫君はかぶりを振られた。
「いいえ。今からは歴史と、数学のお勉強なの。それじゃあ、また明日ね、絵師さん」
 姫君はさらりとそう仰って、すぐお立ち去りになられたが、キーリカはぽかんとして立ち尽くしてしまった。姫君に、歴史や数学の先生がついていらっしゃる。それは、奇妙なことのように思えた。
 西方の国々の中には、身分の高い女性でも高度な学問をお修めになる方もおいでと聞くが、このキリク王国ではついぞそのような話を聞いたことがなかった。女は学んではならぬと法に定めてあるわけではないが、このあたりではまず女性が王位や爵位に就いたり、官僚になったりすることはないのだ。
 では、姫君は道楽で学んでおられるというのだろうか。だが、独学に留まらず教師がついているということは、国王陛下がそれをお許しになっているということではないだろうか。これはどうしたことだろう。
 キーリカの疑問は尽きなかったが、それに答えてくださいそうな方は、すでにいらっしゃらなかった。 

 大体が、おかしな話なのだ。キーリカは姫君が立ち去られてからも、釈然としない思いを抱えていた。
 この度の肖像画は、もちろん描き上がった折にはこちらの宮廷に飾られるものではあるのだが、そればかりでなく、たくさんの複写が作られて方々に配られることになっている。複製画を描く作業は駆け出しの絵描きたちが日銭で請け負うので、キーリカの手を離れた後のことになる手筈だが、いずれにせよその写された絵は広く、国民や、他国の人々の目に触れることになるのだ。
 姫君はまだ十二歳になられたばかりと聞くが、王家の十二歳は市井のそれとは少々意味合いが違う。つまり、そろそろご婚約を考え出す頃合のはず。
 王侯貴族の子女のご結婚といえば、普通は政略によるものだ。特に王女殿下ともなれば、大抵はつながりを持っておきたいような友好国の王家に嫁がれるか、稀には国内の有力な貴族に降嫁されることとなる。
 こう言っては口が悪いが、姫君は今が売り出し期間中、それもなるべく高く売りつけたいのが当たり前のはずなのだ。そんな時期にわざと肖像画を醜く描けとは、いったいどういう訳か。いくら姫君ご自身の強いご要望だとしても、果たしてそれを陛下が容易くお許しになるものだろうか。
 キーリカは頭を振った。慣れないことを考えすぎると、知恵熱でも出しそうだった。もともとこういう類の考え事には向いていないのだ。
 気分転換を図るために、キーリカはもう少し庭園の風景画を描こうとした。そうして顔を上げたところ、視界の端にイサーク殿下のお姿を捉えて、慌てて長椅子から離れて膝をついた。礼はよいと仰せになったからと言って、幾らなんでもぼけっと腰掛けたまま会釈をして済ますというわけにはいかない。
 殿下は庭園を歩かれながら、キーリカが初めて見かける女性とお二人で、何事かお言葉を交わしておられるようだった。その表情や女性の態度を遠目に見ているうちに、キーリカは漠然と、このお二人は恋人同士なのではないかと思った。
「ああ、絵の方は順調ですか?」
 殿下はやがてキーリカにお気づきになり、そうお声をかけてくださった。
「はい、どうにか」
 キーリカは冷や汗をかくような思いで深く頭を下げてから、顔を上げて立ち上がった。嘘八百だ。素描の数は増えていたが、まだ下絵さえ手をつけていない。
 殿下のお連れの女性は、明らかに平民と分かるキーリカに対しても嫌なお顔おひとつされることなく、深々とお辞儀をされた。
 キーリカは自分も深く頭を下げながら、画家の性で、ついその一瞬に女性の服装をしっかり見てしまった。淡い緑色のドレスは上品で、この女性に良く似合っていらしたし、庶民には手の届かない上等の品には間違いないのだが、どうも王宮に出入りされる貴族の女性の一般的な衣裳に比べると、やや質素なように思われた。
 令嬢は特筆するような美人というお姿ではなかったが、暖かい笑顔の持ち主だった。ちょっとしたしぐさや表情にも控えめな優しさがにじみ出ていて、たいへん好もしいお人柄のように見受けられた。
 殿下はお連れの女性にキーリカをご紹介してくださった。
「アンナ。こちらは画家のテルドマンド氏と仰って、妹の肖像画を描いていただいているんだ」
「アンナ・シア・ウェッジバロウと申します。私、貴方の絵を拝見したことがございます。きれいな花の絵でした」
 令嬢は慎み深く殿下の半歩後ろに従ったまま、微笑んでそんな風に仰った。
「それは光栄です」
 キーリカは恐縮して再び頭を下げながらも、この女性が肖像画ではなく『花の絵』と仰ったことに少々驚いた。キーリカの名はかなり知れわたっているが、それは主に肖像画描きとしてのものだ。
 自分の好きなように描いた風景画や生き物の絵は、売っても肖像画の報酬のような値はつかないが、それでも行く先々で画商に引き取ってもらったり、人に贈ったりすることはある。おそらくこの女性はそうしたものをたまたまご覧になったのだろう。
「つい先日、婚約したばかりなのです」
 王子殿下は、ちょっとお照れになったような笑顔でご説明くださった。
「それはおめでとうございます」
 やはりと思いながら、キーリカは複雑な思いを顔に出さないように、微笑んで祝福した。
「忙しなくて申し訳ないのですが、日の暮れる前に、彼女を送り届けなければならないので」
 殿下はそうお断りになって、アンナ嬢を促された。令嬢は「ごきげんよう」と会釈を残して、その後にお従いになられた。
 キーリカはお二人の背中を見送りながら、やっと思い出した。この王都に住む男爵家でご厄介になった折に、野に咲く花の絵を進呈したことがある。
 その男爵とお付き合いのある家柄の貴族の子女であるのならば、王子殿下とつりあいの取れるような家格でないのは間違いないだろうが……。キーリカはついそんなことを考えて、慌てて首を振った。それは一介の絵描きが心配するようなことではない。
 それよりも、姫君はこのご婚約をどうお思いなのだろうかと、他人事ながらそんなことについ思いが向いた。



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