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 部下の新藤優香が隣の席でひとつ満足そうに頷くのを、桐子は横目に見ていた。
 それは、課長が直に優香に頼んだ書類だった。だから、横から自分が口を挟むのは筋違いだ。そう思い決めた桐子は、この数日、何も口を出さずに優香の仕事ぶりを辛抱強く見守っていた。それが、ようやく完成したようだった。
 優香は案の定、点検を終えるとすぐに立ち上がり、課長、と細く声を上げた。
「お、もうできたのか、さすがに早いね。ありがとう、助かったよ」
 課長の西野はにこやかに手を挙げて感謝を示し、優香の手から書類を受け取った。何か仕事を任せるたびに部下を丁寧に労うのは、昔からのことで、その気苦労の多さを物語るように、少しばかり額が後退しはじめている。それがかえって愛嬌のあるような、柔和な顔立ちだ。
「じゃ、ちょっとこれ、持って行ってくるから」
 課長はざっと書類に目を通すと、フットワーク軽く立ち上がった。
 タイミングを見計らっていた桐子は、何気ない調子を装って、声を上げた。
「あ、課長。私、もうすぐ上に行きます。よろしかったら、一緒に持って行きますけど」
「お、ありがとう。けどいいよ、僕もちょっとは動かないとね」
 課長はにっこりと笑って、ビール腹をさするようなジェスチャーをした。
 桐子は課長の後ろ姿を見送り、すっかり姿が見えなくなってから、優香に小声で話しかけた。
「ね、新藤さん。今の書類、急ぎだったのかな」
 桐子としては怒る口調ではなかったつもりだが、それでも優香はびくりとして、恐る恐る顔を上げた。肩の下までのワンレングスがその動きに合わせて揺れる。自分が何かまずいことをしたと察して、けれど何が悪かったのか思いつかないで焦っている、そういう態度だった。
「いえ。今週中に、って言われてました、けど……」
「うん、そっか。いや、別にいいんだけどさ、いつまでも新人じゃないんだから、あなたももう少し、周りのこともよく見なきゃね」
「え、あ、はい……。あの、何がまずかったでしょうか?」
 優香は恐々と訊ね返してくる。
 そんなにびくびくされると、あたしが不当に苛めてるみたいじゃないか。桐子はため息をこらえ損ねて、階段に向かう廊下の方を指差した。
「あれって、次長のハンコがいる書類よね。西野課長、すぐに席を立ったでしょ。急ぎじゃなくても、自分の机に書類を溜め込むのが嫌いなタイプなのよね」
「あ……」
 言いたいことがようやく分かったようで、優香はあたふたと立ち上がった。桐子はそれを手で制して、もう一度座らせた。立ち上がって、それでどうしようというのか。今さら課長を追いかけて書類を取り返しに行っても始まらない。
「課長、ついさっきも幸田くんの急ぎの書類を持って、四階の次長のところに行ったばっかりだったわよね。見てた? 何回も立て続けに往復させちゃったでしょ」
「はい……」
 俯いて、優香は唇を噛みしめている。この世の終わりのようなその表情に、桐子は内心の苛立ちを噛み潰した。なるべく柔らかい言い方をしようと心がけているつもりだけれど、成功しているとは言いがたかった。
「もちろん、たいしたことじゃないんだけどね。もうちょっと急いで渡すとかさ、そうじゃなかったら他の書類のあるときのついでとかでも、別によかったんじゃないのって。それだけ」
「そ、そうですよね。わたしったら……ごめんなさい」
「いや、あたしに謝ってもらったって、しょうがないんだけどさ。今度から、ちょっと気にしてみて、ね」
「はい……」
 ひとつ頷いて、桐子は自分のデスクに向き直った。口からまた出そうになったため息を、今度はどうにか押し殺す。
 優香はまだ若いが、入社してそろそろ二年は経つ。彼女なりに頑張っているのは分かるけれど、そろそろもう少し気が利くようになってもいいのではないかと、桐子はいつも思ってしまう。
 桐子は気を取り直して、背筋を伸ばした。深呼吸のつもりで大きく息を吸うと、煙草の匂いがかすかに鼻をくすぐった。
 禁煙だ分煙だとうるさくなって、喫煙室は別に設けられたが、空調にあまり金をかけられなかったらしく、ときどきフロアの外からも匂いが流れ込んでくる。あるいは、誰かの背広に染み付いたものかもしれない。
 ちらりと横目に隣のデスクを見ると、優香はすっかり肩を落としていた。桐子は気まずく頭を掻いた。気をつけてもらいたいとは思うけれど、そんなに大げさにしょげ返ることでもないのだ。ちょっと反省してくれればそれでいいのに、いちいちこのくらいのことで深刻に落ち込まれていては、こちらが気疲れする。
 一事が万事そういう調子だから、何か気になることがあっても、桐子の方でも三回に二回は堪えているのだけれど、全く何も注意しないでいいとも思えない。いまひとつ、加減が分からなかった。
「いやあ、桐子さん、やっぱり怖いなあ」
 背中あわせになっているデスクの反対側から、同期の砂川がぎぎっと椅子を回して、ちょっかいを掛けてきた。
 砂川が喋ると、煙草のにおいがまた鼻についた。こいつが犯人かと、桐子は鼻に皺を寄せた。そういえば、先ほどまで席を立っていたようだ。
「駄目ですよ、部下の女の子を苛めて、ストレス発散してちゃ」
 入社したのは桐子と同時だが、ひとつ年下だからと言って、中途半端に嫌味な敬語を使うのを、いつまでもやめようとしない。砂川のにやけ顔にむかっときて、桐子は負けずといやみったらしく、にっこりと笑った。
「いやねえ、砂川くんったら、若い女の子に鼻の下伸ばしちゃって。新藤さん、こういう男にだまされちゃ駄目だからね」
「そんなんじゃないですよ、怖いなあ」
 砂川はにやにやしたまま、軽く返してきたが、目が笑っていなかった。
 軽口なんだか本気なんだか分からない、ぎりぎりのラインで人を責めてくるのが、昔っからの砂川のやり口だ。まだ桐子自身が新人だったころ、同期の女の子たちとお茶をしながら「女の腐ったような」と言って、それは差別用語だと、他の子たちに苦笑されたことがある。
 昼のチャイムが鳴って、それに救われるように、桐子は書類を揃えた。
 優香はまだ先ほどのことを気にしているようで、音の無いため息を吐いていた。それを見て、桐子の胸もちくりと痛んだ。些細なことで口やかましく注意をすることに、罪悪感がないわけではないのだ。
 あたしも新人時代には、こんなに気が利かなかったかしらと、桐子はマウスを動かして午前中のデータを保存しながら、頭の片隅で考えた。たしかに色々と失敗もしたけれど、もう少しはましな気の利かせ方ができていたような気がする。
 まったくもう、部下なんて、まだ持ちたくなかったのに。桐子は声に出さずに、口の中でぶつぶつ言った。ただの後輩なら、どんなに気が利かなくても、自分に実害がない限り、黙って放っておけばいいのだ。けれど、部下ならそういうわけにはいかない。人の上に立つことなんて、とても自分に向いているとは思えなかった。
「新藤さん、今日はお昼は?」
 気分を変えようと、桐子は弁当の包みを出しながら優香に声をかけた。
「あ、今日は寝坊してしまったので……どこかで買ってきます」
「そう。じゃ、先に頂いてるわ」
 優香はぺこりと会釈して立ち上がると、財布を手にエレベータに向かっていった。
 デスクの上では飲食厳禁が社内ルールだ。電話番以外は、どこかに食べに行くか、空いている会議室などを使う。桐子も立ち上がった。いつも使っている会議室が開いているのを、ボードで横目に確認する。
 桐子は机に貼った当番表をちらりと見た。
「今日の電話番は……幸田くんか。よろしく」
「あれ、俺でしたっけ。いっけね、忘れてた」
 席を立とうとしていたお調子者の幸田は、ぺろりと舌を出した。
「よろしく。お先」
「お疲れ様っす」
 幸田はおどけて敬礼の真似事なんかしている。優香もこのくらい気楽にしてくれれば、まだぽんぽん叱りやすいのにと、桐子は内心でちらりと考えた。

「お疲れー」
 会議室には、先客が一人いた。示し合わせて全員で毎日仲良くお昼、というわけではないが、だいたい毎日何人かは、ここで適当に食事を摂っている。今日は、いまのところ桐子の同期の美穂が、ひとりだけで先に弁当をつついていた。
 会議室の中は、たったいま冷房を入れたらしく、まだ暑かった。ブラインドの隙間から入ってくる陽射しが鋭い。
 空調の風から埃っぽい臭いがして、桐子は顔をしかめた。もう冷房をつけ始めて半月ほど経つというのに、いまだに臭うというのはどんなものか。会社は空調のメンテナンスにも金をけちったのかもしれない。
「今日は、あんただけ?」
 桐子が訊ねると、美穂はもぐもぐと口を動かしながら頷いた。
「そうだよー。広報のふたりは出張だって。優香ちゃんは?」
「買ってくるって。後で来る」
「そっか」
 桐子は弁当を広げた。この部屋に普段集まるのは、桐子と同期から少し下くらいの女性社員で、入社したばかりの子たちは、たいてい別の部屋に陣取っているか、そうでなければ連れ立って外に食べに行く。
 桐子は、優香が部下についた当初、昼食の席でも上司と顔を突き合わせているのでは気が休まらないだろうと、わざと声を掛けないでいた。同期の女の子たちとでも食事に行くだろうと思っていたのだ。
 けれど一か月ほどして、優香がひとりで寂しく弁当をつついている姿を見かけるようになった。
 改めて考えてみれば、彼女の同期の女の子たちは、こう言っては悪いが、男を探しに会社に来てるんじゃないかと思うような連中ばかりだった。今の給料で買えるのか心配になるようなブランド物を身につけて、四六時中いい男の情報か上司の悪口のどちらかを囀っているような、良くも悪くもパワフルな女の子たち。つまり優香は、その中にうまく馴染めなかったのだろう。
 どうせなら、調子を合わせて桐子の悪口でも叩いていれば、それなりに円満に、輪の隅にでも入れるだろうに。不器用な娘だ。桐子は思ったが、自分の口から優香にそうとは言いづらかった。
 お局連中の中に混じって食事をするというのも、それはそれで上司にごまでもすっているかのように見えて(そんな要領のいい娘ではないのだけれども)、よけいに同輩との壁を作るのではないかと思えたが、それでも一人で背中を丸めて美味しくなさそうに食事をする姿を見ていると、やはり可哀相な気がした。それで思わず声を掛けると、優香はどこかほっとしたような顔でついてきた。以来、たいてい昼は一緒に食べている。
「今日も難しい顔してるねえ、桐子さん」
 美穂がエビフライを頬張りながら、からかうように言ってきた。「ここんとこ、シワになってるよ」と眉間を指差して、にやにやしている。
「え、嘘」
「うそうそ。けど、難しい顔はホント」
「気苦労が多いのよ」
 弁当箱の蓋を開けながら冗談めかして言うと、美穂は大げさに頷いた。
「桐子さんは心配症だから」
「あんたがお気楽なのよ」
「そうそう、お気楽上等」
 どちらも本気ではない。美穂の何でもあっけらかんと笑い飛ばしてしまうおおらかさと、大雑把なようでいて人のことをよく見ている気配りが、桐子にはいつも羨ましい。
「あたしは当たりが強いから」
 桐子が思わずぼやくと、それだけでぴんと来たのか、美穂は食べながら行儀悪くフォークを振り上げた。
「わかった、優香ちゃんのことだ」
 指を立てて言った美穂の、名探偵さながらの得意げな様子に、桐子は苦笑で答えた。
「やっぱりあれじゃない、桐子さんの顔が怖すぎるんじゃない」
 美穂は大げさに腕を組んで、うなずきながら言った。
「どういう意味よ」
「冗談冗談。いやあ、出世頭は大変だねえ、その若さで部下持ちになるんだから」
 嫌味のような台詞だが、目と口調は明らかなからかいの色だった。
 美穂は出世になんてまったく興味はないと、公言してはばからない。むしろ旦那の稼ぎが悪くて寿退社しそこねたと、からからと笑い飛ばしているくらいで、たしかにとびきり仕事がデキるというタイプではないけれど、そういう割には真面目ないい仕事をする方だ。出世欲を隠しもしないくせに仕事はずさんな砂川とは、大違いだった。
 桐子の昇進は、早い方だ。出世頭というのは大げさでも、同期の女子社員の中で役職をつけられているのは、いまのところ一人だけだ。けれど、つくづく自分が人の上に立つ器だとは思えなくて、桐子はこのごろため息が増えた。
「あんたの方が、よっぽど向いてるわ。あたしはさあ、人にもの教えるのって昔っから苦手で」
「そのわりには、頑張ってるじゃない」
「そうかな」
 桐子が否定的な調子の相槌を打つと、美穂は少し考えるような顔になった。
「そうだねえ、強いて言うなら、頑張りすぎなんじゃない?」
 口の中のおかずをもぐもぐと咀嚼して、飲み込んでから、美穂は続けた。
「初めての部下だしさ、気負いすぎてるのかもよ。うーんとね、何でもかんでも、一から十まで教えようとしてるようには見えるかな」
 その言葉がぐさりと来て、桐子はテーブルに突っ伏した。その落ち込みように、美穂が慌ててフォローを入れる。
「いや、桐子さんが優香ちゃんのためを思ってやってるのは、見てても分かるよ。優香ちゃんもさ、その辺よく分かってると思うし、だから、頑張ってるじゃない」
「頑張りすぎよ」
 桐子は突っ伏したまま、呻いた。そう、頑張っているのが問題なのだ。ほどほどに聞き流してくれればいいのに、優香は真面目にとりすぎる。
 ひとつ唸ったあと、桐子は起き上がって、もそもそと弁当を食べ始めた。美穂は食べ終えて、水筒からお茶を注ぎながら、少しまた考えるようなそぶりを見せた。
「うーん。桐子さんはねえ、出来すぎなのよね。仕事も出来るし、目配りも利くし、なんていうかこう……、隙がないじゃない。見習おうとすると、肩が凝っちゃうのかもね」
「素敵なフォローありがとう」
「いえいえ。あ、優香ちゃーん」
 美穂は声を上げて手を振った。つられて桐子も振り向くと、優香がちょうど弁当屋の袋をぶら下げてやってきたところだった。
「お疲れ様です」
 優香はぺこりと頭を下げて、近づいてくる。その歩き方さえもどこか固くて、桐子はゆううつになった。部下に緊張を強いる上司。望まないのに、そうなってしまう自分が恨めしかった。
 相性が悪いのかもしれないと、桐子は思う。ほかの部下を持ったことはないからわからないが、優香のように生真面目な子には、適度に息抜きをさせてあげられる、美穂のような上司の方が合うんじゃないのか。あたしにはちゃらんぽらんで、叱ってもけろっとしているようなお調子者の方が、まだうまく行くんじゃないだろうか。
 そう課長に言ってみようか。桐子は頭の片隅で、そんなことを考えた。そうしたら、配置換えを検討してもらえるだろうか。部下の監督もできないと、人事査定に響くかもしれないが、別にそれでも構いはしない。桐子は仕事が好きなだけであって、別に出世したいわけではなかった。自分ひとりが食べていけるだけの給料がもらえれば、それ以上の待遇は望んでいない。
 しかしそれで、事態が好転するだろうか。人事のことはよく分からない、いま部が抱えているプロジェクトの都合もあるだろう。何やかやの事情で、もっとろくでもない上司に当たることだってあり得る。役職や歳からいったら、誰と代わる可能性が高いかと考えると、いまひとつ不安があるのだった。そう、一つ年下で同期の砂川とか……。
 その考えは保留にしておこう。桐子は水筒からお茶を注いで、ぼんやりと、美穂と優香の会話を聞き流した。

「あのう、水谷係長。ちょっと教えていただけますか」
 始業前に話しかけられて、桐子は顔を上げた。馬場という若い男性社員で、砂川の部下だった。
「何?」
「あの、ここのところなんですけど」
 馬場は恐縮しながら、手に持っていた書類を見せてきた。
「ここ、よく意味が分からなくて」
 桐子はちょっと書類を読んで、一呼吸考えた。たしかに少しばかり専門的な内容だが、前に関わったプロジェクトの一環で、ひととおり勉強したことがあった。
 それをこの場で教えるのは簡単なことだが、頼り癖がつくのはよくないとも思う。急ぎの時はともかくとして、自力で調べられることはできるだけ自発的に勉強するようにと、砂川はこの子に言い聞かせていないのだろうか。
 桐子はすぐには答えずに、馬場の顔を見上げた。特に他意はないように見える。ただ単純に分からなくて、誰に聞いたらいいのかと途方に暮れているようだ。
 だいたい、砂川に聞けばいいのに、どうして桐子のところにやってくるのだ。桐子は気の進まない思いのまま、頭を掻いた。
「砂川くんは?」
「その……なんかここ何日か忙しそうで、あまり席にいらっしゃらないし、聞きづらくて」
 ばつの悪い表情で、馬場は言い訳した。桐子は視線を動かして、壁際のホワイトボードを見た。たしかに、砂川は今日の午前中、外出になっている。直行、のマークも見えた。
「それ、急ぎ?」
「明後日の午前中までなんです」
 桐子は少し考えて、ひとつ頷くと、答えとは違うことを口にした。
「うん、いいんだけどね。自分の部下が自分を差し置いて、よその係長に質問したら、砂川くんが気を悪くするかもしれないでしょ」
「あ……そうか。そうですよね。すいませんでした」
 おとなしく引き下がった気弱げな背中に、桐子は声をかけた。
「あっちの壁際の」桐子は言いながら、振り向いた馬場に指さしてみせた。「端っこのキャビネットのね、一番右上だったかな。資料がファイルされてると思うから、自分で調べてみて。黄色のファイルだったかな。それ読んでも分からなかったら、あとで砂川くんに聞きなさい。砂川くんがつかまらなくて、間に合わなくなりそうだったら、あたしにでもいいから」
「あ……、ありがとうございます!」
 馬場はぱっと表情を明るくして、一礼すると、小走りに自分の席に戻っていった。

 終業の合図はとっくに鳴っていたが、今日はまだ、半分ほどの社員が残っていた。夏至をすぎたばかりで、夕刻とは言え日は高い。ブラインドの外に垣間見える空は、まだ青かった。
 桐子は伸びをして、肩を鳴らした。最近、肩こりがひどい。ついこの間まで上司の四十肩を他人事のように笑っていたのだが、自分は三十代も前半にしてすでにこの調子だ。四十の頃にはどうなっているかと思うと、気が滅入る。
 このところ肌荒れもひどいし、近くにできた岩盤浴にでも行ってみようか。そんなことを頭の片隅で考えながら、桐子はなんとなくフロアを見渡した。
 優香がぼんやりとパソコンのディスプレイを見つめているのに気付いて、桐子は眉を上げた。目は画面に向かっているが、手は完全に止まってしまっている。
「新藤さん、まだけっこうかかりそう?」
 声をかけると、優香ははっとして顔を上げた。
「あ、いえ。もう少しです」
 慌ててマウスを使う手をちょっと見て、桐子は視線を自分の書類に戻した。
 手を抜いてわざと仕事に時間をかけるような子ではない。このところ、以前よりも優香の表情が曇りがちなのに、桐子は気付いていた。もともと小さいことを気に病んで、なかなか人に相談できずに抱え込むようなところがあるだけに、気にしてもいる。しかし、何か心配事でもあるのかと訊いても、ありがとうございます、何でもないですとはぐらかされるだけだった。
 相談できないほど、信頼されていないのかと思うと、桐子は面白くなかった。
 美穂なら、うまく聞きだせるだろうか。桐子は仕事上のことで人に頼るのはあまり好きではないが、自力でどうにもならないことを一人で抱え込むほど頑固でもない。そのうち桐子のいないときにでも、美穂からさり気なく話を振るように頼んでおこうかと、思い始めていた。
 書類を整理して、桐子は時計を見た。六時半。手元の仕事はもう少し残っているが、明日にしてもなんとかなる。いまから急げば、ちょうど電車に間に合いそうだった。
「今日はもう帰ろうかな。新藤さん、なんなら明日にでも手伝うから、今日はそこまでにしたら」
 桐子が声をかけると、優香はちょっと迷うような顔をした。
「あ、はい。……でも、もうちょっと、きりのいいところまで終わらせちゃいます」
「そう。無理はしないでね」
「はい、ありがとうございます」
 桐子はもう一度、フロアを見渡した。最後にひとり残していくのであれば少し可哀相だが、今日はまだ課長と砂川が残っている。これなら大丈夫だろうと思って、桐子は腰を上げた。
「じゃ、お先に失礼します」
「お疲れ様でした」

 自社ビルを出ていくらか歩いたところで、自分の少し後ろに課長の姿があることに気付いて、桐子はなんとなく嫌な予感がした。ちゃんと確認したわけではなかったが、たしか、フロアに残っているのは、砂川と優香だけではないだろうか。
 いらないことに気付いてしまったと思いながら、桐子は少しの間、考えた。こんな男にだまされちゃ駄目よと嫌味で返したときの、砂川の表情がちらりと脳裏に蘇った。
 気にしすぎだ、優香の残業もそれほど量が多いわけではなさそうだったし、まだ時間も早い。フロアには二人しかいないといっても、別室にはほかの部署の社員が何人も残っている。
 心配はいらない。そう思いながら、きっかり三歩だけ歩いたところで、桐子は足を止めた。
「あれ、どうしたの」
 課長が気付いて声をかけてくるのに、桐子は笑顔を作って答えた。
「携帯を机に忘れたみたいで」
「へえ、水谷さんでも忘れ物なんてするんだね。それじゃ、お先に」
「お疲れ様でした」
 桐子は頭を下げると、早足に引き返した。携帯はもちろんバッグの中に入っている。
 馬鹿みたい。桐子は自分で苦笑した。気にしすぎだ。

 三階だから、普段からエレベータよりも階段を使うことの方が多い。桐子は早足に階段を駆け上がり、ドアから廊下へ出たところで、なんとなく足音を殺した。フロアに飛び込む前に一度立ち止まり、耳を澄ませる。
「……じゃない」
 聞こえてきたのは案の定、砂川の声だった。
「そんなんじゃありません」
 困惑ぎみの、優香の声。
「そんなふうに庇わなくてもいいと思うよ、上司だからってさ。優香ちゃんは真面目だからなあ」
「だから、そういうのじゃないんです」
 桐子は呆れた。なんだ、砂川が桐子の悪口を吹聴しているくらいのことなら、たいした問題ではない。腹は立つけれど。
 桐子はそのまま引き返そうかとも思ったが、ちょっと考えて、顔を出すことにした。三秒数えて、フロアに足を踏み入れる。
「お疲れ様」
 砂川がぎくりとした表情で振り返るのに、気付かないふりをして、桐子は自分のデスクに向かった。
「あ、係長。……忘れ物ですか?」
 優香が顔を上げて、ほっとしたように訊いてくる。その表情を確認して、桐子は微笑んだ。少なくとも邪魔ではなかったらしい。
「うん、ちょっとね」
 桐子は言いながら、空とぼけて自分のデスクの引き出しを開けた。
「あれ、ないなあ」
 我ながら白々しいと思いながら、桐子は携帯を探すふりをした。
「携帯、ここに忘れたと思ったんだけど」
 桐子が机にバッグを置いて、ごそごそやっていると、優香が遠慮がちに自分の携帯を取り出してきた。
「わたし、鳴らしてみましょうか」
「うん、ありがとう……あ、あったわ。なんだ、いつもと違う所に入れてたみたい」
 なんだ、わざわざ戻ってきて損したと嘯いて、ぎこちなく微笑む優香を横目に、桐子は自分の机についた。
「電車、一本逃しちゃった。時間つぶしに、それ、ちょっと手伝っていくわ。あさっての会議の資料でしょ」
「あ……いえ、でも」
 はっきりしない優香に、桐子は内心で少しばかり苛立った。言いたいことがあるなら、はっきり言えばいいのに。仕事が終わってしまったのならそう言うだろうし、表情からすると、単に遠慮しているのだ。
「いま帰っても、どうせ電車が来るまで暇だもの。することがあるんだったら、どれか貸してよ」
「……はい。ありがとうございます」
 優香は結局うなずいて、申し訳なさそうに進捗状況を話し始めた。すぐ終わると言った割には、まだ多少時間がかかりそうな内容だった。
 砂川の視線が後ろに突き刺さっているのを無視しながら、桐子は書類を受けとって、自分のパソコンの電源を入れた。

「でさあ、電話して、鰹のタタキにするから、帰りにコンビニでポン酢買ってきてーって、頼んどいたわけよ」
 弁当をつつきながらの美穂の他愛もない愚痴に、ほかの同僚や優香が、うんうんと頷きながら聞き入っている。桐子も半分方聞き流しながら、水筒のお茶を啜っていた。
「そいで、ちゃんと忘れないで買ってきてくれたのはいいんだけどさ、それが、ほんとのポン酢なのよ、白いやつ。ウチには普段、味ポンしか置いてないんだから、ちょっとでも考えれば分かりそうなもんなのにさ、どんだけあたしの料理に関心ないんだ、っていう話じゃない」
 なんやかやと愚痴を言ってはいても、美穂の顔はあっけらかんと笑っている。
「わかるわかる、ウチの旦那だって、似たようなもんよ」
 去年結婚した同僚が、盛大に同意している。新婚という時期もすぎて、相手の欠点も気になりだしたようすで、最近よく愚痴が飛び出すようになった。どの家も、色々あるのだろう。
「で、どうしたの、そのポン酢」
 桐子がいうと、美穂は「それがさあ」と身を乗り出してきた。
「醤油混ぜて使ったけどさ。ちょっと微妙な味なのよ、けど、全然気にしないで食べてるわけ、旦那だけ。意地になって平気なふりするんなら可愛げもあるけどさ、ほんとにどっちでも一緒だって顔なのよ。何食べさせたって、たいして違いも分かりゃしないのよね」
 美穂は大げさにため息を吐いてみせた。
「悔しいからさ、わざと変な味付けのものばっかり作って食べさせてやろうかと思ったんだけどね、自分と旦那はともかくさ、子どもたちまでそんなんじゃ、大人になったときに味覚がおかしくなるかもしれないじゃない。それもかわいそうだしさあ」
 優香が遠慮がちに笑いを堪えながら、小声で言った。
「いいですね、何だか」
「そう? いっそのこと、優香ちゃんが貰ってくれない? ウチの旦那」
 美穂はそう言って、けらけらと笑った。
 前に聞いたところによると、美穂の旦那は土木作業員で、工事のない時期はパチンコに行くか、家でぶらぶらしているらしい。
 向こうの稼ぎが悪かったせいで、うっかり寿退社しそこねたと、いつか美穂は明るく笑って話していたが、実際には色々と悩みもあるようだ。このところの不景気で工事が少なくて、家にいることが増えたという。機嫌を損ねるとすぐ大声を上げるとか、休みに昼間から呑んで寝ているのが子どもの教育上気になるとか、そんな話も何度か聞いた。
 けれど美穂は深刻にならないで、何でも笑い飛ばしてしまう。強いなと、桐子は何度目かで思った。自分はそこまで広量になれない。なれないからこそ、こうしていつまでも独り身なわけだが。
「優香ちゃんは今、彼氏とかいないって言ってたっけ」
「あ……はい、なかなか出会いがなくて」
 優香は答えながらも、困ったように笑っている。
「もったいないよ、人生損してるって。誰か紹介しようか」
「いやあ、独身ならその方が、ぜったい楽でいいよ」
「ちょっと、夢のないこと言わないの。やっぱり一回はさあ……」
 皆で好き勝手に言っているが、優香は困ったように半身を引いている。顔は微笑みを保ってはいるが、あまり突っ込んで聞かれたくなさそうな様子だった。隠しているだけで実はいい人がいるのか、単にそういう話が苦手なのかは分からないが……。
 桐子が口をはさんだものかどうか迷っていると、美穂も察したようすで、話の矛先を逸らした。「それよりさあ、後藤さんの結婚式って、誰か呼ばれてる?」
「えー、美穂、行くのお?」
「いやあ、それがさあ。招待してもらったんだけど、その日ちょっと学校行事でね、どうしようかなあって」
 ほっとしたような表情の優香を横目に見ながら、桐子は自分の弁当箱を包みなおした。
 



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