書類の点検に熱中していた奈緒子は、休憩時間を告げる社内アナウンスに気付き、はっと顔を上げた。 奈緒子の勤める会社では、四十五分の昼休みのほかにも午前午後に一回ずつ、十分間の休憩時間がある。営業部をはじめ、顧客などへの対応がある部署ではそういつもきっちりとは取れないので、各自の判断で抜け出していいことになっているが、奈緒子の所属する総務部では、おおむね皆が一斉に休憩を取っている。十分では外出することはできないが、それでも社員達は思い思いに席を立ったり、その場で伸びをしたりしている。 そんな中、仕事の手を休めない者もいる。奈緒子は机の上を簡単に片付けると、隣の席でパソコンに向って難しい顔をしている上司に向かって、軽く頭を下げた。矢内という名の係長で、奈緒子とは去年の十月から一緒に仕事をしている。今年で三十七歳になると聞いているが、中年太りとは縁のない細身の長身で、見た目は年よりやや若く見える。たいていいつも難しい顔をしているせいだろう、眉間にはすっかり深い皺が刻み込まれていて、それがとっつきにくい印象を作っている。 矢内は軽く手を挙げて寄越した。行って来ていいよ、というつもりだろう。彼はどうにも口数が少なく、初めて会ったときはちょっと怖いと思ったものだった。実際に話してみればまるで印象が違うのだが。 奈緒子はもう一度矢内に頭を下げると、席を離れて廊下へ出た。 奈緒子は手洗いの帰りにリフレッシュルームに立ち寄った。給湯スペースの脇にちょっとしたテーブルと椅子が置かれたその部屋には、すでに何人かの女性社員たちが集まって、コーヒーのいい匂いを漂わせていた。男性社員たちの多くが喫煙室をたまり場にするように、ここが女性たちの社交場のひとつとなっている。 「お疲れ様です」 そう声をかけて中に入ると、何人かが奈緒子の方に顔を向けて、それぞれに返事を返してきた。 「おつかれさま。月曜日はやっぱりしんどいねえ」 そう話しかけてきたのは、企画課の主任だった。 「そうですねえ。朝の一時間半が長いですよね」 笑顔でそう返すと、奈緒子は棚から自分のマグカップを出してコーヒーメーカーに向かった。コーヒーを注いで砂糖を入れながら、話題に入るきっかけを探して皆の会話に耳をそばだてる。 「でね、その子ったら、ピアスはいくつも空けてるわ、髪は金色だわ、いくら見た目じゃないっていってもさあ」 ため息混じりに話しているのは四十代中ごろの企画課長で、その年代の女性社員としては異例の出世をしながらも、みんなのお母さんという雰囲気を残している人物だった。 やれ出世だ派閥だと休憩中にも忙しい男性陣と違って、女性たちの間ではこうした休憩スペースに偉い人がいるのはあまり歓迎されないものだが、この課長は気さくで肩肘張ったところがないので、顔を出しても誰からも邪魔には思われない。奈緒子は自分が出世するとは思ってもいないけれども、この課長と会うたびに、こんな風に年を取りたいなあとうらやましく思う。 「何のお話ですか?」 奈緒子が会話を邪魔しない程度の声で先ほどの主任に聞くと、彼女は苦笑しながら教えてくれた。 「課長の娘さん。付き合ってる男の子を、家に連れてきたんだってさ」 ああ、と奈緒子は相槌を打った。 「でも、いいわよねえ。若いってさ」 横から別の社員が口を挟んだ。そう言った本人は三十になったばかりで、ぱっと見には二十代半ばにしか見えないほど若々しい。ただ、結婚して長いと聞いているので、青春まっさかりの若人がうらやましくなったのだろう。高校生同士の恋愛に、すっかり目を輝かせている。 「奈緒ちゃんはどうなの、最近」 主任にそう話題を振られて、奈緒子は曖昧に笑った。二十四歳、独身。普段から周りに恋人の話でもしていれば別だろうが、こういうときには絶好の会話の糸口にされてしまう。 「残念ながら、なかなか縁がなくて」 「あらあ、仕事ばっかりじゃあ駄目よ。今のうちが花なんだから」 「そうですねえ、いい人がいたらいいんですけど」 奈緒子は曖昧に笑った。正直なところ、今の奈緒子には積極的に恋人を作ろうという熱意がない。だがこの雰囲気の中では、そう素直に言ったところで、「それはとんでもない思い違い」と説教されるばかりで、まず話が進まないだろう。 「それより、今井さんはその後どうなんですか」 だから、奈緒子は否定する代わりに他の人間に話題を振った。ついこの間、付き合い始めたばかりの若い彼氏を自慢していた女性が、笑み崩れながら手を振ってきた。 「それがさあ、ちょっと聞いてよ」 「あんたののろけを延々と聞いてたら、時間が足りないわよ。またお昼にでもね」 課長が笑ってそう遮った。皆がどっと沸く。それを機に、それぞれに使ったカップ類を片付けて、女性達はぱらぱらと持ち場へ戻っていった。 うまく話を切れてよかったと、奈緒子は自分の席へ戻りながらほっと息をついた。苦手な話題だったからだ。 奈緒子は高校生のときに同級生とちょっとの間付き合っただけで、以降、もうずっと恋人がいない。そのときにしたって、ちょっと気になっていた相手から交際を申し込まれ、嬉しくなって承諾したはいいものの、いざ付き合い始めてみれば相手があまりに子どもっぽくて自分本位だったので、嫌になってすぐ別れたのだった。それ以来、なんとなく恋愛関係には消極的になっている。 奈緒子は自分の席に戻って、机に書類を広げた。 隣の席をちらりと見ると、矢内はあのままずっとパソコンと睨めっこしていたようだった。 「今日中に上がりそう?」 矢内は奈緒子が席に着くのを待って、ぽつりと聞いてきた。奈緒子は昨日から、矢内から任された書類にかかりきりになっている。 「はい、なんとか」 奈緒子が笑ってそう返事をすると、「そう」と相槌が帰ってきて、それで会話が終わった。素っ気無いけれど、こちらが手間取っているときには気にして声を掛けてくれるし、困ったことがあれば自分の仕事を後回しにして真剣に相談に乗ってくれる。 矢内が声をかけてくれたことで嬉しくなって、奈緒子はひとり微笑んだ。 去年の十月、他の支社から転勤でやってきた矢内が奈緒子の直属の上司になって、ようやく一年ほどになる。 この会社では、県内を中心に各支社間での転勤が割りと頻繁にある。女性社員たちもその例外ではないが、どちらかというと男性社員の方が異動の機会が多い。矢内も、奈緒子が入社したときにはこの支社の別の部署に勤務していたが、ほとんど話をしたこともないうちに転勤して行って、去年になって再び呼び戻されてきたところだった。 矢内の前任の係長もけして悪い人ではなかったのだが、どちらかというと自分の仕事にいっぱいいっぱいといった様子があった。会話がなかったわけではないけれども、あまり奈緒子の仕事の進み具合に目を配っていてはくれなかった。 それが辛かったというほどではないが、矢内は頑張れば言葉少なに誉めてくれて、困っていればさり気なく助けてくれる。それで、奈緒子の方でもなるべく手を煩わせないようにしようと思うし、いい仕事をしようと自然に思えてくる。誉められたいから仕事を頑張るというのは、あまりに子どもっぽいだろうかと、奈緒子はそんなことを時おり考えながらも、概ね今の状況に満足していた。 「奈緒ちゃん、なんか楽しそうだね。いいことあった?」 いつの間にか近くに来ていた課長が、にこにこしながらそう奈緒子に話しかけてきた。 「え、そうですか?」 「顔が笑ってたよ」 そう言われて、奈緒子は自分の頬を触った。一人でいつまでもにやにやしていたかと思うと、恥ずかしかった。 「忙しそうなところ悪いんだけど、これも頼めるかな。そんなに急がないけど、できれば明日までに」 課長はそう言って、何枚かの資料と手書きのメモを渡してきた。 「あ、はい。分かりました」 奈緒子は頷いて、書類を受け取った。 「よろしくね」 隣の席から矢内が何か言いたそうにしたが、自分の席に戻る課長の背中をちらりと見て、いったん口を噤んだ。そして課長が自分のデスクに戻ったのを見届けてから、「俺が頼んだ方、後回しにしていいから」と小声で言ってきた。 奈緒子は小さく微笑むと、やはり声を潜めて「大丈夫です、すぐできます」と返した。実際に、課長から渡された方の仕事は二時間もあれば片付きそうだった。ともあれ、こうして気に掛けてもらったことが嬉しかった。 前の日からやっていた分と課長に頼まれた方と、両方の仕事を片付けて奈緒子が職場を出たのは、午後七時半ごろだった。 アパートまで、バスに乗って約三十分。家に着くと、母が食事を作って待っていた。 「ただいま」 「おかえり、お疲れ様」 奈緒子の母は、かつては婦人服の販売関係で、正社員として働いていた。奈緒子が小学校を卒業するころに奈緒子の父親と離婚してからは、女手ひとつで奈緒子を育て上げてくれたのだが、奈緒子が就職したのと入れ替わるように、不景気からリストラにあった。 今は、前の職場と同じデパートの中に入っている別の婦人服メーカーで、パートの販売員として働いているが、奈緒子のほうが忙しくなったのを気遣って、昔よりもよほどしっかり家事をやってくれている。食事にしろ掃除や洗濯にしろ、奈緒子は学生だったころの方が、忙しかった母の分を手伝っていたくらいだ。 「遅かったわりには、ご機嫌ね。何かいいことあった?」 食事をよそう母にまでそう聞かれて、奈緒子は戸惑った。そんなに自分は分かりやすいのだろうか。 「何もないけど。仕事、楽しいからかな」 「ふうん、よかったじゃない。前はそんなこと言わなかったのにね」 そう笑って、母はエプロンを外すと食卓についた。 「いただきます。そうかな、上司がいいからかな」 「はい、召し上がれ。その上司って、独身?」 「妻子持ちだよ。なに期待してるの」 奈緒子が笑って言うと、母はがっかりしたように肩を落とした。 「職場には、誰かいいひとはいないの?」 そう追及してくる母に、奈緒子は眉をひそめた。話題を間違えたかもしれないと思いながら。 「いないよ、残念ながら」 「なんだ、つまんないね、あんたも。理想が高すぎるんじゃないの?」 母はため息混じりにそう言った。 「余計なお世話。別に、結婚相手を探しに会社に行ってるわけじゃないんだからさあ」 「まあ、別に職場でなくてもいいけど。そろそろ頑張って見つけてきなさいよ」 このところお決まりになっているセリフを、母は軽い調子を装ってくり返した。 「結婚なんか、してもしなくても別にいいけどさ。子どもだけでも若いうちに産んどいたほうがいいわよ」 「はいはい、そのうちね」 聞きなれた説教を適当に流して、奈緒子は食事を続けた。 母はさらに何か言いたげな顔をしたが、結局はそこで引き下がった。奈緒子は母のその表情には気付かないフリをして、食事の出来を誉めた。 「お母さん、最近料理うまくなったんじゃない?」 「昔と違って、時間があるからね」 母があっけらかんとそう笑ったことに、奈緒子はほっとした。昔からこうだったら何か違っていたかもしれないと、母が言わなかったので。 奈緒子の父親は、転勤族だった。それも奈緒子の会社のように県内を中心にというようなものでなく、全国異動が頻繁にあった。母はリストラにあうまではひたむきに仕事に打ち込んでいたので、このアパートに根を下ろして、父がひとり単身赴任をくり返していた。 奈緒子が小学校六年の年だった。何度目かの単身赴任先で、父が突然、向こうに好きな女性が出来た、離婚してほしいと言い出したのだ。 もしもあのころ母が仕事を辞めて、三人一緒に各地を転々としていれば。そうしたら家族の辿った道も、今とは全然違っていたかもしれない。 奈緒子はそのことについてはとっくに諦めがついていたし、母もずっと気丈にしていた。だから、奈緒子はまさか母がずっとそのことを後悔しているとは、最近まで思っていなかった。 それが、リストラにあってから気弱になったのか、三年ほど前になって今さらのように、母がぽつりと後悔するような言葉をもらしたのだった。長く一緒に暮らしていても、言われるまで分からないことが、たくさんある。 「ごちそうさま」 奈緒子は手を合わせて、食器を運んだ。 「はい、お粗末様。洗い物、置いといていいわよ。疲れてるでしょ」 母は奈緒子のもの思いをよそに、上機嫌でそう言った。 昼休みを知らせるアナウンスが入り、奈緒子はお茶と持参の弁当を持って、会議室に向かった。社内にはいちおう畳敷きの休憩室もあるが、それほど広くないため、全員は入りきれない。外食する人や自分のデスクで食べる人もいるが、奈緒子を含む何名かは、空いている会議室の隅を借りて食事にしている。 「お疲れ様です」 声を掛けて中に入ると、すでに五人ほどが集まって、賑やかに食事をはじめていた。 「お疲れー」 「今日もお弁当?」 うん、と、奈緒子が同期の問いかけに笑って頷いたところ、最近転勤してきた女性社員が手元をのぞきこんできた。 「もしかして毎日手作り?」 「お恥ずかしながら、母に甘えてます」 奈緒子が肩をすくめてそう言うと、なあんだと笑われてしまった。 「毎日えらいねって言おうと思ったのに」 笑い声が上がる。奈緒子自身も笑いながら弁当を広げる間に、皆はもとの話題に戻るようすだった。 「それで、営業の飯島さんってどうなんです?」 カオリという名前の一番若い女の子が、そう声を潜めて皆に聞いた。 「残念、最近彼女できたらしいよ」 「えー、そうなんだ」 奈緒子はそのやりとりを聞きながら、苦笑した。どうやら今日の話題は、有望な独身男性についての情報交換だったらしい。 「つまんないなあ。独り身でいい男って、やっぱなかなかいないですねえ」 「いい出物はさっさと売れちゃうのよね」 ため息とともにそう言ったのは、この前二十八歳になった先輩だった。 女性が集まれば必ず出てくる類の、罪のないおしゃべりだ。角が立たないように、奈緒子も一緒になって笑った。 「じゃあさ、独身とか既婚とか置いといて、カオリちゃんは社内でだったら誰がタイプ?」 企画課の主任が、そう話題を変えてきた。聞かれたほうはうーんと唸って、あれこれ思案する顔になった。 「企画の山岡さんって、ちょっとカッコよくないですか」 「え、カオリちゃん、山岡とちゃんと喋ったことある? あいつ、めちゃくちゃ口悪いよ」 「えー、そうなんですか。こないだ一回だけ話したけど、そのときは分からなかったなあ」 そんな調子で、女性たちはあちこちの部署の男性社員たちの名前を挙げては、好き勝手に言っていた。そんな中、横から先輩の一人が「矢内さんなんかは?」と言ったのを聞いて、奈緒子は内心でどきりとした。 「矢内さん……って、誰でしたっけ」 フロアが違うカオリには、すぐに分からなかったようだ。聞いた先輩が、ほら、と指を立てて説明した。 「総務部の、奈緒ちゃんとこの係長だよ」 カオリは言われて、やっと思い出したように頷いた。 「あー、分かった。うーん、渋くて格好いいかもしれないけど、ちょっと怖そうじゃないですかあ」 カオリがそう言って首を傾げたので、奈緒子は思わず笑った。 「見た目はちょっとおっかないけど、喋ったらそうでもないよ。けっこう面倒見いいっていうか」 奈緒子がそうフォローすると、矢内とは同期になるらしい主任がうんうんと頷きながら、「矢内って、見た目の雰囲気で損してるよねえ」と言った。 「へえ、そうなんですね。でも、やっぱり結婚してるんですよね」 「そうだね。奥さん、同級生って言ってたかなあ」 横から別の先輩が補足した。高校のときに同級生だった可愛い奥さんと、小学校に上がったばかりの男の子が一人。奈緒子も知っていたが、口は挟まなかった。 「でもいいなあ、奈緒ちゃん。うちの班長と交換して欲しいよ」 他の先輩が、笑いながらそう言った。この先輩の直属の上司になる班長は、ねちこくて嫌味な男性社員で、見た目がどうというよりもまず性格の悪さで嫌われている。 「不倫は駄目だよ、奈緒ちゃん」 横から主任が笑いながら言った。冗談でそういう話を振るのはやめて欲しいと奈緒子は内心で思ったが、ムキになればいらない誤解を招くだろうからと、笑顔を作って「残念ながら、何にもないですね」と冗談にした。 「あら、何かあってほしそうじゃないの」 ふざけてにやにやしながらそう言ってくる先輩に、悪ノリで追従する女性たち。どうあしらえばこの話題から離れてくれるのだろうと、疲れるような気持ちになりながら、奈緒子はなんとか作り笑いを絶やさずにその場を乗り切った。 |