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 K大学農学部獣医学科は、普段から賑やかなところで、学生や大学で飼われている動物たちの喧騒に加え、付属病院に連れてこられるペットにその飼い主にと、実にさまざまな人が訪れる。
 獣医を志す学生たちの中には変人も多く、訳のわからない騒ぎが起こるのは日常茶飯事だったが、その日はとびきりだった。というのも、
「ようやく会えた、美帆さん……! あなたが心配で、この三日、夜も昼も胸が張り裂けそうでした……!」
 講義の最中にとつぜん実験室に飛び込んできた青年が、怯えて暴れるモルモットをがっしとつかんで、必死で頬ずりをする光景などは、さすがにそうそう見られるものではないから。
「帰りましょう、こんなところにいると、実験台にされちゃいますよ!」
 まさに『こんなところ』に所属する人々を目の前にして、あまりに傍若無人な言い草だが、幸か不幸か周囲の人は、この青年の奇抜な行動に圧倒されていたので、そんな小さなことに目くじらを立てる余裕のある者は、誰一人いなかった。ぽかんと口を開けて呆れているもの、危ない奴がきたと怯えて逃げ腰になっているもの、気の毒そうな目で青年を遠巻きにするものと、反応はさまざまだったが、誰も彼に話しかけることができないという一点だけは、共通していた。
「お騒がせして申し訳ない。どうも、彼が前に看取ったはずのペットと、そちらのモルモットを、すっかり混同してしまっているようで」
 青年に遅れて実験室に入ってきた、上等そうな背広を着込んだ男が、礼儀正しく深々と頭を下げた。
「きみ、それは気の毒な話だが、ちょっと非常識じゃないかね」
 口をぱくぱくさせていた老教授が、ようやく不機嫌そうな様子になって、そうたしなめた。
「誠に申し訳ありません。よほどペットの死が辛かったのか、彼、どう言い聞かせても、話を耳に入れようとしないんです。そちらのモルモット、もし可能であれば、引き取らせていただけないでしょうか」
「ああ、まあ、かまわないが……ちょうどいま、繁殖の連中が増やしすぎて数は余ってるし、そいつはまだ誰も使ってなかったから……」
「痛っ」
 青年の手の中で暴れていたモルモットが、よほど恐ろしかったのか、青年の手をかじって逃げ出した。
「ああっ、逃げないでください、美帆さん……!」
 青年は慌ててモルモットを追いかけ、嵐のように実験室を飛び出していった。
「お騒がせしまして、誠に申し訳ありませんでした。失礼いたします」
 あっけにとられている老教授と学生たちにもう一度頭を下げて、背広の男は連れを追いかけるために、実験室をあとにした。

「あああ、よかった美帆さん! もうこんな心配はかけないでくださいよ!」
 大学の敷地を出るために歩きながら、何度も何度も、手の中に再びつかまえたモルモットに向かって話しかける青年の背中を、連れの男が容赦なく蹴った。
「痛え! 何するんだよ、遠矢」
「お前なあ、いいかげん、世間の目を気にすることを覚えやがれ。通報されたって、もう親父さんの後ろ盾は期待できないんだろうがよ」
 先ほど教授に向かって折り目正しく頭を下げた男と、同じ人物とは思えないほどの柄の悪さで、遠矢は悪態をついた。
「いつまでもネズミに話しかけてないで、いったん帰るぞ。続きは人目のないところでやれ」
 涙目で蹴られた背中をさすりつつ、青年はもう一度、嫌がるモルモットに頬ずりをした。

 高層マンションの十二階、遥か足元に町並みを見下ろすその部屋に立てこもって、青年――玖城玲一は、ようやくモルモットから手を離した。
「……さて、結界はちゃんとしてるよな。そろそろいいか」
 遠矢が言って軽く手を振ると、部屋の中央にうずくまっていたモルモットから、ぼわりと煙のような影が膨らんだ。はじめはぼんやりとした影だったが、やがてそれは二十代半ばほどの、女の姿になる。高そうだが、やや趣味の悪い派手な服に身を包んだ女は、怒りに任せて両手をぶんぶんと振った。
「ちょっとあんたたち、何てことしてくれるのよ! せっかく大学にもぐりこんだのに」
「美帆さん、心配したんですよ! 俺たちから逃げるのはまだしも、危ないですよ、あんなところで、実験台のモルモットになんて憑依して!」
「余計なお世話よ! あの人に解剖されるなら、本望だわ!」
 美帆と呼ばれた女は、きっぱりと言って、うっとりと遠くを見るような目になった。離れたところでふたりのやり取りを見守っていた遠矢が、もたれていた壁からずるりと背中を滑らせる。
「……おい、玲一。お前、そのドM女に好かれたいんだったら、そいつを苛めたらいいんじゃねえか?」
「馬鹿いわないでよ! 好きな人にひどいことされるから、いいんじゃない! あんたたちなんてお呼びじゃないわ!」
 きっぱりはっきりといわれて、玖城がへなへなと床に崩れ落ちた。
「全くなあ……お前も、性格の歪んだ幽霊にばっかり惚れるその難儀な性癖は、どうにかならんのか。お前の霊能力者としての職業倫理は、いったいどこにあるんだ」
 傷心に呻いている友人の尻を蹴り飛ばしながら、遠矢はぼやいた。けれど玖城は落ち込んで、とてもまともな返事をできる状態にはないようだった。
「で、あんたは惚れた男がいるからって、わざわざそんなもんに憑依してまで、獣医学科にもぐりこみたかったのか?」
「悪い!?」
 モルモットから上半身を生やしたまま、美帆は腕組みをしてふんぞり返った。
「悪かねえけどよ。……そんで、当の相手に解剖されたら、あんたは満足して成仏すんのか? そんなら俺には止める義理はねえ、もっぺんあそこに連れていってやってもいい」
「馬鹿を言うな、遠矢!」
 がばりと跳ね起きて、玖城が叫ぶ。
「いくら好きな相手にだって、殺されるのが幸せなんて、そんなの絶対に間違ってる! 美帆さん! 俺と結婚してください! 俺はきっと、あなたを幸せにしてみせます!」
「死人とどうやって結婚する気だお前は……」
「書類の形式なんてどうでもいいんだ! 美帆さん、お願いします!」
「嫌よ」
 どきっぱりと断られて、玖城はフローリングに沈んだ。その頭のてっぺんを、モルモットがげしげしと蹴りつける。好きな相手にはドMでも、嫌いな男にはドSになるのが、女の習性と言うものらしかった。

 翌日、美帆憑きのモルモットをケージに入れて、ふたりは大学病院に向かっていた。
「美帆さん、どうか考え直してください。あなただって死ぬときには、痛い思いをしたでしょう? そのモルモットの中に入ったまま解剖されたら、もう一度死ぬ苦しみを味わうことになるんですよ。それも、あっさり死ねるような解剖とはかぎらない、もっと拷問みたいな苦しい実験に使われちゃうかもしれないじゃありませんか」
 めそめそと話しかける玖城に、美帆はモルモットの中から出てこないまま、ぷいとそっぽを向いて見せた。
「恋する女っていうやつは、なんともまあ、見境ねえなあ……」
 遠矢が呆れたようにぼやいて、ケージを覗き込む。モルモットはふふんというように、鼻を鳴らしてみせた。
 どうも昨日の晩から元気がないみたいでと大嘘をついて、ふたりは付属病院で、モルモットの診察の受付を済ませた。しかし、本当にこの付属病院で目当ての相手と会えるのかどうか、そこのところはよく分からない。学生が当番で受付や診察をするのだというが、ちょうど今日がその相手の当番とも限らない。
「いなかったら、どうすっかな」
 待合室で遠矢が首の後ろをがりがりと書きながら、そんなふうにぼやくと、玖城がぱっとケージの中を覗き込んだ。
「そのときは帰りましょうね、今日はあきらめて!」
 その言葉に反応して、ケージの中のモルモットがきいきいと騒ぎ出す。見つけ出すまで許さない、といわんばかりのその剣幕に、玖城が落ち込んでうなだれた。
「まあ、そんときは道に迷った振りでもして、うろうろしてみるか。それでも見つけきれなかったら、出直しだ。今日、絶対にそいつが今日の講義に出てるとも限らねえんだろ」
 モルモットは不機嫌そうに尻尾を揺らしたが、それでも不承不承というふうに、頷いた。
 結局、病院の中ではその彼氏を見つけることができず、診察を受けてビタミン剤をもらうと、ふたりと一匹は屋外に出た。そのまま、帰り道とは反対方向に、ぶらぶらと歩きながら、遠矢はキャンパスを見渡して、ためいきをついた。
「道に迷ったふりったって、限度があるよな……」
「そうですよ今日はもう帰りましょう、美帆さん!」
 懲りずに声を上げる玖城に、けれど、美帆は反応しなかった。
「美帆さん?」
 ふたりが怪訝にモルモットの視線を追うと、その先には、中庭のベンチに腰掛けた一組のカップルがいた。その女のほうの、恋人の腕に絡みつく手を、モルモットは、じっと見ているようだった。
「もしかして……あれか? その男って」
「そうなんですか? 美帆さん!」
 モルモットはしゅんとうなだれて、何も言わない。死んでからすでにかなりの時間がたっているせいで、霊体が弱っていて、結界がないところでは、憑依した体から外に出ることもかなわないのだった。
「……美帆さん、今日のところは帰りましょう。またどうしても来たいなら、出直しますから。ね?」
 優しい声で玲一がいうのに、モルモットはうなだれたまま、是とも否とも答えなかった。

「最初から、分かってたの」
 と、モルモットは、もとい美帆は言った。やはりマンションの部屋の真ん中で、実験動物の背中から、にゅっと上半身を伸ばしたまま。
「あの人にはちゃんと、前から付き合ってる彼女がいるって。人から聞いてたもの。優しくて可愛くて、素敵な彼女がいるって」
 男ふたりに何も言う隙を与えず、美帆はまくしたてるように続けた。
「でも好きになったものはしょうがないじゃない! 奪っちゃえなんていわないけど、せめて死んだあとに、ちょっとの間、モルモットとしてでもあの人のそばにいたいって思うくらい、いいじゃないよう!」
 派手な容姿をしている割には純情なことを言って、美帆はわんわんと泣き続けた。
 そのまま日が沈むまで、二時間も泣き続けただろうか、生身ならとっくの昔に涙も声も枯れ果てているだろうという頃に、ようやく美帆は泣き止んだ。
「……まあ、何だ。来世ではちゃんと、振り向いてくれるいい男を見つけろよ」
 ぼりぼりと頭をかきながら、疲れ果てたように遠矢が言うのに、まだいくらかしゃくりあげながら、美帆が小さく頷いた。けれど玖城は、がばりと身を起こして、熱っぽく美帆に訴えかける。
「来世なんて……! 美帆さん、お願いです。このままここにいてください。俺ならずっと、いつまでもあなたのそばにいます!」
「嫌よ」
 どきっぱりと断られて、玖城はフローリングに沈んだ。
「思いっきり泣いたら、なんだかちょっと、すっきりしちゃった。もうあきらめて、逝くわ」
 まだちょっと鼻を啜りながら、美帆は風呂桶からひょいと足を抜くような調子で、モルモットの背中から抜け出した。
「それに、あたしがいつまでも憑いてると、この子の体の負担にもなるみたいだし。……可愛がってあげてね」
「だ、そうだ。その女と思って世話してやれ」
「そんなの嫌だ!」
 べそべそと泣く玖城の頭を、透き通った手でよしよしと撫でる真似事をしてから、美帆はすうっと、高みに登っていった。
「ばいばい。いろいろありがとう」
 姿が消えて見えなくなる一瞬、それまでの強気な彼女とは別人かと思うようなやわらかい声が、部屋に響いた。
「嫌だ! いかないでよ、美帆さん!」
「幼稚園児かお前は。ほれ、さっさと泣き止め。そいつのエサを買いに行くぞ」
 わんわん泣き出す玖城の尻を、遠矢が容赦なく蹴り飛ばした。

(終わり)
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