「ねえ、貴方、満にばかり厳しすぎるんじゃない」 哲平が遅い食事を終えるなり、未央はそう切り出した。哲平の帰宅が残業で遅れたので、ダイニングにいるのは二人だけだ。子ども達はそれぞれの部屋に引っ込んでしまっている。 未央の非難がましい視線に耐えられず、哲平は視線を逸らして妻の手を見つめた。家事で荒れた手の甲に、青く血管が浮いてきている。手には年が出るというのは、どうやら本当のことのようだ。家のことを任せきりにして、スーパーのレジ打ちのパートにも出てもらっている。子ども達のことも家の中のこともほとんど妻に丸投げにしているという自覚があるだけに、哲平もいくらか後ろめたかった。 「そんなことはないよ。あいつが反抗的だから」 自分で言っておいて、その言い訳は苦しかった。哲平は口ごもって、苦々しく唇を歪めた。 「ねえ、ちゃんとあの子の話、聞いてあげてよ」 「小説家になりたいなんて話をか」 哲平がため息混じりに言うと、未央は真顔で哲平を見つめ返した。 「あの子も、今は本気なのよ。将来どうするかはともかく、ちゃんと真剣に聞いてあげて」 「将来将来って、もう満は中学生なんだぞ。何になりたいか、そろそろ真面目に考えはじめないと間に合わないだろう」 哲平は苦りきってそう言った。だが、未央には引くつもりはないようだった。 「間に合うわよ。大学に行って勉強しながらやりたいことを探す子なんて、いっぱいいるわよ。駄目なら駄目で、諦めがつくまでやらせてあげてもいいじゃない」 未央は茶の入った湯飲みをきつく握り締めて力説している。その顔を、哲平は胡乱な目で見つめ返した。まさか本気で言っているのだろうか。哲平が否定的だから、ただ意地になっているだけではないのか。 「それじゃ遅いんだよ。だいたい、あいつは画家になりたかったんじゃないのか。そんないいかげんな夢が信じられるか」 「そんなの、小学校の頃の話でしょ」 未央は憤慨して言い返してきた。 「画家になるのは諦めたんだろ。だったら、小説家だって諦められないわけがない」 「そういうことじゃないのよ、本当に小説家になるかどうかじゃなくて。応援しなくてもいいから、話を真面目に聞いてあげて」 そう言いながら、未央はひどく悲しげな目をした。 「あの子、貴方に認めて欲しいのよ」 哲平は黙り込んだ。それならば、自分にも分かりやすく認めてやれるところを見せて欲しい。そう言いそうになったが、あまりに大人気ないと思い、口を噤むしかなかった。 思い返してみれば、哲平が心から満を誉めたことは、いつ以来無かっただろうか。はっきりと記憶にあるのは、小学校三年生のころ、運動会の駆けっこで一等だったときくらいだろうか。それからの年月を指折り数えて、哲平は自己嫌悪に陥った。 俺だって、満のことを誉めてやりたくないわけじゃない。哲平は言い訳がましくそう口の中で呟いた。息子が可愛くないわけではない。だが、年を取るにつれて自分に似てくる息子が哲平にはどこか忌々しく、空恐ろしいのだ。妻に似ている美咲には、そんな感情を覚えることはないのに。 「認めてないわけじゃないよ」 哲平は言い訳がましくそう呟いた。 「それなら、ちゃんと態度に出して言ってあげて」 そう念を押す未央の声がやけに刺々しく、哲平は反射的に「うるさいなあ」と吐き捨てていた。それが思いがけず大声になって、哲平はぎくりとした。 後ろめたさが高じて、とっさに未央を攻撃した。自分でもそのことに気づいて、ひどく嫌になる。哲平は未央から目を逸らすと、茶碗を持って立ち上がった。 「ごめん。もう寝る」 哲平はそう言って流しに食器を置くと、妻に背を向けた。未央は返事をしなかった。 居間のソファでぼんやりとテレビ画面を見ながら、哲平は手に持っていたグラスを傾けた。それでやっと、グラスがすでに空になっていることに気づく。 「悪い、氷」 横で洗濯物を畳んでいた未央にグラスを差し出す。だが、未央は受け取らなかった。哲平はため息をついて立ち上がると、自分で冷蔵庫に向かった。 「ちょっと最近、飲み過ぎじゃない」 背中を、未央の声が追いかけてくる。哲平がそれを無視して氷をグラスに放り込んでいると、テレビがちょうどコマーシャルに切り替わり、爽やかなBGMを添えてビールの宣伝を始めた。 「もう遅いし、今日はこれで終わりにしたら」 そう続けられた未央の声は、言いながらも半ば諦めているように聞こえた。哲平は何も答えずソファに戻って、ちらりと時計を見ながら一升瓶を傾けた。まだ零時を少し回ったところで、言うほど遅くはない。 少しは酔わないとよく眠れないのだ。第一、飲み過ぎというほど飲んでいるわけではない。毎晩三、四杯引っ掛けるくらいのもので、記憶をなくすほど飲むわけでも、翌日の仕事に響かせるわけでもない。 CMが終わり、騒々しいバラエティ番組が始まった。見覚えのある芸人が番組が開始して早々にシモネタを飛ばしている。哲平は思わず小さく笑い声を上げたが、未央は反応せず、気まずい沈黙が深まっただけだった。 「ねえ、満のことだけど」 未央が暗い声でそう切り出した。反射的に嫌な顔をした哲平は、グラスを手持ち無沙汰に手の中で回しながら、言葉の続きを待った。視線はテレビに向けている。 未央はすっとリモコンをとって、テレビを消してしまった。何をするんだと哲平が非難の目を向けても、未央は首を振るだけだった。 「進路ね。あなたはN高に行かせたがってたけど、あそこは嫌だって。K高に行くって言ってるわ」 哲平は眉を顰めた。どちらも徒歩で通学できる範囲ではあるし、学費の負担もそれほど差はないが、K高の方が偏差値が低く、素行の悪い生徒が多い。 「満の成績じゃ、N高に行けないっていうのか」 「そうじゃないのよ。学校の雰囲気が合わないって」 ため息混じりに言われた内容に、哲平は眉を吊り上げた。 「私も、そう思うわ」 未央はそう言って、哲平の目をじっと見た。 「何だその理由は。単に楽をしたいだけだろう」 「N高はね、勉強の出来ない子はどんどん見捨てちゃうんですって。いい大学に行けない子はどうでもいいっていうのよ。満には、窮屈すぎると思う」 そう説明する未央は、大真面目だった。 「だけど、あいつは今でも、何になりたいか決まってないようじゃないか。せめてある程度の大学を選べるように準備しておかないと、後でなりたいものが出来たときに困るのは、あいつなんだぞ」 そう哲平が言うなり、未央は責めるような目で見つめ返してきた。 「貴方が頭ごなしに、あれは駄目これは無理なんて決め付けるからでしょ」 「俺のせいにするのか」 哲平は逆上して、咄嗟にグラスを床に投げつけた。 ガラスが割れて破片が飛び散る。未央は小さく悲鳴を上げて身体を竦めた。 未央は体を縮めたまま、怯える目で哲平を見上げてきた。哲平はその目を見て、すうっと冷静になった。同時に、自分が恐ろしくなる。父が酔って母に暴力を振るったときの理性をなくした赤ら顔が、目蓋の裏にちらついた。 「ごめん」 哲平の謝罪に、未央は項垂れるばかりで何も言わなかった。ただ立ち上がって、黙々と床を濡らした焼酎を拭き、無言でグラスの破片を片付け始めた。 「頭、冷やしてくる」 哲平は未央の横を通り過ぎて、静かに玄関を開けて外に出た。 空は今にも雨の降りそうな曇天だった。頭を冷やすと言ったはいいが、エアコンの効いた室内よりも外はよほど暑かった。生ぬるい風が頬を撫でるばかりで、少しも酔いを醒ましてくれない。 せめて未央にグラスを投げつけなくてよかった、まだ自分はそこまでの屑ではなかった。哲平はそう口の中で呟いて自分を慰めようとしたが、うまくいかなかった。 哲平は玄関ドアに凭れたまま、両手で顔を覆った。 玄関を開けるなり、まずは家族の靴を確認する癖がついた。脱いで揃えてある靴は、女物が二つきり。満は今日も帰ってきていない。哲平はため息をついて、自分も靴を脱いで上がった。 「ただいま」 大声で叫ぶ。二階の部屋からだろう、美咲が「お帰り」と遠くで叫ぶのが聞こえた。 居間に入ると、未央がぼんやりとテレビに見入っていた。 「ただいま」 仕方なく、哲平はもう一度繰り返した。 「ああ、気づかなかったわ。お帰りなさい」 未央はどこかぼうっとしたままの様子で、そう言った。わざと聞こえない振りをしただろうと問い詰めるのは大人気ない気がして、哲平はただため息をついた。 哲平は時計を見上げた。既に九時を回っている。 「満は」 「さっき携帯に掛けたら、ちゃんと出たわ。友だちのところに泊まるって」 哲平はもう一度ため息をついた。 「何回目だ。相手の親御さんにも迷惑だろう」 「前に話した斉藤君のところよ。親御さんが海外赴任で、一人暮らしだって」 「高校生に一人暮らしをさせるのか」 哲平は眉を顰めた。大人の目の届かないところで、好き勝手をやっているのではないか。酒だの煙草だのを部屋でこっそり飲むくらいならまだ可愛らしいもんだ。だが、今どきの若い連中は分からない。 未央は疲れたような顔で、静かに首を横に振った。 「この前話したら、きちんとした子だったわ。貴方が思ってるようなことじゃないわ。大丈夫よ」 何が大丈夫なんだ。哲平はそう言いそうになって、言葉を飲み込んだ。 満は家に居たくないのだろう。哲平の顔を見たくないのだ。 実際のところ、満は非行に走っているというほどのことはしていない。暴力沙汰を起こすとか、女の子を妊娠させて堕胎費用を貸してくれと泣き付いてくるとか、少なくともそういう類のことは何もない。それどころか、髪を染めたりピアスを空けたりといったような分かりやすい反抗もしていないのだから、今どきの子どもにしては大人しいものだと言ってもいいのかもしれない。 満は高校に入った頃にはしょっちゅう哲平に食って掛かっていたが、最近はすっかり口をきかなくなった。家に帰るのが遅くなり、友だちと遊びまわって深夜にこそこそ帰ってきたり、泊まってきたりする。 このくらいの反抗期なら誰にでもある。そう言ってしまいたかった。だが、哲平にはそう割り切れなかった。 「満が帰ってきたら」 未央がぽつりと言った。 「貴方から、何か言ってください」 「何を言えっていうんだ」 哲平は気後れしながらそう問い返した。 「何ですぐ家に帰ってこないのか、あの子にちゃんと理由を訊いてください」 「俺じゃ、喧嘩になるだけだよ。お前が訊いてくれ」 哲平はそう言って、顔を背けた。満と話してもすぐ互いに感情的になって、まともな会話にならないのだ。 未央は深いため息を落としたが、それ以上は何も言わなかった。 「別れてください」 哲平は何を言われているのか分からず、ぼうっと未央の顔を見返した。 未央の硬く強張った表情を見ているうちに、ふと目元の小皺が目に付いた。普段はむしろ人から若いと言われるくらいだが、今日は硬い表情のせいだろうか、実際の年齢よりも年を取って見える。 真っ直ぐに哲平を見据える未央の目を見つめ返すのが耐え難く、哲平は思わず視線をテーブルの上に逸らした。置かれた二つのコーヒーカップからは、まだ微かに湯気が立ち上っている。 久しぶりの日曜の休みだった。哲平の休日はシフト制で、昔から客の多い土日にはなかなか休めなかったのだが、数年前にフロアの責任者になってからはますます休みづらくなっていた。もう子ども達をどこかに連れて行ってやろうというような年でもないから、そのこと自体はそれほど負担に思ってはいなかったが。 哲平はとにかく冷静になろうと、コーヒーを一口含んだ。未央が豆を挽いて淹れてくれたはずのそれは、今は舌に苦いばかりで、香りなどまるで分からなかった。 未央は口をつぐんで、じっと哲平の答えを待っている。珍しく出かけずに漫画雑誌を広げていた満が、ちらりと顔を上げて哲平の反応を見たが、すぐにまた漫画に視線を戻してしまった。 「いきなり何を言い出すんだ」 やっと哲平は言葉を搾り出した。だが未央は真剣な表情のまま首を横に振った。 「いきなりじゃないわ。ずっと、考えてた」 続きのダイニングで紅茶を飲んでいた美咲も振り返って哲平を見たが、その目には何の感情も伺えなかった。 子ども達が二人とも驚く様子を見せなかったことに、哲平は衝撃を受けた。満はもう何年もそうだったが、美咲も最近になって反抗期に入ったようで、このところゆっくり話せる機会がなかった。 いつの間にか、三人でそんなことを話し合っていたのか、俺のいないところで。哲平はそのことに思い当たって、息を呑んだ。 何も答え切れないでいる哲平に、未央は目を伏せて手に持っていた紙を差し出してきた。何の書類なのか察しはついたが、哲平はそれを見たくなくて、視線を逸らした。 「俺は、別れる気なんてないぞ」 哲平はかろうじてそう言った。未央はしばらく黙ったあと、ため息を落として立ち上がった。 「今日限りで出て行きます」 「馬鹿、何言ってるんだ。そんな急に」 「そのつもりで少しずつ、荷物をまとめてたのよ。気づかなかったのよね、貴方は」 未央が落としたため息混じりの囁きに、哲平は言葉に詰まった。 「それじゃあ」 未央は責めるようにでもなく、ただ静かな口調でそう告げると、立ち上がって背を向けようとした。 「そんな……こいつらはどうするんだ」 「二人に決めさせるわ。どうする、二人とも」 どこまでも、未央は冷静だった。満は漫画から顔を上げないまま「母さんと一緒に行くよ」と小さく呟いた。 「美咲」 哲平が呼びかけても、美咲は視線を合わせなかった。 「私も、お母さんと一緒に行く。お父さんには悪いけど」 美咲は俯いたままそう言って、紅茶の入ったカップを指ではじいた。 目の前が暗くなるようだった。黙り込んだ哲平を、未央はしばらくじっと見ていたが、やがて小さく頭を下げた。 「今までお世話になりました」 未央は他人行儀な口調でそう言うと、さっさと居間を出て荷物をとりに行こうとした。 「俺が出て行く」 哲平は何も考えずに立ち上がって、そう口に出していた。未央が振り返って、感情の読めない目でじっと哲平を見つめ返す。 「……俺が出て行くよ。お前らはこの家に居ろ」 哲平は重ねて言いながらも、どこか足元が覚束ないような心地がしていた。とても現実のこととは思えなかった。 「その方が助かるわ、こんな時期に転校するのはちょっとね」 美咲が妙に明るい声でそう言った。哲平は殴られたような衝撃を受けて、よろめいた。満には心底嫌われているという自覚があったが、一時的な反抗期だと思っていた娘からもこれほどまでに距離をとられていたことを知って、たまらなかった。 哲平はソファの上に投げ出していたコートを手に掴むと、ポケットに財布だけを突っ込んで、逃げ出すように家を出た。 哲平は茫洋とした足取りで歩いていた。 どこか、泊まるところを探さなければならない。家の周りは住宅街で、ビジネスホテルの一件もない。哲平はとりあえず駅の方へ向かうことにした。 そうして歩きながら頭に浮かぶのは、先ほどの未央の硬い表情と、無関心な子ども達の様子だった。 季節はちょうど秋も深まってきた頃だ。着てきたコートはもう薄すぎた。吹き付ける風が冷たく、哲平は時おり震えながら、ただ機械的に足を動かしていた。 いったい何が決定打だったのだろう。いい夫、いい父親だとは口が裂けても言えなかった。だが今になって急に離婚を言い渡されるようなひどいことを、俺はしただろうか。哲平は途方に暮れたまま歩き続ける。 何の野心も夢も無く淡々と暮らすことだけを望むつまらない男だったからか。満の夢を真剣に聞かず、無難なレールを押し付けようとしたことか。子供たちの反抗期から目を逸らして逃げたことか。それとも、ときに酔って未央に八つ当たりをしたことか。殴りさえしなければそれでいいというわけではない、分かっている。分かっている――。 どこで間違えたのだろう。哲平は動揺のあまりうまく回らない頭で、これまでの人生を振り返る。長く続いたフリーター生活から卒業して今の職に就き、結婚して子どもが生まれた、あの頃は確かに幸福だった。それまでの自分を捨てて、新たな人生を歩みだしたことへの喜びが満ち溢れていた。そう、あの喫茶店で奇妙なコーヒーを飲んだ、あの日から。 それとも、あれが間違いだったのだろうか。不相応なものを求めたことが。 一度そう思いつくと、その考えは正しいような気がしてきた。あのとき『計画性』を注文した代わりに求められた代価はなんだったか。長く思い出したことの無かったそれに、哲平は突然思い当たった。『将来の夢』だ。あの日、そんなものは最初から持っていないと思っていた哲平は、すぐにそれを差し出した。 はっと気がつくと、哲平はいつの間にか駅のホームを出て会社の近くを歩いていた。哲平は戸惑って、周囲を見渡した。いったいいつ電車に乗ったのか、何故こんなところまで来たのか、まるで記憶になかった。 休日出勤のフリをして会社に顔を出す気には、とてもなれなかった。どこかに泊まるにしても、こんな会社の傍をうろうろしていて同僚にでも見咎められたら、気まずくてたまらない。 どこに行くにしても一旦駅まで引き返そうと、哲平は踵を返しかけた。だが、すぐに自分がいる場所に気づいて足を止める。ここは、あの喫茶店があった通りだ。 いや、あそこは雑貨屋だったはずだ。あんな喫茶店は、存在しなかったのだ。哲平はそう思い直して、改めて駅へ引き返しかけたが、数歩もいかないうちにその足が止まった。 もしあの店が本当にあったのならば。もう一度入ることが出来たならば、あのとき手放したものを取り戻せはしないだろうか。 哲平はしばらく立ち止まった後、一縷の望みにかけて、店のあった場所へ歩き出した。 哲平は、看板を見上げて呆然としていた。 各種技能、取り揃えております。 雑貨屋のあったはずの場所には、かつて一度だけ足を踏み入れたあの喫茶店が、何事もなかったかのようにそこに佇んでいた。記憶の中にある雑貨屋と建物の雰囲気は似ているが、まったく別の店だ。哲平は思わず目をしばたいて、何度も看板を見直した。 辺りは日暮れが近く、徐々に薄暗くなってきていた。喫茶店の窓から漏れる暖色の灯りが、寒い屋外を歩く通行人を誘うように見えた。 哲平はしばらくそうして看板と窓を見比べていたが、意を決してドアノブに手をかけた。 「いらっしゃいませ」 店内で出迎えたのは、記憶にあったそのままの店主の微笑だった。その笑顔はまるで変わっていなかったが、ただ二十年分の歳を取っていた。皺が深まり、頭は半分以上白髪に変わっている。だが、それ以外はまるで同じ。内装も、店内に漂う香りも、店主の表情も。哲平は思わず息を呑んで、店主の顔を見つめた。 「お好きなお席へどうぞ」 黙って突っ立っている哲平に、店主はそう声をかけた。前のときと同じように、店内に他の客は一人もいなかった。 「あんた……」 哲平は席には座らず、カウンターに詰め寄った。 「あのとき俺が支払ったものを、返してくれ!」 哲平は叫びながらも、どこかで店主が「あれはただのジョークですよ」と笑うのではないかと期待した。だが、店主は面白そうに哲平の顔を見て、首を傾げた。 「お買い上げになられた技能は、お役に立ちませんでしたか」 「役には立ったさ、そのときは」 哲平は勢い込んで、これまでのことを店主にぶちまけた。あれから就職活動を行い、じきに仕事に就いたこと。やがて結婚し子を儲け、途中までは何もかもが順調だったこと。だが、支払った代価のせいで、息子と分かり合えず、そのことがきっかけで段々と妻とうまく行かなくなり、結局は見捨てられた。哲平が訴える話に、店主は何を考えているのか分からない微笑を浮かべて、じっと耳を傾けていた。 「たのむ、『計画性』はもう返すから、俺の夢を返してくれ!」 哲平は頭を下げてそう言ったが、店主は笑顔のままで首を横に振った。 「二十年も前に飲んだコーヒーを元通りに吐いて返すなんてことは、誰にもできませんよ」 店主はごく当たり前のことを子どもに説明するような口調で、そう告げた。だが、哲平は諦めがつかなかった。 「それなら、俺に『将来の夢』をもう一度売ってくれ。それならいいだろ」 哲平がそう頼むと、店主は微笑んで頷いた。 「お支払いいただいたものと全く同じとはいきませんが、それでよろしければ」 その言葉に、哲平は顔を上げて飛びつきそうになった。だが、店主は静かに続きを口にした。 「それでは、お代はどのようになさいますか。『将来の夢』の代価ならば、そうですね……『甲斐性』か『広い視野』あたりでしょうね」 提示された代価に、哲平は息を呑んだ。それを手放してまた家族でやり直すことができるとは、到底思えなかった。 「『計画性』じゃ、だめなのか」 「申し訳ありませんが、こちらも商売でやっておりますので」 店主の言い方は柔らかかったが、きっぱりとした響きを含んでいた。利害のやりとりとするならば、同じ価値の物をやりとりしても店に利益は出ない。当たり前といえば当たり前のことだが、哲平は唸って頭を抱えた。 哲平は、肩を落として再び駅までの道を歩いていた。 結局、『将来の夢』は買わなかった。提示された代価に悩むうちに、この歳になって将来の夢も何もないと冷静になったからだ。 ならばせめて、家族との関係を修復できるような技能が何か無いかと、哲平は分厚いメニューを捲った。だが、いずれにしても店主が提示した代価の中に、失って惜しくないものなどありはしなかった。 今持っているもので、何とかするしかないのだ。哲平は諦めたように自分にそう言い聞かせながら、足をふらつかせて店を出た。本当は二十年前のあのとき、そうするべきだった。訳の分からない店に誘い込まれる前に、無計画でも何でもいいからとにかく行動していれば、今とは違う何かの結果は得られたかもしれなかったのに。 そう割り切ろうとしながらも、手に入れ損ねたものを惜しむように、哲平は何度と無く背後を振り返った。 とにかく一度、家に戻ろう。哲平はそう考えながら、駅へ向かう。もう家には入れてもらえないかもしれないが、とにかく土下座でも何でもして謝ろう。俺が悪かった、駄目なところは一つずつ改めるからと縋り付けば、未央は許してくれるだろうか。子どもたちは。 分からない。だが、そうやって謝って見捨てないでくれと泣きついて、それでも許してもらえないのならば、きっと何の技能を新たに手にしたとしても、もう家族との関係を修復することは出来ないのだ。 日は暮れて冷たい風が吹く中、道を行く通勤客たちはそれぞれ帰りを急いでいる。その迷いのない早足が、今の哲平には羨ましくて仕方がない。 自分もまだ間に合う、取り返しがつくと、そう信じたい。哲平は、吹き付ける風にコートの襟を立てた。 家への道を急ぐ哲平の背中を、コーヒーの香りがいつまでも追いかけてくるようだった。 (終わり) |