あとになって聞いてみると、名乗り出たというのは少し違うようだった。
少年の心の声を聞きつけた日見坂が、彼の腕を掴んで問い詰めているところに、騒ぎに気付いた警備員が駆けつけてきたということらしい。その中に先日の騒ぎを見ていた者がいたのが、日見坂に幸いしたようだ。
「まったく、物騒な世の中になったわよねえ」
喫茶店のテーブルに肘をついて、日見坂はしみじみと言った。事件から一週間経った、月曜日の午後。今度は偶然ではなく待ち合わせして、由加里は日見坂と会うことにした。当日はゆっくり話すどころではなかったからだ。
そういえば、日見坂の不思議な能力の話にマスコミが食いついたらどうするのだろうと、由加里はひそかに心配していたのだが、幸いにしてそういうオカルトチックな話題がテレビをにぎわすことはなかった。今日になって聞いてみると、日見坂は「注射器を持っているところを見たので、怪しく思って聞き出した」と言い張り通したそうだ。
「それはいいですけど、日見坂さん、せめてもうちょっと詳しく教えてくれないと。冷や汗が出ましたよ」
由加里はおかげで不審者と思われたのだ。あのまま押し問答をしていたら、少年ではなく由加里の方が警察を呼ばれて事情聴取でもされかねなかった。由加里がそうぼやくと、日見坂はそんなこと言ったって、と悪びれず肩を竦めた。
「そんな暇なかったわよ。結果オーライじゃない」
「そうですけど……」
あっけらかんと言う日見坂に、由加里は唇を尖らせた。
「ただの空想癖だったらどうするつもりだったんですか」
日見坂はちょっと笑ってから、急に真顔になった。
「そうね。誰々死ねとか、あいつぶっ殺すとか、そんなことを考えて歩いてる子なんていっぱいいるのよね」
由加里ははっとした。そういう声が、日見坂の耳には頻繁に聞こえているのだろう。
「大抵の子は思ってるだけで、何にもしないんだけど……」
日見坂は、自殺しようとしていた女の子を止めたときと同じ、厳しい表情をしていた。
「たまにいるのよ、本当にやっちゃう子が」
その真剣な口調に、由加里は黙り込んだ。
「前にね。普通よりずっと暗い声で殺してやる殺してやるって、すれ違った男がぶつぶつ言ってるのを、聞いたことがあるのよ。聞こえてきたときには驚いたけど、でもその辺の子たちとおんなじ、ただの考えすぎって自分に言い聞かせてね、そのまま何もしなかったの」
日見坂は言いながら、悲しそうな顔をした。
「でもそのすぐあとに、その男がナイフを振り回して三人刺したの。覚えてない? 六年くらい前だったかしら、桜木町の商店街」
その事件は、由加里にも覚えがあった。ここからバスで十分ほどの、繁華街の近くだった。
「ものすごく後味が悪いのよ」
ぶるりと肩を震わせて、日見坂は言った。
由加里はただ頷くしかなかった。
それにしても、と、由加里は店内の方を眺めた。
由加里も毒物事件のあった日、犯人の顔をちらりと見た。年恰好は十代後半に見えたが、まだどこか子どものような顔をしていた。
事件は、無差別殺人未遂として、テレビでも報道された。それによると、少年は高校を卒業したあと、進学も就職もせずに家に引きこもっていたという。両親との関係も険悪で、胸のうちに鬱屈したものを抱えていたそうだ。
しばらく前に似たような毒物事件が起こって、実際に人が死んだことがあった。そのときと違って今回は未遂だったため、マスコミをにぎわせた期間はそれほど長くはなかったが、それでも多少の情報は耳に入ってきた。注入されていた毒物は、よくミステリ小説やテレビドラマなんかで目にする青酸化合物というやつで、致死量を遥かに上回っていたそうだ。
「もし匂いとかで気付かないで食べてたら、あの人、今ごろ死んでたんですよね……」
「そうね」
由加里の呟きに、日見坂は静かに頷いた。
誰とも知らない相手にそれだけの悪意を向けることができる心境とは、どんなものだろう。由加里は考えて、鳥肌がたった二の腕を袖の上からさすった。
「インターネットで手に入れたって言ってましたよね」
「そうなのよね。そんなものを横流ししたり、誰か分からない相手にほいほい売っちゃうような奴がいることの方が、よっぽど信じられないわ。だって、青酸カリなんて、医療関係者じゃないと手に入らないんじゃない?」
日見坂は憤慨したようにそう言った。
本当に医療関係者以外の人が入手できないのかは知らないが、由加里はそのことよりも、日見坂が少年にではなく、毒物を流出させた人間の方に激しい怒りを見せたことにはっとした。
「誰かを殺したいとか自分が死にたいとか、そんな風に思うことって、人にもよるだろうけど、わりとよくあることなのよね。それでも、大抵は自分で思いとどまれるか、誰かが止めたりしてくれるでしょう。それなのに、簡単に人を殺せる方法が目の前にぶらさげられちゃうんじゃ、どうしようもないじゃない」
日見坂は、本気で怒っているようだった。
少なくとも今回は止めてくれる人がいて、よかった。由加里は日見坂の言葉に頷きながら、ふと思いついた。
「ちょっと思ったんですけど、日見坂さんの聞こえる『声』って」
「なによ」
日見坂は一通り憤慨したらもう気が済んだのか、けろっとしてケーキをつつき始めた。
「もしかしたら、その人が『誰かに聞いて欲しい』って思ってることが、聞こえるんじゃないですか」
日見坂はそれを聞いて、ちょっと考えるような顔をした。由加里は重ねて言った。
「誰かに知ってもらって、止めて欲しかったんじゃないですか? この前の自殺未遂の女の人も、青酸カリの男の子も」
由加里の説明に、日見坂は納得がいかないようすで首をかしげた。
「それじゃあ、あんたの『面倒くさい』ってのは何だったのよ」
「日見坂さんがお客さんじゃなかったら、面と向かって言ってやりたかったですもん」
由加里はきっぱりと言うと、自分もケーキを切り分けながら笑った。
「日見坂さん、もっと髪の色明るい方が似合いますよ。それに、若い子はいいけど、歳とったら地味にしててもつまんないですよ、老け込んじゃって」
由加里が笑いながらずっと気になっていたことを言うと、日見坂は呆れ顔になった。
「あんた正直になったらなったで、失礼な子ね」
そうぼやく日見坂の機嫌は、口で言うほどには悪くないようだった。
「まあでも、そう言うなら、次はもうちょっと明るい色にしてもらうわ」
日見坂はけろっと笑って、残りのケーキを一口でたいらげた。
(終わり)