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 生ぬるく湿った風が吹き付けて、戸塚良一は、暗くなってきた空を見上げた。日暮れ時というだけでなく、空が曇り始めている。
 九月中旬。もう秋と言っていいはずだが、朝晩はともかく日中はやはり暑い。営業マンには特に、残暑が厳しい季節だ。
 良一は汗が首をつたうのを感じて、顔をしかめた。片手はコンビニのレジ袋でふさがっている。もう片方の手でハンカチを出して汗をぬぐいながら、築何十年か分からないようなアパートを見上げた。
 鉄製の階段の、なんとなく不安を誘う軋みを靴底に感じ、すっかり錆びの回った手すりに手を添えながら、良一はゆっくりと二階へ上った。
 二〇四号室。良一はドアの前でちょっと迷ったあと、いきなりドアノブを捻って、ため息をついた。案の定、鍵が開いている。
「またかよ……」
 勝手に部屋に上がると、部屋の主が旧式のデスクトップパソコンの前で、キーボードの上に突っ伏して寝ていた。
 良一はひょいと横からディスプレイを覗き込んだ。ワープロソフトが開いていて、書き上げた小説らしい文章の続きに、おそらく倒れこんだ跡だろう「で:9・いいぇうs;:;あfd」という謎の表示が続いている。
「おい、葉子」
 良一が呼びかけながら肩を揺さぶると、
「あー、……りょーちん」
 と、寝ぼけた声で返事が返ってきた。
「お前、また玄関の鍵開いてたぞ。いくらなんでも独り暮らしなんだから、もうちょっと気をつけろよ」
 話を聞いているのかいないのか、葉子はぼうっと良一の顔を見上げて、一言、
「おなかすいた……」
 そう呟くと、力尽きたように、再びキーボードに突っ伏した。
 
 城沢葉子は一応、プロの小説家だ。
 沢ヨーコという、ほとんど本名そのままのペンネームで執筆している。まだデビュー三年目で、出した本は五冊。そのほか、雑誌に短めの読みきりをいくつか載せてもらっている。いずれも尚景出版というところからの刊行で、ここはそれほど有名な出版社というわけではない。若者向けの軽めのファンタジーやライトSFを中心にを手がけている会社だ。
 これまでに出した葉子の本は、そのレーベルの本にしてはなかなか売れたが、実収入としては、親がこまめに送ってくれる食料品と併せても、細々と食べていくのがやっとといった程度のようだ。
 だが、他の新人作家がおそらくそうしているように、別のアルバイトをしながら小説を書くということが、葉子にはどうしてもできない。兼業では締め切りに追いつかないような遅筆だとか、そういうことではなくて、例えプロの作家ではなかったとしても、人に雇われて仕事をする能力そのものがないのだ。
 一度小説のカミサマが降りてくると、葉子は何もできなくなる。それが電車の中だったらどこまでも乗り過ごすし、散歩中だったら知らない町に迷い込む。コンビニのレジ打ち中だったら、目の前で万引きをされようが、レジ前で待つ客から怒鳴られようが、現実に帰ってこない。そんな調子で、まともな仕事ができようはずがない。実際、大学卒業後にコンビニやファミレスなどで働こうとしたことは何度かあったのだが、いずれもすぐにクビになっている。
 こういう具合だから、もちろん、葉子の生活はおぼつかない。
 単に収入が心もとないというだけでなく、ときどき食べたり寝たりするのを忘れて、自分の部屋で行き倒れていることさえある。
 本人に聞いたところによると、書いている途中でも、頭を小説の中に置いたまま、部屋にあるものを食べたり、風呂に入ったりすることは何とかできるようだ。疲れきって一眠りしても、目が覚めたときにすぐ執筆を再開すれば、なんとかなる。だが、一度筆を置いて部屋を出たが最後、滅多なことではその作品世界に戻ることができなくなる。それで、集中が切れるのを惜しんで、外出して食事を取るという、たったそれだけのことができない。そういうことらしい。
 同じ大学の小説サークルにいた時代からそんな調子だったため、良一を始めとした仲間達が心配して、こまめに様子をのぞきに来ていた。
 昔、葉子に交際を申し込んだ奇特な後輩がいた時期だけは、その後輩に全て任せることになり、他の皆は来るのを控えていた。だが、頻繁に会話が成立しなくなり、待ち合わせしても三回に一回は忘れる葉子では、相手の忍耐もじきに切れたのだろう。良一が把握している限り、三ヶ月も続かなかったようだった。
 やがて卒業した後、地元に戻る者、遠方に就職する者、激務に追われて人の面倒どころでなくなった者と、ひとりまたひとりと減っていき、最後に良一が残ったのだった。
 良一にとっては、このアパートは会社帰りに寄れる場所なので、大した苦にはならない。だが、葉子も一人暮らしを始めてもう長いのだから、いくらなんでももう少し生活能力がついてもいいはずだ。そう呆れながらも、今のところ良一のこの習慣はずっと続いている。
 良一はだいたい週に一度のペースで顔を出しているが、葉子と会話が成立する状態なのはそのうち二回に一回程度だ。あとの半分は何かに憑かれてでもいるかのように猛烈な勢いで小説を書いているか、または目を開けたままあっちの世界にトランスしている。
 普段からそんな調子なのに、その割りに葉子の著作の数は少ない。書いている間中、完全に自分の世界に没入してしまうせいか、書きあがった初稿は説明不足で、人に読ませるレベルにならないからだ。それを編集と打ち合わせて推敲し始めてからが、とにかく長い。確かに自分で書いたもののはずなのに、一度書き終えてしまうと、自分がどうやって書いたのか分からないといった様子で、自由に書き足したり削ったりすることができなくなるらしい。
 ある種の、天才なのだと思う。
 葉子の小説は確かにまだまだ技術的に荒い部分があるし、何より書きたいことだけを書くという調子で、人に読ませる工夫が下手くそだ。
 だが、そういった欠点を差し引いても、葉子の書くものは面白い。読み始めると引き込まれる、続きを求めずにいられなくなる『何か』がある。


  コンビニ弁当をもそもそと食べながら、葉子は弁当を買ってきてもらったことの礼やら、味の感想やらを口にした。
 良一は先に食べ終わって、汗を拭きながら缶ビールを空けた。金のない葉子は部屋にエアコンをつけておらず、壊れかけた扇風機と開けっ放しの窓だけでは、とても充分な涼気は得られない。特に今日は風がほとんどなく、部屋の中はむっとするような暑さだった。
 葉子は夏ばてぎみなのか、箸が止まりがちになっている。
「野菜、残すなって」
「あい」
 言われた葉子は頷いて、大量の野菜をがばっと口に放り込むと、豪快に咀嚼して飲み込むなり、喉に詰まらせて苦しみだした。
「子どもかお前は……」
「りょーちん、お茶、とって」
 胸を叩きながら呻く葉子の手に、良一は何も言わずに紙パックの緑茶を渡した。 
「ありがとー」
 葉子はお茶でどうにか食べ物を飲み下したとたん、けろりと忘れたようにまた野菜をかきこんだ。飲み損ねた緑茶が、机の上にこぼれている。良一はため息をついた。
 それでも今日は会話が成立するから、きりのいいところまで書き終えて落ち着いたところなのだろう。引き続き脳内が創作モードに入っていれば、葉子とまともに会話を交わすことはほとんどできない。
「今日書いてたの、こないだ泉さんと打ち合わせてたやつ?」
 泉は、葉子の担当編集だ。二人よりひとつふたつ年上と思われる女性編集者で、まだベテランとは言えないが、その分熱意に溢れている。泉のなんとも人の良さそうな顔を思い浮かべながら良一が聞くと、葉子はまだ弁当を食べながら、首を横に振った。
「ううん、そっちのに行きづまってる間に、いきなり書きたくなったから」
 間延びした調子の葉子。ものを食べながら喋るから、食べかすが机に落ちる。葉子はそれを目で追うと、指で拾って、ためらわずに口に入れた。
「……。お前、一応はプロだろ、商売の方から先にやれよ」
「あー、そういうのは、あたしじゃなくて神様に言って」
 小説のカミサマが降りてきたら、もう葉子自身にはどうしようもないのだと、彼女は時折そんな風に言う。
 別に怪しい宗教にはまり込んでいるわけではない。気分が乗ると過剰にのめり込むのに、集中が切れた途端に全く書けなくなるむらっ気と、自然に湧き上がってくるインスピレーションとを指して、カミサマが降りると言っているようだ。
 大学時代のサークル仲間にも、『書いているのは俺なんだけど俺じゃなくて、もう一人の自分が』云々と言っていた奴がいたが、そいつも葉子ほど極端ではなかったように思う。どちらにしても、良一にはその感覚が今ひとつ理解できない。
 ただ、葉子が執筆に関して、自分で意識してどうこうできないというのは、長い付き合いでよく分かっている。
「じゃ、推敲いらねえのか。……でも一応、読ませろよ」
「ん。印刷してくる」
 良一はときどき葉子の小説を読んで、校正や推敲の手助けをしている。とは言っても、もちろんプロの編集のようにはいかない。担当の泉に見せる前に、分かりやすい誤字脱字を指摘するのと、読んでいて分かりにくい部分や矛盾を伝えるくらいのものだ。
 良一は印刷を待つ間に勝手知ったる他人の台所でコーヒーを入れ、居間のど真ん中を占拠した。
「はい」
 葉子から手渡された原稿は、一センチ近い厚みがあった。後で原稿用紙の枚数に換算しやすいように、一枚あたり八百字になるように印刷してある。最後のページを捲って端に印刷された番号を見ると、八十六枚あるようだった。
 どこかに持ち込むでも、ホームページなどを作って公開するつもりでもなく、ただ書きたいがために書くだけのものに、一体どれだけの労力を費やしているのか。
 良一は呆れながらも、冒頭に戻って印刷された文字を追い始めた。
 葉子は腹が満ちたら眠くなったのか、そのまま床に転がってうつらうつらし出した。
 コーヒーの湯気が、扇風機の風に揺られながら、天井に流れていく。
 やがて雨が降り出して、遠くで雷まで鳴り始めが、良一は気付かない。手元に置いたコーヒーが冷めていくのに口もつけず、ひたすら読みふけっていた。
 良一が読み終えて我に返るまでに、一時間ほどかかっただろうか。
 読み終わってやっと、良一は雨の音に気付いた。立ち上がって、窓を閉めて回る。風がないおかげで降り込んでいないのが幸いだった。今日は傘を持ってこなかったが、たしか、前に寄ったときに忘れていったものがある。
 良一はすっかり冷めたコーヒーを飲みながら、頭の中で内容を反芻した。それから居間においてある書棚の上から葉子の赤ペンと付箋を借り、思い出しながらページを捲る。まずは、読みながら気付いた誤字を拾って、一つずつ印をつけていく。最後まで終わったところで、もう一度思い返した。分かりにくかった表現、つまづいた箇所……。
 読みながら書き込めばいいものだが、そうやって水を差すのが惜しかった。それでも良一は記憶力がある方だから、気になった箇所を忘れたりはしていない。
 気が済むまで赤を入れるのに、更に十分ほどかかっただろうか。良一はひと段落して、長い息を吐いた。
 こうやって良一が逐一指摘したところで、葉子は一度書き終わったものにはあまり興味を示さない。その上、商売用ではないのだから、まず書き直したりはしないだろう。
 それが分かっていても、良一はいつも同じようにしていた。葉子の書き方が上達するようにとの、願いを込めて。
 ただのおせっかいかもしれないが、せっかく葉子が書いた物語が、日の目も見ず、練習の土台にもならずでは、あまりにもったいないとの気持ちがあるからだ。良一は、大学時代からずっと、葉子の小説の一ファンでもある。
 良一はペンを元の場所に戻すと、まだ寝ている葉子の肩を揺すった。
「おい、起きろよ」
 葉子は目を開けて良一を見ると、夢でも見ていたのか、訳のわかっていない様子で何度も瞬きをした。
「……あー。寝てた……?」
 いつも以上にぼーっとした声で聞く葉子の頬には、フローリングの木目がくっきり写っている。挙句に口の端からよだれが溢れていた。
「よだれ垂れてんぞ」
「そう?」
 葉子は起き上がって伸びをすると、恥じらう様子もなく口元をぬぐった。
「お前、分かりにくいよこれ。いっつも言ってんだろ。誤字もだけど、もうちょっと読み手に親切に書けって」
 どうせ言っても聞かないんだろうなという諦めの混じった調子で、良一はぼやいた。
「あー、そうだね」
 言われた葉子は、何の反論もせずに頷いた。聞くつもりがあるのかないのか、何度言っても、葉子の初稿は読む者に不親切なままだ。良一が初めて葉子の小説を読んだ五年前から、ほんの少しは読みやすくなった、かもしれない、という程度。語彙や表現方法はずいぶん増えたし、内容もどんどん面白くなっていくのに、そのあたりだけがほとんど進歩しない。
 葉子の生き方が、作品にも出ている。そういう気が、良一にはする。葉子には、他人との関係を維持しようとする努力が、致命的に足りないのだ。
 葉子は自分から人を嫌ったり避けたりすることは滅多にない。だが、待ち合わせをしても創作モードに入れば忘れてすっぽかす、一対一で話していても途中で会話がかみ合わなくなる、そうした根本的な問題を直してまでは、人との関係を維持しようとしない。
 それでも大学時代は創作仲間同士でつるんでいたので、周囲は比較的葉子の非常識さに理解があった。皆、腹を立てたり叱ったりはしても、葉子を見捨てて付き合いをやめようとする者はほとんどいなかった。
 だが、周囲がもっと幼い子どものうちは、どうだっただろうか。葉子は高校までの頃の話をほとんどしないが、昔からこういう性格だったのならば、少なくともそれなりに孤立していただろう。実際、大学のサークル仲間は今でもたまに連絡を取り合っているが、それ以前の友人の話をしているところを、あまり聞いたことがない。
 葉子の小説に対する姿勢が、良一が考えているようなところから来ているのならば、言われたからといってすぐに直せるものではないのかもしれない。だが、そのまま放っておいてもいいとは、良一には思えない。
「出版しない趣味の作品ったって、雑に書いてちゃ練習になんねえだろ」
 諦めきれずにくどくど言って聞かせる良一に、葉子は反省しているように見える態度で、うんうんとうなずいた。
「まあ、でも」
 良一はぼそっと言いかけて、続きを口にするのをためらった。
「でも?」
 葉子は首を傾げながら、続きを促した。
「……お前、そのうち絶対、今の何十倍も売れるよ。賭けてもいい」
 良一は言いながら、かすかな苛立ちと、奇妙な寂しさとを胸のうちに感じた。
 人に読ませるために書いているという意識が薄いくせに、それでも面白いものを書いてしまう葉子の才能が、良一には正直なところ、妬ましい。
 良一も高校のころから小説を書いている。とはいえ、葉子のように、書かないと死んでしまうというようなものではなく、あくまで趣味の範囲だ。大学を出た後は、医薬品会社の営業員になって、仕事の負担にならない程度に、休日や早く帰った日の夜にちょっと走り書きするくらいのものだ。
 昔から要領のよかった良一は、大抵のことをそつなくこなし、それなりに向いた仕事に就いた。生来ひどく口が悪いのだが、そのままでは人間関係の妨げになるからと、高校以降はそれなりに人当たりのいいふるまい方を身につけた。やがてそれが板について、今はたいした苦もなく営業職をやっている。
 とにかく無難にやっていくということが良一には身に染み付いている。葉子のように小説家になることを、目指しもしなかった。自分の才能のなさに見切りをつけたということだけではなく、仮に良一に充分な才能があったとしても、プロ作家なんていう不安定な道には進まなかっただろう。
 だがそれでも唯一長く続いている趣味で、書くことは本当に好きだと感じている。だからその裏返しで、葉子の才能と、その才能を活かしきれないでいる姿勢が悔しい。
 そうした思いも、良一は大学時代、葉子に面と向かって言ったことが何度もある。
 その才能が妬ましいとか、もっと真面目にやれとか、そういうことを頭ごなしに言われても、葉子はいつもけろっとしていた。
 こちらの憤りのわけをいまいちよく分かっていないようなその態度に、その頃の良一はよく腹を立てた。だが、そういう奴だからこその長い付き合いでもある。葉子をはじめとした、毒を隠さなくてもいい数少ない友人たちは、良一にとって貴重な存在だ。
「ああ、それからお前、いつまでそのパソコン使う気なんだ。次の印税が入ったら、今度こそ新しいの買えよ。書きかけのデータ、飛んでも知らねえからな」
「あー……」
 葉子の返事が適当になってきた。また眠くなってきたのかと思って顔をまじまじと見ると、葉子は心ここにあらずといった様子で、食卓をぼうっと見つめていた。どうやら次の小説が『降りて』きたらしい。
 良一はため息をついて二人分の弁当のカラをゴミ袋に捨て、ついでにざっと部屋を片付けた。
「じゃあな。残りの食いもん冷蔵庫に入れてあるから、朝からちゃんと食えよ」
 葉子はもう自分の世界に入りきっているようで、返事がない。
 良一は会話を諦めて玄関で靴を履きながら、傘立てを見た。やはり自分の傘が混じっている。
 もう声も掛けず、良一は外に出た。雨は先ほどまでよりは小振りになっているが、まだすぐには止みそうもなかった。
 良一は傘を広げながら、預かっている合鍵でドアに鍵を掛けた。執筆しているところを途中で邪魔されたくないから、来たら勝手に入ってと言って、ずいぶん前から渡されている鍵だ。
 付き合ってもいない男に合鍵を預ける葉子の神経が、良一にはいまいち分からない。どうせ貧乏だから、盗まれるものもたいしてないのかもしれないが、そういう問題ではないだろうに。

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