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 娘はその頃、反抗期の真っ只中だった。ただでさえ難しい年頃の娘に対して、私はその日から顔を合わせることさえ避けるようになった。娘の顔を見るたびにあの雪の日の事故のことを思い出してしまうのが、辛かったのだ。
 私は必要以上に仕事を抱え込み、深夜まで残業して帰るようになった。どうしても残業するべき仕事のない日には、浴びるほど飲んで帰った。休みの日には休日出勤するか、そうでない日は書斎に閉じこもって小説を書いていた。
 その頃の私は娘を避けるだけに留まらず、恥ずかしながら理由も言わずに妻に当たったことさえあった。それも、一度や二度ではなかった。私の鬱屈の訳を知らない妻にとって、八つ当たりに過ぎない私の怒りは理不尽だっただろうに、結局何も聞かずに許してくれた彼女には、どれほど感謝してもしきれない。
 私はその頃も小説を書き続けていたが、内容には自然と陰惨なものや、人の心の暗部を描くようなものが増えた。書くことで苦しみを吐き出そうとしたのだろう。だがその一方で、親子愛や交通事故といったテーマについては、殆ど作中で触れることはなかった。それらは自分の中でまだ生々しく、とても心の内を冷静に人に曝け出すことができなかったのだ。
 私の豹変振りを心配した職場の同僚や馴染みの編集者といった人々が、何度となく一体何があったのだと声を掛けてくれたのだが、私は彼らに本当のことを何一つ言えなかった。
 あの頃、もともと反抗期の只中だった娘は、何かに怯えるように目を合わせなくなった私を、ますます嫌いになったようだった。殆どまともに顔を合わせることもなかったが、家の中で擦れ違うたびに、私を睨みつける娘の視線は険しいものとなっていった。
 娘は、少なくとも目に見えては非行に走らなかったようで、それだけがせめてもの幸いだった。ただ、私とは口も利きたくないようで、私がたまにこのままではいけないと思い立って何かしら話しかけても、返事は返ってこなかった。ただ、妻とはよく口論になっていたようだった。

 何がきっかけだったか。娘は中学校三年生になったばかりの頃のある日、突然部屋から出てこなくなった。
 そのストライキは、日曜の朝から始まった。休日ながら、部活があって登校するはずだった利恵は、いつもの時間を過ぎても部屋に鍵を掛けて閉じこもったまま、出てこなかった。妻がいくら外から必死に話しかけても返事が返ってこない。まさか中で倒れてはいないかと痺れを切らした妻がドアを無理にこじ開けようとしたところ、「放っておいて」と部屋の中から叫び声がした。
 私は娘がとにかく体調を崩したわけではなく自分の意思で出てこないのだと分かった途端、書斎に引っ込んだ。後は説得しようとする妻の声をドア越しに聞きながら、逃げ込むようにひたすら小説を書いていた。いっときして頭が冷えてきたら自分から出てくるだろうと、まるで他人事のように心の中で言い訳しながら。
 妻は時間を置いて何度となく娘の部屋の戸を叩いたが、昼になっても娘は出てこなかった。やがて手を尽くした妻が、「貴方からも何か言ってください」と、書斎にいた私を呼びにきた。
 それで逃げ続けるわけにいかなくなった私は、廊下からドア越しに娘を宥めようとしてみたり、叱ってみたりした。だが、あれこれと説得を続ける私に娘は、「勝手なことばかり言わないで」と叩きつけるように叫んだ。
「自分の言いたいことばっかり言って、お父さんなんて、私の気持ちなんか何にも知らないくせに」
 そう叫ぶ利恵の声は、必死に搾り出すような痛々しいものだった。私はというと、娘の怒りを甘んじて受ける他にどうしようもなかった。娘の言葉が事実だったからだ。娘の心とまともに向き合うことを放棄していた私に、そのとき一体何の反論ができただろうか。
 項垂れる不甲斐ない私の横で、妻が声を嗄らして説得を続けていた。
「とにかく、出てきてご飯くらい食べなさい。貴方の話も、顔を見ながらちゃんと聞くから」
 その言葉に対する、娘の返事はなかった。妻はいくらか声の調子を和らげて、「利恵」と呼びかけた。
「クラブ活動だって、どうしても行きたくないなら一日くらい休んだっていいけれど、黙ってさぼるなんて、もう小さい子じゃないんだから、そんなのはよくないでしょう。ちゃんと連絡しないと、部活のお友達だって心配するじゃないの」
 その妻の言葉に対して、娘は思いがけず激しい怒りの声を上げた。
「ちゃんとちゃんとって、そればっかり!」
 娘のその叫びに、私は胸を掴まれるような思いがした。妻も同じだったのだろう、彼女は顔を蒼白にして口元を覆った。
 ちゃんとした大人になりなさい。それは妻と私が、幼い頃から娘に何度となく言いきかせてきた言葉だった。
「あたしが何をしたっていうの。死んだ人間の分までちゃんと生きろなんて、無茶なことばっかり言って。あたしだって、好きで事故に遭ったわけじゃないのに」
 娘のその叫びに、私はそれまでの自分の無神経さを呪った。妻が隣で息を呑んで黙り込み、その目尻からぽろりと涙が零れたのを、私は見た。
 お前はちゃんとした大人にならないといけない。その言葉は、どれだけ娘の重荷になっていたのだろうか。亡くなった堀井君の分までと、その言葉が、ずっと娘を苛み続けていたのだ。
「誰も助けてなんて頼んでない。勝手に庇って勝手に死んじゃった人のことなんて、あたしの知ったことじゃない」
 娘は感情の昂ぶるままにそう叫んで、すぐに自分が言ったことを後悔するような沈黙を落とした。
 私たちも、すぐには何も言えなかった。そこで、娘の発言を叱るべきだっただろうか。だが、そのときの私はどうしても、そういうつもりになれなかった。
 娘にしても感情的になっただけで、それは本心からの言葉ではなかったのだろう。いや、近い思いはずっと胸の中にあったのだろうが、同時に勇君に済まないと思う気持ちが、口にするのを思い留まらせていた。感情の昂ぶりをきっかけに、その箍が外れた。そういうことだったのだと思う。
「利恵。そのことでお前が悪いなんて、誰も言ってない。お前が悪いんじゃない」
 しばしの沈黙を挟んでそう言った私に、娘は「嘘ばっかり」と怒鳴った。それに続いて、堪えようとして押し殺しきれない泣き声が、漏れ聞こえてきた。
「お父さんには私の気持ちなんて、分からない」
 娘はドア越しに、涙声で言った。
 私は再び言葉に詰まった。「分かるよ」と、言えればよかった。だが事実、私には娘の気持ちは、何も分かっていなかった。ほんの小さい頃からずっと、自分を庇って死んだ高校生に済まなく思いながら生きなければならなかった娘の気持ちを、私は一つも分かってやれていなかった。
 妻と私は利恵の説得を諦めて洋間へ移り、言葉少なにこれまでのことを悔いてみたり、互いに慰め合ってみたりしたが、幸いなことに娘の立て篭もりはそう長くは続かなかった。疲れたのか腹が減ったのか、利恵はいつの間にか部屋を出て、翌日一日学校を休んだだけで、後は普通の生活に戻っていった。ただ、それからも私との間に、深い溝は残ったままだった。

 目の前のローテーブルに湯気を立てるコーヒーカップが置かれて、私ははっと顔を上げた。気付かないうちに、妻が書斎に入ってきていたのだった。
「ああ、有難う」
 私がどこか夢から覚めたような気持ちで振り返ると、妻は呆れたように笑っていた。
「ずいぶんぼうっとしてましたよ、また小説ですか」
 違うとも言いづらくて、私は「ああ、うん」と曖昧に頷いた。
 妻はそれ以上口を挟まずに、私がコーヒーカップを手に取るのを見届けると、そっと書斎を出て行った。その背中を見送りながら、私は何か言うべきことがあったような気がした。それは感謝の言葉に類するもののようだったが、うまく形にならなかった。小説書きなどと言ってみても、普段は言いたいことも満足に言葉にできない、つまらない男に過ぎない。
 耳を澄ませば、朝食のときには激しかった雨足も、随分弱まっているようだった。やがて、妻がまだ何かしら作っているのだろう、包丁を使う音が台所から聞こえてくる。今日は豪華な昼食になりそうだ。
 妻がいちいち豆を挽いて淹れてくれるコーヒーからは、胸を落ち着かせるいい香りが立ち上っている。その芳しい香りが、暗いところに沈みがちだった私の気持ちを、いくらか上へ持ち上げてくれた。
 そう、つい暗いことばかりを思い出してしまうが、けして救いがなかったわけではないのだ。

 利恵が高校に入学して間もない頃のことだった。私は偶然、残業を終えて帰るために乗った遅い電車で、堀井家のご主人と会った。以前、命日に堀井家を訪ねていた頃には、伺ってもたいていご主人は仕事中で不在にしておられたので、実のところ顔を見たことは数えるほどしかなかった。それも、もう何年も会っていなかったが、だからと言って娘の命を救ってくれた恩人の面影を感じさせるその顔を、忘れていようはずもなかった。
 少し離れたところに立っていたその男性が堀井氏であることに気付いたとき、私はまず、先方は私の顔を覚えているだろうかと考えた。
 あちらにとって私たちは、間接的にしろ息子の命を奪った原因だったはずだ。私たちは氏にとって思い出したくない記憶の一部になっているかもしれず、私は声を掛けるべきかどうか咄嗟に判断できなかった。
 だが、迷ったほんの何秒かの間に、堀井氏が私に気付いて、はっとした顔をした。向こうもこちらを忘れてはいなかったことが、それで分かった。
 目が合ったことで知らない振りをするわけにいかなくなり、私は会釈して彼の方に近づいた。
 残業でかなり遅くなっていたため、電車の中はそれほど混雑していなかった。単調なリズムに揺られながら居眠りしている疲れきったサラリーマンや、何がおかしいのかきゃらきゃら笑いながら友だちと話している若い女の子たちがすぐ傍にいたことが、何故か鮮明に記憶に残っている。
「その節は……」
 私は頭を下げてそう切り出したはいいものの、何と続けるべきか言葉に詰まった。自分が重ねて謝りたかったのか、改めて感謝を述べたかったのか、己の心を測りかねたのだ。
「娘さんは、お元気でしょうか」
 堀井氏は、私の葛藤を察したように、微笑んでそう話しかけてくれた。
 その声がもし少しでも皮肉を孕んでいれば、その言葉の前につけられるべき「私の息子を身代わりにして生きている」という冠詞が私を苛むはずだった。だが、堀井氏の表情と声は、とても穏やかだった。
「おかげさまで、この春から高校生になりました」
「もう、そんなになりますか……」
 堀井氏は目を細めて、時の流れを振り返るような表情になった。
 そういえばもう、利恵は亡くなった勇君と同じ歳になるのだと、私は不意に気付いた。
「本当に、なんと申し上げていいか」
 何か言わなくてはならないような気がして、私は堀井氏に深々と頭を下げた。
「ああ……いや、そんな顔をされないでください」
 堀井氏は人の良さそうな困り顔で、そう言った。それどころか、私に頭を下げ返しさえした。
「いつかは、妻が大変失礼なことを申し上げましたようで……」
「とんでもない」
 思わぬ堀井氏の謝罪に、私は慌てて首を振った。息子を死なせた原因になった相手の顔を見るのが辛いということ、そういう母親の心をどうして責められるだろうか。
「そのときのことを、私はずいぶん後になってから聞いたんです。考えてみればその日の夜だって、妻の様子がいつもと違うことに気付いて当然だったはずなのですが」
 堀井氏は恥じるような表情で、そう続けた。
「全く持ってお恥ずかしい話ですが、その頃の私は仕事に没頭しておりまして。息子のことと、正面から向き合うのが辛かったんですね。それで仕事に逃げて、家のことなど碌に省みず……」
 ひとり息子を失った両親の辛さは、いかばかりのものだったろうか。あの事故は勇くんの将来を、人生を奪ったばかりでなく、その家族の人生をも大きく変えてしまったのだ。分かっていたことだったが、私は堀井氏の俯いた顔を見て、改めてそのことを思った。
「次の年のあの子の命日に、帰宅して、今年も利恵ちゃんは来たのかなと、何の気なしにあれに問いかけまして、それでやっと。慌てて謝りに行こうとも思ったのですが、そちら様も、もう、これを機にお忘れになった方がいいことなのかもしれないと、迷ってしまいましたものですから」
 堀井氏の声に滲む誠実さが、私の胸を打った。私は首を横に振ると、項垂れた。
「故人に感謝して、手を合わせて、それで私たちの気が少し楽になるという、そういう自分勝手なことのために、奥様を長く苦しめてしまいました。本当に、申し訳なく……」
 絞り出した私の言葉に対し、堀井氏は「いいえ」と静かに言った。それから私の肩に手を触れ、私の顔を上げさせた。
「どうか、あまり気に病まれないでください。利恵ちゃんやそのご家族には、幸せになって欲しいと思います。その方が、あの子もきっと喜ぶでしょう」
 堀井氏は、儀礼的な慰めではない口調で、そう言った。それから氏は何かを思い出すような遠い目をして、ぽつりぽつりと続けた。
「実のところ、息子は生前、あまり出来のいい子ではなかったのです。根は優しい子でしたが、ちょうどあの頃、ひどい反抗期で。しょっちゅう、益体もない悪さばかりしでかしてきて。それをろくに訳もきかず叱り付ける私を、あの子は心底嫌っていたようで」
 反抗期という言葉に、私はどきりとした。男の子と女の子では反抗期と言ってもまるで違うだろうが、思わず利恵と重ねてしまったのだ。
「私とは、顔を合わせれば喧嘩ばかりでした。どうにもお互い感情的になってしまって、私もきついことを随分言いましたし……それが、息子の気持ちを満足に分かってやることもできないうちに、あんなことになって」
 堀井氏の声が、ほんの少し震えた。
「もっとちゃんと、あの子の話を聞いてあげられなかったのかと、心底悔やみました。それが辛くはあったのですが、ただ……あの子が、小さな子を庇って車に撥ねられたのだと聞いて」
 堀井氏はそう言って、僅かに微笑んだ。
「それが、せめてもの救いになったんです。やっぱりあの子は昔とちっとも変わらない、優しい子だったんだなと」
 堀井氏の目の端に、光るものがあった。私は何も言えず、ただ氏の言葉を噛み締めるばかりだった。
「ですからどうかもう、気にされないでください。利恵ちゃんが嫌でなかったら、いつかまた、顔を見せていただければ、嬉しく思います」
 そう言った氏の表情は、穏やかだった。どれだけの葛藤を超えてこの表情になったのだろうと、それを考えると、私は胸が詰まるようだった。
「有難うございます」
 他に何も言えず、私はただ深く頭を下げた。
 ちょうど、電車がゆっくりと減速してホームに入るようだった。




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