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  それから数日が経った日曜の夕方だった。良一が午後五時前ごろに部屋を訪ねると、葉子は電気も点けずにパソコンに向かっていた。
 声をかけて近づくと、葉子は何故かぼろぼろ泣きながら、自分ではそのことに気付いていないような様子でディスプレイをじっと睨んでいた。執筆の手は完全に止まっている。
「ど、どうしたんだ」
 今までにない様子に驚いた良一が肩を揺さぶると、葉子は半分正気に戻った顔で「りょーちん」と呟いて、とりあえず手で涙を拭いた。床に転がっていたティッシュの箱を渡すと、若い女性とは思えない豪快さで鼻をかむ。
 それから葉子は何も言わず、再びディスプレイに向かったが、五分経っても、十分経っても、まったく手が動かないまま、ただただ固まっていた。
 良一は窓から入ってくる子ども達の声や虫の音を聞くともなしに聞きながら、しばらくじっと待っていたが、いつまでも動かない葉子の途方に暮れた背中を見て、心を決めた。普段は創作中の邪魔はしないようにしているが、この様子では、今日はもうどうにもならないだろう。
「葉子、出かけよう。気分転換するぞ」
「え……でも、りょーちん」
 原稿が、とディスプレイと良一の顔を交互に見る葉子は、まだ泣いている。まるで小さい子どものようだった。
「いいから、そのままじゃ書けないだろ。外の空気吸えば、ちょっと違うさ。顔洗って、着替えて来いよ」
 もう一度言うと、葉子はこっくりと頷いて、よろけながら洗面所に向かった。顔を洗う水の音。もたもたと、部屋着からとりあえず無難そうなTシャツとジーパンに着替えて、頭はぼさぼさのままで出てきた。
 良一は、葉子の手を引いて外に出た。そうでもしなければ、階段から足でも踏み外しそうな足取りだった。
 二人はそのまま無言で、川沿いの道を歩き出した。西の空が、夕焼けで仄かに赤らんでいる。
「日が暮れるのが、早いな」
 ぽつりと呟いた良一の声を聞いているのか、いないのか。葉子は無言でとぼとぼとあとをついてきた。
 ときどき突っかかるように、葉子の足が止まる。手を放して先に歩くと気付かず置いていきそうで、良一は葉子の手を引きながら、何度も立ち止まっては、また歩いた。
 カラスの声や、夕食の支度をする家庭の生活音や、友だちとふざけながら家に帰る子ども達の声を聞きながら、二人ともほとんど何も話さず、ただ川沿いをひたすら歩いて、やがて日が暮れきったところで部屋に戻った。
 良一が来るときに買っていた食材で炒飯を作って、二人で黙ってそれを食べたあと、葉子は居間の床に転がってすぐに寝てしまった。
 
 二日後の仕事帰りに寄ったときには、葉子はもう元通りにけろっとしていた。
「りょーちん」
 葉子は良一の顔を見ると、にかっと笑った。
「こないだはありがとー」
「おう」
 良一はどさどさと、スーパーのレジ袋を床に置いた。冷蔵庫を開けて、整理しながら中身を入れていく。
「どしたの、今日はすごい量だね」
 葉子が目を丸くする。ああ、と頷いて、良一は冷蔵庫を閉めた。
「一昨日、言いそびれた。俺、明日から二週間、九州出張だから」
「えー、いいなあ。あたしも行きたいなあ、九州」
 そののんびりした返事を聞きながら、良一は不安に駆られた。今日は平気な顔をしているが、あんな調子で二週間もこいつ、ちゃんと生きていられるだろうか。
「とにかく食うもんはちゃんと食えよ。帰ってきて餓死してたら、俺泣くからな」
「わかった」
 葉子は何が嬉しいのかニコニコして、素直に頷いた。いつも、返事はいいのだ。返事だけは。
「ねー。おみやげ買ってきてよ、おみやげ」
 葉子の能天気な笑顔に、良一はため息を零しながらも頷いた。
「はいはい。何がいい」
「九州のどこ行くの?」
「熊本と博多」
 へえ、いいなあ、ともう一度言って、葉子はよだれを垂らしそうな表情になった。
「どっちもラーメンだよね」
「そういうのは現地で食べなきゃ意味ないだろ」
「そっかあ。ええとね、じゃあ辛子レンコンと、朝鮮飴と、博多通りもんとね、筑紫餅と、辛子明太子と、あとねえ」
 放っておくと延々と続きそうな葉子に、良一は手の平を向けて遮った。
「お前、無駄に詳しいな……九州出身じゃなかっただろ」
「うん。お父さんがね、転勤族ってやつで、あちこち単身赴任するんだよ。今は、お母さんも一緒に行ってるから、単身じゃないんだけど」
 説明の内容よりも、葉子にしてはすらすらと説明が出てきたことの方が、良一には意外な気がした。
「九州にもね、二回行って、全部で六年くらいいたんだ。それでたまーに帰ってくると、駅とか空港とかで買ったんだろうなって感じのおみやげ持ってくるの」
 へえ、と良一は相槌を打って、それ以上は聞くのをやめた。葉子が嬉しそうな、それでいてどこか寂しいような、複雑な表情をしたからだ。
「……まあいいけど、そんなに買ってこれねえよ」
「えー。じゃーなんか、その中の一個でいい」
「はいよ」
 こっちの心配も知らないで、と呆れる良一に、葉子はふと真顔になって目線を合わせてきた。
「りょーちん」
「なんだよ」
「気をつけて行ってきてね」
 かけられた言葉の内容に不意をつかれて、良一は目をしばたいた。
「ああ」
 いいからお前は自分の心配でもしてろと、よほど言おうかと思ったが、言わなかった。

 二週間後。帰路に着く前からすでに不安だった良一は、どうにも気になって、食材を買い込むと、自宅に帰る前にまず葉子のアパートに寄った。
 そうしたら案の定というか何と言うか、葉子が部屋で行き倒れて、床に転がっていた。
「食糧をもっと置いていくべきだったか……途中で一度くらいは正気に返ると思ってたのに」
 良一はがっくりと肩を落として、葉子の頭をつついた。
「りょーちん、おなかへった……」
 ぐったりしていた葉子は顔を上げて、切ない声で訴えかけてきた。
 駄目だこいつ、放っておくとそのうち、本当に部屋の中で飢え死にしてるに違いない。良一は真剣にそう思いながら、買ってきた食べ物の中からとりあえずバナナを取り出した。皮を剥いてから、葉子の手に握らせる。
「なんか作るから、とりあえずこれ食べてろ」
「あい……おみやげは?」
 葉子はバナナを頬張りながら、現金にも催促してきた。
 なんだ元気じゃねえかこいつ。良一は口の中で毒づいてから、ため息をひとつ。
「辛子レンコン買ってきた。あとでな」
 良一はそういい置いて、台所に立った。
 まだ季節がら早いかもしれないが、今日は水炊きにするつもりで材料を買ってきた。それなら、残った分を葉子が明日食べるだろうから。
 とにかく二人で食事を摂ってから、良一は葉子に上がったらしい原稿を印刷させた。
 旧型のプリンタがのんびり紙を吐き出すのを待つ間、良一は残った鍋をコンロに運び、使った食器を片付けた。葉子はその間、やはり居間で眠りこけていた。
 台所を片付け終わると、良一はいつものようにコーヒーを入れて居間に落ち着いた。印刷された原稿の束は、けっこう厚い。加筆しないでも、ちょっと厚めの文庫本程度にはなるんじゃないかと、良一は感覚的に思った。これは時間がかかるなと、腰をすえてかかるつもりで文字を追い始める。
 最初の三ページですでに、いつもと違う予感がした。
 良一は居住まいを正して、さらにページをめくる。書きなぐられたばかりの初稿だということは、読んでいるうちに頭から抜け落ちた。
 あれだけ恋愛ものにこだわっていた割には、それほど恋愛に重点を置いたストーリーではなかった。
 だが、綴られた主人公の心情はとびきり切なく、今までの作風になかった寂しさと人恋しさが、作品の色合いをがらりと変えていた。後半、良一は葉子を起こさないように気にしながら、何度か鼻を啜った。
 読み終わってから、震えがくるような出来だった。
 誤字は相変わらずあったが、作風の変化だけでなく、描写の分かりやすさ、読みやすさが、これまではなんだったんだと思うような、格段の進歩を遂げていた。
 校正も何もしないうちに、良一は葉子を起こした。
「うー、読んでくれた……?」
 眠そうに目をしばたかせる葉子の胸倉をつかみそうな勢いで、良一は詰め寄った。
「お前、これ、出版用の原稿だよな」
「あー。最初はそのつもりだったんだけど、途中からあんまり考えてなかった。ずっと悩んでたら突然降ってきたから、とりあえず書いたの。うんうんうなりながら」
 いつものようにすらすらとは書けなかったと言いながら、葉子は珍しく不安げな目をして、良一の反応を待った。
「……これ、誤字直したら、すぐ泉さんに見せろ。最初の打ち合わせと違ってもいいから。そんで駄目って言われたら、どっかよその出版社に持ち込め。このまま眠らせんなよ、絶対」
 勢い込んで良一が言うと、葉子はやっと、ほっとしたように笑った。
「そう? りょーちんがそう言うなら、そうするよ」
 葉子はそう言ったあと、そのままちょっとぼんやりした。
 まさか、またすぐに小説のカミサマのご来臨かと思った良一は、訝しく葉子の顔を覗き込んだが、そうではなかった。葉子はのそのそと起き上がって正座すると、良一の目を見て、いつもの間延びした口調で喋り始めた。
「ねー、りょーちん」
「なんだ?」
 良一が落ち着きを取り戻すためにコーヒーを口に運びながら聞き返すと、葉子は真顔で言った。
「結婚して」
 良一はむせた。
「おま……」
 原稿の上にこぼしたコーヒーを拭きながら、いったいこの女の思考回路はどうなっているんだと顔を睨みつけると、葉子は首を傾げた。
「だめ?」
 しょんぼりした様子の葉子をまじまじと見て、良一は呻いた。
「……お前、書き上げてハイになってるだけなんじゃねえのか」
「あたし、いつもこんなテンションだよ」
 たしかにいつもと同じぼけっとした声で、葉子は言った。まあそりゃそうか、と変に納得しながらも、良一は何度か咳をした。
「どういう風の吹き回しなんだ」
 良一は照れ隠し半分、むすっとして聞いた。これで『恋愛小説を書く修行のため』とか言ったら、こいつ一発ぶん殴ろう、と思いながら。
 葉子は考え込んだ。何でなのか、すぐに言葉で説明できるほど、自分の中で整理できていないのだろう。
 沈黙は長かったが、良一は根気強く葉子の答えを待つことにした。
 ――仕方ない。作家のくせに口下手だから、こいつは。
「ええと……なんかね」
 たっぷり二分くらいは考えた後で、葉子がとつとつと話し始めた。
「こないだから、書いてる間中、小説のカミサマに『いいのか、このままだと、誰にも理解されないまま、ずうっと独りだぞ』って、言われてるみたいだったんだよ」
 たどたどしい口調で、葉子は続ける。
「考えたこととか、人に分かってもらおうとかね。こないだまで、あんまり思ってなかった。とにかく、書きたくなったこと、書きたいだけ書ければ、そいでもう幸せかなって。なんとなくそんな思ってたんだけど」
 葉子は言いながら自分で納得したのか、うんうんと頷いた。
「でもやっぱり、ずっと独りなんて、そんなん嫌だって、思って」
「そうか」
 その答えになっているような、いないような説明に、それでも良一はなんとなく分かったような気がして、ただ頷いた。
 葉子はそこでまた止まり、しばらく考え込んでから、続きを話し始めた。
「りょーちんはさ、ずっと、もっと人に分かってもらえるように書けって、あたしに言ってくれてたよね。なのにあたし、あんまりちゃんと考えてなかった」
 そうだろうな。お前はそういうやつだよ。良一はそう思いはしたが、黙って続きを促した。
「でも、いきなり思ったんだよね。誰にも分かってもらえないなんて、そんなのやだ」
「うん」
 良一は頷いた。それはずっと、葉子に対して求めていたことだ。
 書きたいものを書いて満足だと、葉子はいつも言っていた。読んでもらいたい、理解されたいと、そういう意気込みが足りないことが、いつももどかしかった。
 誰の賞賛もいらないというのは、ただ無欲だというだけではなく、他人の理解を拒む姿勢のような気がして。
「りょーちんもさ、今はこうやって心配してくれて、よく来てくれるけどさ。でも、ずっと甘えてたって、いつまでも、あたしが自分のことしか考え切れないままでいたらさ、そのうち、りょーちんも呆れて、どっか行っちゃうんじゃないかって、思ったらさ……っ」
 葉子は言いながら、急に言葉をつかえさせて、ぽろぽろ涙を零した。
「……そういうこと、ここんとこ、ずっと考えてたんだよ」
「うん」
「あたし、もっと、りょーちんのこととか、小説読んでくれてる人のこととかさ、考えるから。頑張って考えるから、だからさ」
 そこまで言ったら、それ以上言葉が続かなくなったのか、葉子は黙り込んで、良一の顔をじっと見た。まだ涙が溢れている。ついでに鼻水まで垂れていた。
「……とりあえず、鼻かめ」
 ティッシュを箱ごと渡すと、葉子は素直に鼻をかんで、Tシャツの裾でぐちゃぐちゃになった顔を拭いた。
 なんだかなあ。そう思いはしたが、良一はそれほど悩まなかった。
「いいよ」
 良一の返事に、葉子は何秒か考えるような顔をしてから、やっと驚いたように声を上げた。
「え」
 ぽかんと口を開ける。あまりに意外そうな表情だったので、良一は機嫌を悪くして、眉間に皺を寄せた。
「え、ってなんだよ」
「ホントに?」
 まだ驚いたような調子で、葉子が念を押す。
「冗談だったのかよ」
「いや本気」
 良一の軽口をすぐ否定して、それでも葉子は、ほんとかな、喜んでいいのかな、というような戸惑った顔をした。
「まあ、しょうがねえな。お前、ほっとくと、いつかこの部屋でのたれ死んでそうで、俺も怖えもん」
 わざと憎まれ口のように言うと、葉子はにへら、としまりのない顔で笑った。
 
 その一件からほぼ一年後の、よく晴れた秋の日。
 二人は入籍し、ささやかな式を挙げた。
 結婚式を派手にやるのは嫌だとの葉子の意見を容れて、神前式に親しい身内だけを呼び、披露宴は省くことにした。
 良一の方の両親は息子だからか、それとも妹が先に嫁いでいるからか、喜んでくれてはいるものの、あっさりしていたが、ひとりっ子である葉子の親は、さすがに感極まった様子だった。
 特に、母親よりも、不仲だと聞いていた葉子の父親の方が、花嫁姿の葉子を見るなり人目もはばからずおいおい泣き出したので、良一は心底驚いた。半年前に葉子の実家まで挨拶に行ったときには、いくらかむすっとしてはいたが、あっさりしたものだったのに。
 葉子はそんな父親の様子を見ても、感動してるんだかどうだかよく分からない、いつものぼーっとした顔のままだった。そこはもらい泣きしておけよと、良一は思わず突っ込みそうになったが、聞こえたらまずいと思い直して、なんとか沈黙を貫いた。
 先の小説は三ヶ月ほど前に無事刊行され、順調に売れ行きを伸ばしている。今度、めでたく重版がかかる次第となったところだが、それはいいとして、なんと式の三週間後には、次の新刊の締め切りが迫っていた。
「明日から新婚旅行なんだぞ。昨日までに終わらせるって言ってたくせに、お前ってやつは」
 式が終わって控え室に戻るなりくどくど言い始めた良一に、葉子ははいはいと調子よく相槌を打ったあと、珍しく呆れたように苦笑した。
「なんか結婚するというよりは、編集者に住み込まれるような気分……」

(終わり)

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