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 各種技能、取り揃えております。
 哲平は立ち止まって、その看板をまじまじと見つめた。だが、いくら見つめたところで、看板からはそれ以上の何も読み取れない。
 戸惑いながら、哲平は視線を動かして店の入口を見た。飴色をした木製のドアにはガラスの飾り窓がはめ込まれていて、ちょっとレトロな雰囲気を作り出していた。見た目からは、ちょっとおしゃれな喫茶店かレストラン、でなければ雑貨屋の類のように見える。『各種技能』の文字は、店の外観に少しもそぐわなかった。少なくとも、何かの専門学校という雰囲気でもないし、通信教育を扱っているような店にも見えない。
 哲平は戸惑いながらもう一度看板に視線を戻したが、やはりそこには店名らしいものは何も書かれていなかった。ただ先ほどの宣伝文句だけが、踊るような手書き文字で彫られている。
 ここにこんな店があっただろうか。今まで何度も通ったことのある道だけに、哲平は首を傾げた。ドアや建物の壁は年季が入っていて、最近になって新装開店しました、という雰囲気でもない。
 冷やかしのつもりで中をのぞいてみようかと、哲平は考えた。だが入って明らかに女性客をターゲットにした店だったりしたら、少々恥ずかしいものがある。
 哲平は改めて店を眺め回した。レンガ風の壁に並ぶ窓には可愛らしい飾り枠がついているが、そこから中を覗いてみても、店内の様子は薄暗くてよく見えない。ドアには「OPEN」の札がかかっているから、営業していないということはないのだろうが。
 哲平は目を眇めて店の看板を読み直した。やはりそこには間違いなく『各種技能』と書かれている。いったい何の店なのか。
 哲平は首を傾げながら、一度はその店の前を離れようとした。だが、五歩も歩かないうちにまた足を止めて戻ってくると、好奇心に引きずられるようにして「OPEN」の札がかかったドアノブを捻った。

 店に入ると、まずコーヒーの良い匂いが鼻をくすぐった。続いて暖かな空気が頬を撫でる。暦は十一月に入ったところだが、早々に暖房を入れているようだ。
 店内は狭かったが、すっきりと整頓されていた。窓際に並ぶ二つきりのテーブル席と、それから四人ほどが掛けられるカウンター席があった。
「いらっしゃいませ」
 マスターらしい中年の男性が、カウンターの内側から穏やかな笑みで哲平を出迎えた。その背後の棚にはたくさんの種類のコーヒー豆やカップ類が並べられている。哲平は拍子抜けした。やたらと狭いこと以外には特別に変わったことのない、普通の喫茶店のようだった。
 なんだ、客引きのためのちょっと変わった謳い文句だったのか。そう呆れながら、哲平はカウンター席についた。他に客は入っていないようだ。
 店主が差し出した革表紙のメニューを受け取って、哲平は眉を顰めた。やたらと分厚かったのだ。こんな小ぢんまりした店で、まさか何百種類もメニューがあるわけでもないだろうに。
 だが、メニューを開いて、哲平は絶句した。
「何だ、このメニュー」
 一ページ目は、まるで本の目次といった様相だった。まずは大きな字で章見出しが付されていて、資格編、能力編、技術編、才能編となっている。さらにその下に、実際のメニューとおぼしき言葉が細々と並んでいたが、それもやはり資格や能力の名称のようだった。
 これが看板にある『各種技能』のつもりだろうか。いくら演出にしても、やりすぎじゃないのか。哲平は店主の顔を胡乱な目で見上げたが、店主は人の良さそうな笑顔を崩さず、ただ哲平の注文を待っている。
 哲平は仕方なくメニューに目を戻して、一ページずつぱらぱらと捲ってみた。
 しかし、見れば見るほど哲平の顔は険しくなっていった。資格編のページには『介護福祉士』『情報処理技術者』だのといった資格の名称が延々と並んでいる。しかも奇妙なことに、値段は一言も書かれていなかった。
 哲平はそれでも一応忍耐力を発揮して、しばらくページを捲ってみたが、どれも荒唐無稽なものばかりだった。『腕力』『絶対音感』『推理力』『語学力』『人の話をよく聴く力』……。
 哲平は再び店主の顔を見上げた。少し目尻に皺の寄り始めた顔は穏やかに微笑んだまま、じっと哲平の反応を見守っている。
「まじめに商売する気、あるんですか」
 哲平は思わず顔を顰めてそう聞いた。店主はにこにこしたまま、
「ええ、ございますとも。お気に召さなければ、メニュー外の注文もお受けしますよ。スペシャルブレンドで」
 と言った。その笑顔を見ているうちに、哲平は何だか色々文句をつける気力が失せて、適当に合わせてやろうかという気になった。つまりは、この訳の分からない資格だが技能だかは、コーヒーのブレンドの名前なんだろう。そういえば、家の近所にあった喫茶店でも『秋の香るどんぐりコーヒー』だとか『アンニュイなため息<ケーキセット>』だとかいう得体の知れないメニューが並んでいた。おそらくそれと似たようなものなのだ。
 それにしても、メニューに中身の手がかりが全く無い。どういう味なのか、気の利いた文句でも書き添えておけばいいのに。
 哲平は呆れながらも、どうせなら験かつぎで欲しい能力の名前のものを頼んでみようかと考えた。そう決めた途端、哲平の脳裏に昨夜の記憶が蘇った。
『どうしてそう計画性がないの?』
 未央はそう言って、潤んだ目を哲平に向けた。哲平はその声の責める調子に苛立ち、反射的に怒鳴り返しそうになったが、一度息を吸って、ただ恋人の目を睨み返した。身のない嫌味ばかりを延々と吐き出してきた面接官に苛立ってドアを蹴りつけて退室したことを、哲平自身が後悔していないわけではないのだ。
 そもそも、何でも順序だてて計画的に生きていけるような性格をしているならば、とっくにやっている。哲平の堪え性のなさは父親譲りだ。親父も職場で喧嘩沙汰を起こしては辞め、酔ってはお袋を殴っていた。
 哲平自身、けしてそんな自分の性格に満足しているわけではない。あの親父と同じ血が自分にも流れていると思う度に、心底ぞっとする。それでも哲平の中には自分自身ではどうしようもない衝動があって、一度頭に血が上るとうまく感情を制御できないのだ。せめて自分の中のその血が今のところ未央を殴る方向に向かっていないというだけでも、御の字というものだった。
『哲平がそんなんだから、私も……』
 だが、未央はそこまで口にすると言葉に詰まって、ぽとりと涙を落とした。それで、哲平は反駁する気が失せて、ふいと未央の顔から目を逸らした。
 昨夜はそのまま何も言わず、ただ未央の部屋を出て自分のアパートに戻った。頭が冷えないまま一緒にいても、さらに八つ当たりをしてしまうばかりだと思えたし、自分自身に腹が立ってもいた。
 コンビニのバイトで食いつなぐ日々に、哲平自身、不安を覚えないわけではない。時おり発作的に怖くなって、慌てて求人情報誌を買い込んでは面接を受ける。それでうまく行かずに何もかも嫌になって、またバイトの日々に甘んじる。こういうことの繰り返しを、あと何年続けていくのか。
 哲平は無意識に、メニューの『能力』のページを開けていた。果たして、そこには探した文字がしっかりと並んでいた。
「じゃあ、この『計画性』っていうのを」
 店主は頷いて、哲平の差し出したメニューを受け取った。
「お支払いはどのようになさいますか」
 その言葉に、哲平はぎょっとした。そういえば値段のことを聞くことをすっかり忘れていた。どのようにというのは、まさか現金で払うかクレジットカードにするかという意味だろうか。
 たかだかコーヒーの一杯でそんな法外な値段をとられては堪らない。哲平は慌てて店主に聞いた。
「高いの、ここ」
「ああ、いえいえ」
 店主はにっこり笑って、軽く手を振った。
「お金はいただきませんが、そうですね、高いといえば高いでしょうか。技能をお売りするからには、そのお代も技能というわけで」
 哲平はあんぐりと口を開けた。店主は茶目っ気と見えないこともない笑顔を浮かべているが、まさかこれで気の利いた冗談でも言っているつもりだろうか。
「そうですね、『計画性』のお代といったら……『自在な発想』か、『将来の夢』あたりになりますかね」
 哲平は何と言っていいか分からず、じっとその顔を見つめ返したが、店主はそれ以上何も説明せずただ笑うばかりだった。
 店主はやがて手を伸ばして豆を選びながら、のんびりした口調で「どちらになさいますか」と聞いてきた。
「じゃあ『将来の夢』で」
 哲平は咄嗟にそう答えて、顔を顰めた。将来の夢だって、そんなもん元々ねえよ。なりたいものなんて、小学生の頃に気まぐれのような思い付きで『消防士になりたい』と言ったことがあるくらいだ。それも親父に鼻で笑われて、すぐに忘れた。今は夢も希望もあったもんじゃない。
 しかし、店主は哲平が疑わしげに見ているのも気にならない様子で、上機嫌のまま豆を挽き、手際よくコーヒーを淹れた。いい香りが店内に漂い、哲平のささくれていた気持ちも、それでいくらか和らいだ。
「お待ちどうさまです」
 店主は微笑を称えたまま、コーヒーを差し出してきた。哲平は恐る恐るコーヒーカップを持ち上げて鼻を寄せた。だが、当たり前ながらコーヒーの良い香りしかしなかった。
 しばらく迷ったあと、哲平は思い切って口をつけた。
「美味い」
 思わず口からため息が零れ落ちた。店主は何も言わず、ただにっこりと笑った。目じりの皺がますます深まって、人の良さそうな顔を強調している。
 それから哲平はコーヒーを堪能した。細かい違いが分かるわけではないが、それでもただのコーヒーをこれほど美味いと思ったことはなかった。普段は砂糖を入れて飲むことが多いのだが、何かを入れてこの味を損なうのが勿体無いような気がして、ブラックのまま啜った。
「でも、将来の夢って技能ッスか?」
 コーヒーで和んだ気分が、シュールな冗談に付き合う余裕を作った。哲平がそう聞くと、店主は微笑んで、
「そうですね、夢を見る力、と言ったほうが近いかもしれませんね」
 とだけ答えた。
 ゆっくりと最後の一口を飲み干した哲平は、満足して席を立った。しかし、財布を出そうとすると、店主が手の平を向けて遮ってきた。
「お代はもう頂きました」
 哲平は狐に抓まれたような顔をした。ただの冗談ではなかったのか。洒落を通すのもいいが、こんな流行ってなさそうな店でそういう悠長なことをやっていたら、すぐに干上がってしまうのではないか。
 哲平はそう思って怪訝な表情で見つめても、店主は笑顔のまま固辞するポーズを見せるばかりだった。
 金持ちの道楽というやつだろうか。どこか腑に落ちないままだったが、哲平はただで済むのならその方がいいかと、そのまま引き下がって店を後にした。

 哲平はその一件の翌朝、目覚ましが鳴り出す直前に覚醒した。
 寝起きが悪い自分が、なぜ今朝に限ってぴったり時間どおりに目を醒ましたのか。哲平は不思議に思ったが、考えても分からず、起き上がって目を瞬いた。頭は深く眠った後のようにすっきりと冴えている。あまりによく眠った感じがしたものだから、まさかと思い、枕元に置いていた携帯を手探りに掴んで時刻表示を確かめたが、時計が遅れているということでもないようだ。
 何となく落ち着かないような気はするものの、理由を考えても仕方ないかと割り切って、哲平は身を起こした。
 哲平は立ち上がって伸びをしながら、頭の中で今日のシフトを呼び出した。今日は十時からだ。まだ時間には余裕がある。せっかくだから、いつもよりも早めに出て、アルバイト先とは別のコンビニで求人情報誌と履歴書を買っておこうか。
 箪笥から着替えを出している途中、哲平はふと思い立って、リクルートスーツを引っ張り出した。面接用にと思って春先に買ったものだ。ずっとこれ一着で通していたが、時節を考えるといい加減に秋冬物が欲しい。通帳の残高は雀の涙ほどのものだが、どちらにしても就職したら必要なのだから、今のうちに買っておかなければならないだろう。
 ワンルームの狭い部屋を横切って、哲平は冷蔵庫を開けた。牛乳を出しながら、ふと賞味期限切れのハムだの古くなったチューブ入りワサビだのの存在に気づき、顔を顰める。買い物のやり方を少しは考えないと、経済的に続かない。
 トーストを焼いてマーガリンを塗りながら、哲平は改めて時計を見上げた。寝汚く何度も寝なおす普段と違い、まだまだ時間に余裕がある。
 朝からゆとりを持って行動できるというのはこんなに気分がいいことなのかと、哲平はそのことを生まれて初めて知ったような気がした。頭がいつもの何倍も軽く回る気がする。
 今日のバイトが終わったらさっそく履歴書を書いて、どこかの会社に面接の約束をとりつける。なるべくなら安定した職業がいいが、仕事の中身に贅沢は言わない。それが済んだら未央に電話して、昨日のことを謝ろう。今朝の哲平は、そう自然に考えることができた。
 このときの哲平の頭からは、あの奇妙な喫茶店のことは綺麗に抜け落ちていた。

「本当ですか」
 哲平は手に持っていた携帯を取り落としそうになって、慌てて握りなおした。気づけば手の平が汗でびっしょり濡れていた。
『ええ。入社は来月からになりますが、いくつか先にご説明したいことがありますので、明日、一度おいでいただけますか』
 説明に慣れた感じの女性の声が、持参するものを淡々と告げる。
「はい、……はい。ありがとうございます。十時に、面接のときと同じところですね。はい」
 興奮を抑えて、哲平は手帳にメモをとった。ペンを持つ手が震えていた。声はなんとか冷静を装ったが、内心では躍り上がるようだった。
 連絡があったのは、家電量販店を経営する会社だった。ただの店頭販売員ではあるが、一応は正社員での採用。十社目にして、ようやくの内定だった。
 就職活動に関するハウツー本を読んで面接の受け方を学んだ。きちんとした身なりを整えることに意識を向け、応募する企業の情報を集めた。かつては何でも行き当たりばったりだった哲平は、ここのところ、そういう下準備をするようになっていた。その努力が、三ヶ月ほどかけて実を結んだのだ。
 どれもこれも、一つずつ順を追ってやってみれば、何ということはなかった。なぜ今まで自分がこの程度のことをできなかったのか、今になってみれば哲平には不思議でならなかった。つい数ヶ月までの自分が嘘のように愚かしく思えた。
 哲平は電話を切ったあと、湧き上がる喜びを伝えるべく、未央の携帯に電話をかけた。

 朝の七時半。哲平は駅のホームを出て勤務先へ向かっていた。
 通りを歩く人影はまばらだ。通勤ラッシュで混雑しはじめるには、まだいくらか時間が早い。
 哲平は就職してしばらくすると、毎朝早めにアパートを出て、なるべく色々な道を通ることを自分に課すようになった。そうやって周辺の地理を覚えるついでに、競争相手となる同業他社の店舗の位置関係を頭に入れるのだ。
 これは上司や同僚のアドバイスではなく、自発的に始めたことだ。今では出勤前にも、新聞の折り込みチラシで他社の広告をチェックしている。今は店内業務ばかりで関係のないことだが、先々どうなるかは分からない。いずれ企画や広報などといった他の部署への配置換えがあるかもしれないし、そもそも会社そのものだって、哲平が定年退社するまで本当にもつかどうか、誰にも分からないのだ。
 毎朝きまぐれに変えるルート。哲平は通りに並ぶビルの看板を眺めながら歩くうちに、今日選んだ道が、いつかの奇妙な喫茶店のあった通りであることに気がついた。それに思い当たった途端、あの美味いコーヒーの味と香りが鼻腔に蘇ったような気がした。
 あの店が早朝から開いているようなら寄っていこうか。そう考えた哲平は『各種技能、取り揃えております』の看板を探しながら、ゆっくりと通りを歩いた。
 だが、哲平はすぐに自分の目を疑うことになった。あの店があったはずの場所には、若い女性が喜ぶような、こじんまりしてお洒落な雑貨屋が建っていたのだ。
 あの喫茶店が潰れて新しい店ができたのではない。哲平はそのことに気づいて、自分の記憶を疑った。そうだ、ここにはずっと前からこの雑貨屋が居を構えていた。あんなおかしな喫茶店ではなく。
 そのことに気づいた途端、哲平の脳裏にあの店主の顔が浮かんだ。交わした一連のやりとりが、まざまざと思い出される。あの日、哲平は計画性が欲しいと言った。あのときはセンスのない洒落としか思わなかった。だが……。
「まさか、本当だったのか」
 哲平は思わず呟いてから、慌てて首を振った。そんな不思議を頭から信じるにはまだ早い。あれは現実に嫌気が差していた自分が頭の中で作り出した妄想か、白昼夢のようなものだったのかもしれない。
 だが、あそこで自分が『計画性』を買ったのだと、そう考えた方が辻褄が合いはしないか。すぐに頭に血を上らせて短慮を起こし、明日の予定さえ考えることが苦手だった自分が、数年後、数十年後のことまで心配して先回りをしている。そんなことも、ひとたび出来るようになってみればそう大したことではないと思えるが、あのときまではどうしても出来なかったのだ。
 思わず立ち止まって雑貨屋の看板をしげしげと見つめていた哲平は、やがて自分が出勤途中であることを思い出して、どこか宙に浮いたような覚束ない足取りで会社へ向かった。

 レストランの店内はやや薄暗く、それでも温かみのある照明に照らされていた。柔らかな談笑がさざめくようにフロアを満たしている。
 哲平は景気づけのつもりでワインを口に含んだ。こんな洒落た店に入ったことなど、これまで一度もなかった。表面上は冷静なフリをしていたが、食事をしている間も始終落ち着かなかった。さらに食べ終えて話を切り出そうという段になると、ますます緊張が高まってきた。
 哲平は背広のポケットに入れた小さなケースの感触を手探りで確かめて、大きく深呼吸をした。
 未央は向かいの席で、哲平が何か言うのを待っている。その未央も、微笑みながらも緊張しているように見えた。哲平が何の話をするつもりなのか、察しているのだろう。
 哲平が就職してから、ようやく二年が経とうとしていた。販売の仕事にも随分と慣れ、商品の説明もかなりうまくなってきた。まだまだ下っ端ではあるが、この調子でやっていけば何とか働き続けることができるという自信がついてきた。仮に職を失うことがあっても、もう昔の自分とは違う。再び新しい職を求めて努力することができる。そう思えるようになったことで、ようやく決心がついた。
 哲平はもう一度、ポケットをまさぐった。
 給料三か月分とはいかなかったけれど、ボーナスをつぎ込んで指輪を買った。サイズは目算だが、おそらく大丈夫だろう。
「あのさ」
 哲平は口を開いたが、声が掠れて、思わず唇を舐めた。それからもう一度、大きく息を吸う。
「うん」
 未央は頷いて、じっと哲平の言葉の続きを待っている。その目を見ているうちに、哲平は頭の中が白くなっていくのを感じた。色々と気の利いた文句を考えてきたつもりだったが、いざとなると一つも出てこない。
 哲平は何度か口を開きかけては言葉に詰まって、最後には、今さら格好をつけても仕方がないと開き直った。
「結婚しよう」
 未央はすぐには返事をしなかったが、一筋の涙が溢れてその頬を伝った。涙に濡れた瞳が、言葉以上に雄弁にイエスと答えていた。
 その夜、未央の手を握って眠りにつく狭間、哲平はふといつかの喫茶店で買った『計画性』のことに思いを馳せた。ずっと半信半疑だったが、今は信じたい気分だった。
 あの店が、おそらく自分の運命を変えた。もしあの時、あの喫茶店の前で足を止めていなければ、哲平は今も定職にもつかずふらふらしていたに違いない。そのままだったら、きっと未央もいずれは哲平を見捨てていただろう。
 哲平は未央にあの店の話を聞かせたいような気がしたが、睡魔に押され、その前に寝入ってしまった。そして翌朝目が覚めたときには、そう思ったことも綺麗に忘れ去っていた。

「こら、満。だめよ」
 未央が精一杯怖い顔を作ってそう言って、息子の頭を軽く小突いてみせた。満が生まれたばかりの小さな妹の顔をぺたぺたと触っていたからだ。
 ふたりは結婚して五年が経つ今、一男一女に恵まれていた。未央は長男の出産以降、仕事を辞めて育児に集中している。いずれはまた働きたいと言っているが、子どもたちがもう少し大きくなるまでは、どうにもならない。どちらの地元も遠く、そうそう親元に預けるわけにはいかないのだ。満だけのときは保育園に預けるという方法も考えていたが、満は今もしょっちゅう熱を出したりするし、美咲はどうも兄よりも体が弱いようだった。一人が風邪を治したと思う端からもう一人がうつって寝込んだりするものだから、なかなか手が放せない。
 幸い、哲平は先ごろから店頭でリーダーを任されるようになっており、家族手当のほかに幾許かの役職手当もつくようになっていた。哲平にはあまり出世をしようという欲はなかったが、これは素直に嬉しかった。それでも四人の家庭を支えるにはやや荷が重くはあったが、もう少し子どもたちが大きくなれば未央がパートに出るから、それまで贅沢をしなければどうにかなるだろう。
 兄の満はまだ三歳ながら、陽気で奔放な性格の片鱗を見せていた。せわしなく動き回っては生まれたばかりの美咲の世話を焼こうとするのだが、まだ危なっかしく、とても目が離せない。
 息子の悪戯を叱りながらも「もう、あなたそっくりね」と言って、未央は目を細めた。その顔は幸せそうだったが、言われた哲平はひやりとする思いがした。
「困るな。俺に似たら、ろくな大人にならないよ」
 哲平は思わず正直にそう言ったが、未央は「大丈夫よ」と優しく笑い飛ばした。
「貴方だって昔はいい加減だったけど、今はちゃんとしてるじゃない。大人になれば変わるものよ」
 哲平はそれに反論しようとしたが、今になってみればあの妙な喫茶店の話を信じてもらえるとも思えなかったので、結局は曖昧な顔で頷いた。
「いったい、どんな大人になるのかしらね」
 未央は目を細めて満の頭を撫でた。満はくすぐったそうに母親の手に掴まって、屈託の無い笑い声を上げる。
 息子の無邪気な笑顔を見て、哲平は自分の考えすぎかと反省した。子は親とは違う。少しくらい似たところがあっても、必ず同じような人生を歩むというわけではない。
 哲平は不安を払うように軽く首を振ると、元気の余っている息子の相手をするべく立ち上がった。
「おいで、満」
 満はぱっと顔を輝かせると、勢いよく哲平の膝に飛びついてきた。そうだ、大丈夫に決まってる。親父は俺に悪い見本しかみせなかったけど、満はそうじゃない。俺がしっかりしてれば、こいつらもきっと、ちゃんとした子に育ってくれる。
 哲平は満の体を高く抱き上げて揺すった。満は楽しげな奇声を上げて、哲平の頭にしがみつく。
 それは間違いなく、幸福な家族の一幕だった。

「満が何になりたい、だって?」
 哲平はネクタイを緩めようとしていた手を止めて、思わず聞き返していた。
「おかしいでしょ。画家になりたいなんて、真面目な顔して言うんだから。小学校一年生の子が、いったいどこで画家なんて仕事を覚えてくるのかしらね」
 未央は哲平から受け取った背広をハンガーに掛けながら、楽しげにくすくすと笑っている。だが、哲平はとても笑う気になれなかった。子どもの夢だ、大人になれば忘れてしまうと、そう無条件に信じるには、言い知れない不安があった。
 哲平の同級生にも、そういう奴が何人もいたのだ。小説家になりたい、ミュージシャンになりたいと言って、いつまでも定職につかずにふらふらしている連中が。
 それだけの才能があればいい。その上で本人が絶え間なく努力を続けて成功できれば、そういう生き方もありだろう。だが、そういう人間はほんの一握りなのだ。
「駄目だ、そんな不安定な仕事なんて」
 哲平は思わずそう口に出した。
 まだ宇宙飛行士になりたいとでも言ってくれた方がいい、それならば学力が追いつかなくなったときが挫折のときだ。よりによって、画家。早々に才能が開花すればいいかもしれないが、自分に絵で食べていくに見合う才能がないことに気づく頃には、幾つになっているか分かりはしないのだ。
「まだ七つよ。そのうちなりたいものも変わるわよ」
 未央は哲平の不安を笑い飛ばした。だが、その悩みのない笑顔を見て、哲平は苛立った。
「諦めるのは早い方がいいんだ。絵で食っていくなんて、よっぽどじゃないと無理なんだぞ」
「あら、満の絵って、けっこうセンスがあっていいのよ。貴方、ちゃんと見てないんじゃない」
 未央は悪戯っぽくそう言った。冗談のつもりだろうが、よくそこまで呑気に構えていられるものだ。
「お前は満がいつまでも夢ばかり追いかけて、定職にもつかずにくだを巻くような大人になってもいいのか」
 哲平が険しい顔をして言うと、そこで初めて未央は眉を顰めた。
「ずいぶんね。子どもには厳しいじゃない、自分だってなかなか就職しなかったくせに」
 未央のその声は、哲平の身勝手さを軽く揶揄しているだけで、非難するような口調ではなかった。だが、それでも哲平は一瞬で頭に血が上るのを感じた。顔が紅潮するのが自分でも分かった。
 それでもどうにか冷静に話そうと、哲平は激情を抑えながら口を開いた。
「自分がああだったから、言ってるんだろ」
 口から出た言葉は努力の甲斐もなく、発した哲平自身が驚くほど冷たかった。
「そんな、貴方だって、変わったじゃない」
 未央が怯えるような目をして、半歩身を引いた。
「いや……悪い」
 哲平は口ごもった。言葉の中身がどうこうというより、未央の怯えた様子が胸を刺したからだ。哲平にはその未央の表情が、父が突然振るう暴力に怯える母の顔と重なって見えた。
「よしましょ。そんな心配は、もう少し大きくなってからで間に合うわよ」
 ひどく消沈した様子の未央の言葉に、哲平は仕方なく頷いた。

「ねえねえ、お父さんは子どものとき、何になりたかったの」
 休日の夕方。八歳になった娘が目を輝かせてそう聞いてきたとき、哲平は返事に詰まった。娘に話せないような後ろめたい職業を目指していたというわけではない。子どもの頃の自分が何になりたかったのか、まるで思い出せなかったのだ。
 何かになりたかったことが、自分にはあっただろうか。いや、何もないはずはない。哲平はそう思いながらも、どうしても当てはまる記憶を自分の中に見つけることができなかった。
「覚えてないなあ」
 哲平が仕方なくそう言うと、美咲は母親似の大きな目をぱちくりさせた。その顔があまりに不思議そうだったので、何とか思い出そうと、哲平はもう一度首を捻った。昔のこと過ぎて覚えていないのかと思ったが、小学校のころの記憶そのものは、断片的に残っている。
 そうだ。一度、何かになりたいのだと息せき切って父親に話したことがあった。哲平はやっと思い出した。だが、そのとき親父は何か嫌なことがあったのか酒を呑んでいて、哲平が口に出した夢を鼻で笑ったのだ。哲平がそれに傷ついて一人で泣いていたら、母が慰めてくれた。その一連の出来事は、思い出してみれば意外なほど鮮明に胸に蘇ってきた。
 だが肝心の中身の方、何になりたいと思ったのかということが、どうしても思い出せない。
「だめだ、思い出せないなあ。美咲は何になりたいんだ」
 自分の記憶の欠落に愕然としながらも、哲平が手を挙げて矛先を逸らすと、娘は途端に機嫌よくにこにこと笑った。
「ないしょ」
「ええ、なんだよ。お父さんにこっそり教えてくれよ」
 哲平は身を乗り出して聞いたが、美咲ははにかんで、逃げていってしまった。
 何だ何だ。哲平は苦笑して、振り向き振り向きしながら逃げていく娘を見送った。
 美咲がすっかり姿を隠してしまうと、哲平はふと息子の顔を思い浮かべて、ため息をついた。満は五年生になった今でも絵を描くことが好きだ。幸いにも友だちと遊びもせずに家に篭って絵ばかり描いているということはないが、図工の授業で描いたらしい前衛的な絵を持って帰ってきて広げては、何かを期待する目で哲平に誉められるのを待っている。
 その絵の出来の良し悪しは、哲平には分からなかった。上手いか下手かというならば、歳相応に見えた。あとは男の子の描く絵にしては色のセンスがいいような気がする、というくらいだ。
 もともと哲平自身には芸術的な感性などは欠片もないし、仮に息子の絵に才能の片鱗らしきものが見え隠れしていたとしても、手放しに誉める気にはとてもなれなかった。ちょっとした才能のある絵描きなら、いくらでもいるのだ。だが、画家として食べていけるような類稀なる才能となると話は別だ。
 哲平だって、親馬鹿を丸出しにして誉めてやりたい。だが、迂闊に誉められることで、満が自分に絵の才能があると思い込んでしまったら。あとで周りが止めても聞かず、まっしぐらに芸術の道に進んでしまうかもしれない。満には、そう思わせるような単純なところがある。
 それでも子どもの絵を頭から馬鹿にするわけにもいかず、哲平は一応表面的にはその出来を誉めた。だが、哲平の声の調子や表情から何か感じるところがあるのだろう、満はだんだん哲平の気のない誉め言葉に不満そうな顔をするようになってきた。その表情が早めの反抗期を予感させて、哲平はそのたびに嫌な気分になる。
 哲平自身の反抗期のときは、悲惨なものだった。酔っ払ってクダを巻く父親の頭を、ビール瓶で殴ったことがある。酔って時おり母を殴る父親に怯え続ける生活に嫌気が差して、本気で殺そうと思ったのだ。幸いにも父は死なず、頭を二針縫っただけで済んだが、それからもともとあった家族の溝はさらに決定的なものになった。
 あらゆる意味で、満が自分に似ていないといい。哲平はそうつくづくと思った。
 だが、それは虫のいい願いかもしれない。今はせいぜい不満顔をするくらいの息子だが、将来どうなるかは誰にも分からないのだ。そのことが、無性に恐ろしかった。計画の立たない種類の事柄が、今の哲平には何よりも不安をもたらす。
 何故こうまで不安になるのか。哲平は自分でもよく分からなかった。予想のつかないこと、計画を立て得ない種類のことがひどく怖い。これはもしかして、いつかあの店で『計画性』を買ったことに対する副作用か何かだろうか。
 将来に不安を覚えるたびに、哲平の心はあの秋の日に戻る。自分の運命を一変させた、あの日に。
 しばらく前までは、あの不思議な出来事を、類稀なる幸運だと思っていた。ちゃんとした職に就き、家庭を得ることができたきっかけだったと。だが果たして、あの時自分が『計画性』を買ったことは、あるいは夢を代価として払ってしまったことは、本当に正しい選択だったのだろうか。
 不安に囚われて悶々とする哲平のすぐ傍に、いつの間にか美咲が戻ってきていた。
「どうした、教えてくれるのか?」
 哲平が笑顔を作ってそう言うと、美咲はちょっともじもじして、
「あのね、美咲ね、おとうさんのおよめさんになってあげる」
 そう言って、ぴゅっとどこかに逃げていってしまった。
 哲平はぽかんとして娘の後ろ姿を見送った。遅れて、暖かいものが胸にこみ上げてくる。
 美咲も大きくなったら、あんなことを言ったのもすっかり忘れてしまうのだろう。満のことだって、考えすぎだ。ウチは大丈夫――。 



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