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  ふと夜中に目が覚めて寝付けなくなった男は、穏やかな眠りを諦めて寝台から降りると、同じ部屋で寝ている孫の顔を、月明かりに覗き込んだ。
 つい先に七つになったばかりの孫は、何かいやな夢でも見ているのか、生意気にも一丁前に眉を寄せて、歯軋りをしていた。
 男は微笑んで、孫の足元に蹴散らされた掛け布を引っ張りあげて着せ掛けると、ふと視線を孫から外して窓辺に歩み寄った。
 空高く昇ったほの蒼い月が、静まり返った街の静寂を照らしあげている。
 男は月に惹かれて、寝台の端にひっかけていた上着を羽織ると、孫を起こさないように気遣いながら、静かに部屋を出た。明かりを灯せば息子夫婦まで起きだすかもしれないと、暗い中を壁伝いにそっと歩く。
 玄関を出て、男は家の外壁にもたれかかると、よく晴れて澄んだ夜空を見上げた。今夜の月は、普段よりもさらに蒼く冴え渡っているように見える。
 空に浮かぶ月が蒼いのは、月面上に広大な海があるからだと、つい何年か前に異国の学者が、なにやら大層な演説をぶっていた。何でも青い部分が海で、日によって見え方が違うまだら模様が、雲だったり大陸だったりするのだという。途方も無い話だ。
 あの夜空に浮かぶ小さな円盤が、この大地のはるか上空に浮かぶ巨大な天体であるということさえ、年寄りの固い頭には理解しがたいというのに、その表面に海まであって、そこには魚や藻や何かが生きているかもしれないだの何のと言われても、まるで子どもに読み聞かせるおとぎ話か何かのようにしか思えない。
 そんな空想めいた話は、男には、どう説明されても納得がいかないような気もする。だが、どんなに笑ってしまうような途方もない話でも、事実としてある場合はあるのだということも、男は既に知っている。
 そう、例えばかつて戦場で出会ったあの大尉のように。
 蒼い月に誘われて、男の心は遠い昔へと旅立つ。
 この街からは歩けば五日ほどかかろうかという辺り、北の山あいを抜ける街道近くの、かつて多くの人命が失われた戦場へと。
 この街で生まれ育って、人生の大半をここで過ごしたはずなのに、こういう夜に鮮明に思い返すのは、いつも遠い戦地のことばかりだった。

 戦況は、その地点においていうならば、膠着していた。
 史上稀に見る大戦の始まりから、すでに十年以上が経っていた。各地で数え切れないほど起きた戦闘。その時々の勝敗は様々であったものの、全体としてみれば、彼が所属していた帝国軍の側が、おおむね優位を保っていた。
 結託して攻め入ってきた各国の連合軍のうち、もっとも最後まで激しい抵抗を続けたのが、ラクシュイ王国軍だった。その頃には他の国々はすでに降伏しているか、あるいはまもなく滅ぼされようとしているか、そうでなければ撤収のきっかけを模索しはじめており、ラクシュイと国境と接する地域においての戦闘のみが、終わる気配を垣間見せることもなく、熾烈に続けられていた。
 志願して徴兵年齢に達する前に軍に入った彼、ユーナート・ティグが、半年間の訓練を終えて配属されたのは、その戦線にほど近い砦だった。
 この砦には八百人余で編成された一個大隊が詰めており、近隣のいくつかの砦や街には、同様に各軍が駐留していた。
 その辺りは彼の故郷にも程近く、かつてはラクシュイ領だったこともある地域で、往年よりラクシュイとの主要な交易路として使われる街道に接していた。
 戦時中には、頻繁に起こる戦闘のために一般人の利用を禁止されていたその道は、もう百年以上も前から、山あいを抜けるように広く整備されている。他にも多少離れたところにいくつかの街道が通っており、それらの街道を使わず国境を越えるすべについては、地理に詳しい地元の者ならば歩いて山野を抜けるやりようもあった。だがその方法は当然ながら、糧食と装備を担いだ軍勢を進めるには全く持って向いておらず、このため大体においてラクシュイ軍との戦場となったのは、これらの街道のどこかだった。
 当時では一番の激戦地に配属されたとはいえ、彼の所属する隊も始終戦闘に明け暮れていたというわけではなかった。両軍ともに、互いに疲弊しては一時矛を収め、ひとときの休戦を挟んではまた争うということをくり返していた。
 今にして思えば、連合軍と帝国側の戦力が拮抗していたことが、悲劇のもとだったのだ。どちらかが圧倒的な戦力をもってさっさと決着をつけていれば、戦勝国と敗残国との間に起こる不幸な摩擦はあったにしても、あれほどの人命が浪費されることはなかっただろう。
 あの長い長い戦争で命を落とした人は、敵味方の兵士と非戦闘員とを問わずに数えれば、実に十万人近くにのぼったと聞いたのは、終戦のあとのことだった。

 それは、彼が前線に配置されて、三か月ほどが経った頃のことだった。そして、ラクシュイ軍との間に何度目とも知れない停戦が訪れて、ようやく半月程になる頃でもあった。
 いつ破られるか分からないような心許ない約定ではあったものの、兵士達はつかの間の休戦を喜んでいた。戦場でこそ血湧き肉躍る、辛いばかりの訓練などクソ喰らえと言わんばかりの者も少数ながら確かに居たが、大半の者は飢えたり恐怖に震えたりしながら戦場に立つよりは、ただ苦しいばかりで命を落とす心配のほとんどない訓練のほうがよほどマシだと思っていた。このまま政治的な何か局面の変化がおとずれて、なしくずしに戦が終わってくれないかと、そういう空気が広がっていた。
 早朝から日の落ちるまで休み無く続いた厳しい訓練が終わり、夕食を終えた後にやっと訪れた自由時間。
 彼は、部屋に戻って休もうとする人の流れに逆らうように、一人広場の方へ向かっていた。
 砦はほんの数刻も行軍すれば国境にたどり着くような場所にあったため、停戦中であっても、絶えず微かな緊張感が、砦じゅうにくもの糸のように張り巡らされていた。だが、この時間ばかりは、砦の中を行き交う兵士達の顔つきも、さすがに緩んでいたようだった。
 緩むのは表情ばかりではない。大真面目に訓練の内容などを反芻する者は少なく、緊張感の無い馬鹿話や品の無い猥談、果てには愚にもつかないような怪談までが、そこここを飛び交っていた。
 彼は、そんな中を足早に歩きながら、聞くとも無く周囲から漏れ聞こえる会話を耳に入れていたが、ふとその中に混じったやけに気真面目そうな声が“死んでもすぐに生き返る”と言ったのを聞いて、眉を顰めた。話の内容に、心当たりがあったからだ。
 通り過ぎざまだったので、詳しい話までは聞こえてこなかったが、十中八九、彼が所属する第一中隊の隊長である、ディランス大尉にまつわる噂話だ。
 あの大尉殿はけして死なない、殺されても生き返るのだと、そう真剣な顔で語る同輩の話を初めて聞いたとき、彼は呆れかえって、はいはいと適当な相槌を打った。大陸の中央にある山の天辺では巨大な竜が火を吹いているし、満月の夜に狼になる人間は確かにいるし、中隊長は死んでもすぐに生き返る。なんでもお前の言うとおりだろうよと。
 茶化された同輩は顔を真っ赤にして怒っていたが、彼は真面目に取り合わなかった。たとえ噂の大尉殿がどれだけ腕が立ち、兵の尊敬を集めていようと、一人の人間の英雄然たるを大げさに吹聴したがる兵隊達の風潮に、ややうんざりしていたからだった。
「死なない人間……ね」
 彼は口の中で呟いた。子どもに聞かせるおとぎ話にそういうのがあったと、思い出しながら。あれは確か、暴虐の限りを尽くした不死の怪物が何かのきっかけで己の行状を悔いるようになり、死ぬ方法を求めて彷徨うというような話だった。
 そんなものはただの寓話だ。死なない生き物などという馬鹿馬鹿しいものが現実にいてたまるかと、彼は胸中で毒づき、溜め息を落とした。
 件の大尉は、士官ではきわめて珍しい例外の、一兵卒からの叩き上げだと聞いた。それもまだ若く、軍に入って十年ほどにしかならないという。感情の欠片も伺えない無表情のまま、瞬く間に多くの敵兵を斬り殺し、最小限の犠牲で勝つためには残虐な手段も平然と選ぶ。軍功目覚ましく、皇帝陛下よりいくつもの勲章を賜り、どんな過酷な戦場からも必ず生きて帰ってきたという、ほとんど伝説のように語られている人物だ。どこまでが事実で、どこからが誇張された話なのか区別がつかないが、そうした風聞が殺されても死なないという奇怪な噂に繋がったのだろう。
 戦地で流れる噂話や怪談には、一種独特のものがある。明日をも知れない恐怖がそうさせるのか、豪傑の武勇伝はこれでもかと誇張して語られ、突然戦場に現れて敵味方の区別なく気の済むまで殺しては姿を消す黒い影の噂だとか、苛烈な戦闘のあった跡に夜な夜な現れて死んでも戦い続ける亡霊たちの怪談だとか、果てには殺されても生き返る士官などという話まで飛び交う始末だ。
 ティグも一度だけ、遠目にその大尉が戦う様子を見たことがある。この若き中隊長は、戦闘の前には緻密な作戦を立て、各小隊長と入念な打ち合わせを行うが、数多くの合図の方法を決めたあとは、自ら先陣を切って敵陣へ斬り込んでいく。ほとんど白髪に近い淡い銀髪と、北方の出身と思われる色の白い肌を、返り血で真っ赤に染め上げて戦う姿には、凄まじいものがあった。その戦う姿を見て恐怖を覚える者は、敵軍だけでなく味方の中にも多かった。
 彼もそれを見ていたので、死なないだの人間ではないだのと、益体も無い噂を立てる兵士たちの気持ちも、実のところ、全く分からないわけではない。
 だが、亡霊だの化け物だのと、そんなものは、恐怖に怯えるあまりに見る錯覚か、禁止されているのに必ず誰かがどこからか手に入れてくる麻薬が見せる幻覚の類に決まっている。それを心弱いとは言わないが、そんなものに振り回されて大真面目に触れ回っているようでは、きっと先は長くない。少なくともこのとき、彼はそう思っていた。

 それにしても、と、ティグは溜め息をついた。皆がやっと訪れた自由時間を満喫しているところに、理由の分からない呼び出しをくらうのは、あまりいい気分ではない。
 つい先ほどのことだった。
 訓練を終えて疲れきっていた彼は、中庭の井戸水で身体を拭くと、ひとり大部屋に戻っていた。
 同じ小隊の面々は、ほとんどが何年もこの隊で鍛えられている者ばかりだった。彼らも疲れていないわけではなかっただろうが、一刻も早く休もうとすぐ部屋に戻ったのは、新米である彼ひとりだった。
 そうして、今日はもう何も考えずに休もうと寝台に倒れこんだその矢先に、彼が所属する小隊の隊長であるベルヴァルド少尉がみずから大部屋を訪ね、集合がかかったので広場に向かうようにと告げたのだった。
 今は敵軍もまだ遠いと聞いていたため、このときの彼はいくらか油断していた。それが突然の招集とは、まさか敵の奇襲だろうか、これから戦闘があるのかと、思わず顔を青くした。それを察したのか、小隊長は首を振って、中隊長殿から我が隊にお話があるそうだ、と補足した。
 自分は他の連中を探してくるから、お前は先に広間へ向かって待て。そう告げた小隊長は、ほかの連中を探すために、足早に去っていった。
 それを見送った彼は、ほぼ条件反射で命令に従い、脱いでいた訓練服の上着を着こんで、何を考えるよりも先にとにかく部屋を出た。そして廊下を急ぎながら、疲れきった頭が少しずつ動き始めて、やっと不機嫌になりはじめたところだった。
 上官の命令に即座に従うのは当然で、これが命のかかった緊急事態ならば、疲労がどうのと言う場合ではないが、理由を聞いてみればただ中隊長からのお話があるという。それは果たして、自由時間に呼び出されてまで聞かされなくてはならない何かなのか。
 そう苛々と考えたあと、遠目にしか見たことのない中隊長の顔を思い浮かべ、彼は思い直して首を振った。
 まだ若い大尉は、くだらない噂の数々はともかくとしても、英雄であることは間違いなかった。敵だけではなく、ときに味方にも冷酷にふるまい、人間らしい温かみをほとんど見せない人物だが、その尋常でない剣の腕と知略とで中隊を勝利に導いてきたことは、ただの噂話ではなく、確かなことだ。机の上でしか戦争を知らず、くどくどと糞の役にも立たない精神論ばかりを並べ立てて兵隊達をうんざりさせることを喜びとするような、中央から来たお偉方と、同じようなことをするとは思えない。ならば、呼び出されるだけの何かがあったのだ。
 そう思い至った途端、彼は不安に駆られた。全部隊ではなく、彼の所属する小隊に集合がかかっている意味は何だろうか。特別に褒賞を受けるような訓練中の功績があったわけでも、逆に処罰を受けるような失態があったわけでも、ないと思う。
 広間に着くと、隊の半分ほどが隅の方に集まり、まだ整列せずにだらだらと輪になっていた。
 警戒時にこんな調子でいれば叱責どころか厳罰ものだが、今は矛を収めて国境の向こう側に駐屯しているはずの敵軍との間には相当な距離があり、また、訓練を終えて休憩時間に入ったところの、何も知らされないままの呼び出しでもある。緊急時の警報でも鳴れば事情は別だろうが、すぐに全員が揃わないのも無理は無かった。
「おう、来たか」
 中の一人が彼の方を振り返り、半歩動いて場所を空けてくれた。ウェインという名の兵士で、小隊の中では彼の次に新米ということになる。それでも配属されて二年近くになると言っていたか、入れ替わりの激しい最前線の兵ということを考えれば、新入りという時期ではない。
 それにしても、これほど隊員の入れ替わりが少ない隊は、めったにないと聞いた。ベルヴァルド少尉が率いるこの小隊の面々がとりわけ優秀ということもあったが、中隊全体での損耗率も、他の隊に比べると遥かに低かった。冷徹で恐れられる中隊長が、その一方で英雄視されている最大の理由が、それだった。
「遅くなりました」
 彼が敬礼して輪の端に加わると、隊員達ははどことなく落ち着かない様子でざわめいていた。
「一体、何の話なんだろうな」
 ウェインがそう話を振ってきたが、彼はそんなことを言われてもと、困惑した。この隊に配属されて長い面々にも分らないことに、まだここにきて三ヶ月ほどにしかならない自分が察しをつけられるはずもない。
「自分には見当もつきません」
 困った彼が正直にそう言うと、ウェインはそうだよなあ、と肩を竦めた。
「ティグ、お前、何か悪さでもしなかっただろうな」
 古参兵の一人が、にやにやしながら彼に話しかけてきた。
「自分は、軍規に触れるようなことは何もしておりません」
 彼は思わず言ってから、その相手の階級が伍長であることを思い出した。反抗的な態度だったかと青くなりかけたが、ウェインが苦笑しながら彼の肩をたたいた。
「ドレイク伍長。真面目な奴なんですから、あまりからかわないでください」
 そう言うウェインの表情は、まるで弟を見る兄のようだった。実際に、故郷に彼と同じ年頃の弟を残してきたのだと、いつか言っていた。彼がどこか弟と重なるようで、放っておけなかったのだろう。ただ新米の面倒を見るのを押し付けられたからというだけでなく、いつも何くれとなく気に掛けてくれていた。
「はいはい。……それにしても、あんまりいい話じゃねえような気がするなあ」
 そう言って笑みを消すと、伍長は不吉なことを呟いた。
「普通は作戦のことなら隊長だけ呼ぶだろ? 何でまた、うちの小隊だけ全員集合なんだ。お偉いさんの有難い訓示でもあるんなら、中隊全部、きっちり集めるだろうし」
 そうだな、と他の隊員も頷く。不可解な招集だった。
 全員が何となく静かになった。
 それから誰が言い出すともなく自然と列を作り出し、普段の訓練開始時と同じ二列縦隊になって、残りの隊員を待った。ばらばらに姿を現す隊員達に続き、やがて小隊長が到着し、「ご苦労」とひとこと皆をねぎらって、列の前に立った。
 それほど待たずに最後の隊員が、ばつの悪そうな表情で小走りに駆けてきた。
「全員揃ったな。場所を移す」
 ベルヴァルド隊長はそう言うと、背を向けて、行き先も告げずに歩き出した。顔を見合わせる者もいたが、誰も何も言わず、隊長の後に続いた。



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