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 次の日の同じ時間、集まった彼らは一糸乱れず整列して、中隊長を出迎えた。
「全員一致で、昨日のお話をお受けすることに致しました」
 ベルヴァルド隊長は、誇らしげにそう言った。
 中隊長はその顔をじっと見て、ゆっくりと頷いた。
 それから、中隊長は改めて全員の顔を見わたした。その顔にはやはり何の表情も無かったが、その目は一人ずつの視線をしっかりと捉えた。
「有難う」
 中隊長はそう言って、頭を下げた。雲の上の人と思っていた相手に頭を下げられて、ほとんどの者が呆然としていた。昔から中隊長と付き合いがあったのだろう古参兵の何人かだけが、その言葉を静かに噛み締めているようだった。
「なに、ちょっと先に行って、地獄で待ってますよ」
 ベルヴァルド隊長が笑いを含んだ声で、そう言った。
 小隊長がこの種の軽口を叩くところを初めて聞いたティグは、驚いてその背中を見つめた。
 ベルヴァルド隊長は、すぐに姿勢を正して、黙って敬礼した。
 それを受けた中隊長は、何か言おうとして口を開きかけたが、結局何も言わず、ただ答礼を返した。
 詳細を知らされていなかった全部隊に、詳細な作戦が通達されたのは、その次の朝だった。出撃の隊列と経路が念入りに打ち合わせされ、訓練は中止された。兵士達は一応、周辺の険しい山野を越えての奇襲を警戒しつつ、交替で休むこととなった。
 ベルヴァルド隊が任された任務については、次第に各小隊にも伝わっていったようで、進軍準備の合間を縫って、他小隊の面々が、もっとも危険な役割を振られた彼らを労いに来た。隊員達はそれに笑って答えた。生きて帰って来たら一杯おごれよと、そんな軽口が飛び交った。
 作戦前日、大部屋に集まって最後の打ち合わせを終えたあと、ベルヴァルト隊長が全員に一杯ずつ、上等の蒸留酒を振る舞った。他所の隊の者が、一体どこから仕入れてきたものか、差し入れてきたらしかった。
 本当は、もっと色々と貰ったのだが、呑み過ぎて肝心の明日に使い物にならないのでは話にならないからと、小隊長は笑って言った。残った分は荷駄隊の者に言い含めて預けた、生き残った者が居たら、全部そいつのものだと。皆が湧いて、誰も明日の夜に生きているとは本気で思っていないくせに、やけにはしゃいでいた。
 たった一杯の酒を嘗めるようにゆっくり飲みながら、隊員達は普段より余程明るく語り合って、戦友たちのため、故郷に残してきた家族のため、あるいは中隊長のために、命を投げ出して勇敢に戦うのだと、そういう幻想を共有した。それは、とっくに覚悟を決めたゆえのことというよりは、肝心なときに怖気づいて逃げ出さないための強がりかもしれなかった。
「できれば、一人でも多く生き残ってくれ」
 命を惜しんで恥を晒すなと言ったのと同じ口で、隊長はそうぽつりと告げた。
 しんみりしかけた空気を、ドレイク伍長が「残された酒のためにもな」と言って茶化した。
 翌日は朝から行軍だから、今夜は早めに寝るようにと言って、隊長は部屋を出て行った。予定地点は歩いて数刻ほどの場所だが、早い時刻について街道脇の山林に潜む必要があった。理屈では分かっていても、とても眠れるはずもないと彼は思ったが、酒が助けになって、寝台に潜ってそう経たないうちに眠りに落ちた。

 作戦そのものの成否を言うならば、大成功と言ってよかった。
 彼らは早々に予定地点にたどり着いて、敵軍の位置をはかりながら山林に潜んだ。そして夜を待ち、夜闇と木々とにまぎれながら、本隊からの合図を待った。
 敵軍が野営の用意を済ませて、少し経ったころだった。合図の小さな狼煙を見届けた彼らは、運んでおいた大量の灯りに一斉に火を入れて、大勢を装った。
 そうしておいて、ベルヴァルド隊の面々は、敵軍の野営地の側面から突撃した。正面からは、本隊が敵に向かっているはずだ。挟み撃ちされたと錯覚させ、混乱させるためのものだった。本当に部隊を分割して挟み撃ちにできるような兵力があればと、誰もが思っていたと思う。だが、誰も口には出さなかった。
 灯りによるかく乱に成功した上に、特に腕の立つ兵士が集まっていたとはいえ、たった三十人の一個小隊でしかないことには、ラクシュイ軍はとうとう気付かなかったようで、面白いように混乱した。敵軍にも徴兵されてしぶしぶ働いているような、戦意の薄い兵卒も相当数いたのだろう。けっこうな数の兵士が我を忘れて逃げ惑うようだった。
 それでも、当然ながらそういう弱兵ばかりではなかった。
 小隊の面々はかなりの時間にわたって奮闘したが、それでもやがて一人、また一人と倒れていった。
 彼は無我夢中で突撃する一方で、本隊が混乱した敵を退却させることができれば、それまで生き残ることができればと、頭の片隅ではそればかりを考えていた。ついに勇敢にはなりきれなかったのだった。
 普段の冷静な様子をかなぐり捨て、先頭に立って屍の山を築いたベルヴァルド隊長が、敵の手練れと差し違えに討たれたとき、残っていたのは、悪鬼のように楽しげな表情で戦い続ける疲れを知らない様子のドレイク伍長と、片足を負傷したウェインと、ティグの三人きりだった。
 その頃には倒した数よりも逃げた数の方が多かったとはいえ、敵兵の数も大分減っていたが、それでも三人ではもうどうしようもなかった。ドレイク伍長は、狙い通りだったのか偶々だったのか、残った敵の大部分を引き付けて、彼らから引き離すようにじりじりと場所を移していった。
 本隊が近くまで来ているのか、狂気じみた喧騒が少しずつ近づいてきているようだった。早く、と願いながら、彼らはひたすらに粘ったが、それまでだった。疲労から足をもつれさせてふらついた彼を庇って、ウェインが敵兵に切り伏せられた。
 最後まで面倒見のいい兄貴分が、倒れながらも、血泡の混じる声で「逃げろ」と確かに言ったのを、彼は聞いた。
 彼は咄嗟に何も考えず、敵に背を向けて山林へ駆け込み、走り出した。近くに残っていたラクシュイ兵のうち三人ほどが、背後から追いかけてくる気配があった。
 必死で走る彼の耳に、どこか離れた場所で、伍長がふてぶてしく笑う声が聞こえた気がした。
 生き残れと言った隊長の言葉に、逃がしてくれたウェインの最後の声に縋るように走りながら、頭の片隅では英雄になり損ねて恥を晒す気かと呟く自分がいた。一人でも多く倒して潔く死ねと。
 だが、できなかった。息を切らし、彼は必死で逃げ続けようとした。
 しかし当然のことながら、たいして逃げないうちに追いつかれた。間近まで敵の気配が迫ったとき、彼はようやく居直って振り返ると、恐怖でなく疲労で震える足をもてあましながら、片手に下げたままだった剣を構えた。
 真っ先に斬りかかってきた敵兵は、仲間を散々殺された挙句に走り回らされて、とても冷静とは言えなかった。それがティグに幸いした。
 出鱈目に振り回された敵の剣に左腕を咬まれたが、ティグが突き出した剣は、相手の首に吸い込まれるように入っていった。
 だが、そこまでだった。目の前の死体が崩れ落ちるのを待たず追いついた二人目の、すでに誰かの血に濡れた刃が眼前に迫ってきたとき、彼はまだ体勢を整えきれていなかった。
 ここまでかと諦めて目を閉じた彼に、しかし切っ先は届かなかった。
 やがて、冷たい刃が差し込まれる代わりに、暖かい粘性の液体が、ぽたりと彼の顔に降りかかってきた。
 恐る恐る目を開けた彼の前に立つ兵士の胸から、血に濡れた刃先が飛び出していた。
 苦鳴をあげて倒れ付すラクシュイ兵の背後に見えたのは、銀髪を血で赤黒く染めた、中隊長の姿だった。
 大尉は、どうやら己の剣を投げてティグを助けた代わりに、素手でもう一人のラクシュイ兵と渡り合っているようだった。空手で剣を持った相手と向き合っていても、その動きには迷いが無く、ほんの何秒かほどの格闘の間に、ラクシュイ兵は首を折られて地面に崩れ落ちた。
「中隊長殿……」
 彼は我に返って、感謝の言葉を口にしようとした。
 だが、すぐにその言葉を飲み込んだ。大尉の軍服の袖が大きく裂けており、その下の白い肌に走った傷から、新しい血が溢れていたのに気付いたからだった。
 今の格闘で傷ついたのだと悟って、ティグは青くなった。たかだか一兵卒である自分を庇うために傷を負わせてしまったということに、震えるような恐ろしさがこみ上げた。
「残ったのは、お前だけか」
 大尉は、冷静な様子でそう問いかけてきた。
「……はい。おそらく」
「そうか」
 ティグの返答に、大尉は唇を引き結んで、一度目を閉じた。だがそれ以上は何も言わず、すぐに顔を上げて彼の方に歩み寄ると、足元に転がるラクシュイ兵の死体から己の剣を抜いた。
 大尉はその拍子に、ティグもまた腕に傷を負っていることに気付いたようだった。
「腕は、動くのか」
「は……」
 ティグは答えかけて、息を呑んだ。
 しゅうしゅうと、奇妙な音が耳についた。
 大尉の腕の傷から流れる血が、何故か沸騰するように泡立って、そこから淡い桃色の肉が盛り上がっていくのを、彼ははっきりと見た。
 咄嗟に、声ひとつ出なかった。
 傷口の内側から盛り上がった肉の上を新しい皮膚が覆っていく。
 気付くと、破れた袖の下にはもう何事も無かったように、白い肌が覗いていた。
 あの大尉殿はけして死なない、殺されても生き返るのだと、いつだったかの同輩の言葉が、ティグの耳に蘇った。あれは、こういうことだったのか。ただの益体もない噂ではなく、この様を見た誰かが広めた話だったのか。
 彼は凍りついたように動けなくなって、ただ傷の消え失せた大尉の腕を、じっと見つめていた。
「――聞いているのか、ティグ」
 大尉が口にしたその言葉が耳に入ったとき、彼の頭からは一瞬、何もかもが抜け落ちた。
 中隊長と彼が直接口を利いたのは、このときが初めてだった。
 二百人からいる中隊の中でも最も下っ端にあたる彼の名前を、中隊長が覚えているなんて、これまで一度も思いもしなかった。
「あ……は、はい」
 我に返った彼がそう返答すると、大尉は頷いて踵を返した。
「じきに片がつく。迎えを寄越すから、それまでここにいろ」
 そう言うと、中隊長は踵を返して、街道の方へ歩いていった。
 彼は何も考えられないまま、ただその背中を見送った。

 待っている間、彼は仲間達の最後の様子を思い出した。実感のなかった胸に、ようやく悲しみが湧き出してきた。はっきりと倒れたところを見たわけでなく、いつの間にか姿が見えなくなっていた者も居た。伍長も、あのあとどうなっただろうか。誰か一人くらいは生き残っていないだろうか。
 改めて見てみると、左腕の傷は思っていたより深く、血がなかなか止まらなかった。彼は苦心して軍服の腕を割き、とりあえず不器用に肩口を縛って、血止めをした。
 結局は仲間に庇われて、生き延びてしまった。あれだけ大口を叩いておきながら。
 逃げろと言ったウェインの死に顔が思い浮かんだ。
 故郷の弟も、お前みたいに堅物で融通の利かない奴なんだと言って、ときおり懐かしそうに笑っていた。
 皆、気のいい連中だった。長く戦っている割にすさんだところがあまりなく、ドレイク伍長をはじめとして、よく楽しそうにティグをからかってきた。
 ティグは喉から思わずもれそうになった嗚咽を、必死で堪えた。辺りにラクシュイ兵が残っていないとも限らなかった。
 それほど長くは待たなかったと思う。やがて現れた見覚えのある兵士に声を掛けられて、彼は街道まで降りた。腕からの出血でいくらか血の気がひいてはいたが、肩を借りるほどではなかった。
 連れられていった先では、中隊長が待っていた。辺りに累々とする敵の死骸を避けた一画に、小隊の皆の遺体が並べられていた。
 ティグはそこで力尽きて、へたり込んだ。
 一人ひとりの顔を見る。苦悶に歪んでいる顔があった。やけに誇らしげな顔をしている者もあった。僅かに生存を期待していたドレイク伍長の遺骸も、やはりその中に並んでいた。
 ふと振り仰ぐと、中隊長もまた、狂おしいような光を宿す目で、じっと隊員達の亡骸を見つめていた。その顔にやはり表情はなかったが、部下の死に様を目に焼き付けようとしているように見えた。
 その目を見たティグは、唐突に、大尉は人間なんだと思った。
 何の根拠もない。だが、人と思えないような剣の腕があっても、瞬間的に傷が治る嘘のような体質であっても、得体の知れない化け物ではなく、人間なのだと。
 



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