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 隊の最後尾について、ティグは黙って歩いた。
 小隊は広場を出て階段を上り、二階へ向かう。さらに列の先頭が角を曲がって奥へ向かうのに気付いて、彼は眉を寄せた。この先にあるのは、士官が軍議に使ったりするような部屋だ。自分たち一兵卒には、縁のない場所のはずだった。
「中隊長殿。第四小隊、揃いました」
 ベルヴァルド隊長が、扉の向こうにそう声をかけるのが聞こえた。内側から入れ、という返事が微かに耳に届く。皆、扉の前で敬礼して、順に中に入っていった。
 彼は敬礼した後、思わず初めて入った部屋の中を見渡した。飾り気のない部屋は、思っていたよりも広い。中央には大きな机が置いてあり、それを囲むように無骨な椅子が並んでいた。三十人いる小隊がそれを避けて壁際に二列横隊で並んでも、部屋の幅には充分な余裕があった。
 軍服の肩に煌びやかな数々の略綬を縫い付けたまだ若い大尉は、手に持っていた書類を机に置いて、椅子から立ち上がったところだった。三十歳になったばかりだと聞いてはいたが、間近に見てみると、実年齢よりも更に若く見え、ティグは内心で驚いた。落ち着いた所作や表情の無さが歳を判りにくくしているが、顔だけを見たら二十代半ばほどにしか見えなかった。
 全員が整列して敬礼すると、大尉は軽く頷いた。声は何の感情も含まず淡々としていたが、よく通った。
「休憩時間にすまなかった。長い話になる、楽にしていい」
 中隊長がそう言うのを受けて、ベルヴァルド隊長が「休め」と号令をかけると、普段の訓練では見られないような一糸乱れない動きで、全員が姿勢を変えた。
 それを見た中隊長はもう一度頷くと、隊員達ひとりひとりの顔を見て、口を開いた。
「頼みがある」
 その言葉に、ティグは度肝を抜かれた。頼み。命令ではなく。
 動揺したのは、彼だけではなかった。誰も身じろぎひとつせず、息を呑みもしなかったが、それでも誰もが驚いているのが、彼にははっきりとわかった。
「後退していたラクシュイ軍に、再攻撃の動きがある。王都から、援軍が来たようだ」
 静かに、中隊長は告げた。伝令によれば、敵軍の規模は大きく、まともにぶつかっては勝ち目がない。このまま行けば、真っ先に会敵するのはこの砦にいる部隊で、他の部隊が充分に集結するまでには、ほぼ丸一日は持ちこたえることが必要だという。近隣の部隊は、可能性は低いとはいえ他の行路からの奇襲という不確定の情報が入ってきており、現段階でそれぞれの地域の警戒を怠るわけにはいかず、すぐに集結することができないとの説明だった。
「侵攻してくる時機も、大体の見当がついている。そこで、奇襲をかけるつもりでいる」
 その言葉に、ティグの肩は無意識に震えた。他の隊員達は誰も、ぴくりともせず、全ての神経を集中して中隊長の言葉を聞いているようだった。
 中隊長は、現在知りうる限りの敵軍の状況と、作戦の全体の概要を静かに語りはじめた。続いて注意すべき周辺の地理と作戦の細部、敵軍の動きに応じて変えるべき戦略の展開に、話は及んだ。
 通常は、下士官以上の部隊長たちを集めて語られるような内容だった。普段なら、彼らのような一般兵士には、作戦の直前にそれぞれの小隊長の口から簡単に説明されるような。
 淡々と説明される内容は詳細で緻密だったが、たいした学の無い兵士達にも分かりやすく、丁寧に噛み砕かれていた。そして、それは机上の空論などではなく、自分の中隊の詳細な戦力を、それぞれの小隊に出来ることと出来ないことを的確に承知した上での分析だった。ティグは聞きながら、鳥肌が立つのを感じた。
 この隊長が率いる部隊の損耗率が低い理由を、彼はこの日、初めて理解した。
「私が現在考えている作戦は、以上のとおりだ」
 説明が終わっても、まだティグは呆然としていた。内容はきわめて具体的であったにも関わらず、現実のことと思えなかった。
「奇襲部隊を、信頼して任せきれる部隊が、お前達しかいない」
 中隊長はそこで話を一度切って、再び全員の顔を見渡した。
「だが、命令はしない。断ってもかまわない。この案はまだ、大隊長殿に上申していない。別の作戦を採ることもできる」
 前代未聞の発言に、ティグは思わず、自分の耳を疑った。軍隊で、上官が命令しない、部下の意思に任せると、そんな話があるものかと思った。今度ばかりは、隊員達の間にかすかなざわめきが広がった。
「敵の動きが予想どおりならば、決行は三日後の夜になる。返答は今ではなく、明日の夜、今日と同じ時間にここで聞く。私はそれまでの間に、代案を用意しておく」
 そう話を締めくくった中隊長は、即座に何かを言おうとしたベルヴァルド隊長に、絶妙の間で視線を向けて止めた。
「以上だ。今から話し合うなら、この部屋を使っていい」
 中隊長はそう言って、机の上から資料を取った。その中から地図を一枚だけベルヴァルド隊長に手渡すと、背を向けて部屋を出て行ってしまう。全員が、直立し、敬礼したままそれを見送った。
 部屋の扉が閉められ、足音が遠ざかってから、ベルヴァルド隊長は隊員達の方を振り返った。その顔には先の話を断る意思など、欠片もないように見えた。
「断って尻をまくろうなんていう意気地のない野郎は、まさかいないだろうな……と、言いたいところだが」
 ベルヴァルド隊長はそう言って深い溜め息を落とすと、その場にどかりと座った。
「中隊長殿のご好意を汲んで、全員の話を聞こう。お前らも適当に座れ」
 隊員達は互いの顔を見合わせ、戸惑いながら床に直接腰をおろした。部屋の中央に会議机が置かれているのに滑稽なようだが、取り澄まして机を囲む気には、たしかになれなかった。
「もともと今は休憩時間だ、皆、腹を割って話そう。言いたいことを好き放題言っても別に軍規違反にはならない。まだ何も命令されちゃいないんだからな」
 隊長はそう言うと、全員の顔を見渡した。
「降りたい奴はいるか」
 ベルヴァルド隊長の問いかけに、誰もすぐには答えなかった。
「……まず間違いなく、全滅するだろうな。まあ、名誉の戦死ってやつか」
 ドレイク伍長が、普段の軽口とまるで変わらない調子でそううそぶいて、にやりとした。
「名誉、なあ」
 釣られて、何人かが苦笑する。もう覚悟が固まったような顔をする者もいれば、まだ実感が追いつかないでいるティグのような者もいた。
「断ったら他の方法を考える、か。……他の作戦って、なんだろうな」
 別の隊員が、ぽつりと言った。皆が沈黙する。
 代案を用意すると、中隊長は確かに言った。だが、今日説明された作戦が、一番犠牲が少なくて済むと判断したからこその、あの言葉だったのだ。それは、深く考えなくともよくわかった。
 降りた沈黙を破るように、ベルヴァルド隊長が、静かに言葉を落とした。
「……大尉は、わざわざ他の小隊の耳に入らないようにして、時間をくださったんだ。ああ仰ったからには、本当に断っても、何の処分もされない。そういう方だ」
 それでようやく、ティグの胸中にも、すとんと何かが落ちるように現実感が降りてきた。そしてやっと、突然休憩時間に呼び集められたことの意味が理解できた。
 正式な命令が下されれば断れないのはもちろんだが、この話がもしも他の隊の耳に入るところでされていたならば、彼らに逃げ場はなかったのだ。彼らが自分達の命を惜しんで、そのために更に犠牲が増えると思しき作戦を取ることになれば、それはずっと続く汚名になっただろう。戦場での不名誉は、矜持だけの問題ではない。戦地で危機に陥ったとき、他の隊の援護をまともに受けられるかどうか、そういうことにさえ直結するのだ。
「命令してもらった方が、気が楽だったよなあ」
 笑いながらそう軽口を叩いた者がいた。だが、やめようとは、誰も言い出さなかった。
 ティグ自身はと言えば、早々に死ぬ覚悟など決まるはずもなく、他の隊員たちが数日後の死をすでに受け入れ始めたのを、驚きながら見ていただけだった。
 隣に座っていたウェインが、ふとそんなティグの顔を見て、唇を開いた。
「こいつはいいんじゃないですか」
 隊長に向かって言ったウェインの言葉に、ティグは驚いて顔を上げた。
「たいした役に立ちゃしない、ひよっこです。こいつ一人くらい居なくたって、何とでもなる」
 ウェインは、ティグの方を見ずにそう続けた。口は悪いが、彼なりの気遣いだったのだろう。ただ単にこの中で一番若く、哀れだからというのでは、軍隊の中では理由にならないから。
「……そうかもしれないな」
 ベルヴァルド隊長は、口の端を緩ませて頷いた。ティグは慌てて立ち上がった。
「自分はやれます。ちゃんと、役に立って見せます」
 言いながら、ティグは自分の発言に驚いた。これではまるで、死にたがっているようだと。だが、撤回する気は起きなかった。
 隊長は、ティグを宥めるような微笑を浮かべて、首を横に振った。
「……いや、ウェインの言うとおりだ。お前一人いなくても、作戦は何とかなる。それなら無駄に死ぬことはない」
 二人の言うとおりだ、何で死に急ぐ必要がある、と、胸中でもう一人の自分が囁いた。だが、それを無視して、ティグは言い募った。
「待ってください! 一人だけ生き延びて、ずっと後悔しながら生きるなんて、そっちの方がよっぽど御免です!」
 ティグが勢い込んで言った言葉に、ベルヴァルド隊長は迷うような視線を寄越した。
 彼に退く気はなかった。ここで一人逃げたら、誰が責めずとも、自分が自分を責めずにはいられないだろう。おそらくは、生涯。そういう気持ちの方が、死への恐怖より少しだけ強かった。
「そうだよなあ」
 誰かが、ふと笑いながら同調した。
「……わかった」
 隊長は、小さく溜め息をついて、頷いた。
「お前はいいのか?」
 古参兵の一人が、隣の人間を肘でつついた。聞かれたほうは、ダルガという名の、年嵩の上等兵だった。普段は寡黙な男だが、酔うとよく、故郷で待つ若い妻と、遅くにできた子どもの話をしていた。子どもが産まれる直前に徴兵に取られ、故郷から遠い戦地に配置されてしまったせいで、まだ一度も子どもの顔を見ていないのだという。かろうじて何度か届いた手紙で、もうじき三歳になるはずの子どもが男の子であること、どうやら彼に似ているらしいということを知っているだけだと。
 徴兵に取られて家族から遠く引き離され、挙句に死ぬと分かっている命令を受けた彼の無念はいかばかりだろうかということに、ティグはやっと思いいたった。故郷が戦地に近く、いつ戦火に呑まれるかという思いから自ら志願して参戦した自分とは、状況が違う。
 だが、ダルガは即座に首を横に振った。
「俺は、中隊長殿に何度も命を救われている。あの方がおられなければ、とっくに死んでいた身だ。断るつもりは毛頭ないよ」
 そう言い切る声に、躊躇いはなかった。
 どいつもこいつも死にたがりばかりかと、ドレイク伍長が明るく笑った。それに釣られて何人かが笑い声を上げた。
「降りる奴はいないか」
 ベルヴァルド隊長がそう改めて問いかけたが、誰も手を挙げるものは無かった。初めは戸惑っていた顔ぶれも、覚悟を固めたのか、もう、どの顔にも迷いは無かった。



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