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「昔、カナリアが、うちに迷い込んできたことがあったんだ」
 玖城玲一は、ぼんやりと遠くを見るような表情で、そう話し始めた。
「カナリア、ね」
 その隣で皮肉げに唇をゆがめるのは遠矢誠司郎、玖城の古くからの友人で、まだ若いながらも、退魔の力には定評のある霊能力者だ。
 高級マンションの一室、部屋の中央に小さな鳥籠を置いて、二人は話し込んでいた。小振りな籠の中には、ぐったりとした小鳥が一羽、羽根に頭をうずめて沈黙している。純白のなめらかな羽毛に体を包んだ、愛らしい鳥だった。体を小さく縮めてじっと丸まっていると、ちょっと見には、マシマロが落ちているようにも見える。
「十歳か、そのくらいのときだったかな。近所の家で飼ってたんだろうと思うんだけど」
 玖城は目を細めて話を続けた。レモンイエローのカナリアは、逃げようともせず、むしろ自分から玖城の傍によってきて、愛らしい声でさえずった。餌をねだっているのだろうということは察されたものの、玖城はただ困惑した。生き物を飼ったことはなかったし、なにを与えればいいのか分からなかったのだ。それにその頃、玖城はまだ家から――正確にいえば玖城家をとりまく結界から外に出ることを、かたく禁じられていた。世にペットショップというものが存在することさえしらなかったのだ。
 ぽつりぽつりと話しながら、玖城は指を高く掲げて、目を細める。まるでその指の上に、小鳥が乗っているかのようなしぐさだった。
「大山さんって、覚えてるか?」
 遠矢は白い小鳥から目線を外さないまま、玖城の問いに頷いた。籠の中でうずくまる小さな体から、ゆっくりと流れ出していく命の残滓を、目で追いかけながら。
「背の低い、痩せてる人だろ。古くからのお弟子さんで」
「うん。あの人に頼んで、こっそり餌を買ってきてもらおうとしたんだ」
 籠の中で弱っている白い鳥と、眺めのいいガラス越しの屋外とを、見るともなしに交互に見やりながら、玖城はかすれた声で続ける。
「うちは、ほら、ああいう調子だから。結界はしっかりしてるんだけど、それでもよく、妙な預かり物をすることがあったし」
 低い空を、編隊を組んだ渡り鳥が風を切って通り過ぎていく。はるか眼下の町並みから、遠く、電車の音が響いてきた。
「ちょうど、そういうののひとつが、封印を破って出てきて」
 その中には折悪しく、生き物の精気を吸って永らえる類の、小さなものが封じられていた。それが例えば、人の命を奪うような、凶悪なものであったのならば、玖城家当主である父親にしろ、その内弟子たちにしろ、油断することはなかったのだろう。厳重な警戒の元に、もっとずっと強固な封印が為されるか、早急に浄化されていたはずだった。
 だからそこに封じられていたのは、どうということもないような、小さな魔だったのだと思う。ほうっておいてもたいした害はないが、誰かに頼み込まれてしかたなく引き取ったというような類の。玖城はそういうと、鳥籠から視線を逸らして、夕暮れに沈もうとしている空を見やった。

 夕立が屋根を叩いていた。空の半分は、鈍い橙色の夕焼けに染まっていて、残りの半分は灰色の厚い雲に覆われていた。橙にくすんだ夕陽が、障子越しに射し込んでいる。べったりと肌に張り付くような湿気が、息を詰まらせるような、そんな夕暮れ時だった。
 空は徐々に雲の密度を増して暗くなり、雨脚は強く、稲光にずいぶんと遅れて、遠いどこかで、雷が落ちるような音がした。
 人目のつかないところにと、小鳥を連れてとりあえず入り込んだ和室は、薄暗かった。奥に置かれた見慣れない漆塗りの箱には、正式な封印もなされておらず、その蓋に張られた札が、唯一なにかを箱の中に押し留めているのが、幼い玲一の目にも見て取れた。
 玲一の肩には小鳥が、頬に寄り添うようにして羽根をたたみ、さきほどまで盛んに囀っていたのに、なにを感じ取っているものか、いまはすっかりと沈黙している。
 そこは普段はあまり使わない客間のひとつで、誰でも入ってこようと思えば、鍵などかかってはいなかった。だからといって、無用心にすぎるというほどのこともなく、そもそも素性の知れない客が、母屋に上がってくることはまずありえなかったし、家人には、不用意にこの家にあるものの封印を破ろうなどという者はひとりもいなかった。
 そもそも、人の命にかかわるような、力の強い鬼や魔はけして寄せ付けないように、家の周りには結界が張り巡らされていた。ただ、それが外界と遮断しているのは、力のある鬼や魔ばかりで、小さな有象無象までは遮らない種類のものだった。緻密すぎる結界は、何かひとつの小さな綻びでも壊れやすくなるものだし、完全に浄められた場というのも、健全な人間の生活にはかえって望ましくないものだ。
 だから、家の中に奇妙なものがよく置かれていたり、たわいのない雑鬼のたぐいがうろついていることに、玲一は普段から慣れていた。厭な気配のするものには近寄らないことも、もうその歳には覚えていた。だからその箱を見たときにも、玲一は踵を返して、すぐに部屋を出ようとした。
 稲光が部屋を白く染めた。
 腹の底に響くような音がして、気が付けば玲一は畳にへたり込んでいた。
 何かの笑い声が、聞こえたような気がした。その次の瞬間には、冷たい手がさっと肩を撫でていた。とっさにそこに手をやったときにはもう遅く、黄色の小鳥が羽根をひろげて、ぽとりと畳の上に落ちた。
 とっさに上げた悲鳴の間に、何か小さなものが、すばやく障子戸の隙間をすり抜けて逃げていくのを、玲一は視界の端に見た。それは箱に封じられていたものと思われた。
 小鳥はもう、動かなくなっていた。
 玲一の見つめている前で、子どもの手のひらにおさまる小さな小鳥の体が、ふっとぶれるように二重写しになった。そのうっすらと透ける魂魄が、体からしゅるりと抜け出て、不思議そうに首を傾げた。
 それが、瞬きほどの間にすっと薄れようとするのに、玲一はとっさに手をかざしていた。
 己の死を知って消えうせようとしていた小鳥の霊は、きょとんとした様子で玲一を見つめると、その手の上に嬉々として飛び乗り、喉を鳴らして、ぴゅい、と鳴いた。

「待て」
 遠矢が玖城の話を遮って、もともと険のある目つきをさらに鋭くした。部屋には薄闇が忍び入り始めている。玖城はおっくうそうに立ち上がると、電灯のスイッチを入れた。白々とした灯りが部屋を照らし、反転するように、暮れ切らない窓の外の空が、暗く沈んで見えた。
「小さい動物は普通、すぐに消えちまうだろう」
 そう厭そうにいう遠矢に、玖城は力の入らぬふうに笑い返した。
「ひきとめちまったんだよ。……無意識だったんだけど、な」
 遠矢は黙り込んで、籠の中で死にゆこうとしている小鳥を見つめた。真っ白のきれいな毛並みをした鳥は身じろぎもせず、もう鳴く力もないのか、静かに俯いている。

 玲一は動かなくなった黄色い小鳥の体を抱えたまま、宵闇に暗くなっていく和室で、しばらく途方に暮れていた。その肩では、向こう側の透けて見える小鳥が、ときおり甘えるような鳴き声を上げた。常人には聞こえない声だったのだろうが、その頃の玲一の耳に、霊の声と生身の声との区別はつかず、それは生前の愛らしいさえずりと、少しも違わないように聞こえた。
 玲一はやがててはっとして、急ぎ足に和室を出た。どこかに隠れようと思ったのだった。
 雨はすでにやんでおり、庭では、桜の樹が燃え上がっていた。落雷はこの桜を打ったのだ。玲一は目を見開いて立ち尽くし、その光景に魅入られた。いくら高温だったにしろ、雨が振った直後にもかかわらず、生木がこれほど勢いよく燃えあがるのだから、尋常の雷ではないのかもしれなかった。
 しばらく炎の勢いに圧倒されたあと、玲一はそっと桜の木から目を逸らし、逃げ場を探そうとした。逃げるといっても、炎を恐れたわけではなく、自分がしてはならないことをしたのだという自覚も、特にはなかった。彼岸に渡る小鳥を引きとめたのは、それくらい自然に、無意識のうちに揮った力だったし、一度も動物を飼ったことのない玲一には、彼らが死んだときに魂がどうなるのか、よく分かってもいなかった。ただ、小さな友達が去らずに傍に留まったことが、素直に嬉しかった。
 それでもとっさに隠れようとしたのは、両親がこれまで動物を飼うことをけして許そうとせず、どちらに見つかったところで、どこかに捨てて来いといわれるだろうと思ったからだ。
 結局はそれも子どもの浅知恵で、闇雲に隠れ場所を探して、庭に建つ蔵に目をやったときには、雷の落ちたあとを見に駆けつけたらしい父親の目に、すでに留まってしまっていた。
 厳格な父親の、険しく顰められた眉根を見て、玲一はびくりと立ち止まった。とっさに後ずさって、手を後ろに回したが、そのとき無邪気な小鳥の霊が、高く囀った。餌をねだったときとちっとも変わらない、愛らしい声で。
 走って逃げようとしたときには、肩を掴まれていた。父の大きく厳つい手が、容赦のない力で肩を押さえつけてくるのに、玲一は震えながら振り返った。
 音もなく小鳥の魂が、その手に握りつぶされ、何の抵抗もなく、悲鳴のひとつも上げずに虚空に掻き消えるのを、玲一はただ目を見開いて、声もなく見つめていた。
 そのときの玲一は、ただその無常さが恐ろしく、その場に立ち尽くして震えるばかりで、父親に食って掛かろうという気持ちは、すこしも胸のうちから湧いてこなかった。手の中に小鳥の抜け殻を、ただ取り落とさないようにと、震える手を抑えることしかできなかった。
 ――また、可哀想なことをしたものだ。
 父親は、少しも哀れみの色ののぞかない声音で、そういった。小鳥の霊を祓ったことを悔いているわけではなく、玲一のしたことを責めているのだということが、肌でわかった。けれど、何を責められているのかは、玲一には少しもわからず、ただ、死んで霊になってしまえば何もかもあの父親に消されてしまうのだ、それは何の悪さも働かない罪のない霊魂でも、少しも変わらないのだということだけが、十歳の玲一の理解が及んだことがらだった。
 玖城家当主はそれきり何もいわず、玲一に背を向けて、庭に下りると、燃え上がる桜の木に手をかざした。父親のその一動作だけで、轟々と音を立てていた炎が、あっけないほどひといきに静まり、庭が光源を失ってとつぜん夜闇に包まれるのを、立ち尽くして玲一はただ見つめていた。

「――それで、そいつをどうする気なんだ」
 遠矢がぽつりと言葉を落として、顎で鳥かごの小鳥を指した。玖城は黙り込んで、じっと、徐々に弱っていく白い小鳥を見つめていた。
 死者の霊から託された小鳥だった。別の仕事にかかっている最中だった二人は、依頼人の家のすぐ傍で、孤独死した老婆の霊に出会った。昼日中に外に出てくるのも辛そうな、影の薄い老婆の霊は、部屋で飼っていた小鳥が、誰にも気づかれずに弱っているから、どうか助けてやってくれないでしょうかと、二人に向って深々と頭を下げた。
 ほかに大きな未練もなかったのか、借りていた部屋の大家の連絡先だけを告げると、老婆はすっと、その場で消えうせてしまった。そのまま知らぬふりをするにも後味悪く、家の中から鳥の異常な啼き声がしていたからと、でっち上げた口実を盾に大家に鍵を開けさせた二人は、籠の中で弱りきっている、白い小鳥を見つけた。
 老婆の家族が引き取りにきたら、あとで返しにくるからと、とり急ぎ動物病院に連れていった二人だったが、獣医は栄養剤の注射を打ったあと、これで助からなければほかに手の施しようがないといい、連絡のとれた老婆の親族には、死にかけの小鳥を引き取りたがるものはいなかった。
 死にゆこうとしているものに独自の、魂の抜けかかっている小さな体を見下ろして、玖城はしばらく考えたあと、口を開いた。
「――何もしないよ。こいつも、飼い主のところに逝きたいだろう」
 その言葉が聞こえたものかどうか、白い小鳥はふいに首を伸ばして、うすい目蓋を開いた。その黒々とした瞳が、じっと玖城を見上げる。何を思ったものか、息を振り絞るようにして、ちゅい、と鳴いた。

 
(終わり)


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