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「憂鬱だ……」
 地の底を這うような声で呻いて、玖城玲一は自分の部屋のフローリングに突っ伏した。
「あきらめろ」
 壁にもたれて立っていた男、遠矢が、やや同情を含んだ声で、諭すようにいった。
「だいたい、もとはお前が持ってきた話じゃないか……」
 床に突っ伏したまま、恨みがましく見上げる玖城に、遠矢は目をあわせるまいと、視線を明後日の方向に逸らした。
「一回引き受けた女の頼みを断る気か? らしくねえな、玲一」
「ねえ、早くしてよ!」
 悲鳴のような声が、玖城の頭上から降り注ぐ。玖城の肩を必死に揺さぶっている――もとい、揺さぶろうとしているのは、体を半分透けさせた少女だった。その手は玖城の肩をすりぬけてしまう。少女の閉じられた両の瞼には、手術痕らしい傷跡がかすかに見えた。
「あの、沙菜さん。ほかのことなら何でもするから、勘弁してもらえないかな」
「それじゃ意味がないのよ!」
 悲痛に叫ぶ少女、沙菜の声に、玖城は苦しそうに呻きながら、体を起こした。手に持っていた、書店のロゴの入った紙袋を開き、紙のブックカバーのかかった文庫本を、爆弾でも持ち上げるかのような手つきで取り出す。
「早く! 早く読んで!」
 その頬が、実体を伴わないにも関わらず活き活きと紅潮しているのを見つめて、玖城は観念したようにためいきをついた。それから絞首台に続く栄光の十三階段をのぼる一歩を踏み出す革命家のような、悲壮かつ決然とした表情で、文庫本の表紙を開き……
 目を泳がせてぱたんと閉じた。

 ことの始まりは三日前だった。腕のたしかな霊能力者として、その筋では名を知られはじめている遠矢のもとに、一件の依頼が舞い込んできた。それは強盗殺人で娘を亡くしたという母親からの話で、ときおり娘の気配がする、あんな目にあって死んだので、きっと浮かばれずにいまも苦しんでいるに違いない、どうにか娘の霊を少しでも慰めてほしいと、悔し涙を浮かべて切々と訴えかける女性は、かなり思いつめた様子だった。
 しかし話を聞いた遠矢が、彼女の家を霊視したところ、どうも屋内にそれらしい気配は見当たらなかった。非業の死を遂げた人間が、必ずしも浮かばれずに死霊になって現世をさまよっているかというと、そうとも限らない。経験上そのことをよく知っている遠矢にも、悲嘆にくれる母親の様子を見れば、何かしら納得のいく結末が、彼女自身のために必要なのだと思われた。それに、殺人現場は家の中だったとはいえ、殺された人間の霊が、必ずしもその場にとどまっているとも限らない。
 それで探してみることになったのだが、霊能力者としての遠矢は、怨霊や鬼を祓うような力技には長けているものの、根気強く霊の話を聴いて慰めるというようなことに関しては、あまり得手ではない。それで玖城に話を回してきたのだった。
 家にいないとなれば、生前の彼女がよく出向いていた場所が、まだしも可能性が高いと思われた。心当たりを訊いてみると、亡くなった当人――秋月沙菜は一年半ほど前に、まだ十八歳の若さにして両目の視力を失って、このごろようやく近所であれば、白杖を手に出かけるようになったのだという。
「目が見えないあの子を、わざわざ殺す必要がどこにあったっていうんですか」
 母親は声を震わせてそう吐き捨てると、その場にはいない犯人の姿が、まるでそこにあるかのように、憎々しげに宙を睨みつけた。
 まずは視力を失ったあとの彼女の散歩圏内から、それらしき気配を探し始めた玖城だったが、比較的すぐに、瞼に傷跡のある少女の霊に行き会った。
 千軒堂書店。少女の家から少し離れたところにある、大型書店の軒先で、少女はじっと、見えない目を店内に向けて立ち尽くしていたのだ。

「秋月沙菜さん、ですね。どうしてこんなところに? この中に、誰かいるんですか」
 やさしく問いかけた玖城に、沙菜はばっと顔を上げて、見えない目で玖城の表情を見通すようなしぐさをした。
「あなた、誰。生きてる人? どうしてあたしのことがわかるの?」
「おれは、きみのお母さんから頼まれて、きみを探しにきたんだ」
 玖城の説明する事情を、沙菜ははじめ、あっけにとられたように聞いていたが、最後まで聞き終わると、ほうっと感心したようなためいきをついた。
「霊能力者なんて、テレビに出ていんちきをする人か、そうじゃなかったら、本やマンガの中にしかいないと思ってた」
「そういうものかもしれないね」
「死後の世界って、思っていたのとずいぶん違っていたわ」
 沙菜は寂しげに、ぽつりと呟いた。玖城はだまって頷いた。沙菜はしょんぼりと、うすい肩を落とした。
「好きな場所に移動できたり、人の心が読めるようになったりとかするかなと思ったのに、そういうものじゃないのね。もう体脂肪なんて気にしなくてもいいのに、美味しいものも食べられないし。お供えものを食べた気にくらい、なれるかと思ったのに」
 可憐な少女の口から出てきた言葉は、ごく即物的なものばかりだった。自分を殺した強盗殺人犯を怨んで、現世にとどまっているのだろうという先入観を持っていた玖城は、ここでまず、違和感を覚えた。けれど口は挟まずに、少女の話の先を促した。
「目だって、死んだらもとみたいに見えるようになるかと思ったけど、そんなところだけ、生きてたときのままなのね」
 そう深くためいきを落とす沙菜の瞼は、しっかりと閉じられたままだ。手には生前に使っていたものだろう、白杖を持っている。この書店にも、生前の散歩と同じように、音と手触りをたよりにやってきたのだろう。
 誰もいない空中に向って、しきりに相槌を打っている男の姿を、買い物客が振り返り振り返り遠巻きにしていく。しかし玖城はそんなことは気にも留めず、真摯な表情で少女の霊に向って頷きかけた。
「きみが今でも苦しんでいるんじゃないかって、きみのお母さんが心配しているんだ。おれにできることであれば、手伝うよ。やり残したこととか、あるんだったら」
「それなら、ひとつお願いがあるの!」
 それまでのしょげかえった様子が嘘のような剣幕で、沙菜はがばりと顔を上げた。思わず少しばかりひるんだ玖城に向って、沙菜は叫ぶようにいった。
「この中で、買ってきてほしい本があるの!」
「は?」
 予想していなかった言葉に、玖城は目を丸くした。
「あのね、もう何年も前から、続きをずっと楽しみにしていた小説があってね!」
 別人のようなテンションの高さで詰め寄ってくる沙菜に、玖城は気おされて、うんうんとうなずいた。
「前巻までが、すっごくいいところで終わってたのに、作者さんが病気とかで、続きが何年も出なくてね。もう出ないかなって、あきらめかけてたの。それがね、二年ぶりに急に発売が決まって。すごく楽しみだったのよ。すっごくすっごく楽しみだったの。馬鹿みたいって思われるかもしれないけど、決まってからは胸がどきどきして、眠れない日もあった。どういう展開になったんだろう、あのキャラクターはあのあとどうなったんだろうって、いろいろ想像してみたりして。それなのに」
 玖城が口を挟む隙はまったくなかった。沙菜は悔しげに、唇をぎりりとかみ締める。
「それなのに。急な手術が決まったのは、発売日の二週間前だったわ。あたしのこの目が見えなくなるのが、たった半月でも遅かったら。そうしたら何が何でも発売日当日に学校をさぼってでも速攻で買って読んだのに! なんで、なんでよりによってあのタイミングで? こんなのってないわ。神様なんていないんだと思った。この悔しさ、わかる!?」
「わ、わかる気はするよ」
 あまり本を読むことのない玖城には、正直よくわからない感覚だったが、頷く以外の余地など欠片もない剣幕だった。
「あれを読まないことには、死んでも死にきれない!!」
 じたばたと手足を振り回した沙菜に、玖城はこくこくと頷いた。それよりも卑劣な強盗殺人犯にいきなり殺されたことは悔しくないのかとか、そういう口を挟めるような様子ではまったくなかった。
「わ、わかった。買ってくる。でも、おれはあんまり本って読まなくて、どこに何があるのかよくわからないから、場所を教えてくれるかな。覚えてる?」
 沙菜は少し考え込んで、こくりと頷いた。
「あたしの目が見えてたときと、配置が大きく変わってなかったら」
「うん、じゃあ、入ってみよう」
 沙菜の、触れることの出来ない手を引くようにして、玖城が書店に入ると、少女の霊は杖の必要など感じさせないような慣れた足取りで、書棚のあいだを縫って歩いた。
「たぶん、このへん。このあたりに、サファイヤ文庫っていう棚がある?」
「ある………………けど、これって、あの、沙菜さん?」
 目の前に並んだ本の表紙に描かれた、やけに肌色の目立つ、きらきらと華やかなイラストに、玖城はいやな予感を覚えて、目を泳がせた。
「まだ在庫があるといいんだけど。いえでも、人気のあった作家さんだから、きっとおいてあるはず。さ行の作家さんを探してほしいの。東雲莉奈さんって人の本で」
 玖城の目は、しっかりと棚の中にその名前を見つけた。見つけてはいたが、とっさに見つけきれなかったことにしようかと思った。
 少女が口にしたタイトルの本を引き出すと、その表紙には、どうみても男同士にしか見えないふたりの少年が、手に手を取り合って情熱的に見詰め合っていたのだった。

「ごめんなさいゆるしてください。おれには無理です」
 何もない虚空に目を泳がせて呟いた玖城に、沙菜がすがりつくようにして、悲しげな声を上げた。
「そんなこといわないで! あたしがどれだけこの本を楽しみにしてたか、あんなに親身になって聞いてくれたじゃない!」
「っつうか、いま生まれて初めてお前のことを尊敬できる気がする。よく買ってこれたな、お前……」
 遠矢がしみじみといって、壁にもたれかけさせていた背を離した。
「まあ、健闘を祈る。じゃあな」
「ちょっと待て遠矢! 話を受けたお前が責任もって」
 玖城がいい終わるよりも早く、ばたんとドアを閉めて、遠矢は部屋を出て行ってしまった。
「あの野郎……っ」
「早く読んでよ!」
 もはや泣き出しそうな沙菜を見下ろして、玖城は懊悩した。せめて彼女が盲目でさえなかったら、ただ手に本をもつことができない彼女の代わりに、ページをめくってやるだけですんだのに。
 玖城は少女を見下ろした。沙菜は硬く閉ざされた瞼ごしに、必死に玖城を見上げていた。
 体の中からありとあらゆる勇気と忍耐を振り絞って、玖城はおそるおそる、本文の一ページ目をめくった。

 その夜、玖城の住むマンションの一室には、「ちょっとその棒読み、もうすこしどうにかならないの!?」「読むのが早すぎるわ! もうちょっとじっくり感慨に浸る間がほしいの!」などというような少女の声が夜更けまで響いたが、霊の声は常人の耳には聞こえないので、幸いなことに、近所迷惑にはならなかった。

「あれ? なんでまだいるんだ、お前」
 ドアを開けて部屋に入ってくるなり、驚いたようにそういった遠矢を、うつろな眼をした玖城が見上げた。顔色が白い。何か心の中の大事な部分が壊れたらしく、意味のとれない言葉を呟いている。その中に不穏な単語がまじっていたので、遠矢は途中から意識的に聞くのをやめた。
 その隣には少女の霊が、少しも成仏する気配などなく、膝を抱えてうずくまっている。悔しそうにその肩が小さく震えていた。
「どうしたんだ。ようやく読めて、満足したんじゃないのか」
 その問いに少女は答えず、かわりに玖城が、文庫本の最後のページを開いて、機械的な手つきで遠矢につきつけた。
 その余白には、こう書かれていた。

 ――つづく――
 

(終わり)
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