前へ  小説トップへ  


 
  終業のチャイムから少し経って、桐子は仕事を切り上げることにた。差し迫った仕事は残っていない。
 細々した雑用をやり残して帰るのは気が進まないが、この不況で会社も残業にうるさくなってきているし、それほど急ぐスケジュールの仕事も入ってはこなさそうだ。早く帰れるときに帰っておかないと、肝心の忙しいときに疲れて、作業効率が落ちては仕方がない。
 桐子は席を立って自分の肩を揉むと、帰り支度の前に給湯室に向かった。
 お茶汲みも、昔は新人の女の子が全部やっていた。桐子も入社したあとしばらくはやらされていたのだ。けれど、そういうのはご時勢に合わないとかで、何年か前からは、各自で勝手に淹れて勝手に片付ける建前になっている。
 それでも頭の古い連中は、汚れ物を出しっぱなしで帰るし、せいぜい自分のコップは洗ったとしても、使った急須やコーヒーポット、布巾や三角コーナーなんかはそのままだ。雑務のために雇っているバイトの子が、退勤のときにだいたい片付けていってくれるけれど、彼女らは帰りが早いので、結局そのあとにまた散らかる。
 こういう雑用を、新人にだけやらせるのは時代に逆行する。それはわかる。じゃあ、誰がやるのか。
 気がついたものがやる、という建前だ。朝からだって、お湯をポットに沸かしておくのは、早くに出勤してくる桐子やほかの何人かが「自発的に」やっている。
 セクハラセクハラと騒ぎ立てるくらいなら、いっそ男女も役職も関係無しに、当番表でも作ればいいのに。胸のうちでぶつぶつ言いながらも、桐子が洗い物をしていると、廊下を足音が近づいてきた。
 誰かは知らないけれど、今の時間からお茶を淹れる気なら嫌味の一つも言ってやろうかと、桐子は身構えたけれど、おずおずと顔を出したのは、優香だった。
「ご……ごめんなさい!」
 桐子が何も言わないうちに、優香はあたふたと謝って、近づいてきた。
「いつも、係長が片付けてくださってたんですね。わたし、ぜんぜん気がつかなくて……」
 見ていて可哀相なくらい、優香はしょげていた。本当にいままで気がつかなかったのだろう。少し鈍いとも言えたし、当然だという気もした。誰も、彼女に教えなかったのだから。
 教えないということは、自分で気付いて気を利かせろということだ。そんな風に説明もしなかったことで責めるのは、いくらなんでも気の毒な気がした。桐子は努力して、少し柔らかい口調を作った。
「いいのよ。あたしだって、別に毎日やってるわけじゃないし、手が空いてるときに、気付いた人がやることになってるの」
 桐子はそう言ったけれど、優香はやはり落ち込んでいるようだった。
「わたしが一番新人なんですから……」
 優香は桐子の手から受け取った急須を水ですすぎながら、ぼそぼそと言った。それはまあ、そのとおりだった。最近の不況に押されて、このところ新規採用が少なく、このフロアでは優香が一番若い。
「わたし、ほんと気が利かなくて。学生のときもあんまりバイトとかって、してきてなくて。家庭教師くらいで。昔っから、人見知りはするし」
 ああ、なるほどと、桐子は小さく頷いた。
 思えばこれまで、あまりそういう話をしてこなかった。桐子は世間話を振るというのがどうも苦手で、自分がプライバシーを根掘り葉掘りされるのが嫌いな性質のものだから、学校はどこだの彼氏はどうだのと、あれこれ聞いたりしたことはなかったのだ。
「色々、分からないことばっかりで。もう二年以上経つのに……いつも、すみません」
 小声の呟きに混じって、かちゃかちゃと、食器の触れ合う音が響く。少し考えて、桐子は口を開いた。
「いいのよ、ゆっくり一つずつ覚えてくれれば。いきなり何でもちゃんとやろうったって、無理よ」
「はい……」
 慰めるつもりで言ったのに、優香はよけいにしょげかえったようだった。桐子はちょっと苛々した。どうして美穂がやるように、うまく相手の緊張をほぐしてあげられないのか、少しばかり落ち込むような気がしながら、ハンカチで手を拭く。
「さ、帰ろうか。新藤さん、今日の仕事はもう終わりよね」
「あ、はい」
 このあと優香をお茶にでも誘おうかなと、桐子はちらりと考えたけれど、結局は誘いの言葉を飲み込んだ。自分が何を言っても気を遣わせて、萎縮させるだけのような気がした。

「あのさ、桐子さんは、優香ちゃんのこと、嫌いなの?」
 砂川からなれなれしく話しかけられて、桐子は眉をぴくりと吊り上げた。
 桐子は昼の電話番をしているところだった。他はみんなフロアを出て、どこかで食事を取っている。砂川だけがすぐに出かけずに残って、話しかけてきたのだった。
「あたしは無駄なことが嫌いなのよ」
 桐子は冷たく言った。「嫌いな相手だったら、いちいち叱ったりしないで、黙って放っておくわ」
 アンタと違ってね、と内心で思ったのが、伝わったのかどうか、砂川は頬をひきつらせた。
 優香のことを心配して……という素振りでいるが、砂川は単に桐子に嫌味を言いたいだけだと、桐子は踏んでいる。そういう男なのだ。安っぽい建前を振りかざさないと、相手に堂々と喧嘩も売れない。
 砂川は同期の男性の中では、出世が遅れ気味なほうだ。不当に扱われているというほどではないのだが、運が悪いというべきか、同期には他にちょうど優秀な人材が揃っていた。もっと上に行っている者が、ほかに何人もいる。どうせなら、その中でも優秀な連中を相手に敵愾心を燃やせばいいのに、自分ととんとんのところにいる桐子に、八つ当たりの矛先が向いている。
 ばからしい、と桐子は思う。桐子はたしかに女子社員にしては異例の出世をしているかもしれないが、どうせ早いうちに頭止めになるのだ。男女平等なんてまだまだ建前にすぎないし、まず桐子自身が、それほど出世したいと思っていないのだから。
「期待してるから厳しくしてるって? ……けどさ、優香ちゃんには伝わってないんじゃないの、そこんとこさ。傍目には、意地悪してるみたいに見えるよ」
 思わずカチンと来た。砂川のニヤケ面の真ん中に、思い切りパンチをお見舞いしたら気持ちいいだろうなと思いながら、桐子はぐっと拳を握り締めた。
「あのね。あんたの部下はあっち、馬場くんの方。よその係のことになんて構ってる間に、自分の部下のしつけくらい、ちゃんとしなさいよ」
「ちゃんとしてないって?」
「してないじゃない。あんたがカリカリしてて質問しづらいって、おろおろしてたわよ」
 しまったなと、桐子は言いながら既に悔やんでいた。思わず頭に来て、口が先に出てしまったけれど、もともと言うつもりのないことだった。
「そりゃ、悪かったね」
 口先では謝りながらも、砂川は面白くなさそうにむくれた表情になった。
 まずかったなと、桐子は唇を引き結んだ。砂川が馬場に八つ当たりしないといいのだが。
 何ごとかぶつぶつ言いながらフロアを出て行く砂川の背中を睨みながら、桐子は苛々と頭を掻いた。かっこ悪い、と思った。砂川がではなく、自分自身が。
 優香と充分なコミュニケーションが取れていない。言われるまでもなく自覚はある。砂川の、分かったふうの嫌味ったらしい態度も、気に入らなかった。けれどそれ以上に、図星を突かれて腹を立てた自分がみっともなくて、桐子は長いため息を吐き出した。

「じゃ、お疲れ様でしたあ。カンパーイ!」
 美穂の明るい声が響いて、グラスをぶつける音が続いた。
 今日は、ちょっとしたプロジェクトの打ち上げだった。いくつかの課と合同で、総勢二十二名。居酒屋の隅を陣取って、最初からかなり騒々しかった。
 せっかくだから、普段はなかなかゆっくり話せない他の課の人間と喋っておこうと、桐子はビール瓶を片手にうろうろしていた。
「ちょっと桐子さん、ペース遅いんじゃないですかあ」
 同期の宇土につかまって話し込んでいるところに、ゴキゲンの美穂が、徳利を持って寄ってきた。桐子が余っているお猪口をさがそうと視線をさまよわせると、美穂はその手に、空のジョッキを手渡してきた。
「ささ、ぐいっと」美穂はジョッキの上で徳利をさかさまにして、熱燗をなみなみと注ぐ。
「あ、ちょっと、ぐいっとじゃないって」
「美穂ちゃんは、あいかわらず無茶苦茶するなあ」
 隣で宇土が苦笑していると、美穂はにやにやして、テーブルの上からもう一本、徳利を浚った。
「あ、ほら、宇土さんも。ガソリン足りてないんじゃないですかあ。ほらほら」
 同じようにジョッキに熱燗を注がれて、宇土は頭を掻いた。
「まいったなあ」
 宇土は苦笑して、一応はジョッキを傾けているが、いくら酒に強くても、それをぐいっといったら昏倒するんじゃないだろうか。桐子は呆れて美穂をにらみつけた。
「えー、なになに。あたしの酒が呑めないんですかあ」
 笑いながら煽る美穂自身は、全く飲んでいない。ちょっとでも呑むとすぐに吐くので、最初の一口めを舐めるふりをしたあとは、いっさいアルコールに口をつけないのだ。にも関わらずノンアルコールでもじゅうぶん酔っ払える、ある意味で貴重な人材だ。
 ジョッキから熱燗をちびちび啜っていた桐子は、ふと美穂のずっと後ろに、優香の顔を見つけた。
 遠慮する優香に、砂川が強引に飲ませようとしているように見えた。桐子は舌打ちした。
「ちょっと、美穂。頼みがあるんだけど」
「ん? どうしたの桐子さん、それじゃまだ足りない?」
「馬鹿、そうじゃなくて。あれ、新藤さん」
 美穂は肩越しに振り返って、砂川たちの姿を目に捉えた。
「ああ、ありゃ駄目だわ。肩なんか触っちゃってさ」
「あたしだと角が立つからさ、さり気なく助けてやってくれない」
「了解」
 美穂は手にビール瓶を持って、酔っ払いの間を縫っていった。こっそりと見守っていると、砂川にあの調子で酒を強引に進めて、うまいこと引き離している。美穂が気をひいている隙に、優香がトイレに行くふりをして席を立つのが見えた。
「さすがだなあ」
 一緒になってようすを見守っていた宇土が、感心したように小声で言った。
「あの呼吸はなかなか真似できないわ」
 桐子もひそめ声で言って、少し笑った。
「砂川もなあ、悪いやつじゃないんだけどな」
「そう?」
「おっと、桐子さんの毒舌が出た。……どうよ、初めての部下は」
「いい子なんだけどね。あたし、係長なんて向いてないわ。宇土先輩にご教示願いたいくらい」
 桐子は半ば本気で言った。
 宇土は本物の出世頭で、三年前からすでに役付きになっている。今は部下を三人抱えて、特別のプロジェクトに乗り出しているところだ。コツがあるなら教えて欲しかった。
「でもちゃんと、気を使ってあげてるじゃないか、さっきみたいにさ」
 ジョッキの日本酒を舐めながら、宇土は大らかに笑った。
「そっちはどんな感じ?」
「そうだなあ、皆クセが強くて面白いよ。でもやっぱりね、なかなか難しいよな。人に信頼されるのって」
 その言葉は、桐子には意外だった。同期の中でも宇土は特に人望が厚くて、懐が深いように見える。仕事ができるだけではない。だから皆、宇土が出世するのも当たり前のように思っている。そのせいで砂川も宇土には当たれず、桐子にちくちく嫌味を飛ばしにくるのだけれど。
「さってと、……その部下の御機嫌伺いに行ってくるかな」
 小声で笑って、宇土は立ち上がった。「桐子さんも頑張れよ、あんまり気負いすぎないでな」
「はいはい。お疲れ様」
 桐子は苦笑して、ひらひらと手を振った。
 気負いすぎないで、か。
 桐子は美穂に言われたことを思い出しながら、ジョッキの熱燗をまたちびちびと舐めた。二人ともきっと、同じことを言いたいのだろうと、漠然と思う。
「クセが強くて面白い、ねえ」
 口の中で呟いて視線を投げ、恐縮して宇土にグラスを差し出している、宇土の部下らしい青年をちらりと見た。あたしもそんな風に、大らかに見守ってあげられたら、いいんだけどな。細かいことに目くじら立てず、その人のできること、いいところを伸ばしてあげられるような。
 頭で思うことは、なかなか上手くやれないものだ。そんなことを考えては見ても、結局はうるさく口を挟んでしまうだろう。桐子はため息を飲み込んで、なみなみと熱燗の残るジョッキを片手に立ち上がった。そういえば、馬場に不義理を謝っておかなくてはならないのだった。

 一次会が終わったところで、幹事が勘定を済ませている間、皆ばらばらに店の外に出始めた。
 桐子が表に出るなり、生ぬるい風が吹き付けてきた。空を見上げると、半月が雲の向こうにぼんやりと透けている。天気予報は曇りだったが、降りだすだろうか。折り畳み傘はバッグに入っていただろうか……
 バッグを探ろうと視線を落とした桐子の視界に、優香の姿がちらりと掠めた。思わず桐子はそちらに視線を向けた。砂川が何か言って、強引に腕を引いている。
「いえ、今日はちょっと……」
「どうせ、今の時間だと電車がすぐには来ないだろ。みんな行くし、ちょっとだけだよ、すぐ帰っていいからさあ」
 思わずこらえかねて、桐子はつかつかと二人に歩み寄った。
「新藤さんはあたしとコーヒー」
 桐子はぐいと優香の腕を引っ張って、砂川から引き離した。口元ではにっこり笑いながらも、じろりと砂川の赤ら顔を睨みつける。
「なんだよ、桐子さん、焼き餅い?」
 冗談めかして言う砂川のすでにふらふらしている足を、思い切り引っ掛けてやろうかと、桐子は一瞬本気で考えたけれど、持てる最大の忍耐力を発揮して、苛立ちを笑顔の下に引っ込めた。
「まさか。部下と積もる話があるのよ」
「ひゃあ。怖い怖い」
 まだ何か絡んでこようとした砂川の肩を、何気ない調子で宇土が掴んだ。「おい、行こうぜ。次、カラオケだってよ」
 桐子が目顔で礼を言うと、宇土は分かるか分からないか微妙なくらいに小さく手を振ってきた。砂川はしぶしぶといった調子で、そのあとについていく。
「あれえ、桐子さん、もう飲まないの」
 どう見ても酔っ払いの顔で美穂が絡んできたのを、桐子は軽くあしらった。
「あんたがめちゃくちゃ注ぐから、もう足元ふらふらよ」
 足は全然ふらついてはいなかったが、桐子は笑ってそう言って、優香に目配せした。小さく砂川たちの行く方を指さして、あなたがついて行きたかったらまだ間に合うけれどと、目で問いかけると、優香は慌てて桐子の方に寄ってきた。
「じゃあね、お先。明日も平日なんだから、ほどほどにね」
「はあい、お疲れ様あ」
 美穂はぶんぶん手を振って、先に行く連中を追いかけていった。本当にあれで飲んでいないのかと疑いながら、桐子はその背中を見送った。
 陽気な酔っ払いたちが、わいわい二次会に繰り出していくのに軽く手を振ったあと、桐子は皆と少し離れるまで、無言で歩いた。
「あの……ありがとうございました。助かりました」
 優香が小走りについてきて、頭を下げた。桐子は歩きながら首だけで振り返って、その顔を見下ろした。優香の頬は、少しも上気していない。アルコールに強いのか、それとも単に気を使いすぎて酔えないのか、まったくの素面に見えた。
「おいしい喫茶店も知ってるし、そっちでもいいけど……」
 桐子はちょっと足を止めて、完全に振り返った。「ほんとは、まだちょっと飲み足りないのよね。もう一杯付き合ってくれる気、ある?」
 優香は驚いたように目を丸くして、それから慌ててこくこくと頷いた。それがいかにも怖い上司に怯える図で、桐子は情けなくなってがりがりと頭を掻いた。
「新藤さん。あのね、嫌だったら、無理に付き合うことないの。あたしはね、酒を断られたからって部下をネチネチいびりにかかるような、そんな狭量な女じゃないわよ」
「嫌じゃないです、その……さっきはちょっと、砂川係長が怖かっただけで」
 桐子は頷いて、道の先を指差した。
「じゃ、こっち。汚い居酒屋でも平気?」
 頷く優香にちょっと笑いかけたあとで、桐子は思わずちょっと自分の頬を揉んだ。怖い顔なのが悪いのかと、ふと美穂の軽口を思いだしたのだ。
 優香が首を傾げてその仕草を見つめてきた。「なんでもないのよ」と桐子が手を振ると、優香はますます不思議そうな顔になった。

「美味しいのよ、ここ」
 桐子が優香を引っ張り込んだのは、本当に狭くて汚い居酒屋だった。二階の狭い和室に上がりこむと、冷蔵庫があって、瓶ビールなんかは、客が好きに出していいようになっている。会計のときに本数を自己申告すればいい。
 こういうところには来たことがなかったのだろう、優香はもの珍しそうに店内を見渡した。
「飲み物、何にする?」
「ええと、係長は……」
「あたしは冷酒がいいなあ。べつに、無理に合わせなくていいよ、好きなもので。……っていっても、そんなに色々ないけどさ、ここ」
 優香が困惑ぎみに壁のメニューを見て迷うのを、桐子は口を挟まず、じっと待った。
「すみません、優柔不断で」
 少しして、恐縮したように、優香が肩をすぼめた。
「いちいち謝らないの。ゆっくり選んでいいから」
 桐子はちょっと膝を立てて、窓を開けた。夜風がラーメンの匂いを吹き込んでくる。見上げると、今度は月が出ていた。路地を見下ろすと、客待ちのタクシーが何台も止まっていた。赤いテールランプが、所在なさげに列を作っている。
 生ぬるい風に乗って、外から酔っ払いのカラオケが流れてきて、そのあまりのへたくそさに、桐子は思わず小さく笑った。もしかすると、砂川たちだろうか。
「決めました」
「うん。ちょっとそこのインターフォン押して、注文してくれる?」
 桐子が壁を指差すと、優香はボタンを探すのに少しもたついて、押したあとでさらにマイクの向こうの店主の大声に怯みながらも、どうにか注文を伝えた。
 桐子は焼き鳥と冷酒を、優香は出汁巻きと酎ハイを頼んだ。注文を待つ間、桐子は足を崩して座りなおした。
「あ……おいしい」
 優香が突き出しを遠慮がちにつついて、感嘆の声を上げた。釣られて覗き込んでみると、牛すじと大根が煮込んである。桐子も「どれ」と真似して突っついた。よく味が沁みている。
 やがて無愛想な店員が、がちゃがちゃと飲み物を運んできた。お待たせしましたのひと言もなく、ぞんざいにテーブルに置かれる注文に、優香が面食らっている。
「さ、呑もう呑もう」
 桐子は優香に注いでもらった冷酒をちびちびと啜りながら、できるだけ軽い調子を作って口を開いた。
「でさ、砂川くんのことだけど」
 優香の顔が、少し強張ったようだった。桐子は気付かないふりで、話を続けた。
「大丈夫なのかな。何かイヤなことされたりしてない?」
「いえ、……そこまでは」
 優香は言って、はっとしたように口元を押さえた。「あの、何にも……」
 言いかけた言葉が消える。桐子はしばらくじっと続きを待っていたが、いつまでも優香がそれ以上のことを自分から話しそうにないので、ぽつりと言った。
「なんでも自分ひとりで何とかしようとするのは、よくないクセよ」
「……はい」
 優香は項垂れて返事をした。桐子はきつくならないように、なるべく軽い口調を作って言葉を重ねた。
「それに、あたしにも失礼よ。上司にはさ、嘘でも、ちょっとくらいは頼ってみせるものよ」
 桐子の言葉に、優香は驚いたように顔を上げた。
「あの、係長が頼りにならないとか、そういうのじゃ……」
 あまりに慌てた様子でぶんぶんと首を振るようすがおかしくて、桐子は思わずくすりと笑った。
「……その。砂川係長のことは、わたしも悪かったんです」
 優香は言いづらそうに、小声になった。
「最初、あんまり自分がミスばっかりで、気が利かなくて、落ち込んでたら……励ましてくださって」
 桐子は眉を吊り上げたが、言葉を挟まなかった。優香は勢いづけるように酎ハイを傾けて、思い切ったように続けた。
「それで、優しい方だなって思って。何回か、仕事のことで相談したんです。けど、その、そういうつもりじゃなくて……」
 桐子は頷いて、気まずく頭を掻いた。やっぱり部下を苛めているかのような構図だと、自分で思ったのだ。
「あのさ、念のために、はっきりさせてほしいんだけど。砂川くんに言い寄られるのは、迷惑なのよね?」
 優香は言いづらそうにしていたが、やがて無言で小さく、けれど、はっきりと頷いた。桐子は頷きかえして、人差し指を立てた。
「そういうことなら、気にしておくから。自分でも、砂川くんと二人にならないように気をつけて。……当分、残業するときは、あたしより遅くならないように。急ぎの仕事があるときには、ちゃんと言って。遠慮しなくていいから」
「はい……」
 優香は恥じ入るように小さくなって、頷いた。
「それでもあんまり付きまとってくるなら、様子を見て、課長に相談しましょう。今のところ、ストーカーされてるとかいうことじゃないよね?」
「はい。本当に、その、たいしたことはないんです。何度か食事に誘われたりしたくらいで」
「そっか」
 桐子は相槌を打ちながらも、その言葉をあまり信用していなかった。砂川なら何でもあり得ると思うのは、あまりに嫌いすぎだろうか……
「とにかく何かあったら、すぐ言うのよ。約束できる?」
「はい」
 優香は、今度は少ししっかりと頷いた。桐子は頷きかえして、冷酒を舐めた。
「お酒、お強いんですね」
 しばらくして、優香が話を振ってきた。桐子は眉を上げながら、冷酒グラスを持った手で、優香の酎ハイを指差した。
「新藤さんはどうなのよ。実は、けっこう呑めるんじゃないの」
「ええと、まだ、あんまりたくさん飲んだことがなくて」
「へえ。そりゃ、一回は思いきり潰れてもらわないとね。……と、明日は仕事だから、週末に呑むときに、ね」
 桐子が笑いかけると、優香は遠慮がちに微笑み返してきた。
「あたしなんかねえ、何回も飲みすぎて真っ青んなって、げえげえ吐いて、一回は課長に家まで引きずられていったんだから。朝起きたら家の玄関で、お気に入りのパンプスは片方どっか行っててさ、もう最悪」
「係長でも、そういうときってあるんですね」
 優香は俯いて、ちょっと笑った。
「あるある。だから、新藤さんも、安心して色々やっちゃっていいよ」
 桐子は言いながら、出汁巻きをつついた。「いいのよ、ちょっとくらい失敗したってさ。死にゃしないんだから」
 説教くさいなと、自分でも思いながら、桐子は照れ隠しにまくし立てた。
「失敗ゼロでやれる人間なんて、どこにもいないんだからさ、もっと気楽に構えてなよ。まあ、あたしが口やかましいのがいけないんだけど。あんまり真面目にしてたって、神経がもたないよ」
 優香は素直に頷いて、ちょっと笑った。
「そういうこと、仰らないタイプの方だと思ってました」
「なに、どんなだと思ってたの。クソ真面目で完璧主義で、意地悪で?」
 笑いながら桐子が言うと、優香は一瞬真面目な顔で否定しようとして、すぐに冗談だと気付いたようだった。急に、ふっと明るい顔になって、可笑しそうに笑った。
 この子がまともに笑うところを初めて見たと、桐子は思った。
「新藤さんは、よくやってくれてる」
「そうでしょうか……」
 優香はまた自信なさげに俯いた。
「ほんとよ。あなたは素直でいい子だけど、その分、ちょっと真に受けすぎるところがあるよね。何だって、あんまり思い詰めたらだめよ。少し気楽に考えたほうがいいんじゃないかって、横で見てたら、そう思う」
「よく言われます」
「ほら、さっそく真に受けてる」
 桐子が言うと、優香はまたちょっと頬を緩めた。笑うとこの子はけっこう可愛いじゃないかと思いながら、桐子も笑い返した。
「あたしはさあ、小さいことにこだわりすぎて、駄目なのよね。つい自分の我を通そうとしちゃうのも」
 焼き鳥を半分ずつ分けようと、箸で串から外しながら、桐子はぼんやりと愚痴を零した。
「広い目でものを見れないのも、人に厳しくて、相手に何でもかんでも要求しちゃうところも」
 言いながら、桐子はつい自分の考えの中に入り込んだ。どうしてあたしは、いつも他人に過大な要求をするのかな。砂川に対しては、どうしてあんたは小さいことばっかり気にするのと怒り、馬場にはなんで自分で考えて動けないのかと腹を立て、優香にはどうしてもうちょっと気が利かないのかと苛々して……
 自分だって、できないことはいくらでもあるのに、人のことには平気で文句をつけられる。つくづくそういう自分が嫌になって、桐子は思わず黙り込み、冷酒を啜った。
 そういえば、「どうしてこんな簡単なことができないの」というのが、故郷の母の口癖だった。それがすごく嫌だったのに、親に似たくないところはよく似るものだ……。
 つい考え込んでしまった桐子に、ぽつりと優香が口を開いた。
「けど、まったく期待されないのも、寂しいですから……」
 桐子ははっと顔を上げた。酔いが回り始めているせいか、優香の言いたいことの意味を掴むのに、少し時間がかかった。
「そう。……そうかもね」
 ――係長が何も言わないのは、あたしに呆れて、見切りをつけたからかもしれない。
 桐子の耳に、いつかの自分の声が、ふいに蘇った。
 入社したばかりの頃のことだった。係長は無口な人で、何でもさっさと片付けてしまって、桐子の失敗をフォローしたときも、淡々としていて怒りもしなかった。今にしてみればあのときの係長も、ただ忙しくて部下にいちいち構っていられなかっただけだという気もするけれど、あの頃の桐子は、よく不安になっていた。
 桐子が言わずに堪えていた三回のうちの二回を、優香は察していたのかもしれない。今、桐子は初めてそのことを考えた。
 いつかの自分と同じことを、優香が考えているかもしれないと、今までどうして一度も思わなかったんだろう。
「そっか。期待されないのも、寂しいか」
 桐子が繰り返すと、優香は真剣な表情で頷いた。
 またときどきは、この子を飲みに誘ってみようと、桐子は頭の半分で考えた。自分のような上司と飲んでも息が詰まるだろうし、若い女の子は飲みに行くのなんかは嫌がるだろうと決め付けて、今まで誘ったことがなかったけれど、たまにはこういうのも必要かもしれない。
「それは、もっとがんがん苛めてほしいっていう意味かしら?」
 桐子は、にやりと笑って見せた。
 優香は食べようとしていた焼き鳥を皿に置いて、ひきつった笑顔を返してきた。
「お手柔らかにお願いします……」

(終わり)
拍手する  
 



前へ  小説トップへ  

inserted by FC2 system