その4 へ   小説トップへ




 そうしてまたサフィドラの月がやってきた。
 朝から、母さんと言い争いになった。そろそろ婚礼衣装も仕上げなくてはならないわね。そういいだした母さんに、わたしは声を荒げた。わたしは嫁ぎたくなんてないっていってるじゃない。
 何度声を嗄らしても、母さんはまともにきいてくれなかった。
「みんなそういうの。でもね、大丈夫。何も心配いらないのよ。不安なのは最初だけのこと。よい家庭をもって幸せになるのは、あなたの義務でもあるのよ」
 一年半ものあいだ、ずっと同じことを言い続けて、けれどそれらはひとつも伝わることはなく、いつまでも話はすれ違い続けた。かみ合わない口論は虚しく、わたしの言葉は次第に強くなり、しばしば母さんをひどく傷つけた。
 どうして伝わらないのだろう。
 その頃わたしは、母さんを憎んでさえいたかもしれない。けれど本当はその怒りが、筋違いであることを、自分でよく知っていた。わかってくれないというわたしのほうこそ、母さんにいわずに隠している秘密が、いくらでもあるのだった。隠したいことは隠し、いいたいことだけをいって、それで理解してもらおうなんて、そんな都合のいい話があるだろうか?
 話はいつものようにかみ合わないまま、その日、奥に追い立てられて、わたしは勉強室に篭もった。
 朝の喧嘩からあとを引いていた苛立ちは、じきに、不安にとってかわった。ああ、本当にあの方は今年もいらっしゃるだろうか? いらっしゃらなかったとしたら、来年は?
 来年。来年、わたしはこの邸にいられるのだろうか。母さんは、できれば今年のエオンの月には、わたしを嫁がせたいと思っている。わたしは十五で、それはお嫁に行くのに遅いということはないけれど、けして早すぎもしない齢だった。
 せめてもう少し待ってと、いくらわたしが縋りついたところで、母さんはそう遠くないうちに、話を進めてしまうだろう。そうすれば、イラバのようにこのお邸にたまに顔を出すことくらいはできるかもしれないけれど、サフィドラの月の一日に、ここでヨブを待つことは、もうできない。
 その考えが繰り返し頭をめぐっては心を乱し、わたしは何度も立ち上がっては、書き物机に戻った。息が詰まるようだった。
「来ているか」
 垂れ布の向こうから、懐かしいその声がしたとき、わたしはこらえかねて、泣き出した。
「ええ」
 それでも、なんでもないふりを装って返事をしたけれど、その声が震えていることに、ヨブは気づいたようだった。
「泣いているのか」
 わたしは頬を拭い、嗚咽を飲み込んで、震える息を吐き出した。それから無理に、明るい声を出した。
「なんでもないの。ねえ、また、星の話を聞かせてくださる?」
 ヨブは困惑したようだったが、やがて、あの低くやわらかな抑揚の声で、星の話をひとつ、語って聞かせてくれた。ひとの定めをつかさどるという星の話を。ときにひどく残酷で、ときにひとに希望を与える、ひときわ大きく天に輝く白い星……
 その話が終わるころには、わたしは泣き止んでいた。
「どうかしたのか」
 そう問いかけるヨブの声は穏やかで、けれどほんの少し、うろたえていた。
 ごめんなさい、気にしないで。そういおうとした口は、けれど違う言葉をこぼしていた。「知りたいと願うことは、そんなにわがままなことかしら」
 きっとそんな話をされても、ヨブは困るだけだろう。わかっていて、それでもいわずにはいられない自分の幼さを、わたしは恥じた。子ども扱いされることが、いやだったはずなのに。けれどいちど話しだせば、あふれてくる言葉を押しとどめることはもう難しかった。
「わたし、もっと色んなことを知りたいわ。外の世界がどんなふうか、この目で見られるものなら、見てみたい。それが無理なら、せめてお話や書物の中でもいいから、少しでも知りたいの」
 ヨブは黙って話を聞いていた。一度止まったはずの涙が、ふたたびこみあげてくるのをこらえながら、わたしは続けた。
「でもみんな、わたしがそういうと、そんなのはわがままだというのよ。そんなことを知りたがるわたしは、おかしいというの。わたしはおかしいかしら? 幸せって何? 目を閉じて耳を塞げば、それで幸せになれるだなんて、そんなことがあるかしら」
 途中からはもう支離滅裂だった。わたしは自分でもそのことに気づき、恥じて、口をつぐんだ。
 ヨブはしばらく考えるように黙っていた。それから、低い声でいった。
「多くの者は歳をとるにつれて、しだいにその目を曇らせてゆくものだ。真実を目の当たりにすることをおそれ、未知なる物を理解しようとすることをおそれ、己の築いてきたものの見方を、かたくなに押し通そうとする」
 わたしは膝を抱えて、その声に耳を済ませた。
「幼い頃に誰もがそうだったように、まっすぐに世界への興味を持ち続けていられるというのは、得難いことだと、――俺はそのように思う」
 その声は、優しかった。それなのに、わたしは再び泣かないようにするのに精一杯で、あいづちさえ、まともに返せなかった。
「思えば俺は、いつも欺瞞で己の目を曇らせることばかりしてきたような気がする。常に疑い、決めつけ、己の心を騙しながら、生きてきたように思う……」
 わたしは驚いて、目を瞬いた。その拍子に睫毛から涙がこぼれて、床に落ちた。
「あなたがそんな方だとは思えないわ」
「さて、どうだろうかな」
 ヨブは苦笑した。それから何かいいたげに口を開きかけて、思いとどまる気配が、布越しに伝わってきた。
 いっときして、ヨブは切れ切れに、今年の荷の話をはじめた。火の国での作物の出来、遠い異国から運ばれてきた荷。どんなふうに星を辿って、ここまでやってきたか。途中で見舞われた砂嵐……。
 嵐という言葉を知らなかったわたしに、ヨブは、風の激しく吹き荒れるさまを、苦労しながら説明してくれた。
 わたしは言葉すくなに相槌をかえしながら、せめて一言も聞き漏らすまいと、耳を澄ましていた。それ以外に何もできることはないのだからと、自分に言い聞かせて。
 ときおり灯心がじりじりと音を立て、蝋燭のあかりが揺れた。ヨブの声は低く、音楽的な抑揚をもって、心地よく響き続けた。
「トゥイヤ? 誰と話しているの?」
 わたしはびくりと肩を跳ねさせた。
 声がしたのは、ヤァタ・ウイラのほうからだった。ヨブが立ち上がるのが、垂れ布ごしのかすかな音でわかった。足音を立てないように、遠ざかっていく……
 声は、カナイのものだった。どうして、いまなの。わたしがここで本を読んでいても、いつもなら近寄ってこようともしないのに。叫びだしたいのをこらえて、わたしは半ば壁にしがみつくようにしながら、よろよろと立ち上がった。
 ヨブの話し声は、いつもどおり低くひそめたものだった。裁縫室まで声が届いていたとは思えない。
 それとも、それまでこんなふうなことが一度もなかったことのほうが、幸運だったのかもしれない。けれどそう納得するのは難しかった。
 苛立ちを押し殺し、なんでもないような声を作って、わたしはいった。
「――誰もいないわ、姉さん。ひとりごとでもいっていたかしら?」
 ヤァタ・ウイラから垂れ布をくぐって、カナイが入ってきた。その表情は、はじめからひどくけわしかった。声がするまで、カナイが近づいてくる足音に気づかなかった――そのことの意味に、わたしはようやく気付いた。
「ごまかしたってだめよ」
 カナイはト・ウイラのほうに視線を投げて、そういうと、振り向いてわたしを睨んだ。
「何もごまかしてなんかいないわ」
 カナイはじっと、光る目で、わたしを睨みすえた。何を訊かれても、しらばっくれてみせるしかない。わたしは無表情をよそおっていた。カナイはそんなわたしを見て、皮肉げに唇だけで笑った。
「誰と会っていたの? いつまでも子どもみたいに本に夢中だなんて、わたしたちみんな、すっかり騙されてたってわけね」
 ふっと、笑みを消して、カナイは厳しい声を出した。
「わかってるの? あんたの母さんがこのことを知ったら、どんな顔をするかしら」
「ねえ、さっきから何のことをいっているの。姉さん、何か勘違いしてるんじゃない?」
 よくもまあ、そんなふうにしらを切って見せたものだ。自分でもそんなふうに思うくらい、自分の口から出た声は、平然としたものだった。
 けれど、それも声ばかりで、けして心から冷静でいられたわけではなかった。わたしは自分でも気付かないうちに、服の上から、首から下げた銀細工のあたりを、握りしめていたらしかった。カナイの視線が下りて、自分の胸元をいぶかしげに見たことで、わたしは遅れてそのことに気付いた。
「あんた、何を隠してるの」
 わたしはとっさに後ろに下がって、カナイの視線から逃れようとした。けれどカナイのほうが早かった。カナイは有無をいわせず詰めよってきて、すばやくわたしの腕を掴むと、服の胸元に手をつっこんだ。
「やめて」
 わたしは悲鳴を上げたけれど、カナイの手は容赦なく首にかかっていた紐を探り当て、手繰りよせた。銀の髪飾りが蝋燭の光に晒されて、きらめいた。
「何よ、これ。あんた、まさか――」
 カナイの顔色が変わるのが、はっきりとわかった。わたしは必死で、言い逃れを探そうとした。苦し紛れでもなんでもいい、カナイを煙に巻けるような説明。
「何の騒ぎだね」
 わたしたちははっとして、それぞれにト・ウイラに続く入り口を振り返った。
「導師……」
 カナイもまた、青ざめているのがわかった。どこまで話が導師の耳に入ったのか……わたしはとっさに髪飾りを隠そうとしたけれど、そのときにはすでに、導師のまなざしは、手の中の細工に注がれていた。
 導師はゆっくりと首をめぐらせて、カナイの表情を見ると、目を細めた。
「喧嘩の原因は、その細工かね」
 その言葉に勢いを得て、カナイはいった。「そうです、導師。この子、いったいどこでこんなものを――」
 いいかけたカナイに、導師は軽く手のひらをみせて、首を振った。そして、信じがたいことを口にした。「その細工なら、私が与えたのだ」
 カナイは絶句した。
 わたしのほうが、より驚いていた。導師がなぜそんなことを仰るのか、わけがわからなかった。けれどカナイがわたしを振り返るのに、とっさに頷いてみせた。
 いっときカナイは険しい顔で、わたしの顔を睨んで、それから導師に向き直った。
「いったいどうなさったんです、こんなもの」
「使者のお一方が、気まぐれに下さったのでな。私に妻のないことを、ご存知なかったようだ。といって、せっかくのご好意を無碍にもできぬ」
 導師は平然といって、それから少し、面白がるような顔をした。カナイはいくらか鼻白み、それでもなお食い下がった。
「どうしてこの子に――?」
「全てのものは等しく分かち合い、分かち難いものがあらば、末子に与えよ。――私は戒律に従ったまでだ」
 導師はゆっくりと、噛み含めるようにそう仰った。それもまた書物からの引用であり、里のすべての掟の根源でもあった。
 カナイは、それで納得したわけではないようだった。唇を噛みしめ、眉を吊り上げていた。けれど、それ以上導師にたてつくことも、カナイにはできないようだった。姉さんは振り返り、きっとわたしの顔を睨みつけて、それから手を放した。
 苛立ち任せに足音を荒げ、カナイが部屋を出て行くのを、わたしは呆然として見送った。
 導師を振り返ると、思いがけず静かなまなざしが、そこにあった。
 なぜ、あんなことを仰ったんです。その一言が舌に張り付いていたけれど、とうとう口の外に出ることはなかった。
「トゥイヤ、少し、話がある」
 導師のほうからそう切り出されとき、わたしはてっきり、細工の出所について、厳しく問い詰められるのだと思った。怒りに興奮していたカナイをなだめるために、機転をきかせてわたしをかばってくださっただけで、けして見逃そうというわけではないのだと。
 けれど、導師は思いがけないことを仰った。
「星を手にしたいと望んだ男の話を、聴いたことがあるかね」
 わたしは驚きに打たれて、顔を上げた。髪飾りをわたしにくださったのが、火の国の使者であることを、導師はご存知なのだ……。そうとしか思えなかった。
 いつから導師はご存知だったのだろう。たったいま、わたしの手の中の細工をご覧になって、それではじめてそうと気づかれたのだろうか? けれどそれにしては、導師の顔に、驚きの色は見当たらなかった。
 導師は声を荒げることもなく、ごく静かに続けられた。
「星の光に憧れて、それを手にしたいと望みつづけた男は、あるとき、とうとう星を地上に落とすことに成功した。けれどいざ星を手にしたかと思うや、男は星の火に焼かれて、死んでしまった……」
 その言葉は、不思議な抑揚に満ちていて、ヨブの語りをわたしに思い出させた。そのまなざしは静かで、導師が何を思っていらっしゃるのか、ただ見ただけでは、とてもわかりそうになかった。
「手の届かないものに憧れることは、誰しもあるだろう。けれど、そうしたものを本当に手に入れようとするのは、とても不幸なことだ」
 噛み含めるように、導師はいった。「トゥイヤ、お前は賢い子だ。ほんとうは自分でも、わかっているのだろう?」
 わたしは唇を噛んで、うつむいた。導師の声には、けして叱責するような調子も、責める響きもなかったけれど、それでも仰っていることの意味は、明らかだった。
 わたしは星を望んでいるのだろうか?
 導師はそれ以上、何も仰らなかった。ゆっくりと踵を返して、部屋を出てゆかれた。
 手のなかで、細工が蝋燭のあかりを受けて、きらめいていた。それを見つめたまま、わたしはいつまでも、じっと俯いていた。

 やがて、裁縫室に戻ったとき、カナイは無言で針を使っていた。不機嫌なのはあきらかで、わたしが部屋に入っても、姉さんは視線を上げようともしなかった。
 わたしもまた、何もいわなかった。ふたりともが無口にしているのを見て、下の姉さんが心配そうに、何くれとなく声をかけてくれていたけれど、カナイもわたしも、短く相槌をうつばかりで、せめて何ごともなかったふりをつくろおうという努力さえしなかった。
 食事は喉を通らず、わたしは姉さんたちと口をきくことさえ億劫に思えて、すぐに床についた。
 眠れるはずもなかった。やがて明かりが吹き消され、わずかなヒカリゴケの光が、かろうじてものの輪郭を浮かび上がらせていた。わたしはじっと、部屋の隅の暗がりを凝視していた。カナイの母さんが刺繍をしたという壁掛けの、古びてもまだほつれない、裾の始末のあたりを。
 ヨブは明日、いらっしゃるだろうか? 導師はあの方に、何か仰っただろうか……。そんな不安ばかりが胸の中をぐるぐると回って、わたしはまんじりともせずに、横たわっていた。
 やがて、眠ることを諦めて、わたしは静かに体を起こした。
 音を立てずに部屋を出た。ヤァタ・ウイラを進み、いつもの習慣で、勉強室の前で耳を澄ました。このような深夜に、誰がいるとも思えなかったけれど。
 垂れ布をくぐって中に入り、自分の呼吸を十ほど数えて、わたしは口を開いた。
「入ってきたら?」
 途中から、カナイが同じようにそっと部屋を出てきたことに、気づいていた。
 垂れ布が揺れて、案の定、姉さんが入ってきた。カナイは肩をすくめた。
「深夜の逢引ではないというわけね」
 わたしは何もいいかえさなかった。何をいっても、カナイは疑いとともに聞くだろうと思ったので。
 長い沈黙ののちに、やがてカナイが口を開いた。
「――使者さまなのね?」
 その声は、断定的な響きを帯びていた。ああ、いつからカナイは勘付いていたのだろう?
「何のこと」
 しらばっくれようとしても、カナイはひかなかった。
「知らない人の声だったわ。いまの時期に導師以外の男の人が、こんなところにいるはずがないもの。ほかに考えられないわ」
 奇しくもその理屈は、わたしが二年前に、ここで考えたのと同じ筋道だった。わたしはカナイの目を、じっと見つめ返した。
「姉さん。話を聞いて……」
「あなた、自分が何をしているかわかっているの? ……導師にお話しするわ。あんたの母さんにも」
「待って」
 わたしはカナイの腕に縋った。カナイは信じられないという顔をして、その手を振り払った。
「違うの、何もないの!」
 わたしの声は、ほとんど悲鳴だった。「姉さんが思っているようなことじゃないの。ただほんの少し、お話を聞いていただけなのよ。火の国のことを」
「話しただけ? だけ、ですって?」
 カナイは取り合おうとしなかった。「信じられない。あんた、自分の立場がわかっているの?」
「お願いよ、姉さん」
 わたしは必死だった。いつか己の立てた誓いを、忘れるほどには。「わたしも、知ってるのよ」
 カナイの顔が強ばった。
「……何を知っているんですって」
「あなたとバルトレイのこと」
 それは、自分の声ではないようだった。その一瞬、カナイの表情が見る間に歪むのを、わたしは見た。
「わたし、聴いてしまったの。アディドの月の、十日のことだったと思う。眠れなくて、夜中に外を散歩していて」
 カナイは目を光らせて、わたしを睨み返した。
 いまや立場は逆転していた。わたしは間をおかずに口を開いた。自分でぞっとするほど、それは、冷静な声だった。
「誰にもいわないわ。姉さんも黙っていてくれるなら」
 カナイはいっとき、言葉を失って、ぶるぶると手を震わせていた。やがてその手が振り上げられても、わたしは動かなかった。
 わたしだって、カナイに対して、腹が立っていた。その感情が半ば、八つ当たりなのだと、自分でもわかっていたけれど。
 仮に姉さんが気づかなかったとしても、導師がご存知だったのなら、結果は同じことだったかもしれない。わたしの理性の声はそういったけれど、それでも、カナイさえいなければという気持ちを、胸の中から追い払ってしまうことはできなかった。
 なぜなの。どうせ何も口出しなんかしなくても、ヨブと話せる機会なんて、あともう数えるほどもなかった。邪魔する必要なんて、どこにあるの。言葉はいくらでも喉の奥からせりあがってきたけれど、わたしはそれらを全て呑みこんで、ただカナイの目を見つめ返した。
 わたしの頬を叩くと、カナイは背中を向けた。
「あんたがそんな女だなんて、思ってもみなかった」
 その声には、力がなかった。
 カナイは立ち去った。
 足元がふらついた。暗がりでうずくまって、わたしは自分の中からこみ上げてくる感情の奔流に、じっと耐えた。それは怒りだったかもしれないし、もっと違うものだったかもしれない。
 やがてのろのろと立ち上がり、書き物机の前に座ると、眼の奥がちかちかと痛んだ。苦しかった。自分がいった言葉が、カナイの裏切られたという表情が、ぐるぐると回っていた。ときおり発作のように、乾いた嗚咽の切れ端がのどの奥に絡んだけれど、涙は出てこなかった。
 そのまま勉強室で夜明けの鐘を迎えても、下の姉さんが様子を見に来る気配はなかった。カナイがどんなふうにいったのかわからないけれど、ともかく、そのことが有難かった。その頃になると、カナイへの苛立ちはすでに冷めて、どこか遠いものとなっていた。
 じっとしていると、不安を伴う益体もない考えばかりがとめどなく頭をよぎったけれど、もう、本を読んで時間を潰すことさえ考えきれなかった。
 いま導師は何を思っていらっしゃるのだろう。疲れて重い思考の中で、ときおりそのことを思い返した。
 あんなふうに遠まわしにいわなくったって、ただひとことお叱りになれば、あるいはお命じになればよかったのだ。もう使者には会わないようにと。導師はなぜそうされなかったのだろう? 誰もはっきりと言葉に出さなければ、それがなかったのも同じことだと、そんな欺瞞をよしとされる方ではないはずだった。少なくとも、わたしのよく知る導師は。
 それともそれは、情けだっただろうか。わたしにあと一日だけの時間を与えようという。
 けれど、その日、ヨブは来なかった。

 三日目も、わたしは朝から勉強室を訪れ、そこでじっとヨブを待った。二度、食事を摂るために裁縫室に戻り、少しばかり胃にものを入れたけれど、それ以外のときを、ほとんどずっと勉強室で過ごした。
 去年も一昨年も、三日目には出立の準備で忙しいからと、ヨブはやってこなかった。今年も同じだろう。頭ではそうわかっていたけれど、もしかしたらという望みを捨てきれなかった。
 昨日、ヨブはどうしてやってこなかったのだろう。そればかりを考えていた。
 導師が何かヨブに仰ったのだろうか。わたしを遠まわしにいさめたように。それでヨブはやって来られずにいるのか。
 そうでなければただ単に、人目を盗むことができなかったのかもしれない。それとも、来年にはまた話せるだろうと、そんなふうに思っているのだろうか……。
 色んな考えがよぎっていったけれど、ひとりでいくら考えても、わからないことだ。いつからか、わたしは考えるのをやめた。そうすると、不思議と心は静かになった。
 凪いだ心の中で、次第に決意が形になるのを、わたしはどこか他人事のように眺めていた。
 やがて、わたしは書棚へ向かい、過去の記録をひっくり返しはじめた。銀の採掘と、それから、葬儀についての記録を。

 その日の深夜、わたしは勉強室でも裁縫室でもなく、物置に使っている、狭苦しい小部屋にいた。
 皆、すでに寝静まっている頃合いだ。夜が明ければ姉さんたちは、邸の奥に篭もる暮らしから解放されて、自分たちの部屋に戻るはずだ。母さんたちも大仕事を終えて、ほっと胸をなでおろしているころだろう。わたしがいないことに、いつ気づくだろうか?
 深夜に里を発つのだと、ヨブはいっていた。
 じっと耳をすまして、わたしは周囲の様子を探っていた。使者さま方が旅立たれた直後には、見送りのために、人が多いだろう。その気配が去るのを、待たなければならなかった。
 邸内の物音が静まり返るのをまって、わたしはそっと、小部屋を忍び出た。
 通路で息をひそめて広間の気配をうかがい、すっかり人のいなくなった隙をついて、通り抜けた。表へ出ると、三日ぶりの屋外で、ひとつ、大きく息を吸い込んだ。
 明かりはもたなかった。目立つに決まっているからだ。そういっても、夜中に外を出歩く酔狂な人が、どれほどいるかはわからなかったけれど。
 誰かに見られても、知ったことではないと、そういう自棄のような気持ちもあった。それでもト・ウイラに入り込むときには、ひどく落ち着かない思いが胸を揺さぶった。
 けれど幸運なことに、わたしは誰とも会わなかった。
 導師の命で、誰かに見張られているという可能性も、考えてはいた。どうやって目を盗み、あるいは振り切るか、いくら考えたところで、確実なすべなんて思いつかなかった。けれど、そんな心配も杞憂に終わった。
 どうして導師はそうされなかったのか。わたしがこのような行動に出ると、少しもお考えにならなかったのだろうか。
 そうではないと、わたしは思った。こんなことを人に話せば、どれほどひそかに命じたところで、次の日には里じゅうに知れ渡っているだろう。導師はわたしについての悪いうわさが広がることを、避けてくださったのだ。
 そうでなければ、わたしの分別を、信じてくださったのだ……。その考えが頭をよぎった、そのときにだけ、いくらか気が咎めるような気がした。
 けれどわたしは、足を止めはしなかった。
 里のはての岩壁を前にしたとき、思い立って、わたしは紐で胸元にさげていた髪飾りを取り出した。ほんのわずかな明かりのもとでさえ、細工の鳥は眩しいほどにきらめいた。その輝きにしばし見とれたあとで、わたしはそれを髪にさした。それから、里の外へと足を踏み出した。
 暗闇の路は、遠い記憶のなかのそれと、少しもかわらなかった。
 里の通路のように磨かれてはいない、ごつごつした壁につかまりながら、足音を立てないよう、そろそろと歩いた。ほんの少しの距離を歩いただけで、あたりはわずかの光も射すことのない、真の闇に塗りつぶされた。
 それでもまだ里の近くにいるあいだは、さまざまな物音が聞こえていた。遠くで響く水音や、どこかの家の中で宵っぱりの人が立てる物音。けれど、じきにそれらもいっさい届かなくなった。それでもわたしはなお息をひそめ、衣擦れさえ立てないように、そっと歩いた。
 静寂がいよいよ深まるにつれて、抑えきれないかすかな息の音や、自分の心臓の音さえも、うるさいほどに耳の奥に反響した。どれほど慎重に歩いても、わたしはときおり小さくつまずき、壁にしがみついては、その鋭い岩肌ですり傷を作った。
 いつしか、炎の乙女の歌が、頭の中を繰り返し流れていた。
 子どものような心を持っていたという、美しいひと。わけもわかっていなかったのだ、あの人は恋など知らなかっただろうと、母さんはいった。
 イラバの言葉をもまた、わたしは思い出した。思い人でもない相手を追いかけて、そんなに遠くまでいったりできるかしら。
 本当は、彼女には、何もかもわかっていたのではない? その日を逃せば、もう使者とは会えなくなってしまうことも、彼を追っていけば、己の命が危ういということも。承知の上で、それでも追わずにはいられなかったのではないの?
 やがて、充分に里から離れたところで、わたしは足音を殺すのをやめた。
 暗闇の中で足取りを速めると、自分の呼吸がひどく耳についた。
 何ひとつ見えない視界の中、自分が目を開けているのか、瞼を閉じているのかさえ、じきにわからなくなった。手足にふれる岩肌の感触と、自分の呼吸の音、ほんのわずかな空気の流れ。それだけが全てだった。
 時間の感覚はすぐに消えて失せ、自分がどれほどの距離を歩いたのか、まるでわからなくなった。
 気持ちばかりが急いていた。こんなことで、本当に追いつけるのだろうか。使者さま方は、とっくに暗闇の路を抜けだしてしまったのではないだろうか。何度もそう考えた。
 けれど、体の大きな動物にたくさんの荷を牽かせてゆくのだから、その分、使者さま方はゆっくりと行かざるを得ないだろう。そんな不確かな推測だけが、希望だった。
 ひたすら、壁にすがるようにして歩き続けていた。そのうちに、自分がいまほんとうに歩いているのか、自分の足で立っているのかということさえ、確かにはわからなくなった。ほんとうは自分の体は寝床の中にいて、いま自分は夢の中を彷徨っているのではないかという考えが、頭の隅をちらついて、そのすぐあとには、そうとしか思えないような気さえしてきた。感覚の喪失が恐ろしく、数歩を歩くごとに、指先が痛くなるほど壁を掴んだ。そうしながら、ただ、自分の呼吸の音ばかりを数えていた。
 何の前触れもなかった。
 踏み出した足が、空を踏んだ。
 とっさに右手の壁に、縋ろうとした。けれど壁は、すぐ先で途切れていた。指先がかろうじて、ごつごつした岩のへりを掴んだ。浮遊感が背骨をつらぬき、勢いあまった体が壁に激しくぶつかった。息が詰まった。
 どうやって自分が踏みとどまったのか、覚えていない。気付いたときには、地面に体を投げ出して、這いつくばるように突っ伏していた。右足から抜けた沓だけが、闇に呑まれていった。
 沓が何かにぶつかって跳ね返りながら、はるか下方へ落ちてゆく音が、ぞっとするほど長く、いつまでも響いていた。
 心臓がうるさく鳴っていた。体のあちこちがひりつくように痛んだ。冷たくなった指で自分の腕を抱くと、右腕が擦り剥けて、はがれかかった皮膚と、ぬるりとした血の感触があった。
 立ち上がったとき、まだ膝が震えていた。力の入らないつま先で、足元を探った。ぽっかりと、そこから先の地面が消え失せていた。
 次の一歩を踏み出すのには、勇気がいった。
 食いしばった歯の間から、震える息を吐いて、わたしはじりじりと、足で地面を探った。大丈夫、左側にはちゃんと足場がある。にじるようにして、少しずつ移動した。空に突き出した手が、左手の壁に触れるまで。
 壁につかまりなおすと、わたしは思い立って、残った左足の沓を脱ぎ捨てた。
 そうしてみると、ずっと歩きやすくなった。足の裏は痛むけれど、たしかな感触が伝わってくる分、足を踏みしめやすい。どうしてもっと早く気づかなかったのだろう。
 まだ頭のどこかが痺れたようになっていたけれど、それでも歩きだせば、どうにか体は動いた。震える息が収まるまでに、少し時間がかかった。
 いくらもいかないうちに、低い水音が耳に届きだした。はじめ、それは自分の中を流れる血の音と区別がつかないくらい、かすかなものだった。けれどじきに、澄んだ水のにおいが鼻をくすぐった。
 死者の川が、近いのだ。
 じきに辺りが広く開けたのが、目には見えないながらも、わずかな空気の流れから察された。壁についた手に、いままでとは違う、やわらかい苔の感触がある。その一部が剥がれて、ぱらぱらと落ちた。
 あたりはひんやりと湿っていた。水が岩肌から染み出しているのだ。
 おそるおそる、壁際を歩くと、途中で水溜りに足をとられて、転びかけた。ぱしゃんと、水の撥ねる音が、驚くほど遠くまで反響した。
 擦りむいた手のひらを服の裾で拭いながら立ち上がると、苔や水のにおいにまじって、なにか、獣くさいようなにおいがした。
 ヨブの話を思い出していた。荷をたくさんの駱駝の腹に括って、彼らに運ばせるのだという。きっと滞在中、駱駝たちをここで待たせていたのだろう……。
 さらに進むと、水音はますます大きくなっていった。それはやがて、耳を聾するような、轟々たる響きへと膨れ上がっていった。
 まだ見ぬ駱駝の痕跡を追うように、空気のにおいを確かめながら歩いていると、水の匂いもまた、音と同じく強まっていった。
 路の湾曲したところを行き過ぎると、急に、視界がぼんやりと開けた。
 小さな青白い光が、あたりをふわふわと舞っている。その下で、黒々とした水の流れが、光を弾いていた。
 死者の川は、記憶のなかにあるよりも、なお流れを増しているようだった。
 その勢いに気を呑まれて、わたしは僅かのあいだ、その場に立ち止まっていた。
 空中で光っているのは、小さな虫だ。いつでもここに、たくさん群れをなして舞っている。
 遺体を川に流すと、彼らのいくらかが、ふらふらと釣られるようにして、下流のほうへとついてゆく。死者の魂の、水先案内をしているのだという。まれに彼らがついてゆかないことがあって、そういうとき、死者の魂は里に未練を残して、彷徨っているのだそうだ。
 いまは虫たちは、ゆったりと明滅しながら、川面を飛び交っている。彼らの明かりは、暗闇にすっかり慣れた目には、まばゆいほどだった。
 水辺の空気は、冷え冷えとしていた。川の水はさぞ、冷たいだろう。一瞬、顔も知らぬ父が激流に飲まれてゆくところを、この目で見たような気がして、わたしは目を瞬いた。
 これまでにどれほどの死者が、この流れを下っていったのだろう。この先にあるという水底の国に流れ着くまでは、どれほどの間、冷たい水に揉まれなくてはならないのだろうか。
 やがて首を振って、わたしは歩き出した。
 ここから先の道は、記録を読みあさっておぼえた道順だけがたよりだった。そのうえ、記録には採掘場までのことしか記されていなかった。火の国までほんとうに行ったことのあるものなど、里には誰もいないのだ。炎の乙女のほかには。
 路は、複雑に分岐しているという。自分が迷わないでいられるという確信なんて、どこにもなかった。
 馬鹿なことをしていると、わたしは胸のどこかで、ちゃんとわかっていたように思う。けれど、足を止める気はなかった。暗闇の中で迷い、二度と戻れなくなってもかまうものかと、心のどこかで思っていた……。
 川が視界から消えていっときしても、しばらくは完全な暗闇には戻らなかった。不思議に思って天井を振り仰ぐと、弱々しい光が、はるかな頭上にあった。ヒカリゴケではない。もっと遥かな高みから、おぼろげに注いでいる、白い光。菜園や水場のように、ここもわずかながら、光輝の神の恩恵にあずかっているらしかった。
 そのためかどうか、それまであまり意識せずに済んでいた生き物の気配が、急に強まった。虫の這ってゆくのが、何度も視界の隅をかすめた。遠くで、水音に紛れそうなほどかすかに、せわしない羽音が響いている。蝙蝠だろうか。
 壁にふれる手に、あるいは裸足の足裏に、何度となく小さな虫の這う感触がした。沓を捨ててきたことを、わずかに悔いた。
 けれど視界があるぶんだけ、それまでよりずっと歩きやすかった。なかば小走りに、わたしは進んだ。
 いくつかのわかれ道を過ぎると、やがてぽっかりと左手の壁が消えた。その先は、深い暗闇に沈んでいる。この先は、銀の採掘場に続いているはずだった。
 わたしはふたたび、右手の壁に手をついた。採掘場に向かう路を折れず、まっすぐに進んだ先の道のどこかが、火の国に通じている。書物にはそのようにあった。
 そんなあやふやな話にでも、縋るほかなかった。それにそのあたりから、路はどうやら、ゆるやかに傾斜していた。火の国は、ずっと高いところにあるという。上るほうへと向かえば、それだけかの地へ近づくのではないか。それもまた、ひどく頼りない根拠ではあったけれど……。
 じきに路は、再び暗闇に沈んだ。水音はもう聞こえない。けれど、小さな生き物たちの気配は消えなかった。足元は、硬い岩ばかりではなく、場所によっては砂礫まじりになり、あるいは柔らかい苔か、土のようなものが広がっていた。
 何度か、分かれ道らしきところがあった。そのたびに足を止めて眼を凝らし、ときには何歩か足を踏み出してみて、より傾斜の上っていると思われるほうを選んだ。それが正しい路だという確信は、どこにもなかったけれど、ときおり思い出したように、かすかな獣の匂いがした。そのことに勇気付けられながら、ひたすら歩いた。
 ある瞬間、その中に異なるにおいをかぎ当てて、わたしは立ち止まった。わずかに甘く、涼やかな、香の匂い。
 記憶のなかにある匂いだった。
 突き上げる衝動に背を押されて、とっさに走り出そうとした、そのときだった。
 何か、土でも岩でもないものを、踏んだ。
 そう思った次の瞬間、右のくるぶしに痛みが走った。わたしはつんのめって、地面に手をついた。尖った石で、再び手のひらを擦りむいたようだったけれど、それよりも、足の痛みのほうがひどかった。
 太い針で刺されたような疼痛、それに、痺れるように熱い。とっさに手を伸ばした、その指先に、ぬるりとした感触があった。
 何かが音を立てて、勢いよく撥ねた。
 悲鳴を上げた、と思う。頭が真っ白になっていた。暗闇の中で、何かが身をくねらせて、暴れている。わたしのくるぶしに喰らいついている。
 痛みよりも、嫌悪感が勝った。わたしは足を振り回そうとした。けれどうまくいかなかった。右足は痺れて思うように動かず、痛みは次第に増していった。
 恐慌をきたしたわたしの耳が、かすかに遠くの物音をとらえた。
 足音だった。行く手のほうから、誰か、近づいてくる……。
 助けてと、叫ぼうとした。けれど声は、かすれた悲鳴にしかならなかった。
 光がさした。
 松明の炎だった。先ほどまでの恐怖も、痛みさえも一瞬忘れて、わたしはその人を見た。明かりを手に、駆け寄ってきた人物を。
 背がひどく高い。小さな松明の頼りない明かりでさえ、その肌の浅黒いのが、はっきりとわかった。
 視線がぶつかった。驚きに見張られた、黒い眼。その視線が動いて、わたしの髪を見た。そこに挿した、髪飾りを。
「トゥイヤ……?」
 ヨブ。呼びかけは声にならなかった。
 駆け寄ってくるヨブの手が、わたしのほうへと伸ばされた。いつか垣間見たのと同じ骨ばった大きな手に、わたしは縋った。
 ヨブはわたしの足元を見て、表情を険しくした。その途端、忘れていた痛みと熱とが、いっぺんに蘇った。
「動くな。これを持っていろ」
 いわれて、わたしは震える手で松明を受け取った。おそるおそる痛む足首に視線を向けると、そこにいたのは、胴体の太い、蛇だった。白い鱗をくねらせて、蛇はしっかりとわたしの足に牙を突き立てていた。
 ヨブの手が、見慣れぬ衣装の懐から、小刀を取り出した。彼の手が華麗な装飾の鞘からそれを抜き放くと、銀色の刃が炎に照らされて、ぎらりと輝いた。
 その短刀が、蛇の胴体をひといきに貫いた。
 とっさに、目をかたく閉じた。
 手から、ヨブが松明を取り上げたのがわかった。再び眼をあけたときには、ヨブが小刀を拭って、その刃を松明の炎で炙っていた。
 彼が何をしているのかわからずに、わたしは瞬きを繰り返した。
「痛むかもしれないが、じっとしていろ」
 短くいって、ヨブはその刃を、わたしの足に向けた。
 ヨブの手は迷いなく、蛇の牙の痕を切り開いた。
 わたしはとっさに身をすくませたけれど、痛みは、よくわからなかった。足首から下が、痺れていた。
 されていることの意味が、よくわかっていなかった。短刀を地面においたヨブが身をかがめるのを、ただ見つめていた。
 蛇の毒を吸い出すのだと、気づいたときには、その唇がくるぶしに触れていた。
 とっさに上げそうになった悲鳴を飲み込んで、わたしはきつく目を閉じた。
 足首が、熱い。
 痛みもわからないほど痺れているというのに、血を吸い出す唇の感触だけが、やけに生々しく感じられて、とても眼を開けていられなかった。
 それは、ほんの短い時間のはずだったけれど、わたしにはひどく長く感じられた。吸われている傷口の熱、足首を押さえるヨブの大きな手、松明のはぜる音、炎のにおい。
 吸い出した血を地面に吐き出して、ヨブは深く、ため息をついた。目をあけて彼の表情を確かめるのが、怖かった。呆れているだろうか。苦りきっているのではないか……。
「トゥイヤ」
 名を呼ばれて、恐る恐る、目を開けた。
 思いがけず、ヨブの顔が近くにあった。
 黒い瞳と、見た瞬間には思ったけれど、間近に覗き込めば、どちらかというとその眼は、濃い灰色をしていた。
 何か、いわなくては。そう思うのと同時だった。新たな足音が近づいていることに気づいた。
 ヨブもまた、同じことに気がついたようだった。行く手の路を振り仰いで、ヨブは一瞬、険しい顔をしたけれど、すぐに振り返って、わたしの足の傷を確かめた。その手がためらいなく短刀の柄布を外して、わたしの足に巻きつける間に、人影が近づいてきた。
「何事かと思えば、これはまた……」
 湾曲した路の先からあらわれたのは、やはり背の高く肌の浅黒い、男の人だった。ヨブと同じく、見慣れない、ふしぎな衣装を身にまとっている。
 その使者は、ヨブとわたしを交互に眺めて、どういったらいいのか、ひどく嫌なふうに笑った。それから、わたしの顔のそばに松明を寄せた。
 わたしがとっさに顔を背けるのも気にしないようすで、使者はまじまじとわたしの顔を覗き込んだ。それからヨブのほうに視線を戻して、喉の奥で笑った。
「ふん。真面目くさったやつだと思っていたが、どうして、なかなかやるものだ」
 ヨブはその言葉を聞いて眉を顰めたけれど、口に出しては、何も反論しなかった。ただ無言のまま、短刀を拭って鞘に戻した。そのようすを見て、はじめてわたしは本当の意味で、自分の愚かさを思い知った。
 青ざめながら振り仰ぐと、使者は、まだ笑っていた。ひどく冷たい、胸の悪くなるような笑い方だった。
「さて、どうしたものだろうかな。長に報告しないわけにはいくまいが」
 わたしはとっさに、声を上げようとした。何をいおうとしていたのか、自分でもたしかにはわかっていなかった。弁明だろうか、反論だろうか。とにかく、すべてはわたしの愚かしさの引き起こしたことであって、ヨブには責のないことだと、伝えなくてはならなかった。
 けれど、ヨブはわたしを手で制した。それからひとこと、そっけなくいった。「好きにするといい」
 使者は鼻で笑った。
「そうするさ」
 待って。いおうとしたわたしに首を振って、ヨブはいった。「この娘を里まで送り届けてくる。先に行っていてくれ」
「そうするほかに、どうしようもなかろうな」
 使者の声には、やはり嘲弄の響きがあった。わたしは焦りと苛立ちで、混乱していた。苛立ちは、その使者に対するものでもあったけれど、それ以上に、自分自身に向けたものでもあった。
 わたしたちが里の掟によって、使者さまの眼に触れる場所から遠ざけられていることは、よくわかっていたつもりだった。なのにどうしてわたしは、その可能性を考えてもみなかったのだろう。使者さま方もまた、彼らの一族の掟によって、同じことを禁じられているのに違いなかった。
 使者の足音が反響しながら遠ざかっていっても、わたしは顔を上げきれなかった。
 己の幼さを、いまこのときこそ、呪わずにいられなかった。
 暗闇の路のなかで迷い、ひとりで朽ち果てることになってもいい。たとえ火の国の炎に焼かれて死んでもかまわない……。心のどこかで、そんなふうに思っていた。けれど、騒ぎになればヨブがどれほど困るか、そのことを、わたしはたった一度でも、まともに考えただろうか? もし考えていたなら、こんな愚かな真似を、できるはずがなかった。
「トゥイヤ」
 ヨブの声は、苦しげだった。
 自分のせいで、困らせている。そう思うと、どうしようもなく耐え難かった。いっそ消えていなくなってしまいたい、とさえ思った。
「ごめんなさい……」
 自分の喉から溢れた声が、まるきり叱られた子どものようで、その幼さを、わたしは憎んだ。
 ヨブはいっとき、何かをいいあぐねるようにしていたけれど、やがて一度立ち上がり、そばに屈みこんだ。「松明を持って、負ぶされるか」
 いわれていることを理解するのに、間がいった。いっときぽかんとして、それからわたしはあわてて首を振った。
「そんな。自分で歩けるわ」
「その足で?」
 ヨブの声には、怒っているような気配はなかったけれど、わたしは慌てて立ち上がろうとした。けれどすぐに痺れた足をひきずって、つんのめった。
 転びそうになったわたしを支えると、ヨブは何もいわず、背中を向けた。それでもまだ躊躇わずにはいられなかったけれど、結局、わたしはその肩にしがみついた。
「ごめんなさい」
 悲しくて、情けなかった。自分が何をしてしまったのか、ヨブにどれだけの迷惑をかけてしまったのか、考えれば考えるほど、苦しかった。
「謝らなくていい」
 その声は優しくて、そのことが、かえってわたしには辛かった。
 しがみついた背中は、広かった。松明を気にしながら体重を預けると、あの涼しげな香と、それから、汗のにおいがした。
 歩き出したヨブの背で、揺られながら、わたしは何度も言葉を飲み込んだ。
 何をいえばよかっただろう。どうしてももう一度、あなたに会いたかったのだと? この目で砂漠の空をみられるのなら、それで死んでもいいと思ったと?
 唇を噛んで、わたしは顔を伏せた。何をいっても、自分の愚かしさを思い知らされるだけのような気がした。
「傷跡が、残るかもしれないな……」
 ふいに、ヨブがいった。それは、ひどく悔やむような声だった。彼が気に病む筋合いのことなど、なにひとつないはずなのに。わたしはそれが、申し訳なくて、いたたまれなくて――そして、嬉しかった。
 気にかけてもらうことが、嬉しかったのだ。自分の救いようのない愚かさに、目の前が暗くなるようだった。
 里に、戻りたくなかった。このまま一緒にいたいと、火の国までついてゆきたいのだと、まだそんなことを思っている自分を、救い難いと思った。
 わたしの飲み込んだ言葉に、ヨブは気づいていただろうか。
 里に引き渡した荷の中に、薬があるはずだというようなことを、ヨブはいった。それから、何かをいいかけては、言葉を飲み込む気配があった。
 足の痛みは引かず、いつまでも痺れたように熱かった。ときどき手が、汗で滑った。
 死者の川のほとりで、わたしは松明を取り落としそうになった。ただ黙って負ぶわれていただけなのに、体が熱く、重かった。ヨブは立ち止まって、ゆっくりと屈みこんだ。
「少し、休もう」
 ヨブはそんなふうにいったけれど、彼自身の足取りには、ちっとも疲れているようなようすはなかった。気遣われていることが申し訳なくて、とっさに意地を張ろうとしたけれど、肩越しに振り返ったヨブの眼を見て、結局、わたしは頷いた。
 腰を下ろした岩肌は、わずかに湿っていた。光る虫が、明滅しながらふわりと近づいて、また遠ざかって行った。
 隣に座ったヨブが、小さく苦笑するのがわかった。
「それにしても、明かりももたずに、よくあのような場所まで歩いてきたものだ。やはりお前たちの目は、特別らしい」
 すぐそばに身を寄せ合って話をすることに、いまさらのように、わたしは少し、緊張した。死者の川の流れは速く、その水音に負けないように口をきくには、そうするほかになかったのだけれど。
 暗闇の中でものが見えていたわけではないけれど、細かく説明する気はしなかった。わたしは黙って首を振った。
 何度かためらうような気配のあとに、ヨブがいった。
「すまなかった」
 わたしは振り返った。ヨブが何を謝っているのか、すぐにはわからなかった。昨日、勉強室にやってこなかったことだろうかと、まずそのことを考えた。けれどそうではなかった。ヨブは続けた。
「酷いことをした。いくら地上のようすを話して聞かせたところで、連れていってやれるわけでもないのに」
 それはやはり、悔いるような声だった。
 わたしはうまく出てこない言葉のかわりに、いそいで首を振った。謝ったりしないでほしかった。
 だって、わたしは嬉しかったのだ。遠い国々の、広い世界の存在を知って。ヨブの声で語られる、遠い異国の風景に、思いを巡らせることができて。
 その光景を、もしこの眼で見ることができたなら、ヨブと一緒に火の国へゆけたならと、そんなふうに、身の丈に合わぬ望みを抱いたのは、わたしの欲深さゆえのことだ。ヨブが気に病まなければならないことなんて、何ひとつないはずだった。
「あれは、去年だったか。お前たちの祖先がこの地にやってきたときの話を、していたな」
 きゅうに聞かれて、わたしは戸惑いながら頷いた。ヨブはまた少し迷って、それから何かを思い切るように、首を振った。
「そのときの話は、俺たちの部族にも伝わっている」
 その言葉の意味を考えて、わたしは目を見開いた。ヨブは頷いた。
「もともとは、同じ部族の民だったのだ。争いによって、分かたれるまでは。――少なくともファナ・イビタルには、そのように伝わっている」
「だけど……」
 わたしは声を上げかけて、途中で口をつぐんだ。それから、ヨブの顔をまじまじと見つめた。
 川の上を飛び交う虫たちの放つ、ほのかな白い明かりに、濃い灰色の瞳が照らしだされている。浅黒い肌の色、ひどく高い背丈。わたしたちの祖がもとは同じ一族だっただなんて、信じられるだろうか。容貌ひとつとってさえ、これほどまでに異なっているというのに。わたしたちの祖は、火の国からやってきたのではないかと、自分で想像しておきながら、いまになって、信じられないような気がしていた。
「この話は、秘められているのだ。この里の者だけではない。ファナ・イビタルの人々にさえ、ごく限られた者のほかには、話すことを禁じられている……」
 いままで黙っていて、すまなかった。ヨブはそんなふうにいった。
「だがお前は、教えずとも、自分で気がついたかもしれないな」
 ヨブはふと、視線を川に向けた。つられてわたしも、黒々とした水面を見た。激しい音を立てて流れてゆく、冷たい水を。
「古くには、ひそかに里の娘を娶ろうとした長も、いたのだそうだ」
 ヨブは眼を伏せて、囁くようにいった。はっとして、わたしは顔を上げた。
「つれてゆかれた娘の眼は、地上の光には、耐えられなかったという。長く地の底で暮らすうちに、お前たちの体は、この暗闇に慣れてしまったのだろう」
 わたしは話に耳を傾けながら、じっと、ヨブの横顔を見ていた。その濃灰色の瞳に、飛び交う光が映りこんでいるのを。
「ファナ・イビタルにたどり着いたときには、娘の眼はすでに、光を失っていたそうだ。長は秘密を隠すため、邸の奥に娘を閉じ込めた。慣れない旅も、体に触ったのだろう、娘はじきに病みつき、ひと月を待たず、命を落としたのだと……」
 言葉を切って、ヨブはそっと、わたしの髪に触れた。そこに挿した、銀の髪飾りに。
 その指先がためらうように、揺れた。そして、長い迷いののちに、ゆっくりと離れていった。
「――できることなら、お前に、砂漠の空を見せてやりたかった」
 ヨブの、苦しげに揺れる眼が、熱を孕んで、わたしを見た。
 そこに自分の顔が映りこんでいることに気づいたとき、諦められると、はじめてそう思った。
 水音が高く低く、反響を繰り返していた。
 見つめあっていた時間は、それほど長くはなかったはずだ。やがてヨブは眼を伏せて、いった。「行こう」
 黙って頷くと、わたしは差しのべられた手に捕まって、立ち上がった。ヨブはふたたびわたしを背負ってゆこうとしたけれど、それを断って、わたしは自分の足で、どうにか歩き出した。痺れはまだひどかったけれど、そうせずにはいられなかった。
 ヨブの手を借りて、足を引き摺りながら、ゆっくりと歩いた。並んで歩くあいだ、不思議と、あまり悲しくはなかった。いまこのときを最後に、もう二度と会うことも話をすることも、おそらくないだろうと、わかっていたけれど。
 長いような、短いような時間が過ぎて、やがて、里の入り口が見えたところで、そこに人影を見出して、わたしたちは立ち止まった。
 佇んでいたのは、導師だった。
 ヨブやわたしが何かをいうより早く、導師は膝を折って、ほとんどひれ伏すように、礼をとった。ヨブへの感謝の意をあらわす言葉が、その口からこぼれたけれど、それは普段の話し方とはまるで異なる、どこか儀式めいた、ひどく丁重なものだった。
 ヨブは手をさしのべ、導師を引き起こして、その礼をやめさせた。それから短く、わたしの足の傷と、その薬のことだけを、手短に説明した。導師はそれに何一つ問い返すことなく、深々と頭を下げた。
 導師は何もかもご承知のようだった。
 それまでつかまっていたヨブの腕から、手を放した。その一瞬、視線が絡んで、離れた。
 そっと腕を引く導師の手に促されて、わたしはその場に膝をついた。けれど、導師がそうしたように、顔を伏せて礼をとることはせずに、踵を返して去るヨブの背を、じっと見つめていた。それはきっと、ひどく無礼なことだったのだろうけれど、導師は何も仰らなかった。
 ヨブの姿が闇に溶け、足音がすっかり聞こえなくなったところで、一度、記憶が途絶えている。

 あとで聞いた話によると、わたしはそこで意識を失って、高い熱を出したらしかった。
 気がついたのは翌朝で、いつもの、自分の寝床の中だった。そのときにはすでに熱も引き、意識ははっきりしていた。足の傷跡が、いまさらのように痛み、ひきつれるばかりで。
 母さんは、何も知らされていないようだった。わたしは水場で転んだ拍子に怪我をして、その傷が原因で熱を出したのだと、母さんは思っていた。
 熱が下がったことを喜びながら、母さんは一方で、手足の傷があとに残るのではないかと、そのことをひどく心配していた。わたしが曖昧に話をあわせていると、導師がおいでになった。
「熱は、すっかり引いたようだな」
 穏やかな声だった。
 導師は、わたしの怪我の様子をお尋ねになったきり、母さんのいるうちは、ほかに何も仰らなかった。
 じきに母さんが水を汲みに部屋を出ると、導師は深く、ため息を吐かれた。
「どうして私が、あそこにいたと思う。カナイが血相を変えて、私のもとに駆け込んできたのだよ。お前がいなくなったといって」
 意表をつかれて、わたしは顔を上げた。導師は穏やかなまなざしで、わたしを見下ろしておられた。
「自分が問い詰めたせいで、お前が早まった真似をしたのではないかといって。ひどい顔色をしていたが、それでも真っ先に、私のもとへやってきた。……あれも、お前とはまた違う意味で、賢い娘だ。他の人間に話せば何を言われるか、よくわかっていたのだろう」
 あとで礼をいっておきなさい。導師はそう仰って、かすかに苦笑を浮かべた。そして、もうひとつ、深く息を吐かれた。
 わたしは俯いた。叱責されるとばかり思っていた。叱られるどころか、罰を受けるだけのことを、わたしはいくらでもしただろう。けれど導師は、まったく違う話をされた。
「昨日の昼に、ムトと話をした」
 急な話のうつりかわりに、わたしは困惑して眼をしばたいた。けれど導師はそんなことには気も留めぬようすで、ゆっくりとお続けになった。
「お前が嫁いだあとも、私の手伝いをさせたいのだが、どうだろうかと訊いた。ムトが何と答えたと思うかね」
 見当もつかなかった。首を振ったわたしに、導師はかすかな微笑を浮かべて、答えを口にされた。
「お前がそれを望むのならと、ムトは即答したよ。――よい青年ではないか」
 なぜだろう。それまで平気だったのに、その言葉を聞いたとたん、急にひどく胸が痛んだ。
 ヨブに手をひかれている間には堪えられた涙が、いまさらのように次々に溢れて、わたしは嗚咽を漏らした。導師の手が、そっと、肩の上におかれた。
 いつかのエオンの月に、わたしは顔も知らぬ夫のもとに嫁ぐだろう。
 運がよければ子どもをもって、イラバがそうしたように、懐かしげに眼を細めるかもしれない。この胸の痛みも、焦がれるように求めたものも、何一つ忘れることなく、それでも微笑むことの出来る日が、やってくるのだろうか。いまはまだ、わからなかった。
 導師はいつもとかわらない静かな口調で、お続けになった。
「千年をかけてここに蓄えられた記録も、知識も、そのほとんどが、ト・ウイラの領域のことばかりだ。女たちは、よほどの困りごとでもなければ、私のところまでは相談にやってこない。私のあとの役目を継ぐのは、正式にはバルトレイを考えているが、ほかに誰か、女たちの記録を残すものがいればと……。そんなふうに考えることは、以前よりあったのだ」
 以前のわたしなら、その言葉に、ただ無邪気に喜んだだろう。けれどこのときばかりは、ただ胸が苦しかった。
「トゥイヤ、頼まれてくれるだろうか?」
 わたしは頷きながら、子どものようにしゃくりあげて泣いた。戻ってきた母さんが、驚いて駆け寄ってきても、嗚咽を止めることはできなかった。



 あれからずいぶん時が経ったいまでも、ときどき、夢に見る。
 見渡す限りの砂の大地。その空に、眩しいほどにちりばめられた、数えきれぬほどの光の粒。砂漠の空の高いところを優雅に舞う、美しい羽根の鳥を。
 その鳥は、髪飾りの細工と同じ姿をしている。

 

(終わり)
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