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  ショッピングモールで会った日から三週間ほど経った頃、日見坂は『アリサ』に姿を見せた。
「この前は変ないいがかりつけちゃって、ごめんなさいね」
 日見坂はにこにこしながら現れるなり、店長にそう言った。
 店長は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、それでも律儀に頭を下げた。さっきまで昼寝をしていたアリサがいつのまにかその足元にちょこんと座って、日見坂の顔をじっと見上げている。
「その折は大変失礼しました。今日はどうなさいますか」
 店長が聞くと、日見坂は笑顔のまま由加里の方を見た。
「襟足が伸びてきちゃったから、切ってもらおうと思って。良かったら、由加里ちゃんにお願いできるかしら?」
「あ、はい」
 指名を受けた由加里は頭を下げて、用意を始めた。
「あれ、いつの間に仲良くなったんですか? 日見坂さんと由加里さん」
 美紀が不思議そうな顔をして聴いてくるのに、日見坂は由加里の方を横目で見て、にこにこ笑った。
「こないだ買い物中に会ったのよ。ね」
 由加里は笑って頷くと、椅子に日見坂を案内して、カットクロスを広げた。
「どんな風にしましょうか」
「前と同じでいいわ」
 日見坂はあっさりと言った。前にカットしたときの髪型を思い出しながら、由加里は頷いた。
 カットの間中、やはり日見坂は喋り通しだった。
「それでね、うちの旦那ときたら、隠し事ができないのが唯一のとりえみたいなもんで、似たもの夫婦なんてよく言われるんだけどさ。一度なんか、浮気してきたことまで悪びれずにぺろっと言っちゃったんだから、信じられないったら」
 そんな話をけらけらと笑いながらするものだから、美紀は「げっ」という顔をしたが、店長はさすがに如才ないというかなんと言うか、「奥様を愛されてるからこそ、きっと堂々と言えるんでしょうね」などという相槌を打っていた。
 由加里は驚いてみせながらも、日見坂がその旦那と結婚した理由が何となく分かるような気がした。一緒に暮らしている相手の隠し事が不意に耳に入るのでは、さぞ暮らしにくいだろうから。
 アリサは何故か日見坂が気になるらしく、カットの間、少し離れたところに座って、日見坂の挙動をじっと見守っていた。
 やがてカットが終わり、由加里が鏡を持って後頭部を見せると、日見坂は満足のいく出来だったのか、うんうんとうなずいた。
「ありがとう。また来るわね」
 上機嫌で帰る日見坂を見送ったあと、店長が長い溜め息をついて、由加里を労った。
「ご苦労様でした。スーパーで会ったって言ってたけど、休みの日?」
「そうなんですよ。晩御飯の買い物してたら、偶然。日見坂さんが落とされた荷物を拾ってさしあげたら、お茶をおごられてしまって」
 由加里はそうとだけ言った。心の声が云々と説明する気にはなれなかったからだ。内心では全て話したいような気もしていたが、怪しい宗教にでもはまったのかと思われたらたまらない。
「へえ……何にしても、もう来られないかと思ってたから、良かったけど」
 店長がどこか腑に落ちないように首を傾げるすぐ横で、アリサが興味を失ったのか、いそいそと指定席に戻って昼寝の体制になった。

 由加里はその次の月曜、同じスーパーのレジ脇で、また日見坂に会った。由加里が先に気付いて会釈をすると、日見坂は笑顔で足を止めた。
「あら。よく会うわね」
 そう言う日見坂の手元のカートには、これでもかという量の食料品や生活雑貨が詰め込まれている。一人娘が家を出てからは旦那との二人暮らしだと言っていたが、いったいこの量をどうやって使っているのだろうかと、由加里が思わず考え込んでいると、日見坂は逆に由加里の手元を覗き込んで、顔をしかめた。
「一人暮らしだっけ。それにしても、そんなで足りるの? いくら小食ったって、食べなきゃ体がもたないわよ」
「あたし、太りやすいんですよ。美容師だから少しは見た目に気を遣わないと、プロ意識がないって言われちゃいますし。日見坂さんがうらやましいです」
「あらやだ、こんなおばちゃんおだてたって、何にも出てこないわよ」
 そんな会話を交わしていた矢先だった。
 日見坂が突然びくっと肩を震わせると、顔を真っ青にして、背後を振り返った。そこには果物コーナーがあり、買い物客が何人かうろうろしていたが、特に変わった様子はなかった。
「日見坂さん? どうかしたんですか?」
 この前の騒動を思い出して聞いた由加里に、日見坂はものすごい勢いで振り向くと、スーパーの入口の方を見て、何かを探すようにきょろきょろとした。
「あ、あれ、あの女の子! 止めて! 急いで!」
 由加里はその剣幕に驚きながら、日見坂が指差すほうを見た。
 その辺りにいた若い女性は一人だけだったので、誰のことかは分かったが、止めろと言われてもどうしていいか分からない。
 由加里が困っていると、日見坂は地団太を踏むようにして、大声を出した。
「急いで!」
 言うなり、日見坂はカートを置きっぱなしにして、自分は果物コーナーの奥へ駆け出してしまった。
 あっけにとられかけた由加里だったが、先日のことがある。放っておくわけにもいかず、慌てて女性を追いかけることにした。
 だが、由加里がカゴを床に置いて走り出したときには、女性はすでにスーパーの外に出るところだった。
 由加里は急いで外に出たが、女性は既に車に乗り込んだのか、近くにそれらしい人影はなかった。
 由加里は駐車場の出口側に走った。この駐車場の出口はひとつしかない。女性が徒歩で来ていればどうしようもないが、この短時間で姿が見えなくなった以上は、車に乗ったと考えていいだろう。
 由加里は走りながら何度も後ろを振り返って、出て行こうとする車のフロントガラスを覗き込んだ。一台目は、八十歳くらいに見えるおじいちゃんがよろよろと運転している。助手席には誰もいない。
 久しぶりに思い切り走ったので、息が切れる。由加里は息を整えながら、出口に急いだ。
 二台目、口ひげを生やした怖そうなおじさんと、その奥さんらしい派手な化粧の中年女性。
 出口にたどり着いて、由加里はほっと息をついた。ここから見ていれば、必ず出て行こうとする車に気付ける。
 三台目にやってきたピンクの軽自動車に、探していた女性が乗っていた。
 由加里は思い切って、車の前方に飛び出した。
 駐車場内のことで車は徐行していたから、まずはねられる心配はないとは思ったが、予想以上に勇気がいった。案の定、女性はきちんとブレーキを踏んで止まりはしたものの、由加里の足は疲労だけでなく、がくがくと震えていた。
 女性はウインドウを空けると、顔を出して由加里に向かって叫んだ。
「危ないじゃない! いったい何やってるんですか!」
 その悲鳴のような声に、交通誘導をしていた中年男性が慌てて駆けてきた。
「いったいどうしたんです」
「お願いします、ちょっと待ってください」
 由加里は息を整えながらそう言ってはみたものの、何しろ事情がさっぱり分かっていない。内心ではどうしようと思いながらも、とにかく女性の目を真っ直ぐに見つめたまま反応を待った。だが、案の定と言うかなんと言うか、女性はちょっと頭のおかしい人間を見るような目で由加里を眺めただけだった。
「何がどうしたっていうんです」
 うんざりしたような顔で言った警備員も、由加里の精神状態を疑っているようだった。由加里は『気持ちは分かるけど、こっちだって訳がわからないのよ』と思ったが、まさか正直にそうも言えない。
 そういえば、この前日見坂が止めた女性は、ロープを持っていたのだった。まさか、またしても自殺だろうか。だが、それなら日見坂自身が彼女を止めれば済むことだ。そうしなかった理由はいったい何だろう。
 考えてもわからないまま、由加里はあてずっぽうで女性に向かって言った。
「何か、妙なものを持っていませんか」
 そう言われた女性は、見る見る間に表情を険しくし、とんだ言いがかりをつけられたという顔になった。
 その顔を見ながら、由加里は言葉の選び方を失敗したと思った。どうも万引きを疑っていると思われたような気がする。
「変な言いがかりをつけないでください。もう行きますよ」
 女性は憤慨した様子でそう言うと、車の窓から顔を引っ込めて、ゆっくり車を進めようとした。
「待って!」
 慌てて再び進路を遮ろうとする由加里の腕を、警備員が掴んだ。
「いい加減にしてくださいよ、何か理由があるならこっちで聞くから。ほら、後ろの車も困ってるじゃないですか」
 警備員が言うとおり、女性の車の後ろには、帰ろうとする買い物客の車が詰まり始めていた。
「お願い、このまま彼女を帰すと、大変なことになるんです」
 由加里はそう言ったが、警備員は全く信用してくれない。ほら早くと腕を引っ張られ、由加里は泣きたくなった。
 どうしたらいいのよと、由加里が内心で日見坂に文句を言ったちょうどそのとき、スーパーの方から慌てた様子の男が走り出してきた。
「おーい、ちょっとそちらのお車のお客様に、待ってもらってくれ!」
 その顔に、由加里は見覚えがあった。先日、日見坂のクレームに応対していた責任者だった。
 警備員は訝しげな顔をしたが、責任者に言われては無視することも出来なかったようで、戸惑いながらも女性の車の脇に歩み寄った。責任者も息を切らせて駆け寄ってきて、運転席の横から女性に頭を下げた。
 女性は不愉快そうな顔をしながらも、とにかく車を脇に寄せて後ろの車を行かせてから、憤慨した様子で車から降りてきた。
「いったい何だっていうんですか」
「まことに申し訳ございません。本日、当店で葡萄をお買い上げになられたと思うのですが」
 続いて責任者が口にした言葉に、由加里は目を見開いた。
「たった今、その葡萄に毒物を注射したという少年が名乗り出たのです」
 言われた女性はぽかんと口を開けて、責任者の顔を見つめた。

 あとになって聞いてみると、名乗り出たというのは少し違うようだった。
 少年の心の声を聞きつけた日見坂が、彼の腕を掴んで問い詰めているところに、騒ぎに気付いた警備員が駆けつけてきたということらしい。その中に先日の騒ぎを見ていた者がいたのが、日見坂に幸いしたようだ。
「まったく、物騒な世の中になったわよねえ」
 喫茶店のテーブルに肘をついて、日見坂はしみじみと言った。事件から一週間経った、月曜日の午後。今度は偶然ではなく待ち合わせして、由加里は日見坂と会うことにした。当日はゆっくり話すどころではなかったからだ。
 そういえば、日見坂の不思議な能力の話にマスコミが食いついたらどうするのだろうと、由加里はひそかに心配していたのだが、幸いにしてそういうオカルトチックな話題がテレビをにぎわすことはなかった。今日になって聞いてみると、日見坂は「注射器を持っているところを見たので、怪しく思って聞き出した」と言い張り通したそうだ。
「それはいいですけど、日見坂さん、せめてもうちょっと詳しく教えてくれないと。冷や汗が出ましたよ」
 由加里はおかげで不審者と思われたのだ。あのまま押し問答をしていたら、少年ではなく由加里の方が警察を呼ばれて事情聴取でもされかねなかった。由加里がそうぼやくと、日見坂はそんなこと言ったって、と悪びれず肩を竦めた。
「そんな暇なかったわよ。結果オーライじゃない」
「そうですけど……」
 あっけらかんと言う日見坂に、由加里は唇を尖らせた。
「ただの空想癖だったらどうするつもりだったんですか」
 日見坂はちょっと笑ってから、急に真顔になった。
「そうね。誰々死ねとか、あいつぶっ殺すとか、そんなことを考えて歩いてる子なんていっぱいいるのよね」
 由加里ははっとした。そういう声が、日見坂の耳には頻繁に聞こえているのだろう。
「大抵の子は思ってるだけで、何にもしないんだけど……」
 日見坂は、自殺しようとしていた女の子を止めたときと同じ、厳しい表情をしていた。
「たまにいるのよ、本当にやっちゃう子が」
 その真剣な口調に、由加里は黙り込んだ。
「前にね。普通よりずっと暗い声で殺してやる殺してやるって、すれ違った男がぶつぶつ言ってるのを、聞いたことがあるのよ。聞こえてきたときには驚いたけど、でもその辺の子たちとおんなじ、ただの考えすぎって自分に言い聞かせてね、そのまま何もしなかったの」
 日見坂は言いながら、悲しそうな顔をした。
「でもそのすぐあとに、その男がナイフを振り回して三人刺したの。覚えてない? 六年くらい前だったかしら、桜木町の商店街」
 その事件は、由加里にも覚えがあった。ここからバスで十分ほどの、繁華街の近くだった。
「ものすごく後味が悪いのよ」
 ぶるりと肩を震わせて、日見坂は言った。
 由加里はただ頷くしかなかった。
 それにしても、と、由加里は店内の方を眺めた。
 由加里も毒物事件のあった日、犯人の顔をちらりと見た。年恰好は十代後半に見えたが、まだどこか子どものような顔をしていた。
 事件は、無差別殺人未遂として、テレビでも報道された。それによると、少年は高校を卒業したあと、進学も就職もせずに家に引きこもっていたという。両親との関係も険悪で、胸のうちに鬱屈したものを抱えていたそうだ。
 しばらく前に似たような毒物事件が起こって、実際に人が死んだことがあった。そのときと違って今回は未遂だったため、マスコミをにぎわせた期間はそれほど長くはなかったが、それでも多少の情報は耳に入ってきた。注入されていた毒物は、よくミステリ小説やテレビドラマなんかで目にする青酸化合物というやつで、致死量を遥かに上回っていたそうだ。
「もし匂いとかで気付かないで食べてたら、あの人、今ごろ死んでたんですよね……」
「そうね」
 由加里の呟きに、日見坂は静かに頷いた。
 誰とも知らない相手にそれだけの悪意を向けることができる心境とは、どんなものだろう。由加里は考えて、鳥肌がたった二の腕を袖の上からさすった。
「インターネットで手に入れたって言ってましたよね」
「そうなのよね。そんなものを横流ししたり、誰か分からない相手にほいほい売っちゃうような奴がいることの方が、よっぽど信じられないわ。だって、青酸カリなんて、医療関係者じゃないと手に入らないんじゃない?」
 日見坂は憤慨したようにそう言った。
 本当に医療関係者以外の人が入手できないのかは知らないが、由加里はそのことよりも、日見坂が少年にではなく、毒物を流出させた人間の方に激しい怒りを見せたことにはっとした。
「誰かを殺したいとか自分が死にたいとか、そんな風に思うことって、人にもよるだろうけど、わりとよくあることなのよね。それでも、大抵は自分で思いとどまれるか、誰かが止めたりしてくれるでしょう。それなのに、簡単に人を殺せる方法が目の前にぶらさげられちゃうんじゃ、どうしようもないじゃない」
 日見坂は、本気で怒っているようだった。
 少なくとも今回は止めてくれる人がいて、よかった。由加里は日見坂の言葉に頷きながら、ふと思いついた。
「ちょっと思ったんですけど、日見坂さんの聞こえる『声』って」
「なによ」
 日見坂は一通り憤慨したらもう気が済んだのか、けろっとしてケーキをつつき始めた。
「もしかしたら、その人が『誰かに聞いて欲しい』って思ってることが、聞こえるんじゃないですか」
 日見坂はそれを聞いて、ちょっと考えるような顔をした。由加里は重ねて言った。
「誰かに知ってもらって、止めて欲しかったんじゃないですか? この前の自殺未遂の女の人も、青酸カリの男の子も」
 由加里の説明に、日見坂は納得がいかないようすで首をかしげた。
「それじゃあ、あんたの『面倒くさい』ってのは何だったのよ」
「日見坂さんがお客さんじゃなかったら、面と向かって言ってやりたかったですもん」
 由加里はきっぱりと言うと、自分もケーキを切り分けながら笑った。
「日見坂さん、もっと髪の色明るい方が似合いますよ。それに、若い子はいいけど、歳とったら地味にしててもつまんないですよ、老け込んじゃって」
 由加里が笑いながらずっと気になっていたことを言うと、日見坂は呆れ顔になった。
「あんた正直になったらなったで、失礼な子ね」
 そうぼやく日見坂の機嫌は、口で言うほどには悪くないようだった。
「まあでも、そう言うなら、次はもうちょっと明るい色にしてもらうわ」
 日見坂はけろっと笑って、残りのケーキを一口でたいらげた。

(終わり)
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