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  良一は誰も居ない自分の部屋に戻ると、エアコンを入れてネクタイを緩めた。
 物が少ない部屋が、どこか寒々しいような空気を作っている。
 恋人は、大学生だった頃には何度か居たこともあったが、たいてい何ヶ月かすると振られてしまった。毒舌を隠しながら付き合い始めてしまうので、地の性格が表に出てしまったときに、それまでとのギャップが大きいのだろう。また、ぼろが出なくても、だんだん自分で自分にくたびれてしまって、愛情が冷めたというよりも、なんとなく疲れて別れてしまったこともあった。
 そういうことを何度かくり返したあとでようやく懲りて、卒業してからはずっと独りだ。最初から素の自分を表に出して接することができればいいのだが、猫の皮を被り続けて長いので、なかなかそうもいかない。
 実際の話、良一が毒舌を隠さずに話せる女で、今でも付き合いがあるのは葉子くらいのものだ。
 葉子はああいう女だから、良一がぽんぽん言いたい放題のことを言ってもめったに怒らないし、言い返すこともほとんどない。これが気弱で言い返せない相手ならば気が咎めるところだが、葉子が全然堪えていないと分かるから、気楽なものだ。
 その唯一の相手がほとんど小説のカミサマの依り代みたいな状態では、いい雰囲気になることは、もちろんこれまで全くなかった。
 良一は着替えながらパソコンを点けて、自分のホームページを開いた。ときどき小説を載せているだけの、簡素なサイトだ。
 続いて、メールソフトを立ち上げる。友人からのメールの他にも、たまにホームページを見た人からの感想が寄せられることがあるからだ。
 今日は、新着メールはないようだった。
 良一の小説は趣味の域は出ないが、まあ素人にしてはそれなりに書けているんじゃないか、と自分では思っている。ジャンル自体が現代小説や歴史モノで、内容もあまり派手なものは書かないから、ホームページの閲覧者はそれほど多くないが、たまに寄せられるコメントなんかを見る限り、文章としてはそこそこ書けていると思う。話もまとまっていて、それなりに面白く書けているんじゃないかとも考えている。
 だが、『それなり』以上ではない。それが、良一自身にもよく分かる。
 葉子が書くような斬新で自在な発想、読んでいてその世界に酔ってしまうような空気。良一にはそういったものが、どうやっても出せない。
 いつだったか。そういう話を、妬ましさを隠しもせずに葉子に言うと、分かっているのかいないのか、いつもののほほんとした調子で、
「あたし、りょーちんの小説、好きだよ。ドライなんだけど、でもなんか暖かくってさ……」
 とか何とか言われた。そして葉子はそれ以上表現する言葉を見つけられないようだった。
 葉子はプロの物書きのくせして、言いたいことを口に出すのが致命的に下手くそだ。いつまでも続きの言葉を探している葉子に呆れて、良一は手を振った。
「べつにいいよ、お前に高度な批評は求めてない。だいたい俺のは趣味だし」
「そっか。それでもあたしは好きだよ、また読みたいよ」
 葉子は嫌味なくそう言って、にかっと笑った。もともと、人の作品に感想を言うときのあいつの辞書には、『好き』『嫌い』『面白かった』『つまらなかった』『よくわかんなかった』くらいの言葉しかないのだ。
 葉子のことを思い出したついでに、冷蔵庫に入れてきた差し入れの中身を思い出す。コンビニで買った梅干しのおにぎり、サラダ、紙パックに入ったじゃがいもの冷製スープ。
 葉子への差し入れには、暖めないと食べられないものは入れられない。まず間違いなく冷たいまま食べるからだ。
 以前、出張でしばらく寄れそうにないときに、心配になって袋ラーメンやレトルト食品を差し入れたことがあった。次に顔を出してみたら、お湯を沸かすのも面倒だったのか、トランス状態のまま乾麺をぼりぼり齧っていた。その姿にショックを受けて以来、長く不在にする前の差し入れはウィダーインゼリーとカロリーメイト、ポカリスエットになった。
 差し入れの五回に一回分くらいは良一の善意で、残りは、いつだったか葉子から預かった通帳からだ。悪いからせめてこれから出して、とぽんと渡された通帳の暗証番号は、葉子の誕生日になっている。お前なあ、と無用心さを怒ったが、「りょーちんの性格からして盗めないの分かってるもん」と笑われた。まあそれ以前に、盗み甲斐のあるような残高も入ってはいないのだが。
 ここまで世話のかかる奴もなかなかいない。だが、呆れて文句を言いはするが、実際のところ、良一はこの状況に心のどこかで安心してもいる。葉子がきっちり自己管理できるマトモな人間だったら、おそらくその才能が妬ましいばかりで、辛いからだ。
 良一はメールソフトの画面を消しながら、沢ヨーコの公式ホームページを作ったらどうだろうと、ちらっと考えた。作品紹介と、発行予定くらいを載せて、メールで意見を送れるようにして。
 だがきっと、葉子はファンからのメールが増えれば、目を通すのも面倒がるような気がした。今だって数は少ないが、編集部にファンレターが届くことがある。葉子は一応律儀に読みはするが、返事を書いたりする気はないようだ。もちろん喜んでいないわけではないようだが、もし人気が出て何十通何百通と届くようになれば、きっと読む暇に小説を書きたいと言うだろう。そういう気がする。
 良一はなんとなく溜め息をついてパソコンの電源を落とすと、シャワーを浴びるために立ち上がった。
 
 その日からしばらくしてアパートを訪ねたときには、葉子はパソコンの前から離れており、一応は言葉が通じる状態だった。
 だが、別の意味で様子がおかしかった。
 部屋に上がりこんだ良一の顔を見るなり、
「一応プロ作家を名乗る人間が、恋愛をぜんぜん書けないって、まずいよね……」
 とか何とか言い出したのだ。
「はあ? まあ、そうかもな」
 聞かれた良一も、とりあえず頷いてから、改めて考え込んだ。
 言われて見れば、葉子は恋愛ものを一切書かない。長編の中でアクセントとして、ほんの少し恋愛要素を混ぜることはあっても、それは他にテーマがある上でのごく些細な描写で、恋愛に重点を置いた展開というのは、読んだことがない。
 尚景出版から出ている他の作家の本には、恋愛描写に比重を割くものもたしかに混じっている。だが、葉子の小説のターゲットは男女半々で、それだけに下手に恋愛要素を強くしてしまえば、よほど上手く書かない限り賛否両論になるのではないだろうか。良一にはそういう気がした。
「いまから路線を変えるのか?」
 聞くと、葉子は曖昧に首を横に振った。 
「そうじゃないけど」
 葉子はしばらく考え込むと、食卓にあごを乗せてうなった。
「……あたしって、自分に足りないと思うものを埋めるために書くタイプだと、思うんだよね。空想的なのもそうだし、家族のほのぼのした話とかさあ、憧れって言うか」
 珍しく自己分析をしているらしい葉子に驚きながらも、良一はとりあえず頷いた。
 葉子はあまり自分のことを語る方ではないが、どうやら父親と折り合いがよくなかったらしいというのは、前に聞いたことがある。そのせいか、葉子の小説の中に出てくる父親像は、多少美化されたような印象がある。それには、良一も薄々気付いてはいた。
 葉子は食卓に突っ伏したままで、ぼそぼそと続けた。
「でも恋愛モノ書けないって、それってもしかして、あたしの深層心理が恋愛を求めてさえいないってことなのかな。どうしよう、りょーちん」
 じっと見上げられて、良一は途方に暮れた。
「そんなこと俺に聞かれてもなあ……」
 こういう話を葉子がするのは、本当に珍しい。だいたい葉子は、創作についての話を他人とするのが苦手なタイプだ。作外で多くを語るのが嫌だというような立派な主義ではなく、単に、創作話をしようとするとすぐに小説のカミサマが舞い降りてしまって、他人との会話が成立しなくなるからだ。
「うー」
 葉子はまだうなっている。普段使わない頭を使いすぎて、熱でもだすんじゃないかと思った良一は、なんとなく慌てた。
「まあ、今の、あんまり色恋沙汰の絡まない作風が好きっていうファンも多いだろ。今はそんなに気にしないでいいんじゃねえの」
 問題解決にならないなあと思いながらも、慰めのつもりで良一がそう言うと、葉子は顔を上げ、さっきまでの様子はなんだったのかというくらいけろっとして、にこにこ笑った。
「そっか? りょーちんが言うならきっとそうだね」
「おま……ちょっとは自分で考えろ!」
 あまりの投げ出しぶりに良一が思わず怒り出すと、葉子は途端に叱られた子犬のようにしょぼんとした。
 
 その話をした日から、葉子の執筆ペースが目に見えて落ちた。
 良一が仕事帰りに寄って見ると、いつものトランス状態ではなく、家の中をうろうろしながら考え事をしていることが多くなった。
 ものを書く人種なら、多かれ少なかれスランプに陥る時期があると思うが、葉子は良一が初めて会ったときからこれまで、そんな様子は一度もなかった。それだけに、適当なことを言ってしまったのが後ろめたく、良一はいつもよりまめに部屋に寄るようになった。
 その状態が一月ほど続いたある日、良一は葉子のアパートの玄関前で、担当編集の泉とかち合った。泉はドアを閉めて、今から帰ろうとしているところのようだった。
「戸塚さん」
 泉は良一に気付くと、持ち前の人の良さそうな笑顔でぺこりと頭を下げた。
「どうも」
 泉と良一はすでに何度も顔を合わせている。泉が原稿を取りに来たときや打ち合わせのときなどに、葉子がトランス状態から戻るのを待っている間、邪魔をしないように小声で、好きな小説の話で盛り上がったり、葉子の作品への議論を交わしたりした。泉は良一がときどき葉子が飢え死にしていないか様子を見に来ていることも、推敲を手伝っていることも知っている。
 原稿を取って編集部へ戻るところなら、帰りを急ぐのかなと思い、良一はそのまま泉の横を通り過ぎようとした。ところが、泉はちょっと困ったような顔をすると、小声で良一に話しかけてきた。
「戸塚さん。ちょっとご相談したいんですが、お時間ありますか」
「え、俺にですか? かまいませんけど……」
「すいません」
 泉は丁寧に頭を下げ、近くの喫茶店にでも、と階段の下を手で示した。
 戸惑いながらも、なんとなく相談の内容に察しがついたので、良一は素直に下に降りた。
 歩いてすぐ、アパートの階段を下りたところから見える場所に、こじんまりした喫茶店がある。葉子の部屋に寄る度に前を通りかかるが、中に入るのは初めてだった。
 店内には静かなジャズが流れており、カウンターの内側では随分年配のマスターが食器を拭いていた。
 奥のテーブル席に陣取ってブレンドを二つ頼むと、届くのを待たずに、泉が話を切り出した。
「どうしちゃったんでしょうか、ヨーコ先生」
 泉が何を聞きたいのかは察しがついていたが、それでも良一は困ったようにあごをかいた。
「さあ……。スランプなんじゃないですか、珍しく」
 そうとしか言いようがない。泉は分かっていたことだろうに、良一の口からはっきり言葉にされるとがっくりきたのか、コーヒーを持ってきた店員に目もくれず、頭を抱えてしまった。
「ああ、どうしよう。締め切りなのに原稿どころか、おおまかなプロットさえ上がってこないなんて」
 泉の嘆いた内容に、良一は眉を上げた。
 こんなことは、初めてだ。葉子は赤を入れ出してからは長いが、初稿はいつも信じられないくらい早い。締め切りを提示されたのはもう三ヶ月は前だった。
 最近はたしかにペースが落ちていたが、それでも良一の知る限り、ヨーコは完全に筆を止めていたわけではなかった。現に、四日ほど前に寄ったときにも、パソコンに向かって執筆しているところだった。それが今日になっても泉に原稿を渡していないということは、途中で行き詰って書けなくなったということなのだろう。
 心配に思ったのは良一も同じだったが、泉をこれ以上不安にさせるのも気の毒になり、すぐに動揺を押し殺して笑ってみせた。
「まあ、あいつ、どうせ書き直しと校正に時間食うんだから、締め切りっていっても、まだ余裕があるんでしょう?」
 コーヒーカップを手に取りながら、良一はわざと軽く言う。だが、泉は弱り果てたように、さらに眉を下げてしまった。
「それは確かにそうなんですけど。でも、こんなの初めてですよ。せめて書きかけでもプロットでも、何かいただいて帰らないことには、編集長に何て言われるか……」
「ああ……でも、あいつ書き始めたら、途中で飽きない限りは最後まで一気だし、プロットなんか立ててるところ、一回も見たことないですよ。泉さんもご存知でしょう」
 良一がそう言うと、泉はええと頷いて、泣きそうな顔になった。
「何かあったんでしょうか。戸塚さん、ご存じないですか。先生がスランプに入った、きっかけとか」
 そう聞かれて、良一はうーん、と首をひねった。
「それが原因かどうか分かりませんが、この前から、恋愛が書けないのがどうのとは言ってたんですよね。今回、恋愛色を強くするんですか?」
 逆に良一がそう聞くと、泉は目を丸くした。
「ええ? ……そういえば打ち合わせの途中で、ちょっとくらい恋愛要素を入れてみたらどうでしょうかとは、確かに申し上げましたけど」
 泉は目に見えて青くなった。自分の責任かもしれないと思ったのだろう。
「でも、それはどっちでもいいですよ、っても言ったのに。先生、気にしてるのかなあ」
 ああどうしよう、とうろたえる泉が気の毒になって、良一は大丈夫ですよと明るく声を掛けた。
「そんなに心配しなくても、あいつのことだからそのうちいきなり閃いて、あっという間に書き上げますよ。それにですね」
 葉子が隠していることを無断で言ってしまっていいものか迷いつつ、黙っておくのも泉に申し訳なくなって、良一は開き直ることにした。
「あいつ実は、出版してもらうつもりのない小説のストック、山のように持ってるんですよ。どうも校正する時間があったら次の話を書きたいからって、泉さんに黙ってるみたいなんですが」
「ええ!?」
 泉は声を上げて立ち上がった。よほど衝撃だったのだろう。
 そんなものがあるならまとめて全部読ませてよ、と、口には出さなかったが、泉の目ははっきり言っていた。仕事である以上に、泉も沢ヨーコの一ファンなのだ。
「だから、いよいよ期限が危なくなったら、その中からマシなやつを見繕って、手直しさせれば何とかなります」
 あいつがとっくに書き終わった小説にゴーサインを出すかは分からないけど、と、良一は口の中で続けた。葉子が渋ったときは、こうして暴露した責任がある以上、自分も説得しよう。小説で金もらってんだから甘えるなと言い聞かせれば、たぶんしぶしぶでも手直しするだろう。
 しばらく葛藤する様子で黙り込んだ泉だったが、コーヒーを一口飲んで気を落ち着けると、ちょっと安心しましたと、複雑な笑顔を見せた。
 丁寧に礼を言う泉と別れ、良一は葉子の部屋を訪ねた。葉子はやはりうろうろ部屋中を歩き回っていて、なんだか落ち着かないような表情をしていた。
「あ……りょーちん」
「お疲れ。どうよ、調子は」
 差し入れの弁当を見せながら、良一は聞いた。泉と話したことは、今の段階では言わないでおこうと決めながら。前の原稿を引っ張り出すのは、いよいよ切羽詰まってきたときの最終手段だ。
「ぜんぜん、だめ」
 葉子はがっくりと肩を落とした。
「まだ恋愛描写のことで悩んでるのか? 将来的には知らないけど、とりあえず今回のは別に今までどおりの作風で書いたって、いいんじゃないのか」
 良一がそう言うと、葉子はうん、だかううん、だかよく分からないうなり声を立てて、食欲がなさそうな顔で弁当をつついた。
 



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