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 二十三年の生涯の中で、これほど必死に逃げたことはなかった。
 夏美は昼下がりの街中を、息を切らせて走りながら、何度となくそのことを思った。角を曲がる拍子に、ちらりと背後を見る。遠くに追っ手の姿が見えた。自分より少し年下に見える青年は、いくらか息を切らしながらも、着実に距離を縮めてきている。
 ぶつかりそうになる人を反射的に避けて、そのたびに、ああ、べつに避けなくてもよかったんだと思う。思うけれど、その次の瞬間には無意識に、通行人を避けるほうに足を踏み出してしまう。
「待って! 待ってください!」
 後ろから追いすがるように、青年の声がかぶさってくる。冗談じゃない。夏美は顔だけで振り向いて、叫び返した。
「誰が待つもんですか!」
 夏美は言い終えるよりも早く前に向き直ると、ひた走った。けれど、疲労にだんだん足がもつれはじめているのが、自分でもわかる。
「どうして逃げるんですか!」
 悲しげな声が追いかけてきて、夏美は顔を顰めた。どうしてですって、決まりきってるじゃない。
「あんた拝み屋なんでしょう!?」
 叫んだら、むせそうになった。ああ、どうして息が切れるんだろう、いまいましい。もう息なんてしなくてもいいはずなのに。
 切れ切れに、夏美は怒鳴り返した。
「まだ、あたしには、やることがあるのよ! こんなところで、除霊なんて、されてたまるもんですか!」
 叫びながらも、もう走れないと、夏美は胸を押さえた。どうしてこんなに苦しいんだろう。霊魂だけの存在になったら、自由自在に壁をすり抜けたり、空を飛んだりできると思っていた。いくら走っても疲れないんだと思っていた。
 夏美は泣きそうになりながら、必死で足を前に動かす。当たり前だけれど、道行く人々の誰も、夏美に目を留めない。追われても、誰にも助けを求めることができないということが、実感としてじわじわと胸に沁みていく。疲れた。苦しい。立ち止まってどこかで休みたい。冷たい水が飲みたい。そこまで考えて、もう冷たい水なんて飲めないんだということに気づき、無性に悲しくなった。
「除霊なんてしません!」
 追いかけてきた切実な声に、思わず夏美の足が止まる。一度立ち止まると、もう走り出す気にはなれず、夏美はその場でへたり込んだ。
 大声で叫んだ青年の言葉に、周囲の人々がぎょっとして視線を向けた。そのうちの半分ほどが、慌ててそっと眼を逸らす。夏美は思わず彼らに同情した。見えない誰かを追いかけるように街中をひた走って、しかも除霊がどうのなんて大声で叫ぶ青年を見かけたら、大抵の人間は驚くし、係わり合いになりたくないと思うだろう。
 追いついてきた青年は、肩で息をしながら足を止め、周囲の目など少しも気にならないというように、ひたむきな眼で夏美を見つめた。それからもう一度、夏美に言い聞かせるように、繰り返した。
「除霊なんて、しませんよ」
「じゃあ、なんで追いかけてくるのよ……?」
 夏美が半信半疑の視線を向けると、青年は、顔を真っ赤にして、大真面目に叫んだ。
「貴女が好きだからです!」

「ええと……」
「玲一といいます。玖城玲一」
 夏美は混乱する頭をもてあましながら、とりあえず、その場で立ち上がった。玖城と名乗った青年は、まだ顔を紅潮させたまま、じっと夏美の返事を待っている。
「玖城くん。生きてるときに、どこかで会ったことがあった?」
 可能性としては、それくらいしか思いつかなかった。けれど夏美にはその覚えがない。記憶を探りながら問いかけると、玖城は神妙な面持ちで首を横に振った。
「ぼくが貴女を初めて見かけたのは、先月の終わりです」
 夏美は訝しく眉を寄せた。その頃には夏美はすでに霊魂だけの存在になって、この町をさまよっていたはずだ。
 夏美の不信感をぬぐおうとするように、玖城は必死に言いつのった。
「一目ぼれだったんです。あれからずっと、貴女のことが忘れられなかった。昨日の夜、知り合いから仕事の話が持ち込まれて、きょう現場に向かおうとしたら、そこにいたのが貴女だった。運命だと思いました」
 夏美は目を剥いて後ずさった。つまり、その仕事というのは……
「あんたやっぱり、あたしを除霊するつもりで来たんじゃない!」
 夏美が身を引きながら叫んでも、玖城は平然と首を横に振った。
「貴女だと分かったから、あの仕事は断ります。除霊なんてするはずがないです。むしろずっとぼくのそばに縛り付けておきたいくらいだ! 輪廻転生なんてクソくらえだ、永遠にぼくと一緒にいてください!」
「タチ悪っ」
 除霊されては困る立場も思わず忘れ、そうつぶやいた夏美に、しかし玖城は少しも動じることなく、暑苦しい視線を注いでいる。それがどうにも居心地悪く、夏美は退路を視線で探った。いくら口では除霊しないと言っていても、下手な態度を取れば、いつ玖城の気が変わるかわからない。
 夏美は忌々しく、透けて地面の見える自分の体を見下ろした。幽霊なら幽霊らしく、そのへんの壁をすり抜けることができたらいいのに。そうしたらいくらなんでも、この子も追いかけてこられないだろう。
「生きてたときの固定観念に引っ張られるから、普通のひとは、死んでしばらくの間は、なかなか自在に動き回ったりはできないんですよ」
 見透かしたように、玖城が言う。夏美はその顔をきっと睨みつけて、ちょっと顔を赤らめた。よく見れば、玖城青年は整った顔立ちをしている。少し線が細いような印象があり、それを頼りがいがなさそうととる女もいるだろうけれど、それにしても、思わずちょっと見とれてしまうような容貌だった。
 あまりにもったいないと、夏美は状況も忘れて、思わずそんなことを考えた。こんな変人でさえなかったら、きっと女の子にもてるだろうに。
「……とにかく。関係のない人には迷惑をかけないから、お願い。あたしのことは放っておいて」
 夏美がそう訴えると、玖城は真面目な表情のまま、きっぱりと首を横に振った。
「そんなことを疑っているんじゃない。ただ貴女が好きなんだ、叶うことなら一時たりともそばを離れたくない!」
「気持ち悪いわよ、あんた」
 思わず鳥肌をさする真似事をしながら、夏美がそう口走ると、玖城は傷ついたような表情になった。
 その顔があまりに悲しそうで、夏美はなんとなくバツの悪い思いをしながら、自分を鼓舞するように腕組みをした。
「だいたい、あたしのどこがいいわけ」
 夏美が問うと、耳を貸してもらったのがよほどうれしかったのか、玖城は顔をぱっと輝かせた。そして自分の胸に手をあてて、堂々と言い放った。
「恋に理由なんて!」
「……それは、あばたもえくぼ、っていうのと同じ意味?」
 呆れ気味に夏美が睨むと、玖城は驚いたように首をぶんぶんと振った。
「貴女はきれいだ」
 そう断言した玖城は、あくまで大真面目な表情だったが、夏美は眉を顰めた。
「つまらないお世辞はよして。生きてる間、一度だってそんなこと、言われたことないわ」
 言いながら、夏美は自分で自分の言葉に傷ついて、俯いた。けして二目と見られないような不細工な顔ではないが、間違っても美人とか、可愛いとか、そういう形容がつくような容姿ではない。けれど、青年はそんな夏美のコンプレックスなど気づきもしないように、熱い口調で言った。
「みんな、目が曇ってるんだ。貴女みたいにきれいなオーラの女性、いままで出会ったことがありません」
「…………あ、そう」
 玖城のきらきらと輝く瞳には、悪気の欠片もうつっていない。複雑な思いをもてあましたまま、夏美はとりあえず頷いた。
「信じてくれないんですか?」
 しょげかえった子犬のような目で言われて、夏美は気まずくたじろいだ。何もない空間に向かって熱心に愛を叫ぶ玖城を、人々が遠巻きにしながら通り過ぎていく。彼らの眼に、夏美の姿は映っていないのに、そうと分かっていても恥ずかしくて、夏美はそわそわと踵を鳴らした。
 注目されている玖城自身は、告白の瞬間こそ顔を赤らめていたが、人々の耳目を集めていることについては、少しも恥ずかしくないようだった。ここまで周囲の目を無視できるというのも、すごい。夏美はそんなことに感心しながらも、どうにかこの妙な男の子を説き伏せようと、気を取り直して玖城の顔を睨みつけた。
「あのね、よく知りもしない男の子から、いきなり一目ぼれしたなんて言われてもね」
 しかも、自分が死んで霊になってから言われても困るんだと、夏美が言いかけたとき、玖城の背後から、長身の男が近づいてきた。
「往来で騒ぐな、この万年お花畑。世間様の邪魔だ」
 玖城の尻を蹴って、男は苛々したように煙草を噛み潰した。目つきが鋭く、ぱりっとした上品な背広に身を包んでいるのにも関わらず、言動と表情のせいで、ひどく柄が悪く見える。
「痛って……、何するんだ、遠矢」
 玖城が尻をさすりさすり、知り合いらしい男に向かって抗議の声を上げる。事情がよくわからないながらも、この隙に逃げられないかと身じろぎした夏美だったが、その進路をふさぐように、男の足がビルの壁を蹴りつけた。もう、蹴られたって痛くもないはずなのに、反射的に身を竦めて、夏美は遠矢と呼ばれた男を見上げた。
「お嬢さん、一方的で悪いんだがな、ちょっと場所を変えさせてもらうよ」
 遠矢が言うなり、夏美の体が突如、見えない巨大な手で地面に押し付けられているかのように、ずしんと重くなった。指一本、自分の意思では動かせない。言葉も出せない。
「遠矢! 何をするんだ!」
「やかましい。問答無用で祓わないだけ、有り難いと思いやがれ。……一旦、引き上げるぞ」
 まるで猫の子でも持ち上げるように、遠矢の手に襟首をつかまれて、夏美は街路をひきずられながら、意識が遠くなるのを感じた。

 幽霊になっても、気を失うことはあるらしい。夏美はそんなことを考えながら、ゆっくりと眼を開いた。見知らぬ部屋の、やたらと上等そうな壁紙が視界に入る。眩しいと思って、顔を光の射すほうに向けると、窓越しに、夕焼けに染まりかかった空が見えた。ほかの建物が視界に入らない。高層マンションの部屋かどこからしかった。
「……どこ、ここ」
 不安を声に滲ませながら、夏美が訊くと、そばに座り込んでいた玖城が、ほっとしたように笑った。
「俺の部屋。すみません、遠矢が乱暴なことして」
「ふざけるな。お前は仕事をいったいなんだと思ってるんだ。何度、俺の顔をつぶせば気が済む」
 少し離れたところで、椅子に掛けていた遠矢が、不機嫌そうに舌打ちした。それほど腹を立てているのなら、どうして遠矢自身がさっさと自分を除霊しなかったのだろうと、夏美はまだどこかぼんやりする思考の片隅で、他人事のようにそう思った。
「気分は? 大丈夫ですか?」
 玖城は不安げに、夏美の顔を覗き込んできた。幽霊に気分を聞く人間がいるものかと、呆れがちに玖城を見やって、夏美は急に気づいた。体が軽い。遠矢にかけられた呪縛は、すっかり消えうせていた。
「……あたしを自由にしていいの?」
 遠矢に視線を向けてそう訊くと、鼻で笑われた。説明もせず、顎で玄関らしき戸を示す。そこに視線を向けて、夏美は顔を顰めた。結界、なのだろうか。眼に何が見えるというわけでもないが、そこが何かの力で霊的に封じられているということは、肌で分かった。とても近づく気になれない。夏美の霊体そのものを束縛することはやめても、外に出す気はないということだろう。
「さて、お嬢さん、事情を訊こうか。死んでひと月以上も経つのに、まだそれだけしっかりした口をきけるくらいだ。よほどの執着があるんだろう」
 遠矢に訊かれて、夏美は唇を噛んだ。ひと月。そうだ。もうそれほどの時間が経つ。こんなことをしている場合ではないのだ。
 夏美は、透けている自分の手足をじっと見た。霊になった当初、夏美は、往来で幽霊仲間の姿をほとんど見かけないことに、すぐに気が付いた。初めのうちはただ不思議に思っていたが、やがて、生きていたときの記憶が少しずつ薄れていく自分に気づいたとき、その疑問の答えが見えたような気がした。肉体の助けなしに、長いあいだ記憶や思考を維持し続けることができるほどには、人間の霊体は、確かなものではないのだ。
 まだ今すぐにどうこうということはなさそうだったが、いつまでもこうしてはっきりと意識を保ったまま、現世にとどまることはできない。遠矢の言葉で、夏美はそのことを確信した。
「言いづらいようだったら、こっちから言おうか。男だろう」
 言い当てられて、夏美はきっと遠矢を睨んだ。
「掛井夏美さん。連れの男と口論になり、我を忘れて追いかけたところを、車に跳ねられて即死。一月半前の話だ。……あんたのことだろ」
 遠矢は足組みしながら、たいした興味もなさそうに、夏美を見下ろした。
「それがどうしたっていうの」
 硬い声音で夏美が言うと、遠矢は舌打ちを漏らして、いらいらと膝をゆすった。
「あんたがいつまでもこの辺をふらふらしていると、迷惑する人間がいるんだよ。死者には死者の、行くべき場所がある。分かってるんだろう?」
 もっともな話だと思ったが、夏美は固く俯いて、拒絶の意思を示した。遠矢が短く、うんざりしたようなためいきをつく。
「自分を捨てた男に、復讐でもしたいのか?」
「……あいつ以外の人間には、迷惑なんてかけないわ。だから見逃して」
「断る」
 遠矢はきっぱりと言って、首の後ろを摩った。
「あんたたちの依頼人って、あいつ?」
「違うよ。あんたがしょっちゅう廊下をうろうろしていたマンションがあるだろう。そこの管理人が、このごろ女の霊が出るって噂をたてられて、迷惑してるんだ」
 そう、と呟いて、夏美は壁にもたれかかった。この壁には、玄関のような厭な気配は感じない。ただ壁紙の感触が背中にあたるだけだ。壁をすり抜けることができさえすれば、自由の身なのに。歯噛みした夏美は、そんな自分を悲しそうに見下ろす視線を感じて、顔を上げた。ずっと黙っていた玖城が、何か言いたげに、じっと夏美を見つめている。
「なによ」
「復讐なんて、よしたほうがいいです。夏美さん」
「綺麗ごとはよして」
 夏美は吐き捨てるように言って、顔を背けた。けれど玖城はわざわざ回りこんで、夏美と視線を合わせようとしてくる。
「貴女を捨てるような、見る眼のないくだらない男のために、貴女がいつまでも苦しい思いをすることはない」
 ありふれたチープな言葉だと、夏美は思った。安いドラマか小説みたいだ。けれど、そう言う玖城の表情があまりに真剣だったので、馬鹿にする気にもなれず、ただ夏美は俯いた。
 それにしてもどうして、知り合ったばかりの幽霊一人に、そこまで必死になるのだろう。夏美はあきれて、玖城の色の薄い瞳を見つめかえした。一目ぼれというのは、本気だろうか。嘘をついているようには見えないけれど、まさかとも思う。生きている美女にならともかく、死んだ女の霊に一目ぼれ。考えれば考えるほど、うそ臭く思えてくる。ただ夏美の足を止めさせるための、方便だったのではないか。
 疑う夏美の心も知らず、玖城は何かを決意するように、きっと顔を上げた。
「どうしても夏美さんの気がすまないんなら、その男、俺が殺してきてあげるから」
「アホか!」
 夏美の手を取らんばかりにして言い募る玖城を、遠矢が背後から、容赦のない勢いで蹴り倒した。倒れた玖城の頭がフローリングにぶつかって、ものすごい音がする。両手で頭を抱えて悶絶する玖城を、遠矢が追い討ちのようにげしげしと蹴りつけた。
「……っ、遠矢、お前、ちょっとは手加減ってものを」
「やかましいこの変質者! ったく、毎回毎回、面倒な幽霊にばっかり惚れやがって」
「…………毎回?」
 呆然と聞き返すと、玖城が、ぎくりと身を竦ませた。ああ、そう。夏美は玖城を見る自分の視線の温度が急速に下がっていくのを自覚した。なるほど、毎回ね。幽霊にばっかり。そうなんだ。
「違うんだ、夏美さん、俺は貴女が、俺の運命のひとだと」
「……へえ、そう」
「信じて! 本当なんです!」
 夏美は涙目でくらいついてくる玖城を無視して立ち上がると、すたすたとベランダに向かった。
「ああっ、距離を置かないで!」
 その声を聞き流しながら、夏美はガラス越しに外を見た。目が覚めて最初に思ったとおり、ここは高層マンションの一室らしかった。十階かそのくらいだろうか、宵闇に包まれようとしている町並みや、足元を行き交う人々が、ひどく小さく見えた。
 生きているときの固定観念が邪魔をするから、壁も抜けられないし、走れば疲れるような気がするのだと、さっき玖城は言った。つまりは、壁を通り抜けられないというのは、ただの夏美の思い込みだ。本当は壁抜けだってできるし、高いところから落ちてもなんともないはず。夏美はそう口の中で呟いて、足を前に踏み出した。
「あ、待て!」
 遠矢の慌てたような声を聞きながら、夏美は拍子抜けするほどあっさりとガラスをすり抜けて、ベランダへ出た。ふたりが慌てて追いかけて来る物音を背中に聞きながら、ベランダの手すりを乗り越える。きれいな彫りの入った手すりに触れたときには、ひやりとした金属の感触が伝わってきた。
 こうして手で触ることができるのに、肉体がないなんて。そう我に返りそうになる心を押さえつけ、夏美は手すりを蹴って、目を瞑った。風をきる感覚。頭上から、何ごとか必死で叫ぶ玖城の声が追いかけてきた。
 地面に着地する衝撃は、いつまでもやってこなかった。
 気づけば夏美は地上に降り立っていた。思わずマンションを振り仰ぐ。はるかな高みまで聳え立つその建物は、上品で落ち着いた外観の、想像どおりの高級マンションのようだった。
 こうしてはいられない。夏美は気を取り直して顔を地上に戻し、駆け出した。来たことのない場所ではあるけれど、遠くに、見覚えのある電波塔が見えている。なんとか道は分かりそうだった。あんな変人にかまっている場合ではないのだ。こちらにとどまっていられる時間が限られているのならなおさら、一日も早く、もう一度あいつに会わなくてはならない。
 夏美は走りながら、思い返す。死んだあと初めて、恋人に会いに行った日のことを。

 ――待ってよ! なんで別れるなんて言うの! 孝司、話を……
 叫びながら必死で走って、耳を劈くようなクラクションに驚いたときには、もうバンパーが目の前だった。
 次に気が付いたときは、自分の葬儀の途中だった。祭壇の遺影が微妙な顔で、どうしてせめてもうちょっと映りのいい写真を選んでくれなかったのと、思わず母親に抗議したけれど、当然ながら、母の耳に夏美の文句は届かなかった。そこでようやく、ああ、本当にあたしは死んだんだと思って、夏美はしばらくその場に立ち尽くした。
 呆然としている母親の、小さくなってしまった肩。妹ばかりを可愛がって、少しも夏美に関心をみせないようだった父親の、意外なほど泣きはらした赤い目。そんなことの一つ一つに気づくたびに、罪悪感を覚えたけれど、それよりも、その場に孝司がいないことに気づいたときのほうが、ショックだった。葬儀も終わりきる前に、夏美はふらりとその場を離れた。
 昼間のことだった。もしかして講義を受けているのかと、催事場から近い孝司の大学まで行ってみたが、そこに彼の姿はなく、ただ、孝司の知り合いらしい人たちが、好奇心に満ちた様子で自分の噂話をしているのが、ちらほらと聞こえてくるばかりだった。事故にあったのは、ここのキャンパスのすぐ近くだったから、噂になるのも無理もないのかもしれない。
 それから夏美は、孝司の部屋に向かった。いったんは駅に足を運んだものの、どういうわけか、霊魂は電車に乗れないらしかった。切符を買わなくても改札は通り抜けることができたが、車内に入ったつもりでも、線路の上に取り残されてしまう。壁はすり抜けられなかったくせに、電車の筐体は通り抜けてしまうのは、どういうわけだろうか。仕方なく、夏美は延々と歩いて、孝司のマンションまで向かった。
 孝司が親から与えられたというマンションの一室。さきほど連れて行かれた玖城の住む建物ほどには、豪勢なところではないけれど、一人暮らしの学生にぽんと与えられるには、贅沢すぎるような部屋。何度も行ったその部屋の前まで来て、夏美は、ドアノブを手につかむことのできない自分に気が付いた。壁抜けができるわけでも、インターフォンが鳴らせるわけでもない。
 その場で立ち尽くした夏美だったが、何時間ほどが経ったころだったか、彼の友人という、何度か見たことのある青年が、部屋を訪ねてきた。何度もインターフォンを鳴らすうちに、しばらくして、面倒そうに孝司が出てきたのを見た瞬間、夏美は泣き出しそうになっていた。ほんの一日二日前に別れたばかりの相手が、妙に懐かしく思えた。けれど、何を話しかけても、孝司の耳には届かない。
 彼の友人は、気まずそうに世間話らしきことをいくつか口にしたあと、土産に持ってきたらしいコンビニのレジ袋を孝司に押し付けながら、遠慮がちに言った。
 ――なあ、気を落とすなよ。
 孝司はその言葉に、眉を吊り上げた。
 ――何がだよ。
 ――ほら、例の。あの人と、お前、つきあってたんじゃないのかよ。
 ――知らねえよ、あんな女。勝手に車道に突っ込んでったんだ。
 夏美がそこにいるということに、気づきようのないかつての恋人は、友人に向かって、そう冷たく吐き捨てた。

 走りに走って、ようやくたどりついた孝司のマンションの廊下で、夏美は座り込んでいた。
 孝司が一人暮らしをしている部屋の前だ。外から窓を見あげたときには、灯りはついていなかった。留守だろうか、それとももう休んでいるのだろうか。まだ時間は早いけれど、前から孝司の生活はひどく不規則で、頻繁に講義もさぼって昼日中から柄の悪い仲間と酒を飲み、おかしな時間に寝付いたりしていた。
 壁をすり抜けられないというのは、先入観のなせるわざで、ただの思い込みなのだと、夏美は何度も何度も自分に言い聞かせた。そうしてマンションの、孝司の部屋に足を踏み入れようとしたのだけれど、どうしても壁に阻まれて、通り抜けることができない。玖城の部屋から出るときはうまくいったのに。
 しかたなく廊下に座り込んで、膝を抱え込んでいた。部屋の中からは、孝司の声は聞こえてこない。ときおり物音はするが、隣の部屋や上下階のものなのか、孝司の部屋から聞こえてくるのか、いまひとつ判然としなかった。それでもずっとこうしていれば、中には入れなくても、そのうち孝司が出てくるか、どこかから帰ってくるかもしれない。
 どれくらい、そうしていただろう。死んでからこっち、体の感覚は残っていても、時間感覚については、いまひとつ不確かだった。死んでもうひと月以上になるというのも、通りかかった店のカレンダーで見て、ようやく気が付いたくらいだった。廊下で膝を抱えてぼうっとしているうちに、もう何時間も過ぎているような気もするし、五分も経っていないようにも思える。
 足音が響くたびに、孝司ではないかと、顔を上げる。そして見知らぬ家族連れや若者が、夏美の存在に気づきもせずに通り過ぎていくのを、じっと見つめていた。
 何度かそういうことを繰り返して、数度目に顔を上げたとき、夏美は思わず立ち上がった。
「彼氏が出てきたら、どうするつもりだ」
 遠矢だった。夏美は背後のドアと遠矢の長身を見比べて、逡巡した。逃げ出さないと、今度こそ祓われてしまうかもしれない。けれどいまここを離れれば、あの玖城の部屋の玄関のように結界を張られて、二度とこのマンションに近づけないようにされてしまうかもしれなかった。
「とり殺して、それで満足か?」
 嘲笑うような口調で、遠矢は言った。夏美は唇を噛んで、俯く。
「だって、ひどいと思わない? あんな女知らないって言ったのよ。勝手に死んだんだから、俺は知らないって……」
 言いながら、夏美は自分の声が怒りに震えるのを感じた。許せない。
 好きだった。ようやく本当の恋に出会えたと思っていた。いつまでも一緒にいたいと思っていた。それをあっさり捨てられた。鬱陶しいのだと言って。
 全部、夏美の独りよがりな思いこみだった。それならそれでもいい。けれど、あんまりじゃない。仮にも三年も付き合ってきた相手が、自分を追いかけて交通事故で死んだのに、勝手にあいつが事故に遭ったんだ、俺には関係ないなんて。そうやってさらりと忘れ去って、自分だけ楽しく生きていくつもりだなんて、ひどいじゃない。
「鬼になりかかってるぞ」
 遠矢は何が面白いのか、唇をつりあげて、夏美の手を指差した。夏美は自分の体を見下ろして、ぎょっとした。手が節くれだって歪み、鋭い爪が伸びている。
「これだから、女の情念は怖い。……忠告しといてやるが、一度でも人をとり殺したら、もう戻れねえぞ」
 くくっと可笑しげに息を漏らして、遠矢は続けた。
「なあ。あいつじゃないが、馬鹿馬鹿しいとは思わないか。つまらない男に引っかかったせいで、生きてる間どころか、死んだあとまで、いつまでも振り回されて。本当だったらもっと苦しまずに、楽に向こうに渡れるはずなのに」
 夏美は変貌した我が手を見下ろしたまま、搾り出すように言った。
「思うわよ。でも仕方がないじゃない。そんなふうに、簡単に割り切れないんだもの」
 遠矢は懐から煙草を取り出し、高そうなライターで火をつけた。煙を吸い込んで、ぷかりと吐く。次に遠矢の口から飛び出した言葉は、夏美には意外なものだった。
「そんなに惚れてたのか」
 夏美は答えなかった。そんな簡単な言葉で片付けられるような思いではない。
 孝司には確かに昔から、我侭で素行も悪く、露悪的で、人を人とも思わないようなところがあった。酔っているときには、大声で怒鳴ったり、夏美に手を上げたりすることもあった。けれど、優しさも持っていたのだ。夏美が泣いていれば、憮然と黙り込んで、けれど泣き止むまで必ず、同じ部屋にいてくれた。料理をしようとした夏美が手を切れば、泡を食って傷口を確かめて、不器用な手つきで絆創膏を張りながら、気をつけろ馬鹿と、何度も言った。
 親に無理やりいれられたという大学にもまともに通わず、柄のよくない連中と仲間と酒を飲んでは騒いでいた、孝司の素行の悪さを、夏美はいつも嘆いていて、それが孝司には鬱陶しかったのかもしれなかった。けれど、孝司が夏美に対して何の感情ももっていなかったとは、思えなかった。思いたくなかった。だからこそあの言葉が許せない。
 ざわりと肌が震えて、また爪が伸びた。人ではあり得ない、節くれだった手は、醜かった。人を憎めば文字通り、鬼になるのだと、夏美は他人事のようにそう思った。
 鬼になってしまった霊魂は、どこにいくのだろう。きっとまともな場所ではない。そこには途方もなく長い苦しみが待っているのかもしれない。
 けれど、もうどうなってもいいと、夏美は心のどこかでそう思っている自分にも気が付いていた。
 遠矢はためいきをついて、煙草を靴で消した。そうして、苦虫を噛み潰したような表情で、頭をがりがりと掻く。どうして彼が自分をさっさと祓わないのか、不思議な気がして、夏美は踏み消された煙草を、じっと見つめていた。
「あの馬鹿もなあ、なんでこう、面倒な相手ばっかり……」
 遠矢の口からぽろりとこぼれた愚痴に、夏美はふっと毒気を抜かれたような思いで、顔を上げた。
「変な子ね、玖城くんって」
「まったくだ」
 本当に心の底からうんざりしたように遠矢は言って、けれどその目の色がふっと揺れた。
「まあ、でも、あんまり気を悪くしないでやってくれ。あいつも、気の毒なやつなんだ」
 その口調は苦々しかった。廊下の手すりから夜景を眺めながら、遠矢は二本目の煙草に火をつけた。
 そのふてぶてしい言動やしぐさと、着ているものの印象から、ずいぶん年上に見えたが、よくよく見ると、遠矢がまだ自分とそう年の変わらない年齢であるらしいことに、夏美はようやく気が付いた。

 どういう風の吹き回しか、遠矢がぽつりぽつりと語ったところによると、玖城玲一は、その道では昔から高名な霊能力者の一族の総領息子で、当主であるところの父親から、厳しく英才教育を受けて育てられたのだという。医者にでっちあげさせた診断書をたてに、学校にも通わず、最低限の一般教養を教える家庭教師をつけられたばかりで、あとはひたすら、修行に打ち込む毎日だったのだそうだ。
 玲一の母親は、普段はそれは上品に微笑む、温厚な良家の奥方そのもので、けれど時々、その優しそうな笑顔のままで、前触れなく玲一に暴力を振るったり、心無い言葉を吐いたりしたという。
 父親の内弟子や、彼らを頼ってくる人々は、いずれも玖城家の当主を恐れるあまり、玲一にひどく丁寧に接した。けれど影では彼のことを妬みもし、ひどい悪態もついた。そんな中で育って、玖城は人の心の表裏を、ひどく嫌悪するようになったのだという。
「あいつが死んだやつの霊にばっかり惚れるのも、ちっと、分からないでもないんだ。……分かりたくもねえが」
 生者と違って、死者は正直だからと、遠矢は皮肉に笑った。たいがいの霊は、悲しければ悲しい、憎ければ憎いと、感情をむき出しにする。生者と違って、体面や外聞や、生活を気にする必要がもうないから、仮面を被って本心を隠すことがない。
 そうかもしれないと、夏美はぼんやりと思った。夏美は生きているときだって、感情をすぐ表に出すタイプではあったけれど、それでも今のようには、激しく誰かを憎んだりはしなかった。仮に同じような経験をしても、きっと心のどこかでブレーキがかかっていたと思う。
「あなたは、あの子とどういうお友達なの?」
 夏美が膝を抱えたままそう訊くと、遠矢はなんとなく嫌そうな顔をして、けれど律儀に教えてくれた。
「俺の父親が、あいつの親父殿の弟子で、俺もガキのころから、ちょいちょい本家に出入りしてたんだ。親からは、若様に失礼のないようにと言い聞かされちゃいたが、ガキのことだしな。そういうエコヒイキがどうしても気に食わなくて、初対面から遠慮なしに苛め倒したら、いきなり懐かれた。迷惑な話だ」
「屈折してるわね」
 夏美は思わず口を挟んで、「全くだ」と、遠矢も渋い顔で頷いた。あんたたちふたりとも、というつもりで夏美は言ったのだが、遠矢はそこに、自分のことを含めていないようだった。
「あいつもあの奇行だからな。今はもう、とっくに本家に見放されて、勘当同然だ。それでも悪い癖さえ出なけりゃ、腕はいいからな。口コミで頼ってくる客もいるし、俺もたまに仕事を回してやって、それで充分、喰ってはいけてる」
「……それで、可哀想だから、彼に付き合ってやれって、そういう話?」
「まさか。輪廻転生の輪からも外れて永遠にあいつのそばに居ろなんて、そんな与太話、あんただって本気にしてるわけじゃないんだろ?」
 そうねと頷きながら、夏美は開かないドアをじっと見つめた。
「そういえば、玖城君は? あきらめたの?」
「いや。今ごろここを探し回ってるだろうな」
 ここの詳しい場所は、まだあいつに教えてなかったからなと、悪びれず遠矢は言って、手すりから地上を見下ろした。
「ねえ、どうしてあたし、ここの壁をすり抜けられないのかな」
 ふいに思い出して訊くと、遠矢は肩をすくめた。
「人が住んでる家っていうのは、それだけで、外から入ってくるものを拒む結界になるもんだ。誰かにくっついて入るか、住人から招かれないかぎり、入れないさ」
 ふうんと相槌を打って、夏美は鉄製のドアを睨んだ。それならやはり、孝司が姿を見せるのをただ待つだけだ。
「お。来たか」
 声を上げて、遠矢は手を振った。下に、玖城がやって来ているらしかった。夏美はぼんやりと、遠矢の煙草の火を目で追いながら、玖城の心境を思った。追いかけて来て、どうするつもりなのだろう。夏美を説得して、あの部屋に連れて帰る気なのか。死んだものの霊と、永遠に一緒にいられるなんて、あの子は本気で思っているのだろうか。
 声に出してそう訊くと、遠矢は何も答えず、肩をすくめた。
「夏美さん、心配しました……!」
 エレベータを使うのももどかしかったのか、階段を駆け上がってきた玖城の息は、切れていた。
「あたしのことを? あいつをじゃなくて?」
 夏美が意地悪く言いながら、孝司の部屋のドアを視線でしめすと、玖城は大真面目な顔で頷いた。
「正直、そんな男のことはどうでもいいです。短気を起こしたこいつが、貴女をどうにかしてるんじゃないかって、気が気じゃなかった」
「なんだ、人聞きの悪い」
 遠矢は平然と煙草をふかしている。その目が、ちらりと夏美の手に向いて、玖城もそれにつられるように、同じ場所を見た。
「ああ……」
 玖城が眉を下げて呻くのに、夏美は気まずく目を逸らした。
 言葉を見つけきれないように、悲しげに首を振った玖城が、それでも思わずといったようすで歩み寄ってくるのに、夏美は座り込んだまま身をよじって、距離をとろうとした。けれど玖城はかまわず目の前に跪くと、ためらいなく異形に変わり果てた夏美の手をとった。
 手をとるといっても、実際に触ることができるわけではない。けれど、重なり合った玖城の手のひらから、澄んだ冷たい感触が流れ込んできて、夏美は息を呑んだ。
 それは夏美の目には、青みがかった、淡い光に見えた。
「……うそ」
 思わず呟いて、夏美は玖城の手のひらに包まれた自分の指を、まじまじと見た。光に包まれたところから、見る間に肌が色を変え、爪が縮み、元の形に戻っていく。
 ほんの一呼吸の間、玖城に握られていただけで、夏美の手は、何もかも元通りに戻っていた。夏美は思わず絶句して、目の前の青年の、淡い光に照らし出された美貌を、ただ見つめた。
「もう行きましょう、夏美さん。こんなところにいたって、いいことなんてひとつもない」
「……いやよ」
 あっけにとられていた夏美は、玖城のその言葉に我に返り、きつく膝を抱えた。
「孝司に思い知らせるまでは、離れない。どうしても連れて行きたいんだったら、さっきみたいに無理やり、連れて行ったらいいじゃない。何度でもここに戻ってきてやるから」
 夏美がきっぱりと言うと、玖城と遠矢は目を見合わせた。
「夏美さん、本当に、そいつに復讐したいんですか」
 玖城に、まっすぐに見つめられて、夏美は目を逸らしながら、頷いた。
「そうよ。だって、許せない」
「本当に? 捨てられたっていう恨みだけで、彼を殺そうとした?」
「……そうよ。だって」
 夏美は過去のいきさつを玖城に話そうとして、つっかえた。ためらったのではない。言うべき言葉が、出てこなかったのだ。
 これまでにない記憶の欠落に、夏美は愕然とした。
 前からいくらか予兆はあったが、過去の出来事を、すぐには思い出せなくなってきている。このままどんどん、いろいろなことを忘れていってしまうのかと、あらためてそれを思うと、恐ろしかった。
 けれど時間をかければ、少なくとも葬儀の日の記憶は、きちんと戻ってきた。知らねえよ、あんな女。孝司の冷たい声が耳に蘇る。知らねえよ……
「そうよ。このままじゃ、死にきれない」
 声を絞り出すように言った夏美を見下ろして、遠矢がぷかりと煙を吐いた。
「……なら、俺が会わせてやる。自力じゃ中に入れないんだろ?」
「遠矢?」
 玖城が、焦ったように声を上げるのを、遠矢は鼻で笑って無視した。
「その代わり、俺が奴さんと一通り話をするのが先だ。合図をするまでは、相手の男に一切手出しをするな。それだけ約束するなら、手伝ってやる」

 そういうことなら俺がやると、強く言い張った玖城を、遠矢は青筋を立てて蹴り倒した。代わりにそいつを殺してやるとか物騒なことを言っていた奴に、そんな役を任せきれるかと、遠矢は上等そうな革靴のつま先で、遠慮なく何度も友人の脛を蹴飛ばした。
 遠矢がインターフォンを鳴らすと、しばらくの沈黙のあとに、「誰」という、無愛想な声が返ってきた。孝司の声。夏美は反射的に立ちあがって、ドア脇の小さなスピーカーの前まで駆け寄った。
「遠矢と申します。掛井夏美さんのことで、お話があって参りました」
 スピーカーからは、沈黙が帰ってきた。そのまま黙って通話を切るかと思ったが、長い間のあとに、鍵が開くような音が響いた。
「どうぞ」
 思いもしないほどあっさりと、初対面の人間を部屋に上げようという孝司の反応に、夏美は面食らった。孝司はそんな男だっただろうか。
 ともあれ、好都合には違いなかった。夏美は気を取り直して、ドアを開けて中に入る遠矢のあとに続いた。外で、不安げな表情の玖城が、追いかけてきたそうに立ち尽くしている。その表情が、あまりに心細そうで、夏美はつい大丈夫よと言ってあげたくなったが、自分がいまからしようとしていることを考えたら、大丈夫でもなんでもないことに気が付いて、結局はただ玖城に背を向け、部屋に入った。
 遠矢に言われたとおり、彼にぴったりとついて戸口をくぐると、生前と何も変わらないようにあっさりと、玄関に入ることができた。
「……上がってください」
 そうぼそぼそといいながら、リビングから顔をのぞかせた孝司の姿に、夏美は息を呑んだ。病みやつれたように痩せて、頬がこけ、眼が淀んでいる。無精ひげは伸び放題で、着ているものも、いつ洗濯したのかしれなかった。
「お邪魔します」
 少しも動じない遠矢は、平然と中に上がりこんだ。顔を引っ込めた孝司を追いかけて、落ち着いた足取りで、リビングに入っていく。
 リビングは、荒れ果てていた。
 呑んだあとの空き缶や瓶が、そこらに転がって、生ゴミも腐り、とても人が暮らしている部屋とは思えない。もともと孝司は部屋を散らかすほうだったが、いまの様子は尋常ではなかった。病気でもしていたのだろうかと、夏美は思った。それともまさか、まだ何もしていないつもりだったが、自分の恨みが無意識に念でも飛ばして、孝司を呪い殺そうとしていただろうか。
 もともとそのつもりで来たはずだったのに、思わず夏美はたじろいだ。
「……適当にどうぞ」
 ぼそりと言って、孝司は自分も、脱ぎ散らかした洗濯物に埋まりそうなソファに沈み込んだ。足の踏み場もないほど散らかった部屋の隅で、遠矢は丁寧な手つきでゴミをどけて、何事もなかったように平然とそこに正座する。商売柄、場慣れしているのかもしれなかった。
「で、アンタは、どういう?」
「失礼。夏美さんの親類のものです。彼女のことで、お話を伺いたくて」
 遠矢はしゃあしゃあと嘘を言ったが、孝司はそのまま信じたらしかった。曖昧に頷いて、居心地悪そうに身じろぎをする。
「夏……、掛井さんのことって、何なんスか」
 どこかろれつの回らない舌で、わざわざ名前を呼びなおして、孝司はそんなふうに話の先を促した。
「亡くなった夏美さんと、交際されていたんですよね」
 玖城や自分に対する話し方とは打って変わって、慇懃な口調で、遠矢は問いかけた。
「いいえ。……どこでそんなことを聞き込んだか知らないスけど、その話なら、誤解です。今度そんなことを言ってるやつがいたら、アンタから訂正してください」
 夏美は瞬間的に、目の前が赤くなるのを感じた。怒りに手が震える。それにあわせて、ローテーブルの上の空き瓶だの灰皿だのが、カタカタと揺れた。
 遠矢が制するように、軽く手を振る。約束を思い出して、夏美は腹に力を込め、大きく深呼吸をした。何を聞いても、合図があるまでは手を出さないと誓った。その約束を破れば、遠矢はこの場で夏美を祓ってしまうだろう。
「……地震?」
 心細げに天井の照明を見る孝司の手が、細かく震えていることに、夏美は気づいた。一瞬、地震がそれほど怖いのかと思ったが、震え方を見ると、そういう感じではなかった。アルコール依存症にでもなっているのだろうかと、夏美は思わずその手を見つめた。前からよく酒を呑む男ではあったけれど、けして始終酒びたりになっているわけではなかったのに。
「どうして、隠そうとされるんです」
 あくまで事務的な調子で、遠矢が問いただす。
「隠してなんか……」
「夏美さんから、あなたのことは聞いています」
 孝司は舌打ちをして、小声で言った。「あいつ、馬鹿じゃねえのか……」
「なぜ、隠す必要があるんです」
 遠矢のその声は、それまでの慇懃な口調と変わらない抑揚だったが、それにも関わらず、なにか奇妙な響きがあった。それも霊能力の一種なのか、有無を言わせないようなその声に、孝司は引き込まれるように、ぼそぼそと答えた。
「……俺みたいなのと、付き合ってたなんて周りに知られたら、なに言われるか分かったもんじゃねえって」
 そう言いながら、孝司は頭をぐしゃぐしゃにかきむしった。その脂じみた頭から、ふけが落ちる。ろくに飲み食いしていないのか、最後に見たときから、驚くほどその腕が痩せ細っているのが、夏美の目に映った。
「いまだって、散々言われてるんじゃないスか? あいつの親戚関係、アタマ固えって……」
 孝司は言って、うなだれた。
「別れ話を切り出したのは、それで?」
「……だって、俺、ろくでもねえし。酒呑んで、アイツを殴ったりしたこともあったし。こんな、大学もろくにいかねえで、ふらふらしてて。親の脛かじって、将来とかも、全然まともに考えたこと……」
 夏美は息を呑んだ。そんなふうに孝司が悩んでいるなんて、少しも知らなかった。夏美が将来の話を振ったときも、孝司はいつもうるさそうにするだけで、気に病んでいるそぶりなんて、少しも見せたことがなかった。
「そういうのが悪いなんて、思ったこともなかった。周りにいる連中も、そんなんばっかで。けど、アイツの周り、すげえ真面目に暮らしてるやつばっかだし」
「夏美さんのために、がんばろうとは思えなかった?」
 孝司は皮肉げに唇をゆがめて、小さく笑った。
「……だって、無理っしょ。そんなん。クズは何したって、クズなんだって」
 誰があなたにそんなことを言ったのと、夏美は相手に聞こえないことも忘れて、声を振り絞って叫んでいた。
 当たり前のことながら、孝司は何の反応も見せなかったが、遠矢がちらりと、目線だけで夏美を振り返った。
「あいつ、かわいそうだ。俺みたいなのにつかまって、そんでしまいには、あんな」
 そう言って、孝司は見知らぬ赤の他人の面前であることも忘れたかのように、ぼろぼろと涙を落とした。それはもしかすると、入っていたアルコールのせいかもしれなかったが、その涙をきっかけに、夏美は記憶の蓋が開くのを感じた。
 ――孝司に会いに行かなくちゃ。
 自分の葬儀をしばし見守ったあと、我に返った夏美は、必死で孝司を探した。孝司に会って、言わなくちゃ。気に病まないでって。飛び出したあたしが不注意だったの、あなたのせいで死んだんじゃない、自分を責めないでって。
 息を引き取ろうとしている夏美に、死ぬな馬鹿と必死に呼びかけて、救急車が来るまでどうしていいかわからずに、ただ泣きながらきつく手を握っていた孝司は、ちょうど今のような顔をしていた。

 いまの言葉を、ぜひ夏美さんのお墓にきかせてあげてくださいと、しらじらしいことを言って、遠矢は部屋を出た。そのまま、役目は済んだとばかりに遠矢は帰り、夏美は玖城と並んで、夜の住宅街をとぼとぼと歩いた。
「まだ、彼を殺したい?」
 玖城に訊かれて、夏美は泣きながら首を横に振った。どうして死ぬ瞬間のあの孝司の表情を、いままで忘れていられたんだろう。ひねくれもので露悪的な孝司が、友達の前で素直に、夏美の死を悼むはずがなかった。そんなことをして同情を買うくらいなら、嫌われ者に徹する。孝司はそういうやつだと、知っていたはずなのに。
 路地を歩きながら、夏美がきれぎれにそう言うと、玖城はそういうものですと、握れない夏美の手を握るまねをしながら、静かに言った。
「死ぬ前後の記憶って、ちょっと飛んだりするみたいです。貴女が悪いんじゃない」
 夏美はそれに頷かなかった。
 どこに向かうとも言わずにしばらく歩いて、急に玖城が立ちどまった。
「――ここ」
 どうかしたのかと、夏美が顔を上げると、そこには人気のない夜の公園があった。
「ここでした。貴女を初めて見かけた場所」
 言われてみれば、その児童公園にはたしかに見覚えがあった。
 葬儀の日のあと、マンションの廊下で待っていても、いつまでも姿を見せない孝司にしびれを切らして、もしやいつの間にか出かけたのかと、街中をさがし歩いたり、またマンションに戻ったりと、そんなことをあてもなく繰り返していた。そのときに、この公園にも何度か足を運んだ。
 生前にも、二度か三度ほど、ここで孝司と話したことがあった。公園デートなんて柄じゃない孝司は、照れてすぐに帰りたがったけれど。
 また涙のあふれてきた夏美を見て、玖城がおろおろとハンカチを出し、意味がないことに気づいて、すぐにしまった。その慌てぶりが可笑しくて、夏美は泣きながら、思わず少し笑った。
 公園のベンチにふたり並んで腰掛けて、上弦の月を見上げると、空は晴れ渡って澄んでいた。
「あのとき、やっぱり貴女はここで空を見ていて」
 玖城は月に掌をかざしながら、そう切り出した。
「貴女の澄んだオーラが、月明かりに透けて、きれいだった。見たことないくらい」
「自分じゃ見えないけどね……」
 夏美が言うと、玖城は夏美の半分透けた手の甲に、自分の手を重ねた。玖城の手のひらはすり抜けてベンチに当たるだけだったが、それでも夏美には、その温度がたしかに伝わってきた。
「俺、本気です。貴女に、ずっとそばに居て欲しい。できることなら永遠に。それが無理なら、少しでも長く」
 だめですかと、真摯な瞳をして、玖城は訊いた。その表情をしばらくじっと見つめ返したあと、夏美は問いかけた。
「玖城くん、あなた、死んだ人じゃないと、好きになれないの?」
 それは、と、玖城は口ごもった。言葉を見つけきれずに慌てる玖城を、急かすことはせずに、夏美は月を仰ぎながら、静かに待った。
 死んだ人間は正直か、と、夏美は我が身を振り返る。そうかもしれない。生きているときには飲み込んでしまう本音が、よくも悪くも表に出てくる。
 道連れにしたい。どれほどあたしがつらかったか、孝司に思い知らせてやりたい。生きているときだったら、自分でも馬鹿馬鹿しいと思ったに違いないそんな思いに、あっけないほど簡単に飲み込まれた。そんなふうに過ごしたこのひと月を思って、夏美は目を伏せる。
 死者は正直だ。けれど、人の本音を覆う仮面というものは、それほどに悪いものだろうか。玖城に笑顔で暴力を振るったという、彼の母親のように、歪んだ形でしか現れないものだろうか。
 そんなことはないと、夏美は目を閉じて、もう一粒だけ涙を零した。嫌われ者になってでも、夏美の体面を護ろうとしてくれた孝司の、震える手を思い出しながら。
「それはその……俺にはたしかに、そういうところがあるけど。でも、貴女のことを好きなのは、亡くなってるからとか、そういうことじゃなくて」
 必死に言葉を探す玖城を見て、きっと半分は嘘だと、夏美は直感的に思った。けれどそのことを指摘するのはやめた。男の子の面子を立ててあげようかと、そういう気分になったので。
「ありがとう。気持ちはうれしい。でも、私、もう逝くわ」
 夏美はそう答えて、微笑んだ。そんな、と泣き出しそうな顔をする玖城に、あらたまって頭を下げる。
「図々しいんだけど、ひとつだけ、お願いがあるの。そのうちあなたの仕事の手があいて、気が向いたときにでいいから、孝司の様子を、見に行ってあげてもらえませんか」
 あなたにこんなことをお願いするのも、悪いんだけど、いまのあたしにはほかに、頼めそうな人がいないから。夏美がそう言うと、玖城は納得のいかないような顔で、けれど小さく頷いた。夏美はその頬を撫でる真似をして、すっと立ち上がった。
「あなたたちに会えてよかった。……今度はちゃんと、生きてる人を好きになりなさいな」
 夏美は小さく笑って、玖城から離れた。ふわりと体が軽くなる。このひと月あまりの思いつめた気持ちが嘘のように、穏やかな心境になっていた。
 夜に吸い込まれるように、自分の体が溶けて消える一瞬、泣き出しそうな玖城が名前を呼ぶのが、夏美の耳に届いた。

(終わり)

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