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 小分けにして頭の上に留めていた髪のひと束から、ピンを外す。よく手入れされたまっすぐな黒髪は、持ち主の肩にさらりとすべり落ちた。
 鋏で毛先をざっと落とす由加里の手つきは滑らかで、迷いが無い。だいたいの長さに揃えたところで、髪束をカミソリで削ぐようにして、軽くシャギーを入れていく。
 由加里は途中で視線を髪から外して、鏡ごしにちらりと客の表情をうかがった。彼女は両隣から際限なく話しかけてくる常連客たちにときおり控えめな相槌をはさみつつも、鏡に映る由加里の手つきを目で追って、楽しそうに微笑んでいた。
 由加里は再び手を動かすことに集中しながらも、彼女がうんざりした様子を見せないことにほっとした。この女性客は今回が初めての来店で、どういう性格なのか図りかねていたのだ。若い女性の中には、美容室にいるときに必要外のことで話しかけられるのがあまり好きじゃないという人もいるので、特に口数の多い常連客と予約時間が重なってしまったことが、来店前から気になっていた。
 絶え間なく動く美容師たちの手に対抗するように、店内に満ちる常連客のおしゃべりにも、やはり切れ目が無い。家族に対する罪のない愚痴、職場への不満、テレビで見たワイドショーについてのやや意地の悪い感想。話題はめまぐるしく移り変わっていく。
 美容室『アリサ』は住宅街のど真ん中にある、小さなヘアサロンだ。似たような時間帯によく来る得意客同士は、自然と顔見知りになる。自分たちが髪をいじりに来ているのか、それともおしゃべりをしに来ているのか、きっと本人達にも分かっていないだろう。
 由加里は一通りの作業が終わったところでドライヤーを手に取り、女性の髪を丁寧にブローしながら、全体のバランスを見た。自分ではまず満足のいく仕上がりになったと思うのだが、何せ初めてのお客だから、本人の好みが分からない。
「こういう感じでよろしいですか?」
 緊張を隠しつつ微笑を浮かべて聞いた由加里に、女性は笑い返しながら頷いた。
「ええ。ありがとうございました」
 由加里は内心でほっと息を吐きながら、にっこり笑って、カットクロスを女性客の肩から外した。
 ちょうど手の空いたらしい店長がレジに向かったので、由加里は床に落ちた髪をざっと掃いて、ちりとりに集めた。
 財布から代金を出した女性客の足元で、白い毛の猫が可愛らしく鳴いた。アリサという名前の、店長の飼い猫だ。
 店長は店の名前を愛猫から取るほどの猫馬鹿で、いかにも仕事の出来る女性といったきびきびした様子と、猫をかまっているときのでれでれになった姿とのギャップには、なんとも微笑ましいものがある。
 このアリサは昼間は店で寝て過ごすものと決めてかかっているようで、いつも窓際に置いたスツールのひとつを占領しているのだが、たまに気が向くとこうやって客に愛想を振りまくこともある。
 どうやらこの若い女性は猫好きのようで、店長に代金を手渡すと、屈みこんでアリサの頭を撫でた。
 アリサが猫アレルギーの客を遠ざけているのと、猫目当てに立ち寄る客を呼んでいるのとで、収支はとんとんくらいだろうか。幸いにも客に積極的にまとわりついたりはしないので、着付けや結婚式前の客が来たときにも困りはしないのだが。
「お待たせいたしました」
 店長は釣り銭を女性客へ渡すと、深く頭を下げた。
「ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」
 由加里も店長にあわせて頭を下げ、ありがとうございましたと唱和した。
 店長の飯田栞は、由加里にとっては母方の従姉にあたる。由加里は三年前まで他のヘアサロンで働いていたが、栞が『アリサ』を開店するにあたって、声をかけられた。待遇は前の店と大差なく、むしろ小さい店だけに、勤務時間が増えた上、定休日以外の休みが取りづらいというくらいだ。だが、由加里はもともと栞に影響を受けて美容師を目指したようなところがあったので、それほど決断を迷わなかった。
 実際にこの店に移って働き始めてみると、思ったとおり、やりがいは前の店よりもずっとあったが、それよりも客同士のおしゃべりの多さにうんざりした。前の店は駅の近くで、若い客が多かったから、美容師との他愛無い会話を好む客はいたが、常連客同士が積極的に話すというような場面はほとんどなかったのだ。
 そうした話の内容も、当たり障りの無い世間話程度ならば対応しやすいが、近所のおばちゃんたちの井戸端会議は、嫁姑の確執からだんなの浮気から、実にたっぷり毒を含んだ生々しいものが混ざってくる。それにも最近はずいぶん慣れてきたが、最初のころは、軽々しく転職したのは失敗だったとしみじみ思ったものだ。

 やがて二人の常連客の髪も終わり、もう一人の美容師である美紀が送迎に出ると、ふっと客足が途絶えて、店内には店長と由加里の二人だけが残った。土日はともかく、平日はさすがに一日中ひっきりなしに客がいるというほどではない。
「ちょっと一段落ね。冷蔵庫にケーキがあるから、由加ちゃん先に食べてきていいよ」
「あ、いただきます。それじゃあ、店長の分の紅茶も淹れておきますね」
 由加里は頭を下げて立ち上がった。
 ひとたび勤務時間が終われば従姉妹どうしの気安さで、「栞ねえちゃん」の呼び方とタメ口に戻るが、由加里としては、勤務中はあくまでけじめをつけないと気がすまない。栞は別に気にしなくてもいいというが、由加里は仕事と私生活をきっちり分けないと落ち着かない性分だった。
 由加里が小さな休憩室に入って間もなく、外から車の音が聞こえてきた。
 口の中のケーキを何とか飲み下してコンロを止めると、由加里は慌てて休憩室を出た。店内にはちゃんと店長がいるのだから慌てることはないのだが、目上の人に任せきりにして自分だけゆったり休憩するような度胸は、由加里にはない。
「いらっしゃいませ、日見坂さま」
 店長の声にあわせて、由加里もいらっしゃいませと唱和した。五十代前半の、髪を短めのショートカットにした小柄な婦人で、来店するのはこれがたしか三度目だ。
 由加里がふと足元を見ると、猫のアリサがなぜか、不思議そうな顔で日見坂の顔をじっと見上げていた。日見坂の方はそんなことには気付かない様子で、さっさと中に入ってくる。
「予約してないけど、いいかしらね」
 いかにも社交辞令という調子で日見坂は聞いた。その表情に悪びれている様子はまったくない。もっとも『アリサ』は別に完全予約制というわけではない。美容師が三人しかいないので、電話してから来ないと待たせてしまう場合があるというだけだ。
「もちろんです。今日はどうされますか」
 店長がにこにこして尋ねると、日見坂は自分の髪の毛先を引っ張ってみせた。
「白髪が目立ってきちゃったから、ちょっと染めようと思って」
 由加里はその言葉を聞いて、必要な器具を用意し始めた。日見坂は特に美容師を指名する気はないようなので、このまま店長が担当するだろうが、アシスタントがいるような店ではないから、とにかくその時々で手が空いている者が手伝うルールになっている。
「かしこまりました、どういう色にしましょうか」
「そうねえ。ああ、こんな感じにできる?」
 店長から渡された見本を眺めた日見坂は、ほとんど迷わずに写真のひとつを指差した。
「はい、ではこちらへどうぞ」
 由加里はそのやりとりを横目に見ながら、もっと明るい色の方が似合うのになあと思ったが、何も言わずに薬剤を取り出した。前回話したときの感じからすると、日見坂はあまり他人の意見を気にするタイプではないようだったので、言うとおりにした方が手っ取り早いと考えたのだ。おそらくは店長が何もアドバイスしないのも、その辺りを汲んでのことだ。
 小さな美容室では、常連客が命綱だ。一人ひとりの客の好みや性格を把握しないことには、まず仕事にならない。由加里は記憶力はある方なので覚えること自体にはそれほど苦労しないが、こういう神経の使い方は疲れると、ときどき嫌にならないでもない。

「戻りました」
 店長が日見坂のカラーリングをやっている途中で、美紀が送迎から戻ってきた。採用された当初はまるきりのペーパードライバーだった彼女の運転には、見ているほうがはらはらし通しだったが、最近はすっかり慣れたもので、安心して任せることができる。由加里が定休日に何回もつきあって、近所の地理を覚えがてらの運転練習に乗り出した甲斐があったというものだ。
「お疲れさま」
「あ、いらっしゃいませ」
 美紀は日見坂の姿に気付いて、慌てて頭を下げた。美紀が咄嗟に日見坂の名前が出てこなかったらしいことに気がついて、由加里は内心で苦笑した。人の名前と顔を覚えることを苦手としていては、こういう店の美容師は勤まらないが、『一回見た客の顔と名前は忘れない』というレベルまで求めるのは酷だろう。
「はい、こんにちは。……それでね、うちの子ったら、正月に帰ってきたっきり、お盆なんか顔を見せもしないのよ。電話だってこっちから掛けなきゃ、ちっともしてこないし」
 日見坂はご機嫌な様子で美紀に返事をして、話の続きを再開した。最初はパートで出ているパン工場の同僚についての愚痴だったが、いつの間にか大学進学したきり滅多に帰ってこない娘の話に移っている。
 愚痴の内容自体は聞き飽きたようなものだったが、日見坂の愚痴は毒気がないというか、笑いながらあっけらかんと言うので、他の客の話よりも聞きやすい。ただ思っていることをそのまま言っているだけ、というような裏表のなさが感じられて、聴いていても大して負担にならないのだ。
「初めての一人暮らしなんでしょう? しっかりした娘さんなんですね」
 店長がそう言うと、日見坂は笑いながら手をひらひら振った。
「そんなんじゃないのよ。一回部屋に様子を見に行ったときなんか、もう散らかりっぱなしで足の踏み場もなくて」
 横で聞いていた由加里もつられて笑った。自分にも身に覚えのある話だったからだ。
 他の客もなく、和やかな雰囲気で作業は進められていったが、その様子が一変したのは、工程がひと段落してシャンプーをした後だった。
「あら、ちょっと明るすぎるんじゃない?」
 日見坂が鏡を見るなり、眉を寄せたのだった。由加里は思わず見本誌を広げて、日見坂の髪と見比べてみた。
 言われてよくよく見れば、ほんの少し見本より色が赤いだろうか。だが、たいした違いではなかった。むしろ、日見坂にはもっと明るい色が似合うくらいなのにと、由加里は思った。
「申し訳ありません、先ほどの見本より少し明るめになってしまいましたね。どうしても髪質で仕上がりが違ってきますので」
 店長がそう頭を下げたが、日見坂は納得がいかない様子で首を捻っている。
「でも、よくお似合いですよ」
 由加里は宥めるつもりで横からそう言ったが、日見坂の表情は変わらない。彼女なりのこだわりがあるようだ。
「もう一度染め直してもらえない?」
「そうですね、ただ、すぐにやり直すと髪が痛みますから、少し日にちを置いてから……」
 店長がそう言うのを聞きながら、由加里はもう一度見本誌にちらりと目を落とすが、何度見ても大して違いはしなかった。顔にはけして出さないが、由加里は内心で溜め息をついた。
 染め直したって違わないよ、めんどくさいなあ、と、由加里が頭の中で考えた、その瞬間だった。
「ちょっとあんた、面倒くさいってなによ!」
 突然由加里の方を振り向いて怒り出した日見坂に、全員が度肝を抜かれて立ち尽くした。
 由加里は驚きのあまり、口をぱくぱくさせた。たしかに心の中で面倒くさいと思いはした。だが、口に出しては何も言っていない。
 それともまさか、無意識のうちに考えていたことが思わず口から零れ出ただろうかと、由加里は不安になった。
(今、口に出てた?)
 由加里は目線で美紀に聞いたが、美紀は小さく首を横に振った。店長もあっけに取られてぽかんとしている。
 謝罪していいものか、それとも自分は何も言ってないと弁明するべきか。咄嗟に決めきれずに由加里が困惑していると、日見坂はそういう由加里の反応を見て、何故か「しまった」という顔をした。
「申し訳ございませんでした、もう一度染め直しましょうか」
 真っ先に気を取り直したのは、店長だった。もう一度頭を下げてそう言った店長に、日見坂は気まずげに首を振った。
「もういいわ、このままで」
 申し訳ございませんともう一度頭を下げてから、店長は黙々と日見坂の髪をブローした。その間、全員が沈黙したままだった。
 やがて全ての作業が終わると、店長は手早く会計を済ませ、釣りに割引券を添えて日見坂に渡した。
 他の客がいなかったので、三人とも店の外まで出て、自分の車で帰る日見坂を見送った。
 日見坂の車が角を曲がって見えなくなったところで三人は店内に戻り、顔を見合わせた。
「由加ちゃん、何か言った?」
 店長は恐る恐るといった調子で、由加里にそう問いかけた。
「まさか! 内心では思ってましたけど、間違っても口にも顔にも出してませんでした……と、思うんですけど」
 由加里はそこまで言って、ちらりと美紀に視線を向ける。美紀はぶんぶんと首を縦に振った。
「誓って言います、すぐ近くにいたあたしにも、何にも聞こえなかったですよ」
 何が何だか分からないまま、三人は視線を交わしあったが、考えても仕方がないと真っ先に割り切ったのは、やはり店長だった。
「まあ、なんでもいいわ。道具を片付けちゃいましょう」
 そう言う店長の言葉を受けて、二人は釈然としないながらも店内の掃除を始めた。まだ閉店までは時間があるが、手の空いたときにこまめに掃除をしておかないと、散らかった美容室なんて見苦しくて仕方ない。
「……日見坂さんって、確かお宅は遠かったですよね」
 美紀が床を丁寧に掃きながら、そう聞いた。
「そうね。最初のときにお電話いただければお迎えに上がりますよ、って申し上げたら、遠いからいいわよって仰ったと思う」
 店長が思い出しながら、そう答えた。由加里も頷く。はっきりした住所は聞いていないが、近所で見かけたことがあったからだ。
「私、家の近くのスーパーで会ったことあります」
 由加里の住んでいるアパートは、この辺りからバスで二十分ほどだ。日見坂は車で来ているようだから、だいたい十五分ほどで着くくらいだろうか。
「美容室ならもっと近くにもあるでしょうに、家の近くや駅前のお店じゃなくて、わざわざこっちまでくる理由って、何でしょうね」
 美紀はそう首をかしげた。『アリサ』の客はほとんどが町内の住民だ。店長の腕を気に入って遠いところから来る客もいないではないが、日見坂はまだ三度目の来店で、特に誰に担当してほしいという指名もない。現に、前回の来店時は由加里が対応した記憶がある。
 まして、由加里の家のあたりから見て『アリサ』は、駅や繁華街のある方に向かうのと反対方向にある。考えてみれば不思議だった。
「今日みたいなトラブルがあって、近所の店に行きづらいんだったりして」
 自分で冗談めかしてそう言っておきながら、美紀は引きつった顔をした。美紀に限らず、確かにさきほどの一件は怖かった。
 由加里は腹に溜めたことをあまり外に出さないタイプだ。はっきり言えば、外面がいい。
 商売柄、むしろそれは必要な資質なので、仕事をする上では恥と思ってはいなかったが、内心が外にもれ出てしまうとなれば話は別だ。気をつけていたつもりなのに、無意識に顔や口に出ていたのかもしれないとなると、笑って済ませるようなことではなかった。
 だがそれにしても、他の二人は全く気付かなかったのに、こちらを向いてもいなかった日見坂だけが反応したというのは、いったいなんだったのだろうか。
「考えてもしょうがないよ。ドンマイドンマイ。……って、元は私が悪かったんだけどね。気をつけます」
 店長がそう言って笑ったのに被せるように、電話が鳴った。美紀がすばやく駆け寄って、受話器を取る。
「はい、『アリサ』です。……はい。いつも有難うございます……はい、明日の、九時にお迎えに上がったらよろしいですね。承りました」
 美紀がとった電話が終わるより早く、車の音が近づいてくるのに気付いて、店長と由加里は揃って外を見た。白い軽自動車が『アリサ』の駐車場に入ってくるところだった。
 新たな来客が全員の気持ちを切り替えるスイッチになり、その話はそこまでで終わりとなった。



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