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 律子と初めて会ったのは、駅裏の小汚い飲み屋だった。間違っても、女を連れていって喜ばれるような店ではない。仕事にくたびれた中年男、それもあまり上品ではない連中がたむろして飲んだくれているようなところだ。そんな場所で、律子は誰かに置いてけぼりを食らわされていた。
 時間もずいぶん遅かった。別れ話に向いているとはとても言えない、誰もが怒鳴るように話す騒々しくて油染みた店内で、いかにも場違いに、あの女はぼうっと突っ立っていた。
 自分が捨てられたことを理解しているのかどうか、俯いて泣き出すでもなければ、怒ってやけ酒を呷るのでもなく、連れがろくに手をつけずに残していった料理を、どうしていいのか判らないふうに、ぼんやりと見つめていた。
 もう少し色っぽい女だったら他の酔客も放っておかなかったかもしれないが、店内にいた誰も、あれに声を掛けようとはしなかった。どちらかと言えば、心ここにあらずといったようすの律子を少しおかしい女だと思って、関わり合いを避けるふうの距離があった。
 それにわざわざ声をかけようと思ったのは、何故だっただろう。
 自分でもよく覚えてはいない。そのときたまたま女を切らしていて、女なら何でもいいような気分だったのかもしれない。あるいは下世話な好奇心が働いたか。いずれにしても、同情だとか心配だとか、そういう上等な理由でなかったのは確かだ。
「よう、ねえさん、座ったらどうだい」
 店の人が困ってるよとか、そういうようなことを言ったと思う。律子は何度か瞬きをして、あら、と言った。それから素直にすとんと椅子に腰を下ろして、思い出したように箸を取った。
 その状況で飯の続きにする図太さが面白くて、つい吹き出した。何を笑われているのかわからない顔で、律子がふしぎそうに振り返るのに、いや、笑ってすまないと謝ると、律子はようやく恥ずかしそうな顔をして、
「残したら申し訳ないと思って」
 そう言い訳をした。
 そのお行儀のよさが、またその状況にそぐわなくて、俺はよけいに笑った。
 本腰をいれて口説く気になったのは、そのやりとりで少しばかり興味が湧いてきたのと、あとは、ほかに理由があるとすれば、そう、あれの肌が白かったことくらいだろうか。
 元々俺は、色白の女が好きというわけではない。どちらかというと取り澄ましたような肌のきれいな女よりも、化粧で荒れた肌の女のほうが好みに合っていた。だがそのときだけ、どういう魔が差したものか、あの青く血管の透ける首もとや、柔らかそうな白い二の腕に、やけに目が吸い寄せられた。
 誘うと律子はやはりぼんやりしたようすのままで、のこのこと部屋までついてきた。そのようすに、男に捨てられて自棄になっているというような気配は見えなかった。はじめは育ちがよすぎて人の悪意を知らないのかとも思ったが、話してみればどうも、そういうふうでもない。
 この女は少し頭が足りないのかもしれないと、そんなふうに思うことは何度となくあったが、律子はそれほど物知らずというわけでも、世間ずれしていないわけでもなかった。少なくとも、自分がひどい目に遭うことが想像できないというのとは違っただろう。
 とにかく、怒るとか、怖がるとか、そういうことをしない女だった。いつでもぼんやりしているか、でなければ不幸せそうに笑っているかのどちらかで、泣いているところも、そういえば見たことがない。

 律子を部屋に置くようになったのにも、たいした理由があったわけでもなかった。
 前の男が、律子をあの汚い居酒屋に捨ててゆく前に、あれの貯金を遣い潰していった。律子が自分でそう話したわけでもないのだが、話の端々をつなぎ合わせてゆくと、そういうことになる。
 律子自身は昼間は勤めに出て、安いなりに月給をもらっていたし、何より贅沢をする女ではなかった。野暮ったい仕事着を少しばかりと、安い化粧品のほかは、持ち物らしい持ち物といえば、二冊きりの古い文庫本と携帯電話と、あとはせいぜい礼服が一着か二着といったところだった。
 そんなふうにつましく暮らしていても家賃でかつかつなのだということを、律子が笑って言ったので、そんならいまのアパートを引き払って、こっちに移ってくりゃあいいと言ったのだ。
 同情したわけではなかった。そのときちょうど俺のほうでも、しばらく身の回りの世話を焼いてくれる女を切らしていたから、部屋に置いて家事のひとつもさせておけるのなら、都合がよかったというだけだ。
 その程度の考えだったから、律子に対して何の約束をするでもなかったし、甘い言葉のひとつかけてやったこともなかった。一緒に暮らしだしてからは、部屋に女を連れ込むことこそしなくなったが、あいかわらず外では遊び歩いていた。あれはあれで、そういうことに気がついていないわけでもなかっただろうが、独占欲めいたことの一つも口にしたことがなかった。

 律子が俺に何かをねだったことは、一度もなかった。何か欲しいとか、どこかに連れてゆけだとか、そういうことをまったく口にすることのない女だった。それは美点といえば、そうなのかもしれなかった。邪魔にならないという意味では。
 黙っていろと言ったら、何時間でも黙っている。その辛気くさい面がうっとうしいと言えば、文句も言わずに襖の向こうに引っ込んで、ほとんど物音も立てずに静かにしている。
 あれのそういうところが、ときどき無性に腹立たしく思えることがあって、そういうとき俺はよく舌打ちをしたり、愚図だの鈍だのと、口に出して馬鹿にしたりした。それに対して、律子はこちらの機嫌を取ろうとするそぶりさえなく、困惑したように、ただ黙り込んでいた。
 そんなふうだったから、どういう話の流れでだったか、「信さんは優しいね」と律子が言い出したとき、俺は、苦虫を噛み潰したような顔をしたと思う。
「馬鹿か」
 俺は不機嫌に一蹴したが、律子は意に介さず、首を傾げて小さく笑った。
「だって、口ではすぐ怒るけど、いっぺんだって叩いたり、蹴ったりしたことないし」
 それはたしかにそうだった。だがそれは何も、俺が女に手を上げない男だったというわけではない。律子のほうで、殴りたくなるほどの反抗のひとつもしたことがなかったという、ただそれだけのことだ。
 律子は手に取っていたリモコンを置いて、自分の左手をそっと撫でた。歪んだ小指のあたりを。それは、無意識のしぐさのようだった。
「それに前にあたしが風邪ひいたとき、お粥、作ってくれたでしょ」
 いかにもピントのずれたそのせりふに、あきれかえって、とっさに言い返す言葉を見つけあぐねた。
 たった一度のきまぐれだ。実際そのときだって、あとはかいがいしく世話を焼いたわけでなし、熱のある律子を放って自分だけ遊び歩いていた。
「それに、初めて会ったときも。他の人たち、みんな見てみないふりだったのに、信さんだけ、声かけてくれた」
「あのなあ、お前」
 苛立ちを噛み潰し損ねて、俺は声を荒げかけた。
 そんなふうに、つまんねえことでころっと騙されて有難がったりするから、いいように使われるんだよ。そう言いそうになって、だがどうしたわけか、寸前で飲み込んだ。後で思い出してみれば、なぜそのまま言ってしまわなかったのかとも思う。
 ともかくそのまま怒声を飲み込んで、俺は律子に背中を向けた。
 この女は一体なんなのだろうと、いまさらのように思った。それが、律子が出ていく二ヶ月ばかり前の話だ。

 他の男を見つけた方がいいんじゃないかと、はずみで言い捨てた、あの夏の日から何日かが経って、本当に律子が出て行ったとき、俺は心のどこかでほっとしていた。
 テーブルの上に残された小さな紙切れには、ただ一言、「お世話になりました」とだけ書かれていた。
 よく考えれば初めて目にする律子の筆跡が、ひどく整って美しいことを、意外に感じたのは覚えている。そういうどうでもいいようなことに気を取られながら、胸の隅には、やっぱりという気持ちがあった。
 毎日毎日顔をつきあわせる相手から蔑ろにされ、都合良く無視され、見下され続けることを、耐えがたいと思うだけのまともな神経があの女にあったことに、俺は安心したのだと思う。
 女に逃げられてほっとするなんていうのも馬鹿げた話ではあるが、とうとう見切りをつけられたのだと思えば、その考えはむしろ、救いのように感じられた。
 だがそんなふうに考える一方で、その思いはどこかしっくり胸におさまらず、どこかに嘘を残しているようにも感じていた。
 そういう自尊心が、あの女にもあったのだということを、俺は、信じていいのかわからなかった。
 律子はあのときの俺の台詞を、出て行けというふうに聞いたのだろうか。もうお前のようなのろまにはつきあえないから、とっとと他を探せと、額面通りに。それで行く当てもないのに、けなげに出て行った。俺の邪魔にならないように。
 そちらの考えのほうがまだしも、これまで見てきた律子の像と、重なるような気がした。だがそれは、ひどく後味の悪い思いをもたらす想像でもあった。出会った日、男に捨てられてぼんやりと突っ立っていたあの晩のように、律子がどこぞの路上で、おぼつかない様子で立ち尽くしているのではないかと考えるのは。
 だがその日、とうとう、俺は律子を探しにはいかなかった。それどころか、ためしに携帯にかけてみることさえしなかった。
 律子は少ない荷物をきれいにまとめて、昼間のうちに出て行った。確かめてみれば、残っていたのは例の短い置き手紙と、忘れたのか捨てていったのか、古びた文庫本が二冊きりだった。もし自棄になったのなら、そんなふうに荷物を整理してゆくようなこともなく、身一つで飛び出しただろう。
 情の薄い男だと言われれば、反論する気も無い。要は、みっともなく女の尻を追いかけるような真似を、薄っぺらいプライドが許さなかった。ただそれだけのことだった。


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