小説トップへ   彼の予感へ


 あなたは彼が置いていったサバイバルナイフを手に、呆然と考え込んでいる。狭いけれど一人には広い部屋で、ナイフに反射する、白々とした蛍光灯の光に見とれている。
 死のうというほどの積極的な意思は無い。ただナイフの光が綺麗だなと思っていて、それから、その冷たくて滑らかな刃先が自分の肋骨の間に滑り込んで心臓に到達する、その感触を想像している。底冷えがするような鋭い冷たさが、すっと胸の下に忍び込んでくるところを思い浮かべ、いや、もしかしたらその刃先は熱いのかもしれないと考え直す。室温と同化して冷えたナイフでも、肌を切り裂いて体の中に潜り込んでくるその瞬間には、焼けるように熱いのかもしれないと。
 あなたはぼんやりしたままの頭で考える。自分の胸にナイフを突き立てて死ぬというのは、たぶんあまり現実的ではない。苦しいだけでなかなか死ねずに、誰も居ない部屋の真ん中で孤独に呻き続ける自分の姿を、あなたは想像する。そうでなければ途中で怖気づいて、中途半端な傷を胸に、病院に駆け込んでお終い。医者に、いったい何でこんな馬鹿なことを(自殺を図った女性への定型句としての馬鹿なことではなく、単純に頭の悪い方法としての馬鹿なことを)と、呆れ顔で見られるだけ。ただそれだけ。

 あなたは彼が好きだった。目が合っていてもどこか遠くを見ているような彼の、その薄い色の透き通った瞳が、大好きだった。その目が決して、いつまでもあなたの方を見つめ続けることは無いのだと、それを承知していても、それでもいいと思ってあなたは彼を口説いた。どうにかして彼の興味を引こうとした。彼があなたを忘れて遠くに出かけてしまっても、またそのうち思い出して戻ってくるならば、それでいいのだと、自分で自分を騙しながら。
 彼は、作家と呼ばれる人種だった。彼が何か月かをかけて一本の小説を書く間、あなたは放っておかれた。書きあがってからのいっときの間、彼は埋め合わせをするように優しかったが、やがてしばらくすると世俗の何もかもを振り捨てるように、山へ登った。それは電車で麓までいける近場の山だったこともあったし、名前も聞いたことのないような国にある険しい山脈だったこともあった。そしてそのまま一か月か、あるいは二か月以上、彼は帰ってこなかった。そういう人だと、最初から知っていた。それでもいいと思っていた。
 あなたは彼自身に惹かれ、それと同じくらい、彼の小説に惹かれていた。彼の指から紡がれる世界は清冽で、孤独で、乾いていて、人を拒んでいるようなのに、どこか最後のところで優しかった。
 そしてあなたは、その彼の世界には存在しなかった。彼の小説の中に、あなたの場所はなかった。
 あなたは寂しさに耐えられなかった。彼を思うのと同じ強さで、彼の小説に惹かれるのと同じ強さで、彼を憎んだ。

 あなたは部屋に座り込んでナイフを握り締めたまま、唐突に煙草の匂いに気付き、やけにほっとする。彼が吸っていた煙草は、ふつうの自販機やコンビニでは見かけない変わった銘柄で、ちょっと甘いような、変わった香りをしていた。
 普段はどちらかというと嫌煙家であったあなたは、その匂いだけはなぜか好きだった。彼が吸っていたから好きになったのか、単に匂いが好みに合っただけのことなのか、あなたはいまでもよく分かっていない。分からないままでもいいと思っている。
 あなたは考える。このサバイバルナイフは、彼がいつも荷物の奥にそっとしまい、山に行かない季節にも、欠かさず手入れをしていたものだった。
 彼がいつも使っていた方のサバイバルナイフは、警察が押収したまま、あなたの手元には帰ってきていない。あれは彼が山に登るたびに何かと使っていたもので、よく手入れをされていたが、あなたはそれほど惜しいと思っていない。なぜなら、いま手に持っているナイフの方を、彼が大事にしていたことを知っているからだ。父親から譲り受けたもの。家族のことなどめったに口にしない彼が、珍しく教えてくれたことだった。
 彼はその父親が好きだとも嫌いだとも言わなかったが、突き放し、自分からできるだけ遠くに置いて、その姿を視界に入れないようにしていたように見えた。それでもそのナイフを粗末に扱いはしなかった。その矛盾した行動が、彼の複雑な思いを語っているように、あなたには思えた。

 あなたは何年も耐えた。彼があなたのことを忘れて小説を書くことに没頭している間、彼が書き上げた小説を人の手に渡して、もう堪えられないという顔で山に登ってしまっている間、あなたはじっと耐えた。一人で過ごす夜のさびしさに、彼がもうあなたに醒めて戻ってこないのではないかという不安に、あなたは五年も耐えた。なのに、六年目に彼が山に登ってしまったとき、毎年同じように耐えてきたはずのその季節に、あなたはとうとう耐えられなかった。
 いま、あなたに問いたい。どうしてあのときに限って、あなたは耐えられなかったのか。あと少しだけ、静かに彼の帰りを待てなかったのか。終わりのあるはずの寂しさを飼いならすことができなかったのか。

 あのとき、彼が山に籠もってしまって一か月近くが経とうとしていたあの夏の終わり。あの男が言い寄ってきたとき、あなたはきっぱりと断ることができたはずだった。
 だが、あなたはあの男の誘いに乗った。寂しかったのだと、あなたは自分に言い訳をした。年の半分近くは放っておかれて、帰ってくるかどうかもわからない相手をじっと待ち続けることに、疲れてしまったのだと。だが、ほんとうはそんな理由ではなかったことを、いまのわたしは知っている。あなたは彼が嫉妬するところを見たかったのだ。
 あなたは頭の片隅で考えていた。彼は今年も、秋になったらあなたの部屋に戻ってくるだろうか。戻ってきたとして、この男の存在を知って、少しは嫉妬するのだろうか。それとも、あなたのことなどどうでもいいという顔をして、静かに去っていくのだろうか。
 あなたは後者ではないかと思った。もしそうなれば耐えられないと感じたはずなのに、どうして試してみたいと思ったのか。愛されないのならば、彼の世界に入れてもらえないのならば、いっそ壊してしまいたいと、どうしてそんな考えに囚われたのか。

 これから、あなたは何度もあの日の光景をくりかえし夢に見る。夢で、あなたは天井近くから、あるいは少し離れた部屋の隅から、彼と、あの男と、自分自身の姿を見る。彼の無表情の、だけど感情がないわけではない色の薄い瞳が、はっきりと見える。彼の遅いまばたきの回数まで、数えることができる。
 そしてあなたは、まるで他人事のように少し離れた視点から、あなたの顔を見る。暗い喜びの滲む、醜い顔を。
 できるものなら、あのときのあなたに忠告したい。愚かなあてつけをしたことよりも、彼を信じられなかったことよりも、あなたは己の心に確かに見出してしまったあの薄暗い喜びの感情に、醜く歪んだ己の顔に、恐怖しつづけることになる。

 夢は鮮明で、正確で、記憶と寸分たがわない。彼のあの表情。一瞬で能面のように凍りついた顔。彼がその表情のまま、手品のようにリュックから取り出した、銀色に光るナイフ。その迷いの無い構え、足取り。あの男を射た視線は、同じ強さであなたにも向いた。
 あなたは彼がそれほどまでに嫉妬を見せることを、予期していなかった。だけど、心のどこかで望んでいた。かなえられた望みは、暗い喜びをたしかにあなたの胸のうちに灯した。あなたは怯え、だが心の底のどこかでは狂喜していた。
 だが、彼の殺意はほんの数秒だった。実際に手が届きそうな距離まで来ると、魂が抜け落ちるように、彼の瞳からは光が消えた。彼はすぐにナイフを下ろして、踵を返した。あなたは彼を引きとめようと、一歩を踏み出した。
 だが、あの男が。ああ、よりによって、なんであんな男を招き入れたのか。あなたは愚かだった。いや、いくらあの男に問題があったとしても、いいわけにはならない。責任のすべてはあなたにある。つまらない思惑からあの男の誘いに応じて、部屋に上げたあなたに、ほかの誰かを責める資格などありはしない。
 だが、わかっていても憎まずにいられない。あの男は、戦意を無くして去ろうとしている彼から、その脱力した手から、サバイバルナイフを奪った。
 あなたはとっさに彼を庇おうと、走り寄った。その判断も、いまならば間違いだったと言える。でも、あのときのあなたは、とても冷静になれなかった。
 逆上したあの男が、彼からあなたの方へナイフを向けなおしたその瞬間、彼の、失くしていた戦意を燃え上がらせてあなたを守ろうとした、そのとっさの変転に、あなたは恐怖を覚えるよりもなによりも――喜んでいた。
 三年が経ったいま、わたしは何度でも言う。あなたは醜い。あなたは愚かしい。あなたは浅ましい。

 気付くと、あの男の腹にナイフが刺さっていて、赤い血がそこから溢れ出していた。
 彼は蒼白な顔で救急車を呼び、おぼつかない足取りでそのまま部屋を出ていった。あなたは彼の名前を読んだけれど、立ちすくんで、追いかけなかった。どうして後を追わなかったの。どうして。
 彼はそのまま戻ってくることはなかった。どうやら、あのあとすぐ中東の国へ飛び立ったようだと、あとで警察が教えてくれた。あの男が病院に搬送され、あなたがまだ呆然としたまま事情聴取を受けている間に。

 そしてこれからの三年間、あなたは飛行機の音を耳にするたびに、空を見上げるようになる。彼がそこに乗っている確率は、どれくらい分の一だろう。彼があなたとやりなおしたいと思っている可能性は、その中の何パーセントだろう。そんなことを思いながら。
 あなたは書店に立ち寄っては、外国人作家のコーナーに足を伸ばすことになる。たとえ筆名を変えていたとしても、彼の書いた小説なら、あなたには見分ける自信がある。だが、彼が書く小説が、この国でそうだったように国外でも人気を得るとは限らず、それがわざわざ日本語に訳されて出版される可能性など、ほとんどないように思える。たとえ出版社から申し出があったとしても、彼がその話を受けるとも思えないし、そもそも彼の資金が尽きたときに、再び小説で生計を立てようとするかどうかさえも分からない。資金が尽きるかどうかだって定かではない。出国した時点で彼の預金はけっこうな額で、彼はそれをほとんど引き出して、すぐ飛び立った。あとで警察が教えてくれた彼の出国先は、中東の方だったけれど、その後さらにどこかへ移動したかもしれない。行き先によっては、あれだけの金額があれば一生働かずに生きていけるということもあり得る。
 そこまで考えても、あなたは何度も書店に足を運び、そのたびに同じことを考える。
 初秋になると、あなたの思いは余計に強まる。彼が海外へ飛び立った季節。彼が照れたような、どこか怯えるような顔であなたの部屋に帰ってくる季節。

 あなたは煙草を吸うようになる。彼の面影を追うように、香りで記憶を蘇らせようとする。外国産の珍しいあの煙草は、近場では見つけ切れない。あなたは、彼の遠い親戚という、ただひとり付き合いのあった青年に頼んで、わざわざ買って送ってもらう。気まずい相手に連絡をとって、手間と金を掛けても、あなたはそうし続ける。
 あなたはそういう秋を三度経て、ふと煙草のパッケージに書いてある、いままでよく見もしなかった言葉をなぞり始める。それからその煙草の原産地がトルコであることを、やっと知る。そしてそこが、彼の向かった国からほど近いことに思い当たる。
 そんなことは手がかりにもならないと思いながら、あなたはパスポートの有効期限が切れていないか思い出そうとする。次に数日まとめて仕事を休めそうなのは、いつになるかを考え出す。そうまでしてその国に行って、たった一人の人間を、それも逃げている人間を当て所なく探して、見つけられる可能性はどれほどのものか。あなたはそれを考えて、ばかげたことだと思い、それでももしかしたらという考えが頭の片隅に居座って離れなくなる。

 部屋でナイフを握りしめてうずくまるあなたは、周囲の目など、いまはまだ思い巡らす余裕がない。ただ、あの瞬間の彼の表情を思い返し、ナイフの光を見つめ、どうしていいか分からないでいる。だが、もうすぐあなたは、さまざまな人から後ろ指を刺されることになる。幸いにも、メディアはあなたの実名も顔も出さなかったけれど、警察の聴取を受け、何度も仕事を抜けていれば、周囲が気付かないわけがない。それに、あなたは前から彼との交際をそれほど真剣に隠していなかった。彼は売れている作家ではあっても、芸能人と違って、たいていのことではスクープされるはずもなかったから。
 あなたはすぐに会社にいられなくなって、なるべく取引などの縁がなさそうな別の会社に就職する。そうして片道一時間以上はかかる、前の月給の半分ほどしかもらえない会社で、面白みのない半端な事務仕事をしながら、休憩時間に、かつて彼が出した本を読み返す。読むたびに寂しくなるのが分かっているのに。

 彼はいま、どこにいるのだろう。ことの顛末を、知っているのだろうか。あの男が死ぬの人殺しのと喚いていたにも関わらず、結局はぴんぴんしていることを。一部のマスコミがここぞとばかりに彼の過去を詮索し、騒ぎ立て、だけど、はじめは自分に都合のいいことばかりを言っていたあの男が、やがて事情聴取を受ける中で真相を隠し切れず、自分自身もバツの悪い顔で刑事の説教を聞いていたことを。
 それでも人を刺して、まったく何の罪にも問われないということはないだろう。だが、彼が殺人犯にならなかったことは、あなたにとってせめてもの救いになる。だけど、彼はそのことを知っているのだろうか。人を殺してしまったと、思い込んではいないだろうか。
 三年前の今日、部屋で呆然としているあなたも、まだそのことを知らない。あのとき、救急車で運ばれたあの男は重体のように思われた。意識がまだ戻っていなくて、あの男の家族ではないあなたには、まだ詳しい状況が知らされていない。ほんの数日後には明らかになるのだけれど、じっとナイフを見つめているあなたは、まだそのことを知らない。
 あなたは事情聴取がひと段落して、とりあえずは自分の部屋に戻されて、そこで彼のサバイバルナイフを握り締めて、ただ途方に暮れている。このままあの男が死んだら、彼は殺人犯になるのかと、そのことを考えて、半ばおびえ、半ば陶酔している。そんな自分に気付いて、自己嫌悪に苛まれて、ナイフの光をじっと見つめている。

 やがて彼のことをよく知らないあなたの母は、友人たちは、あなたに何度も言う。もう忘れていいだろうと、新しい幸せを探すようにと。
 だが、その言葉は、あなたのためを思って言われる愛情に満ちた言葉は、あなたの胸には届かない。それでもあなたは義務感のようなものにかられて、何度か彼女らの言葉に従おうかと思う。
 だが、結局誰も愛せはしない。あなたは途方もなく思える長い昼と夜を越えて、彼を待ち続ける。空をよぎる飛行機を見上げながら。あの日の悪夢に魘されながら。
 それが罪悪感に駆られてのことなのか、それともただ彼に会いたいだけなのか、あなたはもうよく分からない。それでもあなたは、いつまでも彼を待ち続ける。

彼の予感 へ続く)
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