小説トップへ   灼熱の海の向こう へ


 地の涯には、とこしえの黄昏の国がある。
 若い頃から放浪の旅をくりかえしてきたというアシェリ、私の父親からその話を聞いたときには、またいつにもまして荒唐無稽な法螺話をするものだと、呆れかえったことだった。
 生まれ育った故郷の地を、遠く離れて旅をするということ自体が、すでに狂気の沙汰だというのに、まして地の涯までいこうという。実の娘の私にも、いったいなにを考えているのか、さっぱりわからなかった。ろくでもない男だ。……ああ、お前には祖父にあたる男のことを、あまり悪くいうのも何だがね。まあ幸い、お前はアシェリには似なかったようだ。
 母もまた、アシェリのその悪癖には、随分と悩んだようだった。だが、よその男がそうするように、目と鼻の先でよく知っているほかの女の寝床に通うよりも、まだ知らない土地で、見知らぬ女のあいだをさまよい歩いているというほうが、いくらかは気の休まることではあったらしい。その気持ちは、いまとなってみれば、私にも少々わかる気がする。ああ、別にお前のことを、あてこすっているわけではないさ。そもそも男というのはそういうものなんだろう。
 そら、男がそういう顔をするものじゃない。情けないったらありゃしない。そういえば、なんという名前だったかね、あの機織の、気立てのいい娘は、息災にしているかね。そうか。孫たちも、みんな元気なんだろう? それならいい。
 話を戻そう。アシェリに限らず、私の故郷の人々は、ときには旅くらいするし、ここの人たちがそうするように、場合によっては移住もする。だがそれは、歩いて数日、そうでなければ灰鱗馬に乗って日のあるうちにというようなものだ。ここいらは道がいいから、それよりは少し遠出もするかもしれないが、それにしても限度がある。ひと月もかけて旅をしてきたというような変わり者がいるとすれば、ミシエゴの民の行商くらいのものだろうよ。彼らだって、荷をやりとりするために、街道にそって往復するのがせいぜいだ。道なき道を往ってまで、違う言葉を話す人々がいるとかいう、見知らぬ土地になど、そうそう足を突っ込むものではない。
 まして、私の故郷からは、ちょっと北へと向かえば、異相の獣が吼え声を上げる、この世のものとも思えないおそろしい森が広がっているし、といって南へと向かえば、やがて河がもうもうと湯気を上げ、半刻もあれば人が蒸し焼きになって湯気を上げるような、灼熱の大地が顔を出す。そんな土地を旅するアシェリのことを、故郷の人々はみな口を揃えて狂人だといったし、娘である私自身が、ほかの誰よりもそう思っていた。
 それなのになぜ、私は涯の地なんていうものを目指したのだろうかね。
 アシェリがさも面白おかしく語る、荒唐無稽な風聞が、魅力的に聞こえたからというわけでは、なかったように思う。むしろ、旅先で灼熱の陽射しに焼かれて、同じ年頃のほかの男たちよりもよほど早く皺だらけになったアシェリの肌や、何度か山越えをしたときに、吹雪に襲われたせいで、手足の指が何本も欠け落ちてしまっていることや、そういうものをこそ、私はこの目でまじまじと見てきた。
 月が何度巡っても、家に戻ってこないアシェリ。よその家の父親は、どれほど愛情の醒めた無精な男であっても、ひと月に数日は顔をみせるものなのに、その義務さえ果たそうとしないろくでなしの父親。だが私は、なぜかあの男が好きだった。
 もっと頻繁に家にやってきて、私にもたっぷりの愛情を注いでくれる、ほかの弟妹の父親がいたというのにな。気まぐれにしか顔を出さず、出しても途方もないような法螺話ばかりを自慢げに垂れ流すだけで、頭ひとつなでてくれるでもないアシェリのほうが、私はずっと好きだった。弟妹たちは、アシェリのことを気味悪がって、なかなか近寄ろうとはしなかったというのに。
 それは血のなせるわざだろうか。母はそう信じ込んでいるふしがあったけれど、私にはその考えは、どうにもしっくりとこない。
 私がアシェリを好きだった理由はともかく、たしかに私はあの男の血を引く娘であるらしかった。そもそも女の身で一人旅に出ようということ自体が、狂気の沙汰としか思えない。皆が口を揃えてそういったし、自分でもそう思った。もっとも、美しい母ではなく、どこもかしこも無骨でおおづくりな造作のアシェリに似てしまった私は、顔にせよ体格にせよ、女だからという理由で、身の危険を感じるようなものでもなかったがね。なんせ、母以外の誰一人、私が旅先で遭難することを心配こそすれ、旅先でどこぞの男に襲われでもしたらという想像のほうは、ちっともしなかったのだから。
 けれど実際のところ、ところが変われば美しさの基準も変わるものらしい。故郷では自他ともに認める醜女だったはずの私が、遠い異国の地では、何度か一目ぼれもされたし、これでけっこう、求愛もされた。いま、笑ったな。まあ、信じなくてもいいさ。
 ともかく、そういう意味では、身の危険は覚えなかったな。というのも、私は女だてらに、腕っ節もまあまあ強かった。いまでこそ、歳をとってこの有様だけれど、狼藉者の二、三人くらいは、簡単に追っ払って見せたものさ。怖いのは人間ではなくて、森や岸壁や砂漠に棲む、爪や牙の鋭い獣や、おそろしい毒をもつ虫たちのほうだった。それでもこうしてこの歳まで生きているのだから、私は相当に幸運な部類なのだろうね。なんせ、アシェリが死んだのは、噂を信じれば、いまの私の半分ほどの歳だったのだから。それでも最後に会ったあの男は、実際よりもずっと老いて見えたものだったが。
 そういえば、デッタルタよりも東の地に住む人間は男も女もみな頑健で腕が立つとか、そういうような噂が、一時期このあたりで広まったようだった。あれはもしかすると、私のせいではなかったかな。実際は、こちらの人々と同じように、故郷の女たちはか弱いものだった。私が変わり者だったのさ。

 ああ、年寄りの話は、すぐ脇道に逸れてよくないな。ともかく、若かりし私は、その地の涯とかいう場所を目指したのだ。アシェリの語った道筋を追って、おそろしい獣の棲む北の森を抜け、自分の倍ほどもあろうかという背丈をした船頭の漕ぐ渡し舟に乗り、ゲルガ大河を渡って、雪と氷に閉ざされたシジ・シャガラ連峰を越えた。右足の指が二本欠けているのを、お前には見せたことがあるだろう。あれも、アシェリと同じように、高い山の上で吹雪に見舞われた結果だった。
 ああ、雪をお前は知らないか。無理もない。そうだね、寒い土地では、雨が凍って雪というものになるのだよ。
 凍る、がわからないか。そうだね、水がうんと冷えると、塊のようになるのだよ。雪というものは、軽くて、白くて、ふわふわと風に流されて降ってくる。小さくて、指で触るとあっという間に溶けて消えてしまう。けれど、ときには殴りつけるように降り、驚くほど厚く降り積もる。触ると、優しく包んでくれそうな外見を裏切って、鋭いほどに痛い。それほどに冷たいのだよ。手足が冷たいまま、ずっとほうっておくと、指が腐れて落ちることもある。ああ、想像もつかないか。まあ、それならそれでいいさ。
 なんでそこまでしたのかって? さて、あまりちゃんと考えてみたことはないな。
 ああ、だが多分私は、知りたかったのだろう。わが父アシェリ、あのほら吹きの、気狂いの、腰の据わらない薄情な男が、愛した女と娘を置いて、遥かな地にある何を見たかったのか。いったい、遠くの地にある何が、アシェリに私たちを捨てさせたのかを。
 あるいは私自身が、故郷の地にうんざりしたからだったかもしれない。いまにしてみれば懐かしい故郷だが、それでもあの町に戻りたいとは思わない。ああ、そりゃあ、一人で遠くまで旅に出ようと思うほどの変わりものだからね、色々と悶着もあったのさ。ちょうど弟妹たちが大きくなって、手がかからなくなったのも、いいきっかけだった。
 だからといって、同胞と離れて、一人っきりで生きようなんて思う人間は、そうはいないさね。だが私の場合は、ほかに逃げる道があるということを、父親が体現してみせていた。いや、考えてもみればアシェリの場合は、それでもたまには帰ってきてはいたのだから、私ほどには薄情でもなかったのだろう。
 アシェリは面白がって、私に遠い異国の地で食べた野草や、狩りの仕方や、見知らぬ土地の言葉を、たびたび話して聞かせていた。そのおかげで私は、あの男自身に比べたら、まだ楽に旅をしたのではないかな。言葉の通じぬところから、背格好も肌の色も違う人間の間に飛び込んで、自分は敵ではないのだと訴えるという、ただそれだけのことが、どれほど難しいものか、お前に想像ができるだろうか。戦の絶えない土地ならば、なおさらのことだ。ふん、考えてみれば、アシェリは半ば、予想していたのかもしれないな。私がいつか、故郷を飛び出すのではないかということを。

 それで、とこしえの黄昏の地はどうなったのかって? そうだね、その話をしていたのだった。ああ、そうせかすもんじゃないよ。若い者は気が短くていけない。
 結論からいえば、その国はたしかにあったのさ。遠く北の涯の、そうだね、ここからだと人の足ならば、月が二十も満ち欠けするほど延々と歩かなければ、辿りつかないような場所だ。歩くだけでは無理だね。船も使う。四ツ脚鳥の背中にのって山越えもする。十人が通って、九人は命を落とすような、そんな険しい道もある。人が誰も通らない獣道も通る。大きな獣も襲い掛かってくる。いったいそんな涯の地に、どうやって人が住み着くようになったのだろうね。
 だが私は幸運にもその道を越えたし、そこにはたしかに人が暮らしていたのだ。
 アシェリから聴いた話では、その国に棲んでいるのは、人ならぬ精霊や妖精、古代の生き物たちではないかということだったのだが、実際に行ってみればなんていうことはない、そこに暮らしているのも、当たり前の人と獣たちだった。
 私は北の涯という場所は、もっと寒いものかと思っていた。いや、たしかに信じられないほど寒くはあるのだが、かつて越えたシジ・シャガラの山頂付近に比べれば、凍えるほどではなかったな。その証拠に、あの山の上のほうには樹の一本も生えていないが、涯の地には、針のように細い葉をたくさんつけた、背の高い樹々が、うっそうと繁っていた。
 畑もあった。四足の、ほかでは見たことのない毛深い動物がいて、人々はそれを飼い、乳もとっていた。海にはときに氷が流れてきたし、雪も降ったけれど、そこは少なくとも、人が生きていけないような場所ではなかった。
 とこしえの黄昏の国という、その呼び名のとおり、その地には昼も夜もなかった。日がな一日、太陽は地平線すれすれを掠めるように、横に滑ってぐるりと周りを回るのさ。月だってそうだ。地上に半分だけ顔を出して、ぐるぐると回っている。欠けながらゆっくりと太陽に近づいて、やがて離れていくから、そのときどきで、うっすらと見えたり、見えなかったりする。
 その国の東南には、低い山脈がつらなっていたから、太陽がそのあたりを通るときだけ、ほんの少し、あたりが暗くなる。あとは天気の崩れたときにも、やっぱり暗くなるね。だが、それだけだ。太陽が天高く上って日差しが肌を焼くこともない。日が沈みきって空に星が瞬くこともない。いくつかの明るい星だけが、太陽のあるほうと反対側の空に、いつもちらついていた。
 日差しが弱いせいか、人々の肌は抜けるように白かった。そして、彼らは夜に休むということを知らないから、いっときまどろんでは起きて、働き、起きている間が合った者と語らい、疲れればおのおのの好きな時間に眠るといったぐあいだった。その必要があるときには、時間を決めて、交代で眠る。それで体に堪えないのかと思ったが、その土地で長く暮らしてきた人たちだからね、すっかりそういう体の作りになってしまっているのだろうさ。実際、私もそこでいっとき過ごすうちに、世界に昼夜というものがあることを、忘れてしまいそうになった。
 その国の人々は皆、ゆったりとした口調で話をした。さすがのアシェリも、そこの言葉までは知らなかったようで、私は一から十まで身振り手振りで、彼らに意思を伝えなくてはならなかった。その手振りさえ、故郷では感謝を意味する手の振り方が、彼らにとってはまるきり違う意味の合図になってしまうようだった。そりゃ、はじめは苦労したさ。それでも、さすがは日の沈まない国というべきかな、皆、どこかおっとりとした人たちでね。ともかく私に敵意のないことだけでも伝わると、あとは誰も彼もが、根気強く相手をしてくれた。
 不思議なもので、言葉や仕草はまるきり違っていても、笑ったり怒ったりする表情は、さほど違わないものだ。何か月かをそこで過ごすうちに、私は少しずつ、彼らの言葉を覚えていった。彼らの畑の世話の仕方も教えてもらった。あの国では、作物が育つのが遅い。だから皆、念入りに畑を見回り、せっせと世話をやいた。お前は知っているだろうか。お前や私がさっき食べたノイオ麦の飯、あれは、植えてひと月で実るだろう。あれだけ短い期間で育って、保存もきき、あれほど滋養のある作物は、とても珍しいものなのだよ。おかげでこの土地に住み始めてから、ひもじい思いをしたためしがない。
 ノイオ麦は、このあたりよりほんのちょっとでも北に行けば、寒すぎて育たないし、わずかでも南に行けば、今度は暑すぎて実がつく前に枯れてしまう。この土地はとても恵まれているのだよ。それだからこそ、過去には戦も多かったのだろうがね。私の故郷なんぞは、貧しい場所だからね、誰も争ってまで奪おうなんて思いやしない。
 涯の国では、彼らの漁にも混ぜてもらった。北の海は寒かった。間違えて落ちたら、あっという間に手足が痺れてまともに泳げず、下手をするとすぐに心臓が止まってしまうほどだ。それだから、船はとても頑丈なつくりだったし、彼らの船の扱いは目を疑うほど巧みだったね。この辺りの海の男の比じゃない。ああ、別にお前の仕事を馬鹿にしているわけではないよ。お前は立派な漁夫だ。本当にそう思っているよ。さっきの魚も旨かった。
 ともかくその国で、私は一人の男と出会った。

 その男、フィリオルの瞳は、よく澄んだ明け方の空のような、ごく淡い青をしていた。その髪は、よく晴れた日の夕陽が、雲をやわらかく照らすときの、あの空の色と同じ、黄金の色をしていた。おや、信じないのかい。だがあの国には、金や銀の髪の人々が、緑や水色や灰色の瞳の人々が、たくさんいたのだよ。私はこの目で見てきた。ミシエゴの商人の中に、たまに目の色がやたらと明るいのがいるだろう。あれがもっと極端になるだけだ。何がおかしなことがある。
 世界には、背丈も、髪や目や肌の色も、食べ物も言葉もまるきり違う人々が、それぞれに暮らしているのだよ。多くの人が、それを知らずにいるだけなのだ。
 フィリオルは、いつもどこか夢見るような目つきをしていた。背が高くて、そうだな、私よりも頭二つは大きかった。睫毛まで髪と同じ、日に透かしたような金色をしていた。
 ところでこの辺りでは、男は好いた女たちの家に、数日おきに通うだろう。女は、産んだ子どもを自分の家で育てるし、男たちはその子どもらにも会いに通ってくる。女だって、別々の男の子を孕むのだって、珍しいことでもない。私の故郷でもそうだった。いま、何を当たり前のことをいっているのかと、そういう顔をしているね? それが当たり前でないと聞いたら、お前はどう思うかね。
 あの国では、違っていたのだよ。といっても、女が男のところに通うのではない。互いにたった一人の相手を伴侶と定めて、生涯連れそうのだ。
 実感が湧かないか。そうだろうね。
 私はフィリオルと恋仲になった。ふ、そう変な顔をするのはおよしよ。私にだって娘時代はあったさ。

 いっときの間、私たちはそこで一緒に暮らした。さあ、どれほどの期間だったのだろうか。あの場所では、時が流れないのだ。いや、ほんとうに流れないわけではないのだがね、日も沈まないばかりでなくて、星の動きもよくわからないから、時の流れを誰も気にしていないようだった。いまにして思えば、月の満ち欠けするのを、しっかり数えていればよかったのだろうがね。
 あの国では、伴侶はいつも同じ家で寝起きする。畑に出たり、漁にいったりしている間は、別々に過ごすこともあるが、帰ってくる家はいつも同じだ。樹を切って、四角く削った石を組み合わせてつくる、頑丈な家だ。床には毛皮を敷き詰める。外は寒いが、その家の中は驚くほど温かい。薪を伐ってきて、いつも絶やさず火を焚いている。
 そこでの暮らしは、このあたりに比べたら、厳しくはあった。作物が育つのがゆっくりだから、たまたま何かあって、そのときに作っていた畑が全滅すると、とたんに喰うものに困る。そうなると、毎日魚と乳とわずかな草の実ばかりで過ごすようになる。寒いのとひもじいのが重なれば、人は弱る。
 だがそんなときは稀で、大抵はなんとか凌ぐことができた。それというのも、魚がよく獲れたのだ。その点だけは、ここいらよりもよほど豊かだったといっていい。
 だから、黄昏の国での暮らしに、不満があったわけではなかった。だが、私はいまここにいる。何故だか、お前にはわかるだろうか。
 フィリオルが、外の世界を見たいといい出したのだよ。

 惹かれあうからには、それだけの理由があるのだろうね。お前の見てきた世界を、昼と夜のある世界を、俺もこの目で見てみたいのだと、あの人はいった。遠く温かい土地を、険しい山並みを、まるで相の異なる草木や獣や鳥たちを、違う言葉と違う習慣のもとに生きる人々を。世界のありようを、この目で見てみたいのだと、フィリオルはいったのだ。
 私はためらいはしたが、長くは迷わなかった。
 やはり私は、薄情な女なのだろう。よくしてくれた舅や姑を、あの人の兄弟たちを、生まれ育った北の大地を、あの人に捨てさせたのだから。
 二人の旅は、困難なことには変わりなかったが、いま思い返しても、とても幸福なものだった。昼と夜の過ごし方を、高山での暖のとり方を、嵐のしのぎ方を、平らな土地での方角の見出し方を、行きの道々で覚えた草木の名前や、鳥や獣の狩り方を、料理や細工や、その土地の精霊への祈り方を、人々の言葉や習慣を、知っている限り、私はあの人に話して聞かせた。逆に、かの地へ向かう道で私が気づかないままでいたことに、あの人が目を留めて、私に知らせてくれたりもした。人は一人では、己のものの見方しかできないものなのだということが、あの頃、つくづく身に沁みた。
 何度となく危ない目にもあった。悲しい思いもした。人にだまされたこともあった。虎だの人食い魚だのに襲われたこともあったし、大小の怪我もした。だが、あの人が新しい世界を見つめるとき、空色の瞳には、いつも眩しいような光があった。
 アシェリが見たかったものを、彼がいまこの目で見ているのだと、そう思った。

 ふ、それがどうしたという顔をしているね。
 お前がさっき、持ち帰ってきた銅貨があっただろう。あのお顔が、どなたのものか、お前は知っているかね。そう、三代前の王様だ。その銅貨が、通用しない土地があることを、お前は考えてみたことがあるかね。
 この国に、いくつの都と町があるか、知っているか。このミッティス、隣のフロウ、その先にあるバーディエラ、北のフォン、ベラウ、シアティ……。もう出てこないか。もうちょっとあるね。私の記憶は少し古いかもしれないが、三つの都と、二十あまりの村と町、それをあわせたものが、この国だ。この王様の銅貨は、そこでしか使えないのだよ。
 それじゃあ、この国の外にいくつの国があって、そこにどれほどの町や村があるか、お前は知ろうとしたことがあるだろうかね。ああ、私だって、正しい答えを知っているわけじゃない。
 とこしえの黄昏の国を発って、この町に至るまでに、あの人とふたりで通ってきたのは、あわせて七つの国の六つの都と、二十の町と、四十いくつだかの集落だった。
 それはこの広い大地の上にある、あまたの国の、そのほんの一部だ。私だって、この大地の隅々までを旅したわけではないのだよ。故郷の地と、とこしえの黄昏の国と、この町との間の、ほんの一部の土地を巡っただけなのだ。それだけの旅路でも、その土地のそれぞれで、いったい何種類の銅貨と銀貨があって、いくつの言葉があって、何十柱の土地神と精霊が、何百の祠と神殿に祀られているのを見たと思うかね。海辺の港町と、山奥の小さな村と、人のおおぜい集まる都とで、どれほどに暮らしが違うか、食べるものが違うか、祖先の祀りかたが違うか、この町を出たことのないお前に、想像ができるだろうか。
 それだけの道のりを経て、この土地のすぐ近くまで、私たちはやってきたのだよ。ただ生きて通ることさえ困難な道も、いくらもあったというのに。
 あの人が倒れたのは、もう一日も歩けば、この町にたどりつこうかという辺りだった。
 ジャハラ熱だ。お前もかかったことがあるね。地元の子どもらならば、一晩も熱を出せばけろっと治って、二度とかからないような、たわいのない病だ。
 お前は知っているかね。土地の人にはたいした障りもないようなささやかな病が、違う土地に運ばれたとたん、次々に人の命を奪うこともあるのだよ。

 微熱があるといい出してから、二日ともたなかった。薬の備えもね、なかったわけではないのだよ。だが熱さましも、ろくに効かなかった。あの国の人々の体と、私たちの体と、何がそれほど違っているというのだろうね。無学者にはわからないが、いまでもひとつだけ、はっきりとわかっていることがある。私はあの男を、生まれた土地から連れ出すべきではなかったのだ。
 あとでわかったのだが、私はそのとき、孕んでいた。
 フィリオルの亡骸を辻に埋めたあと、そんなことにも気がつかないまま、私はこの町まで歩いた。歩いたのだと思う。その次に覚えているのは、産声をあげるお前を、呆然と抱きかかえているところだ。初めて顔を見るような産婆が、私の肩を叩いて労ってくれていた。知らない女たちが、お前と私を囲んで、安心したように、あるいは私を安心させるように、笑っていた。なるほど、地の涯ほどの遠い国でも、人々の笑顔は、それほど違わないものだと、あらためてそう思ったのを、よく覚えている。
 どうやってこの町の人々に、自分の身の上を説明し、住む場所を貸してもらったのか、どうやって産婆を呼んでもらったのか、それまでの記憶は、まるで思い出せない。
 ほら、およしよ。男がそんな情けない顔をするものではないと、いっただろう。
 だがまあ、この歳になるまで生い立ちを話さなかったことで、お前も、つらい思いをすることもあっただろう。近所の子どもらが、お前のその明るい色の瞳に、栗色の髪に、ひどい言葉を投げかけるところを、何度も見かけたよ。大人が口出しをすれば、お前はかえって嫌がると思ったから、何もいわなかったけれど。
 なぜこれまで、お前の生い立ちを話さなかったのかは、もう、うすうす察しがついているだろうか。私は自分が子どもだったころ、アシェリの話を信じたことで、周りの子らに嘘つき娘だと、端から決め付けられていたのだ。そうでなければ、狂人の子だと哀れまれていた。私はお前に、同じ思いをさせたくはなかった。
 私は誰に身の上を聞かれても、故郷の町が、さもこの町からほんのちょっと離れたところだというふうにふるまっていただろう。同じよそものでも、似たような習俗を持つ近くの土地の人間であるほうが、まだ人々の風当たりは少ないと、身を持って知っていたからだ。本当はそれどころではない。ここから東に山を三つ越え、河を渡り、さらに南に下って森を抜け、あわせてふた月ほども歩かねばならないところに、私の故郷はある。お前の祖父母が生まれ育った土地だ。
 そうした話を、もっと早くに聞かせてやればよかったのだろうかと、いま時分になって思うようになった。お前は昔から、自分の父親の話を聞きたそうにしていたが、一度も聞いてはこなかったな。遠慮していたのかい。
 お前は、私が何度か男たちの求愛を断ったことを、不思議に思っていたようだったが、それでも訳を訊いてはこなかった。これでわかっただろうかね。
 私の男、私の夫。互いにたった一人と思い決めて、生涯を連れそう伴侶が、私には既にいたのだよ。
 納得がいかないという顔をしているね。それならばそれでかまわない。人は自分の信じられるものしか信じないものだ。
 地の涯にはとこしえの黄昏の国があって、そこでは昼も夜もなく、金銀の髪と色とりどりの淡い目をした人が、時の流れるのも知らず暮らしている。そんな荒唐無稽な話は、信じなくとも生きていける。生きてはいけるのだ。

(終わり)

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