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 律子が出て行ってから、気がつけば丸四年が過ぎていた。
 俺の生活はあいかわらずで、何人かの女が、居着いたり出て行ったりした。律子のことを思い出すこともほとんどなくなった。ただ、ときどきふいにあの曲がった小指の感触だけが、記憶の底からぽっかり浮かび上がってくる。そのたびに何か、割り切れない後味の悪さが胸にわだかまった。
 そんな感情もしだいに遠のき、すっかり薄れかかった頃だった。その日俺は、人に会う用事があって珍しく遠出した。執拗な日射しもずいぶん低くなり、通勤ラッシュのピークまではもう少し猶予があるかという時分、それでもうんざりするような人混みに揉まれながら、横断歩道の真ん中あたりで、その手を見つけた。
 色白の、爪の割れた、女の手。左の小指がほんの少し、外側に曲がった手を。
 何を考えるよりも先に、衝動的にその手を掴んでいた。人違いだったらと考える余裕もなかった。
 雑踏の中でいきなり手を掴まれたのだ。さぞ驚いてもおかしくなかったのに、その手はこちらをはねのけようとはしなかった。
 目が合ったのは、そのあとだ。
「律子」
 自分の唇がその名前を呼んだことは認識していたが、雑踏の中で、声が相手に届いたとは思えなかった。だが律子は目元を緩めた。それから困ったように微笑んで、久しぶり、と言った、と思う。
 その声はやはり、こちらの耳には届かなかった。大音量で人の背をどやしつける信号機のメロディーが、声を押しつぶしていた。
 とりあえず、渡りましょう。続いたその言葉は、かろうじて耳に届いた。
 律子の指さす方向へ、ともかく横断歩道を渡りきると、とっさに何も言えずにいる俺に、律子は小さく首を傾げた。
 往来をゆく人々が、ちらちらと好奇の滲む目をこちらに向けてきていた。それを気にしてか、律子は辺りを見回して、
「どこか、入りましょうか。時間、ある?」
 そう言った。遠慮がちな、しかし、はっきりした声で。

 入った喫茶店は、いまどきすっかり幅をきかせているチェーン店のカフェなんかではなくて、よくこの手の店が生き残っていたと思うような、昔ながらのこぢんまりした店だった。通勤時間帯だろうに、他の客は二人しかおらず、それぞれが静かにコーヒーの味を楽しんでいる。初老のマスターが丁寧な手つきで豆を扱っていた。
 何もかもに面食らっていた。律子が人目を気にして静かな場所に移動するなんていう気の利いたまねをしたことにも、こんな店を知っていたということにも。
 ブレンドを頼んでテーブル席に落ち着いてから、ようやく俺はまじまじと律子の顔を見た。あいかわらずどこか垢抜けない服を着てはいたが、にもかかわらず、その恰好から受ける印象は、以前とはまるで違っていた。ただ野暮ったく見えていたのが、地味なりにもきちんとした装いに見える。化粧も違うのかもしれない。
 律子のほうが、先に口を開いた。
「信さん、変わらないね」
 お前は変わったと言いかけて、その台詞のあまりの間抜けさに、つい笑い出しそうになった。ふた昔も前の陳腐なドラマのような会話。
 あのときはごめんなさいと、律子はまじめな顔で頭を下げた。「もっとちゃんとした手紙、書こうとしたんだけど。何書いていいか、わからなくて」
 元気にしていたのか。いまどうしてる。そんな社交辞令のような言葉さえ、動揺しすぎて、なかなか口から出てこなかった。黙り込んだまま、テーブルの上に置かれた白い手の、曲がった小指を見つめていた。俺の視線に気がつくと、律子はふっと苦笑して、
「ひとりで、なんとか暮らしてる」
 そう言った。
 誤解されたことには、遅れて気がついた。俺が、指輪のない薬指を見ているのと思ったのだろう。
 しかし、律子がひとりでいるというのは、正直に言えば意外だった。あのとき投げつけた言葉のとおりに、少しはましな男を捕まえたか、そうでなかったらまたどこかのろくでもない男についていって、似たようなことを繰り返しているのだろうと、勝手にそう思い込んでいた。
 だが、独り身と聞いて自惚れきれるほどには、あいにく俺も間抜けではなかった。そういう誤解をさせない程度には、律子の表情はさっぱりしていた。
「ちゃんとやれてる、とは言えないかな。でも、なんとか頑張ってる」
 あれから二回、職を変わったと、律子は言った。いまは小さな会社の事務をやっている。要領が悪いのはあいかわらずだが、社長夫妻がいい人たちで、ひとつずつ根気強く仕事を教えてくれ、この頃やっとどうにか恰好がついてきたとも。
「信さんといたころは、勤め先でも、してもしなくてもいいような仕事しかさせてもらえなかったし、自分でも、そんなものだと思ってた」
 律子はアイスコーヒーをストローでかき回して、少しのあいだ口をつぐんだ。前のような、ぼんやりとした、何を考えているのかわからない沈黙ではなく、どう話そうかと、言葉を探っている間だった。
「わたし、ずっと、何でも、誰かに言われるとおりにしてた。逆らわないで、よっかかってるほうが楽だった。自分で考えて何かをするよりも」
 ひとりで生きることなんて、以前はまるで考えられなかったのだと、律子は過去形で言った。
 その言葉は、いくらか腑に落ちたような気がした。あの頃、何を言われても怒らない律子を、どこか薄気味悪く思っていた。お人好しだとか、気が弱いだとか、そんな言葉では理解できないあの奇妙な従順さを。
「黙って出て行ったくせに、こんなこと言うのも何なんだけど」
 律子はストローをいじっていた手を止めて、テーブルの上に揃えると、小さく笑った。「あとから思い出したら、あのとき信さんに、手を離してもらったような気がした」
 馬鹿か、と俺は答えた。自分で思ったよりも、力の抜けた声になった。
 律子は首を傾げて微笑んだ。その笑い方も仕草も、まるきり変わってしまった。それでいて、悪態をつかれても腹を立てないところだけは、昔のままだった。

 元気でね、と別れ際に律子は言った。連絡先は聞かなかった。
 自分のアパートに帰りついてしまってから、律子の残していった文庫本の存在を思い出した。
 本屋で買ったときにもらったのだろう、書店のロゴの入ったカバーをそのまま掛けてあったから、何の本なのかもいまのいままで知らなかった。見れば一冊は、まともに本を読まない俺でもタイトルくらいは聞いたことのある有名なミステリ小説で、もう一冊は、ヘッセの詩集だった。
 律子がそんな本を持っていたということも意外だったし、それ以上に、詩集なんていうものをわざわざ買って手元に置く人間がいるということ自体が、俺には想像の外のことだった。それは、自分とはあまりにかけ離れた別世界のできごとのように思えた。
 そもそも律子が本を読んでいるところを、俺は一度も見たことがなかった。もしかするとこの本も買ったのではなく、誰かにもらったものかもしれない。もらいものを捨てるのがためらわれて、ただ手放さないでいたというのは、律子の性格を思えばいかにもありそうなことだった。
 だが、読まずにただ持っていたにしては、本にはところどころ開き癖がついていた。気まぐれを起こして詩集をぱらぱらめくってみれば、ぱたりと倒れるように、日に焼けて色あせたページが開いた。
 まともに読む気など毛頭なかったのだが、その中で、ふいに浮かび上がってくるように目についたくだりがあった。
   ほんとうに、自分をすべてのものから
   逆らいようもなく、そっとへだてる
   暗さを知らないものは、
   賢くはないのだ。
 前後を通して読んだわけでもなし、昔の詩人が何を言いたかったのかなんていうことは、まるで知ったことではなかったが、ともかくその文句は、四年ぶりに見た律子の顔を、やけにくっきりと思い出させた。一緒に暮らしていた頃とは別人のような、もう不幸そうではない笑い方を。
 律子が俺を見放したのか、俺が律子を捨てたのか。どちらだったのだろうと、あの日から何度もそのことを考えた。
 置いていかれたのはやはり俺のほうだったのだと、そのことに思いいたった途端、衝動的な笑いの発作がこみ上げてきた。
 女はしたたかだ。あの女は危なっかしくてほうっておけないだとか、ひとりにしておけないだとか、そんなおめでたいことを考えているのは、いつだって男のほうだけだ。
 気がつけば日が暮れつつあった。窓から入ってくるわずかな残光の中で、二冊の文庫本を納戸に押し込みながら、ひとり声を立てて、俺は笑った。


  (終わり)

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