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 由加里は、ショッピングモールの駐車場に車を入れると、曇った空を見上げた。最近は秋晴れの天気が続いていたから、つい油断して職場に傘を置き忘れたままだったが、幸いにも雨が振り出す様子はない。
 今日は月曜で、『アリサ』は定休日だ。普段はつい手抜きがちになる食事も、休みの日くらいは少しまともに作ろうと思い立ち、ふらっと買い物にやってきたところだった。
 家から歩いていけるところにも小さなスーパーはあるが、そちらは品揃えが悪いので、由加里はこちらの方を利用することが多い。いわゆる郊外型商業施設と言う奴で、中心になっているのは深夜まで空いているスーパーマーケットだが、モール内には他にも電気店、喫茶店や書店などもあるし、小さいながら洋服や雑貨等の店も入っている。気が向けばそちらをふらりと回ることもあるのだが、今日は夕食の買い物だけを済ませてさっさと帰るつもりだった。
 由加里はまっすぐスーパーの方に向かい、天気が変わらないうちに用事を済ませようと、足早に中に入った。
 何を作るか決めてきたわけではなかったが、とにかく野菜がたくさん摂れるものがいいと思い立ち、野菜類のコーナーへ向かった。その途中、由加里は視界の端に見覚えのある人影を捉えて、思わず振り返った。
 食器用洗剤コーナーの前にいたのは、日見坂だった。後ろ姿しか見えないが、あの髪は間違いない。
 つい数日前の出来事を思い出した由加里は、できれば関わらずに済ませたいと思い、相手に気付いている様子がないことを幸いに、足早に通り過ぎた。
 日見坂はもう『アリサ』には来ないだろうか。そんなことをぼんやり考えながら、頭の残りの片隅ではシチューにしようかと材料を組み立てる。あの奇妙なやり取りはたった二、三日前のことだったが、記憶の中では既に現実味のない色あせたものになりかかっていた。
 由加里は目に付いた食材をカゴに放り込むと、さっさと会計を済ませた。あとは帰るだけだと、車の鍵をポケットから出しながら歩きはじめた由加里の足は、しかし、聞き覚えのある声に気付いてすぐに止まった。
「だから、謝って欲しいんじゃなくて、こういう間違いをする体制が問題なんだって言ってるでしょ!」
 振り向くと、レジから少し離れたところで、興奮した様子の日見坂がなにやら力説していた。
「ですから、誤解を招くような不手際があったことは大変申し訳ございませんが、これはただの単純なミスでして、けして消費期限の改ざんといったようなことではなくですね」
 途方に暮れたような声で、責任者らしい男性が釈明している。
 由加里は思わず聞き入ってしまった。人の会話を盗み聞きするのはどうかと思うが、そんな心配をするのも馬鹿馬鹿しいくらい、そのやり取りは周り中に筒抜けだった。すでに何人かの人間が遠巻きに様子を伺っている。
「だってそんなミス、おかしいでしょう、お肉の加工年月日の日付が明日になってるなんて!」
「いえ、ですから、日付をスタンプする機械を毎日手作業で設定しているものですから、食肉部のパート職員が、今日を十二日と思い込んでいたとのことで」
「今日の日付を間違えて印刷するようなやり方をやってるのに、消費期限までついでに間違えないなんて誰に分かるのよ」
 汗をかきながら頭を下げる責任者に、しかし日見坂は容赦しない。
 由加里は感心するやら呆れるやら、日見坂に同意したくなるのと同時に、思わずスタッフに同情してしまった。こんなクレームのつけ方をされて、うっかり者のパートさんが責任をとってクビなんてことにならなければいいけど、と。
 そういうことを考えながら見守る由加里の前で、日見坂は大きく鼻息を鳴らして、荷物を持ち直した。
「まあ、もういいわ。気をつけてよね。そのパートさんに注意して済ますんじゃなくて、従業員がそういう馬鹿なミスをしないで済むような体制を作ってくださいよ」
 由加里はその日見坂の言葉に驚いた。いかにも主婦然とした日見坂が、そういう経営論をかじったような視点でものを言うとは思わなかったのだ。だが、思い返してみれば、たしか彼女もパートでパン工場かどこかに勤めているはずだ。使われる立場のパート社員に同情したのかもしれない。
 それにしても、と、由加里は小さくため息をついた。周りの耳目をはばからずに思うことをそのまま言える日見坂のような人間が、疎ましいときもあれば、羨ましく思えるときもある。
「はい、今後はこのようなことのないようにいたしますので」
 そう言って一礼する責任者に背を向けて、日見坂は歩き出した。が、すぐにその体が何かに驚いたように硬直した。
 日見坂はばっと後ろを振り返った。
 つられて驚いた由加里も、日見坂の視線を追ったが、そこには変わったものはなかった。
 あっけにとられている周囲をよそに、日見坂は会計を終えて財布をしまおうとしていた若い女性の方にずんずん歩いていくと、いきなりその腕を掴んだ。
「な、なんですか」
 女性が怯えたようにそう言ったので、先ほどの責任者が慌てて歩み寄ったが、彼が間に入るより一呼吸早く、日見坂は言った。
「馬鹿なことはよしなさい」
 厳しい口調だった。
 女性は息を呑み、日見坂の目を見つめ返した。
 やがて、ゆっくりと女性の細い肩が震えた。
 周囲が固唾を呑んで見守る中、女性は大きくしゃくりあげるようにして、大粒の涙を落とした。
 日見坂は、状況が飲み込めずにいる周囲をよそに、女性の腕を掴んだまま、とんでもないことを言い出した。
「そんなもので首を括ったって、いいことなんかひとつもないわよ」
 その言葉の内容に、由加里は心底驚いた。由加里だけではない。他の客はもちろん、責任者やレジを打っていた社員、何事かと近くまで寄ってきていた警備員たちも揃って動揺している。
 だが、日見坂の言動は見当はずれなことではなかったのだろう。女性は否定せず、ぽろぽろと涙をこぼした。
 よく見ると、女性の買い物袋の中には、引越しの荷造りに使うようなロープが入っていた。それもビニール紐ではなく、太目の麻紐だった。
「何があったか知らないけど、今日はもうお家に帰って、何か美味しいものでも食べて、難しいことは明日また考えなさいな」
 少し優しい声で、日見坂はそう言った。女性は泣きながら、ただ何度も頷いた。

 由加里は夢でも見ているかのような心地で自分の車に向かっていた。さっきの出来事、あれは一体なんだったんだろう。
 日見坂は、占い師のような神秘的なところがあるわけではなく、ごく普通の主婦に見える。それだけに、さっきの異様な出来事が忘れがたかった。
 由加里がどこか上の空のまま広い駐車場を歩いていると、ふとクラクションと小さな悲鳴が耳についた。驚いて振り返ると、どこか乱暴な運転の軽自動車が、駐車場内にしては早すぎるスピードで出て行くところだった。そして、またしても聞き覚えのある声が、その去り行く車に怒声を上げていた。
 今日はどうも、よくよく日見坂と縁がある日らしい。
 どちらの不注意が元だったかは知らないが、日見坂は車に驚いたのだろう、買い物袋を豪快に地面に落としていた。ぱんぱんに品物が入っていたレジ袋からこぼれおちた缶詰や果物が、すっかり地面に散らばってしまっている。
 さすがに見てみぬ振りもしづらく、由加里は落ちた品物をいくつか拾って日見坂に手渡した。
「どうもありがとう。……あら、あなた」
 日見坂は由加里の顔を見上げて、何かを思い出すような顔をした。顔に見覚えはあっても、どこで見た顔だったか咄嗟に出てこないようだ。
「美容室『アリサ』の従業員で、松井と申します」
 仕方なく名乗ると、日見坂は思い出したようで、口を「あ」の形にして頷いた。覚えている振りをするでもないその大らかさに、由加里は笑いそうになってしまった。だが、失礼かと思って慌ててこらえ、頭を下げた。
「はいはい、ええと、由加里ちゃんって言ったっけ。いやだ、ごめんなさいね。だんだん物覚えが悪くなっちゃって」
「先日は、大変失礼いたしました」
 由加里がそう言うと、日見坂はバツの悪そうな顔をして手を振った。
「こちらこそごめんなさいね、変なこと言い出しちゃって」
「いえ。実を言うとあのとき、本当にちょっと面倒くさいなって思ってたんです。まるで心を読まれたみたいで、びっくりしちゃいましたけど……」
 由加里が笑顔を作ってそう言うと、日見坂はなぜか微妙な顔で黙り込んだ。由加里はその表情の意味を考えて、顔をこわばらせた。
「あの……日見坂さま、まさか」
 本当に心が読めるのかと、思わず訊ねそうになって、由加里は口を噤んだ。馬鹿なことを言う娘だと呆れられるのではないかという見栄が邪魔をしたからだ。
 少しの間、気まずい沈黙が二人の間に降りた。
『それではまたのご来店をお待ちしてます』とかなんとか言って、さっさと立ち去ろうと思いながらも、由加里はタイミングがつかめずに戸惑っていた。すると、日見坂は突然何かを決心したようにひとつ頷いて、口を開いた。
「あなた、今日はお休みなのよね。ちょっとお茶にでもつきあいなさいよ」
 由加里はちょっと返事に迷った。断るならば、今日は少し急ぐので、とでも言えばそれだけのことだ。
 けれど好奇心に負けて、結局由加里は頷いた。


 二人はショッピングモール内の喫茶店に入ると、片隅のテーブルに陣取った。店にはまあまあ客が入っていたが、平日の昼間にこんなところにいるのは、ほとんど主婦ばかりのようだった。
「たまにね、人が口に出してないことまで、聞こえちゃうときがあるのよ」
 まず注文したワッフルをぺろりとひとつ平らげてから、日見坂は唐突にそう言った。
「心が読める……って、ことですか?」
 由加里はというと、とても食欲はなかった。形ばかりアイスティーに口をつけてから、恐る恐るそう聞くと、日見坂はまさかと言って笑いとばした。
「そんな大げさなことじゃないのよ。聞こうと思って聞けるわけじゃなくて、たまに何かの拍子で、相手が心の中だけで言ったつもりのことがぽろっと聞こえるときがあるみたいなの。いつもじゃなくてね」
 日見坂は重大な告白といった風でもなく、けろっとそう言って二個目のワッフルをかじった。
「それがねえ。普通に喋ってるようにしか聞こえないのが、また困りものなのよね。顔をまじまじと見てるときなら分かるんだけど、そうじゃないと相手が口に出したと思っちゃうのよ」
 全然困っていないような口調で、日見坂は説明した。由加里はあいづちも打てずに、ただぽかんとしたまま話を聞いていた。
「あたしもさ、ほら、思ったことを何にも考えないでそのまま口に出しちゃう性質だからさ、たまにやっちゃうのよ、こないだみたいなこと。もう生まれつきのことだから、そういつも気をつけてられないしね」
 日見坂は由加里の沈黙を気にする風でもなく、ワッフルを食べながら平然と話している。
「せめて何か、『こういうときに聞こえるんだ』みたいなのがあればいいんだけどね。聞こえる相手もばらばら、内容もばらばらなんだもの。自分じゃどうにもできないしさ」
 その言葉を言い終わるころには、三つ目のワッフルが消えていた。日見坂は別に太ってはいない、むしろ五十台という年齢の平均女性と比べると、細いように見える。前後の状況も忘れて、由加里は思わず燃費のいいその体が羨ましくなった。
 そういう日常的な考えが浮かんだことをきっかけに、由加里の固まっていた頭が、やっとまともに回転しだした。
「日見坂さまは……」
「ああもう、そういうのやめてよね。『様』とかむずむずしちゃう、おばちゃんでいいわよ、あたし、あんたくらいの娘がいるんだから」
 日見坂はそう言って豪快に笑った。
 さすがにお店のお客様を相手に本当におばちゃん呼ばわりするわけにもいかず、由加里はちょっと迷いながら、「日見坂さんは」と言い直した。
「なに?」
「このあたりにお住まいなんですよね。うちのお店にわざわざ来てくださるのって、もしかして」
 問いかけると、日見坂はうんうんと頷いた。
「そうそう。そうなのよ。ほかの美容室でもおんなじようなことをやっちゃってさ、つい行きづらくなっちゃうのよね。近いところから順に回って、今は『アリサ』だったわけよ。また次を探さないといけないかと思ってたんだけど」
 日見坂はそう言って、由加里の顔を覗き込んだ。条件反射というかプロ根性と言うか、由加里はとっさに首を横に振った。
「そんなこと仰らずに、ぜひまたうちの店にいらしてください。他の二人も、気にしておりませんから」
 それを聞いて、日見坂はにっこり笑った。
「そう? じゃあそうさせてもらうわね。ところで、その馬鹿丁寧な敬語やめなさいよ、落ち着かないわ。どうせあんたたち、陰じゃ嫌な客のことなんかぼろくそに言ってるんでしょ」
 日見坂は面白がるような顔で、そう言った。由加里は従業員の立場から、とっさに否定しようと思ったが、考えていることが伝わってしまうかもしれない相手に体裁をつくろっても仕方ないかと思い直し、居直ることにした。
「日見坂さんは、嫌なお客じゃないですよ」
 この言葉は由加里の本音だったので、するりと口から出た。
「そう?」
「ええ。嫌なお客っていうのは、わけの分からないクレームをつけてくる人とか、他のお客さんが暗い気持ちになるような悲惨な話を延々とする人とかのことで。この前の日見坂さんみたいに、仕上がりに不満があるなら言ってもらうのは普通っていうか」
 由加里がそう説明すると、日見坂は笑ってぶんぶん手を振った。
「あたしだって、家の愚痴とか言ってるじゃないさ」
「日見坂さんの愚痴は、暗くないからいいんです。ねちねちとしつこい人も多いんですよ」
 溜め息混じりに思わずこぼした由加里の本音を、日見坂はにこにこ笑いながら聞いて、コーヒーをがぶ飲みした。それから彼女は首を傾げて、由加里の目を見つめた。
「あんた、仕事あんまり向いてないんじゃない?」
 まったく気兼ねというものを知らない口調で、日見坂はそうずばりと言った。だが、由加里は不思議と嫌な気持ちはしなかった。
「そうでもないんですよ。『誠心誠意お客様のために』なんて子の方がすぐつぶれちゃうんだから」
「そういうものなの?」
 日見坂は面白そうに聞いている。
「そういうものです。ただ誰かに文句を言いたくて来るお客さんだって、いっぱいいますから。誠実そうに謝ったりにこにこして聴いてるふりをしながら、内心では聞き流せるくらいがちょうどいいんです。町の美容室なんて、半分以上は日ごろの不満の捌け口みたいなものですから」
 喋りながら、由加里は、どこか胸がすっとするような気がした。そうしてみると、思っていることをそのまま口に出す機会が久しくなかったことに気付く。客のいないときに美紀がこぼす愚痴に同意するくらいのことはあるが、先輩が率先して仕事への不満ばかりこぼしていては、よくない影響があるだろうという気持ちがあって、あまり自分からはそういう話題を振らないようにしている。
「あんた、そっちのしゃべり方の方がずっといいわよ。普段からそうしたら?」
「お店では勘弁してください。クビになっちゃう」
 由加里が肩を竦めると、日見坂は笑って伝票を取った。
「長話しちゃったわね。そろそろ帰ってご飯作らないと、旦那がすねちゃうわ」
「あ、お会計」
 慌てて財布を出そうとする由加里に、日見坂はにこにこしたまま首を振った。
「いいのよ、娘も全然帰ってこないしさ、代わりの話し相手にしちゃった。今日だけおばちゃんにおごらせて」
 恐縮して頭を下げる由加里を、日見坂はおおらかに笑い飛ばして会計を済ませた。
「ごちそうさまです」
「はいはい、またそのうち『アリサ』にも顔出すわね」



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