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     筆を入れ始めて三日目には、絵は八割がた仕上がっていた。
     色を乗せ始めてからは寝食を忘れるような勢いで絵に没頭していたキーリカだったが、途中で一度絵の具を乾かしてから描き足したい部分が出てきたので、ようやく一旦筆を置くことにした。
     キーリカは一眠りして軽食を腹に入れた後、絵の具が乾くのを待つ間、居室に誰も立ち入らないようにと侍女に頼んで、夜風を求めて外に出た。夜間にうろうろして不審者と思われるのは面倒だと思う保身は、一応頭の片隅に残っていたが、日は落ち切っているとはいえ、まだ夜更けと言うほどの時間でもない。咎められはしないだろうと高を括って、侍女にひとことだけ掛けて、ふらふらと出てきてしまった。
     ずっと根を詰めて描いていたので、体中が強張っていたし、くたくたに疲れきっているはずだったが、気分が昂揚していて、むしろ足取りは宙に浮くようだった。
     さっさと何か口に入れて休むべきだと理性は告げていたが、胃は沈黙して腹が減っているのかどうかもよくわからなかったし、どうにも脳が興奮状態にあって、このまま寝付かれそうになかった。異常な状態には違いないのだが、夢中で絵を描いた後にはよくあることで、キーリカは慌てていなかった。
     青い月に照らし出された夜の庭園は、美しかった。
     キーリカが長椅子に掛けてしばらくすると、さっきまで止んでいた虫の声が響きだした。どうもそれは、キーリカの故郷では秋ごろに鳴き出す虫だったが、北国では事情が違うようで、まだ夏も盛りの頃なのにせっせと求愛の声を上げている。
     その虫の声が一瞬やんで、キーリカは眺めていた花々からぼんやり顔を上げた。それから、それが人が入ってきたからだと気付いて、慌てて目を凝らす。
     虫達は、新たな闖入者の存在に慣れたのか、またすぐに忙しなく鳴き始めた。
    「そう、陛下が」
     虫の音に紛れて遠くから聞こえてきたのは、姫君のお声だった。
     それに答える声は、キーリカにはよく聞き取れなかったが、相手がイサーク殿下であられることと、何の話題なのかは、なんとなく分かるような気がした。このままでは盗み聞きになってしまうと思ったキーリカは、気にはなったものの、そっと立ち上がると足音を忍ばせて反対方向に向かった。
    「おめでとうございます、お兄様」
     背中の方から、姫君がそう仰るのがかろうじて聞こえた。虫の音に紛れて微かにしか届かない声では、そこに込められた心情までは推し量れようはずもないが、キーリカには姫君が少し無理をして笑っておられるような、そんな気がした。

     翌日の昼、キーリカは絵の具の乾き具合を確かめながら、筆の手入れをしていた。もうすぐ侍女が軽食を運んでくれるようになっている。それを食べ終わったら、そろそろ続きを始めてもよさそうな頃合だ。
     部屋には絵の具や溶剤の臭いが充満しており、床には筆を初めとする雑多な道具類が散らかっている。侍女が片付けたそうな顔をしたのだが、使いやすい配置に置いているので、作業が終わるまで清掃を遠慮してもらっていた。
     高貴の女性はたいてい下絵が終わると画家になどお会いになりたがられないものだが、姫君はこの強烈な顔料の臭いをも気にされず、毎日作業の進展を見守りにおいでだった。
     この日もまた顔を出された姫君は、キーリカが数日ぶりに手を止めているのをご覧になって、歩み寄ってこられた。ここ数日は、入ってこられても静かに絵の進み具合をお尋ねになるだけで、集中しているキーリカに遠慮されるのか、すぐに退出されていたのだ。キーリカも、完成までは絵をご覧にならないよう、あらかじめお頼みしていた。途中で人の反応を目にすると、筆に迷いが出るからと。
    「まだ、出来上がってはいないのよね」
    「ええ。ですから、申し訳ございませんが、ご覧にならないでくださいね」
     笑顔でそう言って、キーリカは絵の向きを変えた。姫君はちょっと唇を尖らせておられたが、すぐに笑顔になられて「仕方ないわね。おとなしく完成を楽しみに待ってるわ」と仰った。
     キーリカに軽食を運んでくれた侍女は、手際よく姫君の分のお茶を用意して、その場で控えた。
    「ねえ、描き終わった後はどうするの?」
    「そうですね。今のところは他のご依頼もありませんし、しばらくはのんびり旅行でもしようかと。報酬も、ずいぶんたくさんいただきましたし」
     そのキーリカの言葉のとおり、約束された報酬は相場に比べてかなり多額のものだった。前金を既に受け取っているが、半金だけでもまだ多いと感じるくらいだ。そう申し上げると、姫君はお呆れになるようなお顔をされた。
    「それは、口止め料と迷惑料よ」
    「迷惑料、ですか?」
     キーリカは聞き返した。口止め料はわかる。わざわざ画家に姫君の絵を醜く描かせたなどという話が広まっては、民草のどんな憶測を呼ぶか分かったものではない。だが、迷惑という意味がよく分からなかった。まさか醜く描くのは主義にもとるという絵師の信念までは、高貴の方々は斟酌されないだろう。
    「あのね。何年か経って、私が公式の席に顔を出すようになったときに、貴方の信用が落ちるかもしれないでしょう」
     姫君のご説明を伺って、キーリカはああ、と相槌をうった。そこまでは思い至らなかった。
    「ああ、じゃないわよ。もしかして、気づいてなかったの?」
    「ええ、まあ。ですが、それも面白いかもしれませんね。また絵描きとして、一から出直しと言うことで」
     キーリカがそうあっさりと申し上げると、姫君は目を丸くされた。
    「呆れた。名声はどうでもいいの?」
     姫君がそう仰るので、キーリカはちょっと考えた。
    「そうですねえ……。好きな絵が描けて、たくさんの方に気に入っていただけて、有名になって、お金もたくさんいただければ、もちろん一番嬉しいんですが」
     キーリカはそう正直に申し上げた。
    「その割には平気そうね」
    「ええ。描いた絵が、人様に喜んでいただけるのはとても有難いのですが。それよりも、何といいますか、私はその絵をあるべき姿に描くことができれば、それで幸福なのです」
    「あるべき姿?」
    「ええ。絵を描いていると、自分がどう描きたいかということではなくて、この絵はこう描かれるべきなのだという姿が、ぼんやりと見えてくることがあるのです」
     姫君は首をお傾げになって、キーリカに話の続きを促された。
    「筆をとって二十余年、最近になってようやくそういう感覚がおぼろげに掴めるようになってまいりました。何分にもいまだ未熟者ですから、力及ばず、そのあるべき姿というのをきちんと完成させることも、なかなか適わないのですが……」
    「描きかけの絵が、こう描いて欲しいって訴えかけてくる、ってこと?」
    「そういうことなのかもしれません」
     キーリカは頷きながら、驚いた。どうして王家の姫君が芸術家の感覚を理解して話すのだろうと。聡明な姫君はキーリカの驚きの意味をお察しになったのか、悪戯っぽく目を輝かせて、秘密を打ち明ける口調で仰った。
    「私も、絵を描くことが好きだったの」
    「それは素敵ですね」
     キーリカは単純に嬉しく思ってそう言ったが、姫君はちょっと笑われたあとで、すぐに表情を曇らせておしまいになった。
    「でも、お作法の先生に駄目だって言われちゃった。絵画など、高貴な女性が描かれるものではございません。どうせ趣味でおやりになるなら、乗馬か刺繍でもなさいませ、だって」
    「ああ、なるほど」
     キーリカは納得して頷いた。ありそうな話だ。名が売れればこうして高貴の方々に呼ばれて絵を描くことはあるが、あくまで絵を描くのは下賤の者のすることだという意識は、身分の高い方々の間では当然のように根付いている。だが、姫君は首を横にお振りになった。
    「変な言い分よね。身分の高い人ほど喜んで画家に自分たちの絵を描かせるくせに、自分たちで描くのはみっともないというのかしら」
    「そうですね」
     キーリカは調子を合わせて頷きながらも、仕方のないことだと思った。権威や体制というものの体面を保つためには、色々と面倒な手順がある。
     そう思いながらも、キーリカは同時に、小さな芸術家の筆を軽々しく折ってしまう大人の理屈の無様さをも思った。
    「それでは、このキーリカから姫君に、小さな贈り物をしましょう」
     キーリカは笑って一旦席を立つと、己の荷物を漁って、まだ使っていない画帳を数冊と、木炭をいくつか取り出した。
    「本来であれば王女殿下に献上するような上等の品でなくて恐縮ですが。怖い先生に見つからないように、こっそりお描きになる分にはよいのではないでしょうか」
     そう言ってキーリカが画材を差し出すと、姫君は御手を伸ばされかけて、躊躇われた。
    「もう、絵の描き方なんて忘れたわ」
     だが、キーリカはゆっくりと首を横に振った。
    「お好きなものを、お好きなようにお描きになったらよろしいのです。殿下が、描いていて楽しいと思われるものを」
     姫君は、それでもまだちょっと迷うようなお顔をされたが、やがて恐る恐る、キーリカの手から画材をお受け取りになった。何事にも物怖じなさらないような姫君が、このときだけは、まるで何か貴重なものに触れるときのような手つきでいらっしゃった。
    「……お兄様が、絵を褒めてくださったの。ずっと昔だけど」
     姫君はそう仰って、ぎゅっと画帳を抱き締められた。
    「ありがとう」
     お顔を上げられた姫君の笑顔は、まるで花が咲くようだった。

     二日後、絵は完成した。倒れるように眠り込んだキーリカだったが、起きた後、改めて己の渾身の作を眺めた。当初はどうなることかと思ったが、これで過不足なしと、胸を張って言うことができる。
     ただ、それはキーリカの絵描きとしての感覚の問題であり、姫君の置かれた政治的な状況と必ずしも一致するとは限らない。姫君ご本人はきっと納得されるという予感があったが、国王陛下か王妃様がこれはいかぬと仰せになればそれまでの話だ。もちろん、まっさらから全然違う絵を描き直せと命じられれば、その通りにする。だが、できればこの絵を献上したかった。
     絵の出来に、キーリカは深く満足していた。手慰みに描いた絵よりも懇親の力作の方が必ずしもいい絵になるとは限らない。だが、それでもこれはと思える題材にひとたび出会えば、魂を削る思いで描く。絵描きとはそういうものだ。
     キーリカは絵の具の乾き具合を確かめると、画架に立てかけたままの絵に、絹布を掛けた。不足していた画材とともに、侍女を通して願い出ていたものだ。
     ちょうどそこに、姫君がおいでになった。
    「もう出来上がったの?」
    「ええ」
     姫君は画架を回り込んで、キーリカの隣にお立ちになった。
    「ねえ、完成したのなら、もう見てもいいでしょう?」
     姫君はそう仰ったが、キーリカは笑って首を横に振った。
    「明日にはお披露目をいたしますので、それまでもう少し、お待ちください」
    「いいじゃないの。ケチ」
     初対面のときのあのお言葉といい、お口の悪い姫君だと思いはしたが、キーリカはただ笑って、そのことには何も言わなかった。一介の絵師に、恐れ多くも一国の王女殿下に対してお説教をするような権利はない。
     それに、大陸には何十もの国々がひしめいているのだから、その中にお一人くらいは、口が悪くて女だてらに学術書をお読みになって、こっそりと隠れて下賤のもののように自ら絵をお描きになるような、そんな変わり者の姫君がいらっしゃってもいいではないかと、そう思ったのだ。

     お披露目の席で、キーリカは静かに絵から布を取り払った。
     絵の中の姫君は、王宮にある図書室の書架を背景に、軽く微笑んでおられる。
     その顔立ちは本物の姫君とは違い、お可愛らしいというような造作ではないが、しかし己の美醜など気にもかけぬといった様子で、誇り高く真っ直ぐに顔を上げておられる。前をしっかりと見つめる青の瞳が、深い知性と、それからほんの少しの悪戯心を伺わせていて、見る者の目には、その表情はけして高慢という風には映らない。
     この絵の少女は、顔立ちは多少違っていても、紛れもない姫君の絵だった。かえって見た目に美しい絵を描くよりも、これでよかったかもしれないとキーリカは思った。余人には賛否両論あるだろうが、キーリカの目にこの絵に載せた姫君のお心のありようは、美しく映る。
     絵をご覧になった姫君は、まあ、とお口を開かれたきり、しばし絶句して絵を見つめておられた。ご要望どおりの不器量な絵だ。姫君は「不器量に描いていただきたい」とは仰せになったが、美しく描いてはならないとは仰らなかった。
    「驚いたわ」
     姫君はそう仰ってから、キーリカを振り返られた。姫君のお顔に浮かんだ照れたような微笑みに、キーリカは自分の意図が姫君に伝わったことを感じた。
     イサーク殿下も姫君のお隣で、絵をご覧になった。驚いておられたが、絵の姫君を醜いとは仰らず、感心しておられるようだった。
     絵のお披露目には、王妃様もお立会いになられた。王妃様はまじまじと絵をご覧になった後、小さく微笑みをお浮かべになられた。
    「ありがとう。ご苦労様でした」
     王妃様から賜ったお言葉は、ごく簡単なものではあったが、そのお声に満足の響きを感じ取り、キーリカはようやく安堵して深く一礼した。

     キーリカが荷物をまとめて旅立とうとしていると、姫君が城門のそばまでお見送りにおいでになった。
    「それでは、お世話になりました」
    「ご苦労様でした。あの言葉、気休めでも嬉しかったわ。ありがとう、絵師さん」
     姫君が仰ったその言葉に、キーリカは笑って首を振った。
    「あの魔法は本当ですよ。自分で言うのもなんですが、私の絵には、そういう力があるんです。ものごとの本質を見定めることのできる方だけが、あの絵に惚れ込むんですよ」
     キーリカはそう言って、それからちょっと首を傾げた。
    「あとは、模写にもその力がちゃんと伝わるといいのですが」
     その言葉に、姫君は明るくお笑いになった。その表情は、年相応に見えた。キーリカは微笑んで一礼した。
    「では。どうかお元気で」
     そう申し上げて去ろうとするキーリカを、姫君はちょっとはしたないくらいの大声でお呼び止めになった。
    「ねえ、いつか私が嫁いだ先の国にも、絵を描きに来てくれる?」
     キーリカは振り返って、満面の笑みを浮かべた。
    「喜んで」

    (終わり)

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