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  奈緒子は帰り道、まだ通勤客が多く混雑したバスに揺られながら、携帯電話で音楽を聞いていた。
 恋の楽しさを歌う女性ボーカルの、どこかはしゃいだような声。好きな曲のはずだったが、昼の話題を思い出して、奈緒子はなんとなく憂鬱になった。
 他愛無い、罪のないおしゃべりと軽口。表面上はにこにことつきあってみたものの、どうやら感情が表にでてしまうらしい自分は、感じ悪く見えていなかっただろうか。
 話題そのものがあまり得意ではなかったというのもある。それ以上に、自分でもうまく名前をつけられずにいる気持ちを茶化されたような気がして、それが嫌だった。
 奈緒子はバスの窓から暗くなってきた外の風景を目で追いながら、ぼんやりと思い返した。
 去年の冬だった。奈緒子がたまたま急ぎの仕事を持っていて、遅くなった日のことだ。
 その日、本社からお偉方が見えたとかで、総務部で他に外せない用事のある者以外は、半強制的に飲み会に付き合わされることになった。
 そんな中、どうしてもその日中に上げる必要のある仕事を抱えていたため、奈緒子は課長に許可をもらってひとり残ることになった。
 母が家のことをしてくれているので、奈緒子にとって多少の残業は苦にならないが、それでもやはり一人だけ残って仕事をするというのは寂しいものがあった。だからといって、まさか寂しいからやっぱり明日にしますというわけにもいかず、母に遅くなるという連絡だけを入れて、ぽつんと一人、自分の机で仕事にふけっていた。
 そんな中、飲みに行っていた矢内がふらりと職場に姿を現したのは、奈緒子の仕事がひと段落してそろそろ帰ろうかという、午後九時前ごろだった。
「あれ、係長。まさか今から仕事ですか?」
 そう聞いた奈緒子に、矢内は首を振って、缶コーヒーを渡してきた。アルコールに弱いのに飲まされたのだろう、その耳がちょっと赤くなっていた。
「ごめんな。手伝わなくて」
 その言葉に驚いて、奈緒子は首を振った。
「ぜんぜん。もう終わるところです」
 矢内は「そう」と頷くと、踵を返した。別に急ぐ仕事があったわけでも、忘れ物があったわけでもなかったらしい。ただ、部下の様子を見るだけのために立ち寄ってくれたのだと気付いて、奈緒子は慌てて頭を下げた。
「ありがとうございます。いただきます」
 矢内は背中を向けたままちょっと手を振って、そのまま帰っていった。
 奈緒子はしばらくその背中を見送って、手の中の暖かい缶コーヒーを握り締めていた。
 きっと、誰が部下でも同じようにする人なんだろうと思った。それでも奈緒子はもったいないような気がしてなかなかそのコーヒーを飲めず、大分時間が経ってからようやく思い切ってふたを開けた。
 すっかりぬるくなった缶コーヒーは、甘かった。

 奈緒子がバスを降りると、車内の熱気とは打って変わって冷たい風が吹き付けてきた。もう十月下旬、日中はともかく日が暮れた後は上着を手放せなくなってきた。
 奈緒子が車内では暑くて脱いでいたジャケットを羽織っていると、ハンドバッグの中で携帯電話が震えた。
 慌てて取り出してディスプレイをのぞきこむと、そこには父の名前が表示されていた。奈緒子は道行く人の邪魔にならないよう、道の脇に避けてから、通話ボタンを押した。
「もしもし」
『久しぶり。俺だよ』
 携帯電話だから相手なんかわかりきっているけれど、奈緒子はおかしくなって、ちょっと笑った。笑ってから、そういえば最近は『父さんだ』とは言わなくなったなと気付いて、その意味を頭の隅で考えた。
「ほんとに久しぶりだね」
 答えながら、奈緒子は指折り数えた。前に電話があったのは、半年ほど前だっただろうか。母と離婚したあともたまに会っていたのだが、遠慮しているのか、それとも今の家庭でうまくやっている証拠なのか、少しずつ少しずつ、連絡の頻度が少なくなっていく。そのうち、全く電話することもなくなってしまうのだろうか。
『元気でやってるのか』
 それでも電話ごしの声は、暖かかった。多分、ずっと昔に家の中で聞いていたはずの声よりも。
「うん。そっちは?」
『まあまあだ。ちょっと前に風邪を引いたくらいかな。まだ会社か?』
 そう言う電話の向こう側は、どこかの駅のホームなのだろう。電車のアナウンスが声の後ろに重なっていた。
「ううん、帰り道」
『そうか。外は寒いだろう』
「うん、ちょっとね」
 そこで言葉が尽きたのか、電話越しにちょっと沈黙が降りた。戸惑う奈緒子の横を、腕を組んだ恋人たちが邪魔そうに避けながら通り過ぎていく。それに会釈しながら、奈緒子は電話の向こうの気配を探った。
「何かあったの」
 奈緒子は、沈黙を破るように、わざと明るくそう聞いた。
『いや、別に用事はなかったんだ。会社の女の子と世間話してたら、急にお前の声が聞きたくなってな』
「なあに、それ」
 奈緒子は笑った。父親も年を取ったということだろうか、そんなことを言うような人間ではなかったのに。電話の向こうでも、照れるような気配があった。
『いや、その子が今度結婚するって言うからさ。お前もそのうちと思ったら、何でか俺まで寂しくなっちゃって』
 ここでも結婚の話かと、奈緒子は苦笑した。もうそんな年頃なんだよなあと、自分でも複雑な心境になる。
「安心していいよ、何の予定もないから」
 奈緒子が冗談っぽくそう言うと、笑い声が返ってきた。
『それは安心していいのか?』
 口ではそう言っていても、声には結婚を急げと諭すような調子はまるでなかった。それが、もう他所の家の娘だから他人事なのだというのではなく、たとえ別れた妻との間の子であっても娘が嫁に行くのは寂しいからだと、奈緒子はそう思いたかった。
『まあ、いいか。それじゃ、身体に気をつけてな。仕事もいいけど、頑張りすぎるなよ』
「うん。じゃあ」
 電話を切る奈緒子の横を、小学校低学年くらいの子どもを伴った親子連れが、楽しそうに週末の計画を話し合いながら通り過ぎていった。目の端でそれを見送りながら、奈緒子は自分が寂しいような気がした。
 だが、寂しいのだと認めてしまうのが何となくいやで、奈緒子はわざと弾むような足取りを作って、アパートに向かって歩き出した。

「ただいま」
 奈緒子は家に着くと、母にそう声を掛けて中に入った。
「おかえり」
 母は返事をしながらも、まだ夕食の支度をしている途中だった。
 手伝う前にと奈緒子が着替えて手を洗っている間に、しかし、食事は完成してしまったらしく、居間に戻ったときには食卓の上にスパゲティミートソースとサラダが並んでいた。母はエプロンを外し、食卓の前に座って、奈緒子を待っていた。
 その顔を見て、今日お父さんから電話があったよと、奈緒子はそう言いたい気がした。けれど結局は口に出さずに、言葉を飲み込んだ。
 父親とたまに会っていることは、母も知っているはずだ。それでも、一度も奈緒子からそれを教えたことはない。ないのだけれど、いつも電話したり会ったりするたびに、母にもそのことを教えたいような気がする。
 父親がいないことで、また自分が忙しくてあまりかまってやれないことで、奈緒子が寂しい思いをしてはいないかと、母は昔、よく気にしていた。だからこそ、お父さんとはたまに連絡をとってるから寂しくなんかないんだよと、そう教えてあげたい気もしたし、それよりも母はもう父と会ってほしくないと思っているんじゃないかと、そういう気もした。
 そのどちらの気持ちが母の中で勝っているのか、いくら考えても分からずに、奈緒子はいつもこの件については、ただ言葉を飲み込むしかない。
 同じように、小学校までのアルバムも、押入れの奥にひっそりとしまいこんでしまっている。母は見るなとは言わないけれど、懐かしがって引っ張りだすこともない。奈緒子が見てみたいなと言えば、きっと母は止めはしないだろうけれど、それでも奈緒子は一度も見たいと言ったことはなかった。
 一緒に暮らしていても分からないこと。埋まるようで埋まらないものが、たくさんある。
「美味しそうだね。いただきます」
 飲み込んだ数々の言葉の代わりにそう言って、奈緒子はフォークを手に取った。
「はい、どうぞ召し上がれ。外は寒かったんじゃない? もうすっかり秋ねえ」
「そうだね」
「こんなときに風邪を引くんだから、気をつけなさいよ」
 母の言葉に、奈緒子は一瞬手を止めた。お父さんがちょうど風邪引いたって言ってたよ、と、そう言いたい気がして。
 だが、やはり結局は言わなかった。その代わりに、口の中の食べ物を飲み込んでから、「そういえば、会社で風邪、流行ってるよ」と、全然違うことを言った。実際には二人ほど風邪をひいたと聞いただけで、流行っているというほどでもなかったのだけれども。
「お母さんの職場でも、何人か休んでるよ。そうそう、そう言えば、その中にね、なかなかいい子がいるのよ。鹿島君って言ってね」
 母はやけに楽しそうに、そう話をつないだ。
「すっごく真面目ないい子なのよ。あんたと同い年。彼女いないって。あんた、一回会ってみない?」
 それが言いたかったのかと、奈緒子はため息をついた。
「会わない」
「なんでよ、べつに見合いさせようってんじゃないのよ。ちょっと話してみるくらい、いいじゃない」
 奈緒子はうんざりして首を振った。
「会わないったら、会わない。そういうの、やめてよ」
 そう言うと、母は肩を落とした。
「そう。そうね……」
 そう引き下がった母は、なにか言いたいことを堪えるような表情をした。それを見て、奈緒子もそれ以上の言葉を飲み込む。
 たぶん母は、気にしているのだ。自分たちが結婚生活に失敗したせいで、娘が結婚や恋愛に夢を持てなくなっているのではないかと。
 奈緒子はため息をこらえた。一緒に暮らしていても分からないこともあるが、分からなくていいことまで分かってしまうこともある。
「そのうち、いい人に会ったら、そのとき考えるからさ」
 奈緒子は仕方なく笑って見せて、そう妥協点を示した。
「そんなこと言ってたら、あっという間に嫁き遅れるわよ」
「この晩婚化の時代に、なに言ってんの」
 そんな風に冗談めかして重くなりかけた空気を誤魔化して、それぞれに少し笑いあった。

 翌日の朝、たまたま早く目が覚めていつもより早いバスに乗った奈緒子は、そのバスの中で企画課長とばったり会った。この気さくな女性と同じ路線であることは、前から知っていた。向こうの方が出勤が早かったので、これまでは一緒になったことはなかったけれど。
 車内が混んでいた上に課長は少し離れたところにいたので、その場ではイヤホンを耳から引っこ抜いて会釈しただけに留まったが、バスを降りた後はわざわざ他人の振りをして別々に会社に行くわけにも行かず、他愛無い世間話を交わしながら一緒に歩いた。
「早い時間は、空気が冷たいですねえ」
「そうね。しばらく晴れるみたいだしね」
 そんな言葉を交わしながら周りを見てみれば、急ぎ足でそれぞれの職場に向かう会社員達の背広も、いつの間にかすっかり秋冬ものに変わっている。
 天気の話というのは誰と交わすにも無難だけれども、それ以上の広がりも見つけきれず、奈緒子は何を話そうかと悩んで、ふと先日の休憩室での会話を思い出した。
「娘さんの彼氏は、その後どうなりました?」
「うん、またあのあと遊びにきたわよ。話してみると、見た目ほどいいかげんじゃないみたいなんだけどねえ」
 課長は苦笑いしながら、そう言った。一人娘のことだ、どうしても心配なのだろう。
「旦那にも、何か言ってよって頼んでみたんだけどね。娘も生意気に察してさあ、旦那がいるときは連れてこないし、説教されると思ったら、すっとどっか行っちゃうのよね」
 そう言われてみれば、たしか課長のご主人も転勤族で、今は遠方に赴任していると聞いたことがあった。奈緒子は、なんとなくかつての自分たち家族と重なるような気がして、課長に親近感のようなものを覚えた。
「課長の旦那さんは、単身赴任されてるんでしたね」
「うん。金帰月来ってやつ、週末だけ戻ってきてるのよ」
 奈緒子はその課長の言葉に驚いた。新幹線と電車を乗り継いで、片道五時間はかかるところだと聞いていたからだ。
「毎週ですか?」
「うん。今のところね」
 結婚してもう二十年以上になり、子どもも大きいのに、片道五時間かけて毎週帰ってくるのだと聞いて、奈緒子は言葉に詰まるような気持ちがした。
 自分の父親は記憶にあるかぎり、月に一度も帰ってこなかった。場所はどうだっただろうか、そうそう戻って来れない遠方だったせいだろうか。だが、遠すぎる記憶は霞がかって、いったい父親がどこに赴任していたのかも奈緒子の中では定かでなかった。
「いいですねえ。ラブラブですね」
 仕方なく、わざと軽い冷やかしの言葉を選んで、奈緒子は笑顔をつくった。
「いやいや、あれは単に娘の顔を見たいだけなのよ。あたしのことなんか、飯炊き女くらいにしか思っちゃいないわ」
 照れ隠しの軽口のつもりだろう、笑いながら言われた課長のその言葉に、奈緒子は余計に胸がふさがれるような思いがした。だが、ここで自分の事情なんて話しても、気を遣わせるだけだろうと、無理に明るい顔を作って、もう一度「いいですねえ」とくり返した。自分の声が震えていないか気にしながら。
 企画課長は幸いにも奈緒子の複雑な心情には気付かなかったようだった。照れくさそうに手を振って、「そんなんじゃないのよ」とはにかんだその顔は、奈緒子の目には幸せそうに映った。

 数日後の夕方。終業時刻は過ぎていたが、社内には残業する社員たちがまだまだ残っていた。矢内や奈緒子も、その仲間だった。時おり短い相談を挟みながらも、二人それぞれの仕事を続けていた。
 六時半を回った頃、矢内の携帯からどこかで聞いたメロディーが流れた。ちょうど奈緒子の話を聞いていた矢内は、片手をあげて謝罪の意思を示すと、ポケットから携帯を取り出して、席を立った。そうして窓際へ向かった矢内の長い指が通話ボタンを押すのを、奈緒子はぼんやりと見送った。
「ああ。……うん、もう一時間くらいかな。……分かった。健太は?」
 聞き耳を立てるのもどうかとは思いながらも、奈緒子はつい耳に入ってくる声に神経を傾けた。
「うん。今日は学校、どうだった? ……そうか。うん、八時前には帰るよ。先にご飯、食べててな」
 それは普段のぶっきらぼうな喋り方とはとまるで違う、情愛の溢れた優しい声だった。その声音の違いに、奈緒子は背を向けたまま思わずどきりとした。
「お子さんですか」
 迷いながらも、奈緒子はそう話を振った。矢内はうん、と頷いて、照れくさそうにちょっと笑った。あまり自分から話題にはしないが、その携帯の待ち受け画面が、奥さんと息子の笑顔になっているのを、奈緒子は見せてもらったことがある。
「いいですねえ」
 奈緒子はその七歳の息子がうらやましいような気がして、思わずそう口にした。奈緒子の家庭の事情が複雑だったことは自分から言ったことがないから、矢内は知らないはずだ。だから多分、子どもっていいですねと、そういうニュアンスに聞こえただろう。
 矢内と打ち合わせを再開しながら、自分はどうしたいんだろうと、奈緒子は頭の片隅でぼんやりと思った。この上司に対して、自分は何を求めているのだろうと。
 もしもこれが恋愛感情だというのなら、幸せそうな奥さんへの嫉妬のひとつも湧いてきていいはずだ。けれど、自分の胸の中をどう探しても、そういう気持ちはなかった。まして不倫なんて、初めからしたいとも思わない。ならば、ただ憧れ、尊敬しているだけなのだろうか。
 自分の胸にいくら聞いても、そのときの奈緒子には答えが出なかった。



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