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 やがて、大隊本営から合図の狼煙が上がり、彼らは一応の警戒態勢を残し、砦へと撤収した。
 帰り道に聞いた話によると、敵はかなりの距離を撤退しており、仮に間を空けず再侵攻を図ってくるにしても、後続の各部隊が集まるまでの時間はどうやら稼げそうだった。
 腕の傷は、戻ってすぐに手当を施された。出血は多かったが、幸いにも腕が使えなくなるようなものではなかったし、利き腕でないこともあり、少し経てばすぐに戦線に戻れる程度のものだった。
 その夜、戦勝を祝うささやかな酒宴が開かれた。敵軍が受けた被害と撤退した位置の距離を考えると、まず夜襲を受けるような見込みはなかったが、それでも現地に残った警戒部隊からの合図を見落とさぬよう籤で見張りが決められ、それ以外の者達は酒を酌み交わして生き残ったことを喜び合い、あるいは失った者たちを悼んだ。
 彼も、過去の戦闘の後にはそうした場面にも必ず顔を出していたが、今回ばかりはとても騒ぎの中に身を置く気にはなれず、すぐに抜け出した。
 広間を出て部屋に戻る途中、彼は小さな窓から明るく差し込む青白い光に気付いて、夜空を見上げた。その日は月が明るかった。
 ふと蒼く照らされた地面に視線をおろした彼は、砦から少し離れた草原に、ぽつりと一人座っている人影に気付いた。こちらに背を向けているその人物の、月の光を受けてほの蒼く見える銀髪は、見覚えのあるものだった。
 中隊長殿……。
 昼間の光景を思い出して、彼は身震いした。むせ返るような血の匂いが、鼻腔の奥に蘇った。瞬時に治った傷口、返り血に塗れた姿、何事も無かったようにこちらを見下ろした、表情の無い顔。
 こみ上げた恐怖を振り払おうと首を振って、彼は改めてその姿を見下ろした。
 一体何をしているのかと、こちら側に背を向ける格好でじっと草原に腰掛けている姿をしばらく見ているうちに、ティグは突然思い当たった。その視線の先は、今日の戦場の方を向いているのだ。
 そして、大尉が彼の名を覚えていたことと、すぐに記憶が繋がった。おそらく、ティグがあの小隊にいたから覚えていたのではなく、二百余名の中隊の、それもたびたび入れ替わるその顔と名前を、全て把握しているのだ。
 きっと今、大尉は自分と同じものを悼んでいる。状況の割には損害は軽かったものの、けして少ないとはいえない数の戦死者と、多くの敵を引き付けて全滅したベルヴァルド小隊の、多分一人ひとりを。
 それに気付いた途端、恐怖がすっと胸のうちから消えたような気がした。
 ティグはふらりと足を外に向けた。

「中隊長殿」
 近づきながら声をかけると、大尉は足音でとっくに接近する者があることに気付いていたのだろう、驚く様子も無くゆっくりと振り向いた。
「今日はご苦労だった」
 これまでに聞いた言葉とはまるで違うとても穏やかな声音で、大尉はそう言った。その声の柔らかさが、ティグには意外だった。
「いえ……自分は、何の役にも立たず」
 そう頭を下げると、中隊長は微かに首を振った。
「馬鹿を言うな。よく生きて帰ってきてくれた」
 表情は無かったが、その声には真情が篭っているように思われた。
 後悔しているのですかと、思わず問いかけそうになって、ティグは慌てて口をつぐんだ。
 長く仕えてきた部下に、死ねというのと変わらない指示を出したことを、悔いていますかと。
 聞かずとも、答えは分かっている。後悔などするはずがない。作戦は成功だった。おそらく他のどんな方法をとるよりも、犠牲者の数は少なく済んだ。
 だが、彼はそれを非難する気にはなれなかった。部下の亡骸をじっと見つめていた、あの目を思い出していた。
「どうして、こちらに?」
 飲み込んだ問いかけの代わりに、そう訊ねると、中隊長は微かに微笑んだ。
「私がいつまでも宴席に居ては、皆がくつろげないだろうからな」
「そんな」
 咄嗟に否定しながらも、彼はその表情に見入った。
「作戦中でも訓練中でもないのに、そんなにかしこまらなくていい。座ったらどうだ」
 直立したままだった彼に、大尉はそう声を掛けた。素直に従って腰掛けながら、ティグは大尉の左腕をちらりと横目に見た。今は服の下に隠れて見えないが、きっとその腕には、もう傷あとひとつない。
 あの噂は、根拠のない馬鹿げた妄想などではなかった。本当に何をしても死なないのかは、分からないにしても。
「今日は、助けていただいたのに、大変なご無礼をいたしました」
 今更ながらも謝意を述べようとしたティグを、大尉は手を挙げて遮った。
「可能な限り部下を守るのは、上官の義務だ。君が気にすることは何もない」
 その声音の穏やかさに、胸が詰まるような思いがした。
「……あの、お聞きしてもよろしいでしょうか」
 彼は恐る恐る、そう口にした。大尉は何も言わず、ただ視線で言葉を促した。
「その、中隊長殿の体質、は……」
 それ以上の続きを口に出せず、彼は言葉に詰まった。
 大尉はすぐに答えず、しばらく蒼い月を見上げて、何か考えているようだった。
 このまま黙殺されるのかと、ティグが諦めかけたころ、大尉は視線を落として、ぽつりと答えた。
「呪いのようなものだ」
「呪い……」
 くり返したティグに微かに頷いた大尉は、何を考えているのか分からないような無表情に戻っていた。
「死を奪う呪いだ」
 大尉はそう付け加えた。
 そうなった理由の説明はなかった。ただ、大尉がそれを喜んではいないということだけが、彼にも分かった。
「自分では命を懸けずに、敵を殺し、部下に死ねと命じている。浅ましいものだな」
 沈鬱な声だった。大尉は言った後で、ほんの一瞬、恥じ入るような顔をした。軍人になったことを恥じていたのか、部下の前で弱音を吐いたことを恥じたのかは、ティグには分からなかった。
「自分は、中隊長殿がおられなければ、すでに死んでいます」
 ティグはすぐにそう言った。儀礼ではなく、本音だった。
「今日の作戦を命じたのは、そもそも私だ。忘れたのか」
 そう呟く大尉に、彼は首を横に振った。この大尉の部隊に配属されなかったら、もっと前の戦闘でとっくに死んでいたかもしれないと、そう思ったからだった。
「ダルガ上等兵も、同じことを仰っていました」
 彼はそう言いながら、作戦を提示された日の会話を思い出した。それから、ダルガが故郷に残してきた奥方と息子のことを思った。訃報は、さすがにまだ届いていないだろう。年の離れているという奥方は、今頃はまだ夫の無事を祈っているだろうか。
「ダルガか。口数は少なかったが、律儀で気の優しい、いい男だった。まだ産まれた息子の顔を見ていないと、言っていたな……」
 大尉の言葉に、彼は驚いて目を見開いた。
 もしも大尉が『彼はいい兵士だった』と言ったならば、これほど意外には思わなかっただろう。味方からも冷酷と恐れられるこの中隊長が、部下の一人ひとりを、一兵士としてではなく、一人の人間として惜しんでいるのだと、いったい誰が知っているだろうか。
「君は志願だったな。なぜ、軍人に?」
 聞かれて、ティグは月を仰いだ。満月よりもほんの少し欠けた月面には、日によって見え方の違う白い斑模様がかかっていて、今日の模様は、どことなく思い人の横顔に重なって見えた。
「自分の故郷は、ここから近いのです。戦況が悪くなれば、きっと戦火に呑まれてしまうでしょうから」
 言いながら、ティグは故郷の人々を思った。父は戦争に取られて既に死んでいるが、母と妹が、彼の帰りを待ってくれている。同級の悪友たちは、このままあと二年も戦争が続けばのきなみ徴兵にとられるだろう。
 ずっと好きだった幼馴染みの少女には、他に婚約者がいた。最後に彼女と話をしたときにはとても幸せそうにしていたけれど、その相手も、もうじきどこかの戦地に送られるはずだ。正直に言うと、恋敵が憎くないとは言わないが、彼女が泣かなければそれでいいと、そうも思う。
「隊長は、何故?」
 訊ねると、大尉はしばらく黙り込んで、彼と同じように月を仰いだ。
「生も死も、次々に自分の横をすり抜けていくのが、堪らなくなった」
 静かに告げられた答えになっていないような答えに、それでも何となく分かったような気がして、彼は黙り込んだ。
「私は帝国籍がないから、徴兵に遭うこともなかったんだが。知っている者達が次々に戦争にとられて死んでいくのを、対岸の火事のように眺めていることが、ある日急に厭になったんだ」
 大尉は説明を足して、自身の手をじっと見つめた。色の白い肌は、月光に青白く染まっていた。その爪の隙間に、洗っても取れないのだろう、血が染み付いているのが、ティグの目にも見えた。
 そのときティグは、幼い頃に聞いた不死の怪物の物語を思い出していた。あの物語の結末がどういう風だったか、どうしても思い出せないまま。死を求めて彷徨う怪物は、永遠に彷徨い続けたのだったか、それとも安らかな死に場所を見つけたのだったかと。
「……だがまあ、入隊したときの知り合いも、もう誰も居なくなってしまったな」
 その言葉に、彼は驚いて大尉の顔を振り仰いだ。その顔に不安が滲んでいたのだろう、大尉はふと苦笑した。
「そんな顔をするな。途中で投げ出して脱走したりはしない。終戦まで付き合うさ」
 言いながら、大尉は立ち上がった。砦に戻る気になったらしい。ティグも慌てて立ち上がり、軍服の尻についた草を払った。
 大尉は最後にもう一度、戦闘のあった方角を見つめると、踵を返して砦に向かった。

 二人きりで会話を交わしたのは、その日が最後だった。
 その日から終戦までには、二年弱の時を要した。
 言葉のとおり、大尉は最後の戦闘を境に姿を消した。
 終戦の宣言があったあとも、ラクシュイ軍の一部強硬派が散発的に仕掛けてきた奇襲で、砦に火がかけられた。その戦闘そのものはあくまで敵側の最後の悪あがきに過ぎず、敵戦力はすぐに鎮圧されたが、砦の焼失は防げなかった。その戦闘の中で、酷く手傷を負った中隊長の姿が炎に呑まれたのを、何人かの兵士が目撃したという。
 果たして火に焼かれても死なないのかということを確かめたわけではなかったが、大尉は死んだように見せかけてどこかに身を隠したのではないかと、彼は勝手に思っている。火に焼かれて死ねるような簡単な呪いなら、もっと早くに死んでいたのはないかと、そういう気がするからだ。
 終戦と同時に除隊を願い出て故郷の町に戻った彼を、家族や友人たちは喜んで迎えてくれた。徴兵にあった男たちの多くは、遺体の一部や遺品が戻ってきていればまだいい方で、ただ死んだときの状況が知らされただけの者も少なく無かった。
 幼馴染みの婚約者は、やはり徴兵されて片脚を失っていたが、とにかく生きて戻ってきていた。彼らは終戦から間もなく婚礼を挙げ、ティグもそれに列席した。
 故郷に戻ってからしばらくの間は、命令されたこととはいえ自らの手で多くの敵兵を殺した自分に、何もかも忘れたように平和に甘んじる資格があるのかと、そんなことをよく考えた。
 それでも時が経ち、やがて母から家業の靴屋を継いだティグは、数年後に妻を得、子を設けて、少しずつ平和な生活の中に馴染んでいった。
 今はもう、戦時中のできごとは、すっかり昔話になってしまった。
 ただ月の明るい夜には、よくあの頃のことを思い出す。失った戦友たちと、あの不思議な若い大尉の、月に青白く照らされた、どこか寂しげな横顔を。
 ――自分は命を懸けずに、敵を殺し、部下に死ねと命じている。
 今でも鮮明に覚えているあの静かな言葉が、何度も耳に蘇る。
 その度に、あの大尉は今頃どうしているのだろうと、答えの出ることのない問いが、彼の胸をよぎる。
 自ら先頭に立ってその手を汚し、兵の尊敬と非難と畏怖とを黙って受けとめ、少しでも多くの部下を生かして帰すために戦い抜いたあの士官は、どんな思いでこの月を見上げているだろうかと。

(終わり)

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