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 キーリカ・テルドマンドは、大陸中に名の知れ渡った画家だ。大陸の中部から北部にかけてを気まぐれに放浪しながら絵を描くうちに、各地の王侯貴族から幾度となくお声がかかり、かなりの数の肖像画を手がけてきた。
 もっと南方の国々であれば絵画や美術品は高貴の方々の重要なステイタスであり、各国は先を争って優れた芸術家を召し上げようとするものだが、それに比べて北部における画家の地位は低い。絵画を蒐集する金持ちはいるが、わざわざ絵描きに高額な俸禄を与えてまで日々何か描かせようとなどいうような酔狂な者はまずいない。肖像画を描かせる画家などは、必要に応じてそのつど雇うものと思われている。
 さて、これまでにキーリカに肖像画を依頼して来られた高貴の方々の中には、微に入り細に入りさまざまなご注文を口にされる方もいらっしゃった。あるいは、絵を美化するようにと直截に仰るのは気の引けるという慎み深い方であれば、言葉の端々に織り込まれたご意思をキーリカの方で汲んで、直接それとは仰らずとも、口に出されないご要望を絵筆に載せてきた。いずれにしても、誇張された美貌や風格をたっぷり絵の上にまぶして仕上げるくらいは常のことで、キーリカにとって、それには何の抵抗もなかった。慣れによって絵師としての矜持が磨耗したということではなくて、もともとキーリカの情熱は、目に映るものをそのままに写し取ろうということよりも、とにかく美しい絵を書きたいということの方に向かっていたのだ。
 そう。キーリカは長年絵を描いてきて、そうした虚飾の類を苦痛に思ったことはなかった。ただの一度をのぞいては。
 そのご依頼をお受けしたとき、キーリカはまもなく三十五歳になろうとしていた。画家としては若い方かもしれないが、その頃にはすでに相当な数の依頼をこなしていて、多少の風変わりなご要望には動じないと、キーリカ自身が思っていた。そのご依頼人にお会いするまでは。
 いやはや、後にも先にもあんな奇妙な注文を受けたことはなかったと、キーリカはずいぶん後になってから、親しい友人にそう漏らすことになる。

 その依頼主は、キリク王国の王女殿下であらせられた。
 ノーヤエリア・ロザンナ姫。当時で御年わずか十二歳の、まだ社交界にも出ておられない、王宮の奥でひっそりと大切に育て上げられたはずの、深層の姫君であった。
 初めて拝謁したときの姫君は、きらきらと輝く黄金の髪を流行の可愛らしい形に結い上げておられた。快活そうな印象の目はぱっちりと大きく、それを縁取る睫毛は長く、瞳はよく晴れた夏の空を思わせる青でいらっしゃった。肌は透けるように白く、体つきはまだ少女らしくほっそりとしていらっしゃったが、背筋を伸ばした立ち姿は凛としておられて、ちょっと大人びた青いドレスがよく似合っていらした。
 キーリカは芸術家の性というもので、目の前に現れたお可愛らしい姫君に思わず目を輝かせ、礼も忘れて馬鹿面さらして見とれていた。今はまだお可愛らしいという形容がお似合いになるが、いずれはたいへんな美姫におなりだろうと思われた。
 姫君は、ぼうっと突っ立っているキーリカの無礼を咎め立てされることもなく、ゆっくりと口をお開きになった。姫君の薄い唇の間から真珠のような白い歯がちらりと覗いたのを、キーリカはまだぼけっと見つめていた。
「お願いがあるのだけど」
 そのお声までもが凛としてお美しかった。キーリカはうっとりと聞きほれながら、ようやく床に膝をついて「何なりと」と答えた。姫君は鷹揚に頷かれて、
「わざと、ブスに書いていただけるかしら」
 そう、はっきりと仰った。

 王宮の中庭にしつらえられた石造りの長椅子に落ち着いて、キーリカは深い深いため息をついた。本物よりも美しく描けと命ぜられれば全身全霊かけて従うが、まさかその逆のご注文をなさるご婦人がこの世においでになるとは。
 芸術家の常で、キーリカには世情に疎いようなところがあるが、それでも絵のご依頼を受けて度々貴族のお屋敷に出入りしてきただけあって、権力者へ逆らうことの危険性は身に沁みて承知していた。今回も、喜んでご指示に従わなければならない。頭では分かっている。
 だが、魂が納得しない。嗚呼、仮にも芸術の道を志す者が、美しいものをわざと醜く描く日が来ようとは、なんと嘆かわしいことか!
 最初は、自分の聞き間違いかと思ったのだ。まさか宮城の奥深くで育てられたはずの深層の姫君が、よりによって『ブス』などという俗語をお遣いになるとは、夢にも思わなかったので。キーリカがぽかんと口を開いた間抜け面で「あのう……今、何と仰いましたか」と恐る恐る問い返したところ、姫君は絵師の無礼をお怒りになりはしなかったが、「わざと不器量に描いていただけるかしらと、お願いしたの」と、飲み込みの悪い人ねと言わんばかりの口調で繰り返された。言い回しが俗語でなくなっただけで、中身は何も変わらなかった。
 キーリカはその一瞬、我が身の置かれた状況も忘れて憤慨しそうになった。だが、いくらまだ年若い少女とはいえ、相手は正真正銘の王女殿下。まかり間違っても表立って反抗することが許されるお相手ではなかった。
 キーリカは姫君のご様子を思い返して、深く項垂れた。いったい何ゆえにそんなご無体なご注文をなさるのであろうか。高貴の方のただの気まぐれなのだろうか。もしもそうならば、姫君に何とか思いとどまっていただいて、見たままのお姿を描かせていただくわけにはいかないだろうか。
 顔を上げて、キーリカは中庭を散策される姫君のお姿を目で追った。絵を描く準備のためにと特に願い出て、姫君が日課としておられる食後の散策のお時間に、お姿を拝見させていただくことにしたのだ。仮にご注文どおりわざと醜く描くにしても、まがりなりにも肖像画と名のつくものを描く以上、まるきり似ても似つかない絵を描いても仕方がない。前もって姫君のお姿を何度か拝見して、多少の印象を固めてから筆をとるつもりだった。あわよくば、その間になんとかお気の向きを変えていただいて、普通に見たままのお姿を描かせていただくわけにはいかないだろうかという考えもあった。
 さて、初夏の陽光が差し込む中庭には、キーリカの苦悩の元凶であらせられる姫君が、繊細な織り模様の入った華奢な日傘を手に、花々の間を渡り歩いておられた。ときおり気まぐれに御手を伸ばされて、花びらをそっとお撫でになり、ひらひらと行き交う蝶を追っていらっしゃる。その後を二人の侍女が従い、時おり話しかけられる姫君に、何ごとか相槌を打っていた。
 キーリカの目には、姫君は単に決まった日課だからそうしておられるということではなく、素直に花々を愛でて楽しんでおいでのように見えた。画家の商売柄、そういった観察力はある方だ。
 それにしても、宮廷の庭園はさすがというべきか、陽の当たる角度まで計算されているかのような美観であった。今は花壇に初夏の花々が並んでいるが、よく見れば、他の季節にはその折々の花が咲き乱れるよう配置されているのが分かる。
 キーリカが姫君と庭園の景観とに交互に見とれていると、ふいに姫君がキーリカの方へ歩み寄っておいでになった。キーリカは長椅子から慌てて立ち上がると、石畳に跪いて頭を下げた。
「どうぞ、顔をお上げになったら? そんな堅苦しくしてたって、絵なんか描けないでしょ。滞在の間、私に礼はいらないわ」
 姫君は大人びた口調でそう仰った。キーリカが恐る恐る振り仰ぐと、青い瞳が興味深げな光を浮かべて、キーリカの手元をご覧になっていた。姫君はひょいと長椅子にお掛けになって、笑いながら仰った。
「絵描きの方って、いつも画帳を持ち歩いているものだと思ってたわ」
 キーリカは立ち上がって裾を払いながら、気まずい思いをした。せめて何か持ってきて素描のふりでもすればよかったのだが、あいにくと手ぶらだった。
「はい、ええと、他の絵描きがどういうふうだかは存じ上げませんが、私の場合は、まず先に描くものを目で覚えておきたいのです」
 キーリカはそう釈明した。本当のことだったが、なんとなく気後れして言い訳めいた響きになってしまった。
「まあ、それでは実際に描くときには見ないの?」
「いえ、下絵の時にもお姿を拝見したく思います。ですがその前に、ある程度の印象を目に焼き付けておかないと、うまく筆が進まないと申しますか」
「ふうん。もっとさらさらと描いてしまうのかと思っていたわ」
「はあ。醜く描くようにとの仰せでございましたけれど、あまりに似ても似つかない絵でも、その、障りがあるのではないかと」
 そう申し上げると、姫君はちょっとお考えになる様子になられたが、やがて頷かれた。
「そうね。嘘だってすぐにばれちゃ、意味がないものね」
「左様でございましょう」
 キーリカは大仰に頭を下げてから、ためらいがちに口を開いた。
「ところで、あの……例のご指示ですけれども」
「なあに」
「その、あまり美しく描いてはならない、という意味ではなく……」
「あら、飲み込みが遅いのね。そうじゃなくて、ちゃんとブスに描いていただきたいの」
 姫君はお綺麗な声にちょっと小憎たらしいような口調を乗せてそう仰ると、悪戯っぽく微笑まれた。
「左様でいらっしゃいますか……」
 キーリカは反射的に姫君に合わせて笑ったものの、思わず自分の頬が引き攣ったのを感じた。
 この感じはどこかで覚えがあるぞと考えたキーリカは、遅ればせながら記憶に思い当たって、ますます肩を落とした。子どもの頃、しっかり者だけれど生意気だった妹から仕事の要領が悪いと叱られていたのを思い出すのだ。
 まさかこんな感覚を、この王宮の奥で抱くことになるとは。深層の姫君という言葉に抱いてきた幻想が、自分の中でどんどん崩れていくようで、キーリカはただ内心で項垂れるしかなかった。
 これまで王侯貴族の肖像画を多く手がけてきた経歴から、王家の女性に拝謁する機会は過去にも何度かあったが、これまでに拝謁した王女殿下方は、おしとやかでお上品で繊細で、どこか秘密めいておられて、まさに下々とは一線を画した天上のお方という印象であった。それだというのにこちらの姫君は、これまで拝謁したどの姫君よりもお可愛らしいお姿をしておられるのに、この口の悪さ……いや、お言葉の選ばれ方。
 それでもキーリカは気を取り直して、せめて理由なりとお伺いしようとした。だが、生憎と姫君はご興味が逸れてしまわれたご様子で、長椅子からひょいと勢いよく立ち上がられた。
「じゃ、よろしくね」
 そう言われてしまえば頭を下げるほかなかった。キーリカは無念に思いながらも、ただ散策にお戻りになる姫君を見送った。

 木炭の欠片を動かすうちに白い紙の表面に躍動が生まれ、最初はただ線で描かれていただけだった肌が、少しずつ息づいていく。しなやかに伸びた腕は高く掲げられ、手首から先はまた繊細な織り模様の白い手袋へ。
 そういえば、キーリカが二年ほど前に訪れた東国では、男女を問わず高貴の方が顔以外の素肌を人目に晒すことは破廉恥な所業と思われていて、肖像を描いたご婦人方は必ず袖の長い衣服できっちりと体を覆っておられ、さらにその袖からは切れ目なく薄手の手袋がのぞいていた。その連想からキーリカが真っ先に思い出したご婦人は、とうにお子もお二人産んでおられ、体の線は衣裳越しに判る範囲でも女性らしく丸みを帯びていらして、それが大変お美しかった。それに対して、いまキーリカの画帳を彩る姫君のほっそりとした腕の線は、まだどこか頑なな少女のそれだ。だが、そこには成熟した女性の美とは趣を異にした、どこか儚い美しさがある。
 キーリカは己の身に降りかかった理不尽を嘆いて、何度目かの溜め息を吐いた。なぜわざわざ、せっかくお可愛らしいお姿を見ながら、それを醜く描くなどと言う不自然な行為をせねばならないのか。ほぼ三十年もの間、ひたすら美しいものを描くことに腐心してきたキーリカにとって、それはあまりにも苦痛を伴う行為だった。
 姫君のあのご指示はもしや、自らの美しさを誇ることを恥じる謙虚さの表れだろうかと、キーリカは手を動かしながらもぼんやりとそう考えた。だが、すぐに首を振る。どうもお話ししたときのご様子からは、そういうお心でいらっしゃるようには見えなかった。
 では、たとえば可愛らしいと誉め称えられることに飽き飽きしておられるとか。それは、あり得ることのような気がした。
 考え事をしながら手を動かし続けるキーリカは、後ろに近づく人の気配にまったく気づいていなかった。
「まあ。あなた、ちゃんと私のお願いを聞いていた?」
 キーリカは突然掛けられた声に、飛び上がらんばかりに驚いた。姫君がすぐ後ろから、キーリカの肩越しに画帳を覗き込んでおられた。
「いえ、その……そのままこれを肖像画の下絵にするつもりではないのです。つまり、練習といいますか」
 キーリカの言い訳に、姫君はそう、と相槌を打たれて、画帳の上の素描をまじまじとお見つめになった。
「ねえ。これ、ちょっと見せてもらってもかまわない?」
 そう仰る姫君の青い目は、楽しそうにきらきらと輝いておられた。キーリカは頷きながらも、躊躇した。
「ええ。ですが、御手が木炭で汚れてしまわれるかもしれません」
「かまわないわ。洗えばいいじゃない」
 姫君はあっさりとそう仰って手袋を外されると、キーリカの手から画帳をお受け取りになった。
 キーリカは姫君に椅子をお譲りして、自分の荷物から別の画帳を引っ張り出した。そうして少し離れたところの椅子に掛け、画帳を眺めておられる姫君の横顔を描き始めた。
「私、こんな顔をしているかしら」
 姫君は感心したようにそう仰った。その意外そうなお顔がお可愛らしくて、キーリカは思わず微笑んだ。
「そうですね、私の主観が入っておりますから、鏡でご覧になるのとは少し違うかもしれませんが」
「ふうん」
 姫君は一枚ずつ画帳を捲って、素描を真剣にご覧になった。キーリカはその姫君の表情を描き留めながら、何気ない口調を装って、お尋ねしてみることにした。
「あのう。醜く描くようにと仰る理由を、お教えいただくわけには参りませんでしょうか」
「絵を描くのに、そんなことが関係あるのかしら」
 姫君は画帳から視線を外されずに、さらりとそう仰った。
「はあ。醜くと一口に仰っても、どういう目的でそうされたいのかが分からなければ、どのような具合に醜く仕上げてよいか」
 キーリカがとぼけてそう申し上げると、姫君はちょっと首をお傾げになった。
「そうね。そんなに極端なドブスじゃなくてもいいわよ。どこにでも居そうな、ちょっと不器量な感じで」
「はあ……」
 仮にも一国の王女殿下が真顔でドブスとか仰るのはやめて欲しいと、キーリカは頭を抱えたくなって、必死で堪えた。
 ともあれ、姫君に理由を教えてくださるおつもりはないようだった。姫君はひととおり素描を眺めてしまわれると、それでお気が済まれたらしく、ぱたんと画帳を閉じられて、椅子からお立ちになった。
「じゃ、よろしくね」
 姫君はにっこりと微笑まれて、椅子の上に画帳を置かれると、さっさと扉へ向かわれた。その話に取り合われるおつもりはないということだろう。
 姫君の退出を見守るキーリカは、ただ項垂れて肩を落とすばかりだった。



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