小説トップへ   彼女の追憶へ



 数年後のぼくよ。おまえはいま望みどおり、平穏を手にしているか。孤独と引き換えの自由を喜んでいるか。それとも、人並みに後悔しているだろうか。
 少なくとも、いまのぼくは、まだ悔いていない。嘆き悲しんではいない。
 もしかすると、まだ感情が追いついていないだけかもしれない。あるいは、そもそも冷淡な人間なのかも。
 ただ、呆然と震える思考の片隅で、これで終わらせることができると考えている。この数年で彼女との間に張り巡らせた、混乱し、縺れかえった感情の糸をぷつりと裁ち切って、解きなおすことができると思い、安堵している。

 おまえは昔から、シンプルに生きたいと思っていた。複雑な感情に囚われることが嫌いだった。人との関わりに翻弄され、うまくそれをさばくことができず、後になって何度も後悔して、自己嫌悪の水底に沈むことが、大嫌いだった。
 ただ、誰に読ませることも考えずに小説を書き、そこに何かを吐き出し、ときどき山に登って鬱屈したものを全てリセットして、あとは人と関わり過ぎないように、身軽に生きていければいいと思っていた。その結果に得られるものが、安寧と抱き合わせの虚しい孤独に過ぎないと分かっていても、それでかまわないと思っていた。彼女に会うまでは。

 彼女がおまえを変えた。誰かと積極的に言葉を交わしたいと、触れ合いたいと、彼女に会うまで、おまえは一度も思ったことがなかった。誰かと過ごすことを喜びと思うことはなかった。誰かに向けて、儀礼でなく心からの笑みを頬にのぼらせたことはなかった。
 おまえの世界は長年のあいだ、表層上では開かれており、膜一枚を隔てた内側では閉じて、内部で完結していた。己の中に発生する揺れは、どれほど振幅が激しかったとしても、すべて予定調和であり、おまえを本当の意味で脅かしはしなかった。
 そのおまえの狭い世界の殻を、彼女が破った。外側から壊したのではなく、内側から破った。おまえは初めて外気に触れる動物の赤子のように、母親の胎のようなその仄暗い安息から顔を出し、おそるおそる外の世界に手を伸ばした。彼女に導かれて。けれど自分の意思で。
 それを、おまえは良い変化だと考えていた。ときにわずらわしいと感じながらも、奇跡のように、小さな宝石のように、彼女との出会いを尊んでいた。
 数年後のぼくよ。おまえはいま、どう考えている。おまえがかつて抱いた望みは、所詮不相応なものだったか。暗い牢の中で狂人が見る泡沫の夢、手に入らないものを望む子どもの駄々、いっときの気の迷い。彼女を求める気持ちは、その類の幻想だったか。
 そもそも、彼女への思いは本当に愛だったのか。長く山に籠もったとき、ふと無性に吸いたくなる煙草の一服のように、彼女を思ってはいなかったか。手が届かない所にいるからこそ、欲しいと思う、そういう無責任で利己的な欲求ではなかったか。
 おまえは結局のところ、人を愛することができる類の人間ではなかったのだ。

 その証拠に、おまえは小説を書く間、彼女を傍に寄せ付けなかった。ひとつの作品に着手したが最後、完成するまでの間は、誰とも関わりたくなかったからだ。他者と交わす言葉は、おまえにとって集中の妨げにしかならなかった。その相手が、自分の恋人であっても。
 おまえは彼女よりも小説を優先した。彼女といる間でも、着想が浮かべば上の空になった。本格的にとりかかろうという段になると、これから書き始めるからと、そっけなく告げた。
 彼女はそんなおまえに、「わかった。がんばって」と微笑みかける。そうするしかないと、あきらめてしまっているからだ。その目の奥の寂しさに、気付かない振りをするために、おまえは彼女の目ではなく、頬の泣きぼくろのあたりをじっと見ている。そして黙って踵を返す。おまえはそれきり、書きあがるまで何か月でも、彼女を放っておいた。
 小説を書くということは、おまえにとって必要不可欠なことだった。書くのが楽しいとか、人生の意義がどうとか、金になるからとかいったことではなく、ただ書かずにいられないから書いていた。書かない人生は、おまえにとって存在し得ないものだった。そういう身勝手な理屈を、おまえは彼女に押し付け、それを自分に許していた。

 そうやって本を書き上げ、おまえはやっと、しばらくの間、彼女と寄り添って過ごす。彼女もようやく明るく笑う、その目をやっと正面から見ることができる。離れていた間を取り戻すように、その時期は仲睦まじく過ごす。彼女の言うことをなるべく聞く。デートにも行く。
 だが、編集者と打ち合わせをし、世俗の事情のあれこれに添削を施されるうちに、おまえの苛立ちは耐え難く膨れ上がっていく。文句があるなら出版などしなくてもいいから、どうか放っておいてくれと思う。
 だが、それでも生きていこうと思うなら、何かを誰かに売らなければならない。
 どういうわけか、読む人のことなど考えてもいないおまえの小説は、意外なくらい売れた。すでにまあまあの蓄えができていたが、それでも一生働かなくてもいいというわけにはいかなかった。だが、毎日決まった時間の労働と、それから組織への服従を提供すること、それはおまえにとってひどく困難だった。だから、おまえは作品を売るほかなかった。小説という形に乗せて、矜持と魂とを切り売りするほかなかった。
 その延々と続く戦い、耐え忍び、消耗し、疲弊し、防戦するばかりの戦いを終えると、おまえは矢も盾もたまらなくなり、彼女の寂しげな顔すらわずらわしくなって、やがて、どこかまだ登ったことの無い山へと向かう。

 登山は、父親がおまえに教えたことの中で、唯一役に立つ行為だった。おまえは装備を整え、現地へ向かい、場合によってはガイドを雇って、山へ登った。その山の性格がだいたい分かってくると、いったん下山し、ガイドと別れ、また一人であらためて登る。持ちうる限りの装備と保存食を持ち込み、それらが尽きる頃に麓へ降りて補給し、また登る。おまえはそうして一月か二月の間を過ごす。
 やがて晩夏が過ぎて秋を迎えたあたりで、おまえの頭は山の空気に冷やされ、ようやく彼女のことを考え始める。彼女がおまえを見送ったときの、寂しさを押し殺した笑顔を思い出す。無性に煙草が吸いたくなる。あれだけ嫌っていた地上の喧騒と束縛が、おまえを絡めとろうとする、善意と悪意の間に張り巡らされた糸が、どういうわけか恋しくなる。
 そうしておまえは、山を降りようと思う。そのたびに、今度こそ彼女はおまえを見捨てているのではないかと、怯えながら。それを確かめたくないという自分の声をねじふせるのに、数日かかる。やがておまえは、彼女がとっくにおまえを捨てて自分の人生を謳歌しているところを想像し、それはもう仕方のないことなのだと自分に言い聞かせ、心の表面に頼りない防壁を用意して、やっと山を降りる。どこかの安いホテルか旅館に一泊し、髭だらけの見苦しい顔を剃り、少しましな服を着て、一応は人らしい姿を取り戻す。それからおまえは、自分のアパートに帰る前に、まず彼女の部屋を訪れる。表札の名前は変わっていないか、鍵は変えられていないか、おそるおそる確かめて、それからそっと玄関のドアを開ける。

 彼女が一月ぶり、ときに二月ぶりにおまえの顔を見て、泣き出しそうな笑顔になるたびに、おまえはたしかに罪悪感を覚えた。それなのに、なぜ毎年、山へ行きたいという欲求に抗えなかったのか。
 もう己のつまらない放浪癖など扼殺してしまって、誠実な人間へ生まれ変わろうと、今後はずっと彼女の傍で過ごそうと、帰ってくるたびに思うくせに。ときに狭い寝台の上で彼女と熱を分け合いながら、実際にそう口に出すくせに。どうして季節が変わると忘れ去ったかのように、また耐えられなくなるのか。
 結局また彼女を置いていくのなら、そんなことを繰り返すのなら、なぜ彼女を縛ろうとした。
 いや、過去のおまえは何度も思っていた。おまえのような人間に、彼女を縛り付ける権利はないと。山を降りて人の世界に戻ってきたとき、彼女がおまえを捨てて違う人生を歩んでいたとしても、それを責める権利はないと。分かっていたはずだった。何度も自分でそう予防線を貼っていたはずだった。

 だが、おまえは、何度も想像していたはずのその事態に、結局のところ耐えられはしなかった。
 あの男、いかにも図太くて、自分に自信を持っていて、女性を所有するということに何の疑問も挟んでいないような、あのいけすかない男。
 あの男が彼女の部屋で我が物顔に寛いでいるのを見たとき、おまえは何も考えることができなかった。抱えていたリュックの脇のポケットから、使い慣れたサバイバルナイフを二秒で取り出し、それを握り締めた瞬間、おまえはただ相手を殺すことしか考えていなかった。
 いや。それは嘘だ。おまえはあの男を殺し、彼女を殺し、最後に自分も死ぬつもりだった。悠長にそんなことを考えたわけではない。だが、おまえはあの瞬間、たしかにそうするつもりだった。何の理屈も、逡巡もなく。
 そうして、我に返ったいまは、みっともなく逃げている。先の予定などろくに立たないまま。少なくともまだ警察の手配が及んでいないらしい空港で、いつものリュックサックも彼女の部屋に忘れて。持って来たのは、ポケットに入れていた財布だけだった。とっさに降ろした多額の現金を、そこらで買ったバックパックに詰め込んで、おまえはぼんやりと飛行機を待っている。

 アナウンスが淡々とした女性の声で、出発時刻の近い便名を告げる。ああ、おまえの番はもうすぐだ。他人事のように、頭の中でもう一人の自分が言う。視線を彷徨わせると、ぴかぴかした空港ビルの待合所は、なんだか別世界のようだ。忙しなく行き過ぎるビジネススーツの男たち、観光の予定を楽しげに語り合うグループ、いまから帰国するのであろう身なりのいい外国人観光客。これから行く国のものだろう、せわしない言葉が耳に入ってくる。
 あのあとどうなったのか。海外のニュースではおそらく流れないだろう。テロでも起こしたならともかく、異国のありふれた刃傷沙汰のひとつを、わざわざ報道する酔狂な記者はいないだろう。それでも調べようと思えば、調べることはできる。インターネットもある。
 おまえはぼんやりと考える。だが、調べたところでどうするというのだ。いい結果であれ、悪い結果であれ、知らない方がましだと。
 行き先は中東だ。深い意味など無い。予定時刻が近い中で、すぐに取れた便というだけだった。この目は、後にどう出るだろう。持って来た金で、向こうでは何年くらい暮らせるだろうか。レートや物価を調べる余裕などなかった。ずいぶん前に一度、登山のために訪れたことはあるが、そのときはろくに観光などしなかったし、それにもう何年も経っている。
 数年後、手持ちの金が尽きた後、おまえはどうやって糊口をしのいでいるのだろうか。外国人でも雇ってくれる、日払いの職を探す? 肉体労働などしたことはないが、体力には自信がある。だが、そうそう食べていけるだけの仕事があるだろうか。
 それとも、性懲りもなく偽名で小説を売っているか。宗教も文化もまるで違う異国で、おまえの文章がたいして売れるとも思えないが。そもそも、英語でならほぼ不自由なく書けると思うが、現地の言葉をおまえは知らない。いくら必要に迫られて覚えても、この歳になって、小説を書くのに不自由しないほど身につきはしないだろう。

 おまえがいつか、遠い国の空の下で、今日この日を思い出すとき、おまえは過去の自分を笑うだろうか。それとも深い後悔とともに、なにもかも記憶の底に沈めてしまうのだろうか。
 できることならば、きれいに忘れてしまいたい。罪悪感に耐えられないからじゃない。それより、思い出せば、おまえはきっと彼女に会いたくなる。会えるかどうかなど知らないまま、母国に帰りたくなる。それが怖い。
 もしいつか、また彼女に会えたとして、おまえは二度と彼女にあの殺意を向けないと、自分を信じることができるか。
 できるかもしれない。だが、そんな自信は捨て去ってしまえ。山を下り、彼女の部屋で抱き合いながら、これからはずっと傍にいると、そんな嘘を口にしたとき、おまえは自分のその言葉を信じていた。

 数年後のぼくよ。おまえはいま、どうしている。かつて自分が刺した相手が、そのまま失血死したのかどうか、その結果を知っているのか。少なくとも、いまのぼくは知りたくない。
 彼女の部屋の、手触りのいい白いラグを染めた血の量は、多かった。おまえはどの程度の罪に問われているのか。それを知っていたとして、おまえにその裁きを受けるつもりはあるのか。図々しく日本の地を踏んで、罪を償って、またおまえの言葉と魂を切り売りしながら生きていくつもりがあるのか。彼女の前に顔を出せるというのか。どんな顔をして。どんな顔を……。

 それでもおまえは、いつか戻って彼女のもとをたずねるのではないかと、そんな気がしている。罪が重いものだったとして、警察が法に則って国外に逃亡したおまえの時効を停止し、網を張り続けていたとしても。塀の向こうで何年もの時間を過ごさなくてはならないとわかっていたとしても、それでもおまえは彼女に会おうとするのではないか。断罪を受けるために。人を刺したことの罪ではなく、彼女を何度も置きざりにしてきたことを、彼女の苦しみを無視して好き勝手に生きてきたことを、その罪の裁きを受けに、彼女のもとに戻ろうとするのではないか。
 いや、そんな理屈はどうでもいい。これまで山を下りて彼女の部屋を訪ねずにいられなかったように、ただ彼女から遠く離れた地に居続けることに堪えられなくなって、おまえは戻るのではないか。
 そんなはずはないと思う一方で、いいやおまえは日本に戻っている、堪えられはしないと、まぎれもないおまえ自身の声が、頭の片隅でそう囁いている。

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