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 家に帰った私は、その晩、妻に堀井氏の言葉を伝えた。妻は黙って最後まで話を聞くと、顔を覆って泣いていた。
 娘にも何がしかの救いになればと思い、話して聞かせてやりたかったが、その頃の娘はまだ私を避けており、まともに顔を合わせてはくれなかった。それでも、私がいないときに妻が伝えたのだろうと思う。娘が抱え込んでいたあの激しい憤りは、その時期を境に少しずつ沈静化していったようだった。
 時間が経つにつれて娘の態度は軟化していったが、だからといって娘は私を許したというわけではなく、娘が私と必要最低限以外の会話を交わすことは、やはり滅多になかった。妻とはいつの間にかすっかり和解し、普通に笑って話すようになっていたのだが。
 妻は何くれとなく私を気遣い、度々利恵に言って聞かせようとしてくれていたが、私の方は、利恵のその態度をどうにかしようとはしなかった。娘に嫌われても当たり前だと思っていたからだ。あの雪の日、あの男の子を助けようとしなかった私は。
 大学に進むとき、利恵は家を出て一人暮らしをはじめた。
 家が気詰まりだったからわざと通うには遠い大学を選んだのかと、私は何度か娘に聞こうとしたが、とうとう勇気が出ず、このことは今も聞けず仕舞いになっている。
「ちゃんとした大人」という私達の言葉が頭にあったのかどうかは分からないが、娘はとりあえず大学をきちんと四年で卒業して、同時に無事、大手飲料メーカーの事務職に就職を決めた。
 最近の若者はちょっとしたことですぐに仕事を辞めると、自分の職場でそういう話題がよく出ていたので、私も内心では心配していたのだが、娘は幸いにもしっかり勤めているようだった。
 就職して三年目に入った頃に、娘は、大学生の頃から付き合っているという交際相手を家に連れてきた。相手は銀行勤めの真面目そうな好青年で、利恵より三つ年上ということだった。そのときまで交際している相手がいることなど一度も口にしなかったくせに、二人は仲睦まじそうだった。あらゆる点で、私には文句のつけようもなかった。
「お前のようなやつに娘はやらん、っていうのを、一度は言ってみたかった気もするんだけどな」
 相手の青年が席を外したときを見計らってそう言うと、娘はずいぶん久しぶりにちらりと笑顔を見せた。とはいえ、実際によほど碌でもなさそうなのを連れてきたとしても、私に胸を張ってそんなことが言えただろうか。
 いや、言っただろう。どんなに自分自身が情けない男でも、そんなことは棚に上げて。父親ならそういうものだ。そういうことにしておこう。
 結婚式のとき、利恵は友人や同僚に祝福されながら、幸せそうに笑っていた。私は、自分がほとんど笑わせてやることのできなかった娘にあんな顔をさせている花婿に、感謝していいか、横取りされたと悔しがっていいか、分からないような気持ちになった。
 利恵は披露宴で、お定まりの「育ててくれた両親への感謝の言葉」に加えて、かつて交通事故に遭いそうになったこと、そのとき自分を庇ってくれた高校生がいたことに触れた。
 堀井君のご両親には、利恵が結婚することだけを手紙で報告し、式には呼んでいなかったが、それでも相手方の心情を慮ったのか、利恵は詳しくは語らなかった。
 ただ自分の命を救ってくれた青年への感謝を告げて、話は締めくくられた。そう言えるようになった娘の成長が嬉しかった。形式的なものかもしれないが、それでもあれだけ嫌っていた私に向かっても、感謝の気持ちを述べてくれたことも。

 利恵は去年、女の子を産んだ。
 出産の時に実家に戻ってくるという女性は多いようだが、利恵の時には、かかりつけの産科に近いところがいいだろうということで、妻が娘達の新居の方に出向いて、出産までの間を一緒に過ごすことにした。もちろん生まれたときは、私も仕事帰りに駆けつけたが。
 作家のお義父さんにぜひ、と、気のいい娘婿は初孫の命名権を私にくれようとしたが、私の方から笑って固辞した。いまどきの流行の名前が分からないというのが建前だったが、本音のところでは、娘が内心では嫌がっているのではないかと思うと、怖かったのだ。
 娘は、結婚する直前ごろにはもう昔と違い、私が話しかければ普通に笑って応えてくれるようになっていたが、それは大人になったというだけで、心の中では今でも私のことを憎んでいるかもしれない。そんな風につい考えてしまう私の臆病さは、いつまでも治らないようだ。
 孫娘の名前は、結局娘が決めたそうだ。命名、優希。
 作家にあるまじきありふれた表現だが、娘によく似た、玉のような女の子だ。
 娘は今、育児休業と言う形で会社を休んでいる。もう少し落ち着いたら復職するのか、それとも辞めてしまって育児に専念するつもりなのか、そこのところを私はまだ、娘から聞いていない。
 もちろん復帰するつもりがあるからこそ、辞表を出さずに休業を届け出たのだろうが、私の会社でも育休から復職せずに結局辞めてしまった若い子は、何人もいる。実際に育て始めて苦労が分かったからか、子が可愛くなってせめてもっと大きくなるまではついていてあげたいと思うようになるからか。子育てと仕事を立派に両立している女性も、知り合いには何人もいる。そのどちらがより良い選択なのかは、一概には言えないと思うし、娘がどちらの道を選ぶのか聞いたところで、私には止める権利はないのだが。

 玄関のドアを開ける音がした。
 娘が来たようだ。時計を見ると、もうすぐ十一時になろうかというところだった。私は随分長いこと、もの思いに耽っていたようだ。
 気付けば、すっかり雨も止んでいて、窓からはまた晴れ間が覗いていた。
 明るく「ただいま」と言う娘の声と、何が嬉しいのかきゃっきゃと笑っている孫娘の声が、重なって聞こえてくる。妻が楽しげに迎える声が、その後に続いた。
 まだこの家にただいま、と言ってくれることが嬉しくて、私は不覚にも、そんな些細なことで泣きそうになった。年を取ると、涙腺が緩くなっていけない。
 書斎を出て居間へ行くと、手土産やら赤ん坊のおむつやらを大量に広げた娘が、すでにソファに腰を落ち着けていた。
「おかえり」
 私は娘に声をかけて、孫娘を抱き上げようとしたが、何が気に入らないのか、優希は泣き出してしまった。私は慌てていないいないばあをしてみたりおどけて見せたりするのだが、優希の機嫌はなかなか上向かない。利恵が懸命に宥めて、落ち着くまでが大騒ぎだった。
「元気でやってるか」
 優希が利恵の胸でうとうとし始めるのを見てほっとしながら、私は娘に聞いた。
「この前電話したばっかりじゃない」
 娘は笑ってそう言い、優希を優しく揺すった。あんなに小さかった利恵が、いつの間にかすっかり母親の顔になっていることに、今更のように私は驚いた。
 そのまましばらく孫の顔を見ながら取り留めのない話をしていたが、私はやがて娘の相手を妻に任せ、昼食までの間、書斎に引っ込むことにした。どうも何を話したらいいのか、間が持たなかったのだ。
 小説の続きを書こうかどうしようかと悩みながらパソコンに向かってぼんやりしていると、優希が寝てしまって手が空いたのだろう、利恵が珍しく私の書斎に顔を出した。
「どうした」
 私がそう言うと、娘はパソコンの画面に目を向けた。
「仕事中だった?」
「うん、まあ」
 ぼうっとしていたとは言いづらく、私は曖昧に頷いた。
「お父さん、パソコン使えたんだ」
 娘がこの家にいた八年前には既に旧式のパソコンを使っていたが、娘はどうやら今の今まで知らなかったようだ。それだけ会話を交わしていなかったんだなと、私は自分に呆れて苦笑した。だが、そのことは口に出さなかった。
「まあ、会社でも使ってるからな」
 私がそう言うと、娘はふうんと首を傾げた。
「前は、原稿用紙に書いてなかったっけ」
 利恵が子どもの頃は、確かにそうだった。私は頷いて、座ったらどうだとソファの方を手で指した。娘はそれに従いながら、珍しげに部屋の中を見渡した。
「昔は小説を書いてるところに入ってきたら、よく怒られたけど」
 娘はそう言って、どこか悪戯っぽい顔をした。
「そうだったかな」
 私は咄嗟に惚けてみせたが、言われて見れば確かにそんなことがあった。厳しく躾をしていたというよりも、単に大人気がなかったのだと、今なら自分で分かる。当時は大人の仕事の邪魔をしたらいけないと、もっともらしいことを言っていたが。
「もうすぐ、優希の一歳の誕生日だな。お祝い、するだろう? そろばんも筆もまだ取ってあるから、母さんに聞くといい」
 私は話を逸らそうとして、そう言った。
 だが、利恵はぴんと来なかったようで、首を傾げた。
「そろばんって何に使うの?」
「なんだ、知らないのか。子どもの前にこう、色んなものを並べてどれかを選ばせるんだよ。そうやって、将来を占うんだ」
 そろばんを選べば商売上手、筆を選んだら賢い子になる。昔ながらの伝統を話して聞かせると、娘は初めて耳にするらしく、一々感心しながら頷いた。
「へえ、全然知らなかった。私のときにもしたの?」
「したとも。そろばんと、筆と、箸と、あとは何だったかな。最後に一万円札の入った袋を置いたんだ。そうしたら、お前は真っしぐらに現金を引っつかんだんだぞ」
 話しているうちに、当時の光景が目の裏に浮かんできた。この子はきっとお金には困らない人生を歩むよと、親戚たちに笑われながら、利恵は訳もわからずご機嫌そうだった。
「ええ? さすがに覚えてないなあ」
 娘は屈託なくひとしきり笑ったあと、真顔になって背筋を伸ばした。
「ねえ、お父さん。相談があるんだけど」
 その真剣な様子につられて、私まで背筋を伸ばしてしまった。
「どうした」
 聞き返すと、利恵は珍しく畏まった様子で、話し始めた。
「うん。けっこう悩んだんだけどね、優希が一歳になったらやっぱり、仕事の方、復帰しようと思うんだ」
 私は黙って頷いた。それがいいと、私も思う。将来万が一、今の旦那と離婚したり死別するようなことがあったときに、子どもを抱えて生きていくことができるよう、転ばぬ先の杖があったほうがいい。
 そんなこと、もちろん口に出しては言えないが。
「家に篭るのが嫌ってわけじゃないけど、やっぱり仕事したいって思って」
 そう言う利恵の表情は、責任ある大人の女性のものだった。それともこれも、親の贔屓目と言うやつだろうか。
「そうか」
 私が笑って頷くと、利恵もつられて少し微笑みながら、話を続けた。
「それで、優希なんだけど。保育園に預けようかどうしようか、悩んだんだけど、聞いてみたらどっちにしても近くに全然空きがなくて、すぐには入れないみたいなの。しばらく優希のこと、昼間、預かってもらえるかな」
「いいに決まってるさ。母さんにはもう言ったか?」
 私は即答した。娘にそんな頼みごとをされて断る親がいるものか。まあ、どうせ私は平日は仕事に出るから、実際に面倒を見るのはほとんど妻になるのだが。
「ううん、今から。……よかった」
 利恵はほっとしたように笑うと、いくらか寛いだようにソファに深く掛けなおして、少しの間何かを躊躇うように、書斎の中を見渡していた。
 何かまだ話があるのだろうか。黙って切り出すのを待っていると、利恵は複雑そうな顔をして、口を開いた。
「ねえ、お父さん。私、前、お父さんにひどいこと言ったよね。……覚えてる?」
 利恵のその言葉に、私は驚いた。
 確かに娘は中学生の頃、私に「口も利きたくない」と言ったことがあった。「お父さんには私の気持ちなんて、分からない」とも。言われた私は確かにそれで傷つきはした。
 だが、それはそんなに酷いことだっただろうか。少なくとも、見当外れなことではなかった。ずっと苦しんできたのだろう娘の心を理解しようとしなかったのは、間違いなく私の方だったのだから。
「私、ずっと自分のことでいっぱいいっぱいだったから」
 利恵は俯いてそう言ったが、私は首を横に振った。それのどこに罪があるというのだろう。たった七つの子どもが相手の不注意で車に撥ねられそうになったこと、それを庇った立派な高校生がいたこと。どちらも利恵の責任ではないのに、忘れようもなくしたのは、私たちの方だった。中学生の娘がそれに耐えかねたことの、どこが罪だというのだろう。
「ごめんなさい」
 利恵は頭を下げた。逆に、私の方がいたたまれなくなるような真剣さで。
「いいんだよ、そんなこと」
 本当に、いいんだ。私はただそう言った。もっと言ってやりたいことがあるはずなのに、言葉にならなかった。仮にも物書きの端くれが情けないと思うが、本当に肝心なときに言葉が出てこない。
「お父さんの本ね、読んだよ。うちの人が優希を見てくれてる間くらいしか時間とれないから、まだ三冊くらいだけど」
 娘は言いながら、私の書棚を目で追った。著者には完成した本が贈られてくるから、資料本を並べてある一角に、私の著書も一冊ずつ置いてある。その表題を見ているらしかった。
 利恵はいったい、いつの時期に書いた小説を読んだのだろうか。身内に自分の書いたものを読まれるのは、妙に恥ずかしいようないたたまれないような気持ちがする。そこには、私のみっともない自己嫌悪や、苦しみから逃れようとする逃避が、醜く滲んではいなかっただろうか。そんなことが気になった。
「珍しいな。昔は小難しいのは嫌だって言って、一ページも読めなかったのに」
 私は恥ずかしさを誤魔化すように、そう言って笑った。利恵は苦笑して、こちらに顔を向けた。
「それ言ったの、小学校のころじゃない? よく覚えてるね」
 覚えてるさ、娘のことなら、何年経とうと。そう思いはしたが、口には出さなかった。
「本の中身と本人を、一緒にしたらいけないのかもしれないけど……」
 利恵は、言葉を選ぶように少し黙って、それから続けた。
「お父さんも、苦しかったんだね。ずっと。そんな気がした」
 静かに呟かれた利恵のその一言で、私は何かを許されたような気がした。
 ずっと、心の中で、利恵を庇って死んだ堀井君に、私が雪の日に庇い損ねたあの小さな男の子に、謝り続けながら生きてきた。だが、私が本当に許されたかったのは、自分の娘からだったのかもしれない。
「そうでもないさ。できた妻と、可愛い娘がいたからな」
 慌てて茶化すつもりでそう言ったが、口にしてみれば、本当にそうだったような気になった。あの事故以来、自分を責めてみたり、娘を哀れに思ったり、色々な葛藤がありはしたが、そんなことばかりではなかった。
 そうだ。確かに、苦しいことばかりではなかった。
「そういうのはお母さんのいるところで言ってあげなよ。……ありがとね、お父さん」
 利恵がそう言った言葉に被せて、居間の方から優希の泣き声が聞こえてきた。大変、と呟いた利恵は、慌てて書斎を出て行った。
 礼なんか言わなくて良いんだ。お前が元気で笑って暮らしているのなら、それだけでいいんだ。
 その言葉を言う暇がなかったが、思わず堪え損ねた涙を隠すには、都合が良かった。
「お父さん、そろそろお昼にしますよ」
 遠くから呼ぶ、妻の声が聞こえた。「今行く」と返しながらも、その言葉が涙声にならなかっただろうかと、そんな小心なことが気になった。
 そうだ、次の小説は、娘を思う親の話を書こうと、私は涙を拭きながら唐突に思い立った。
 不器用なやり方でしか娘を愛せない、愚かな父親の話を。

(終わり)

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