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 翌朝のバスの中、奈緒子はバスに揺られている乗客たちの不機嫌な顔を眺めながら、携帯電話の音楽プレーヤーを立ち上げて、イヤホンを耳に突っ込んだ。
 朝の通勤バスというのは、いつも乗っている人間の八割がたが不機嫌そうだ。誰かさんのように、眉に皺が寄っている顔も多い。気持ちはわかるような気もするけれども。
 バスの前の方で、小さい子どもが駄々をこねてぐずりだすのが、音楽に被せて聞こえてきた。ぐずぐずした不満の声は、すぐに泣き叫ぶ声に変わり、母親が静かにしなさいと焦ったように叱り付けている。
 周りの乗客たちの顔を眺めてみると、いかにも迷惑そうに眉をぎゅっと寄せている顔と、母親の苦労に同情するような苦笑を浮かべている顔とが、ちょうど半々ほどだった。自分もきっとこうやって母親を困らせたことがあったのだろうと、覚えていないながらも、奈緒子はぼんやりとそう考えた。
 また昨日の夜も、母から結婚の話題をほのめかされた。正攻法で攻めても奈緒子が意地になるだけと察したのだろう、子どもはいいわよと、気持ち悪いくらい遠まわしにそんなことを言ってきた。
 奈緒子も子どもは嫌いではない。結婚したくないとか、子どもを産みたくないとか、そんな意地を張っているわけではないのだ。それでも、ちょっとでもいいなと思う人は、矢内に限らず家庭があって子どもが好きな人ばかりだった。だからといって、他人の家庭を横から壊してまで奪おうだとかいうような強い意志も、奈緒子にはない。
 たしかにこのまま一生結婚できないかもしれないなと、奈緒子は自分でも思った。
 あんたは理想が高すぎるんじゃないの、妥協しないと嫁き遅れるわよと、母はそうも言った。妥協したくないというつもりはないが、少しも好きだと思えない人と我慢してまで結婚するとなると、それも違うという気がする。
 ちゃんと人を好きになったことが、自分にはあるだろうか。例えば、矢内のことは好きだ。でもそれは恋かと言うと、何かが違う。強がりではなく、そんな気がする。
 恋をしない人生なんて、と、イヤホンの中で明るく歌う声に、奈緒子は憂鬱が増すような気がして、プレーヤーを止めた。そんなのは極論だという気もするけれど、「恋をしない人生だってアリ」だなんて、声高に主張する気も起きない。自分でも、中途半端だと思った。

 職場に着いた奈緒子は、課内の緊張した空気に気付いた。
「おはようございます」
 とりあえず机へ向かった奈緒子が、戸惑いながらそう挨拶すると、矢内が振り返ってちょっと困ったような顔をした。
「おはよう。ちょっといいか」
 その声の調子に、奈緒子は緊張した。
「はい」
 どうも、いい話ではなさそうだ。奈緒子は気を引き締めながら、矢内のあとをついて行った。矢内は課の隅にあるミーティング机へ向かう。その一画は、背の低いパーテーションで仕切られてブースのようになっていて、ちょっとした打ち合わせのときにはいつもそこを使っている。
「これ」
 矢内は手に持っていた書類を開いて、その中の表を指差した。奈緒子が作って、少し前に印刷業者に発注を掛けていた資料だった。
 怪訝に思って矢内の手元を覗き込んだ奈緒子は、自分の顔からさっと血の気が引くのを感じた。数字が、違っている。
「いま、印刷会社に電話して、作業止めてもらってる。早めに分かってよかったけど」
「申し訳ありませんでした!」
 奈緒子は頭を下げた。もう一度、資料を見る。間違ったまま取引先に発送していたら、クレームがきても仕方がないような、重要な部分だった。
「私……すいません」
 他にどうしようもなく、奈緒子がもう一度頭を下げると、矢内は頷いた。
「うん、さっき見たら、最初の校正のときのは、ちゃんと合ってたんだ。最後のやつだけ変わってた。だから、ホントは向こうが悪いんだけど」
 矢内はそう言った。その声は怒っていなかったが、奈緒子は顔を上げられなかった。奈緒子にとって、初めてやった仕事ではない。印刷業者というのは、割と頻繁にそういうことをやるのだと、知っていたつもりだったのに。
「俺も見たのに、ちゃんと最後までチェックしてなかった。だから、俺も悪かったんだ。あとで、課長に謝りに行こう」
 矢内はそう言って、書類で自分の肩を叩いた。
「はい……本当に、すいませんでした。以後、気をつけます」
「うん。でも、いつもよくやってくれてるよ。あんまり気にするな」
 そう労わる矢内の声は、いつものようにぶっきらぼうだったけれど、優しかった。
 はい、と頭を下げて、奈緒子は思わず出そうになった涙をどうにか堪えた。矢内はうなずいて踵を返すと、自分の机に戻っていった。
 奈緒子は出そうになった涙を急いで拭うと、席に戻って間違いのあった資料を改めて眺めた。社外の人間にまで迷惑を掛けたこと、それから矢内の手を煩わせたことも申し訳なかったし、自分で仕事は丁寧な方だと自負していただけに、単純なミスに落ち込みもした。
 それと同時に、奈緒子には、矢内のフォローの言葉が嬉しくもあった。ミスを注意されておいて喜んではいけないのだけれども、本当にいい上司に恵まれたと思う。
 そう思いながらも、奈緒子は同じ心の片方で、やっと、自分が矢内に向けている感情の正体を知ったような気がした。
 なぜ今まで、なんとも思わなかったのだろう。これまでのことを思い返してみれば、自分が人に好意を覚えるのはいつも、優しくされたときばかりだった。
 つきつめて考えると、自分はただ、愛されたいだけなのだ。優しくされたい、寂しさを埋めたい、誉められたい、誰かに甘えたい。それだけ。仕事を頑張るのも、たぶんその裏返しにすぎなかった。
 高校生のころ、奈緒子は付き合った相手の自分本位さに呆れて、すぐに別れたことがあった。だが何のことはない、自分のことしか考え切れないでいるのは、奈緒子も同じだったのだ。
 奈緒子は今になって急に、自分の子どもっぽさが恥ずかしいと、そう思った。
 望みのない相手だから好きになっても仕方ないとか、ただの憧れだからとか、そういうことの前に。優しくしてもらえるからじゃなくて、ただ相手を好きになれれば、ただ愛することができればいいのに。
 それにはきっと、このままの自分ではだめなのだ。

 時計の針が午後八時を告げようとしていた。
 昼間は例の資料のフォローに時間をとられてしまった分、何とか挽回しようと仕事に熱中していた奈緒子は、携帯電話が机の中で震える音に気づいて、はっと顔を上げた。隣でまだ残業していた矢内に頭を下げて席を離れた奈緒子は、フロアを出てから通話ボタンを押した。
「もしもし」
『奈緒子か、父さんだ』
 奈緒子は目を丸くした。どういう風の吹き回しだろう。
『今、家か?』
「ううん、今日はまだ会社」
『ああ、悪い。掛けなおそうか』
「大丈夫だよ。どうしたの」
 奈緒子は聞き返しながら、何か悪い知らせだろうかと不安になった。ついこの前かかってきたばかりだった。用もなくそう頻繁に連絡をしてくることは、これまでなかった。今の家庭を大事にしているのだろうということは、会話の端々から察せられる。奈緒子にとってそれは寂しいことだったが、仕方のないことだと割り切っているつもりだった。それが、前の連絡から一週間とあけずに再びかかってくるとは思っていなかった。
『いや、用事があるわけじゃないんだ。ただ、なんと言うか……』
 電話の向こうで言い淀むような気配があった。奈緒子はじっと息を詰めて、父親の言葉の続きを待った。
『何となく、心配になってな』
 帰ってきた返事は、まったく予想外のものだった。
「なに、それ」
 奈緒子が呆れて聞くと、うん、だかああ、だか、曖昧な声が聞こえてきた。
『この前の電話のときに、何となく元気がないみたいだったからな』
 奈緒子は何秒か黙った後、急に可笑しくなって吹きだした。
「そんなことでわざわざ電話してきたの」
『そう言うな、心配なんだ。こんな不甲斐ない親父でも』
 その言葉の後に、言ったことを後悔するような間があった。父親だと胸を張って言えるようなことをしてきていないのに、と、そういうためらいを沈黙の中に感じ取って、奈緒子は急いで言った。
「ありがとう。何でもないよ、元気でやってるよ」
『そうか、ならいいんだ』
 返事に混じって、ほっとしたような息が聞こえてきた。それを聞きながら、最近『父さんだ』と言わなくなった理由が、奈緒子にもやっと分かったような気がした。
『まだ残業か。遅いんだな』
「うん、今日だけね。もうすぐ帰るよ。まだ上司も居るし、大丈夫」
『あまり無理するなよ』
「分かってる。ありがとう」
『じゃあ、な』
 通話の終わった携帯電話を握り締めて、奈緒子はちょっと笑った。
 今さら父親面するなと、いつか娘に言われるのではないかと、きっと父親も怖かったのだ。奈緒子がそのうち電話がかかってくることがなくなるのを怖がっていたのと、同じように。そんな気がした。手の中の、通話のうちに暖まった携帯電話の温もりが、何となくその考えを肯定しているように感じた。

 それから一週間ほどがたった頃の、午後六時すぎのことだった。就業時間は終わっていたが、奈緒子は自発的に残業していた。今度の資料こそは失敗するまいと、目を皿のようにして校正用の原稿を点検していたのだった。
 その隣でやはり残業していた矢内の携帯が、聞き覚えのあるメロディーを鳴らした。
 すっと席を立ってフロアの隅へ行く矢内を横目に、奈緒子は手元に集中しようとした。それでもやはり、つい聞こえてくる声に耳を傾けてしまう。
「ああ。……うん、日曜な。分かった分かった」
 矢内の声に混じって、はしゃぎすぎて興奮した子どもの声が、電話越しに聞こえてきた。どこかに連れて行ってもらう約束を取り付けたのだろう。お父さんが大好きなんだろうなと、その漏れ聞こえる声だけで充分すぎるほど分かった。
 日曜にどこかに連れて行ってもらったことが、自分にもあっただろうかと、奈緒子はぼんやり考えた。
「うん、ちゃんと覚えてるって。……うん」
 それでも覚えていないだけで、きっとあったのだろうと、奈緒子は思いなおすことにした。奈緒子が小さい頃には、三人で一緒に暮らしていた時期があったのだから。押入れにしまいこんだままのアルバムを探してみれば、きっとその証拠が残っている。
「うん。うん、今日は遅くなるかもしれないから、先に寝ててな。お母さんに代わって」
 だからもう、この優しい声を向けられる相手が自分でなくても、それを羨むのはやめようと、奈緒子はひっそりと心に決めた。

 翌年の三月末、矢内は再び他の支社へ転勤することになった。
 一緒に仕事をしたのは、たったの一年半。その間に多くのことを矢内から学んだと、内示を聞いたときの奈緒子は、そんな風に思うことができた。
 他にも異動する者たちは何人もいた。異動の日を目前に開かれた送別会の中、ほどよく皆が盛り上がったころを見計らって、奈緒子はビール瓶の代わりに烏龍茶のペットボトルを手に取ると、矢内の座るテーブルに向かった。
「係長。いままで、お世話になりました」
 矢内は振り返ると、奈緒子の手元を見てちょっと笑った。それから一口だけ残っていたビールを空けて、グラスを差し出してきた。
「こっちこそ、今までありがとう」
 矢内はそう言うと、空いていたグラスを探して、奈緒子にも差し出してきた。それで改めて二人で、烏龍茶で小さく乾杯した。
「また、どこかで一緒の職場になったら、そのときはよろしく」
「はい」
 そう頷いて、奈緒子はようやく屈託なく笑えた。
 もし次に、この人とまた同じ仕事をできる機会があったら、と、奈緒子は矢内のはにかむような笑顔を見ながら考えた。そのときには、自分も少し、変わっていられるといい。
 できれば、ちゃんと人を愛することができるように。

(終わり)
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