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 テナーは道を急いでいた。息が切れるのを押さえ、真綿のはみ出す短い足を振り、どこかで猫がふうっと威嚇してくるのを聞き流しながら、夜の道路をひた走る。
 急ぐのには理由があった。野良犬に追いかけられているわけではない。彼女を呼ぶ声がするのだった。
 いや、厳密にいえば、その相手はテナー自身を呼んでいるわけではない。ただ恐怖に震え、誰かに助けを求めているのだ。
 おおい、と、声がした。さきほどからずっとテナーの胸に響いている声とはまた別の、もっと近いところから発せられた声だった。
「おおい、ちょっと手を貸してくれないか。どうしてもこれが、破れないんだ。このままじゃ、燃されてしまう」
 声は変にくぐもっている。テナーは訝しく思い、毛糸の眉をぎゅっと寄せた。遠くから助けを請う声も、彼女の胸を掴んでいたけれど、身近で呼びかけるその声も、無視するには忍びない。テナーは足を止めて、深夜の住宅街に人気がないのをもう一度だけ確認すると、声のしたゴミ捨て場まで、さっと道路を横切った。
「悪い。ちょっとその端を、破ってくれないか」
 声の発生源は、可燃物のゴミ袋の中だった。本当なら、翌日の朝にここに運ばれるべきその半透明の袋は、ずぼらな住民の手によって、夜中のうちに出されたらしい。
 テナーは無言のまま小さな手を動かすと、ゴミ袋の端をきつく引っ張った。けれど、爪などついていない彼女の指では、ビニールを破ることは難しい。テナーはあたりをきょろきょろと見回して、そのビーズの目が、道路に転がる尖った石ころを見つけた。
 えっちらおっちら、その石を抱えて戻ると、テナーは根気強く石をこすり付けて、ビニール袋に破れ目を作った。
 声の主は、ごそごそとその穴まで這い寄ると、不器用な手つきで破れ目をひっぱり、どうにか自分の体が潜り抜けきれるくらいに、穴を広げた。
 そこから出てきたのは、消防士の格好をした、フェルト作りの人形だった。テナーよりは一回り大きく、そして、一回りどころか二回りも新しそうだった。
 まだ、自力で動けるようになってまもなくといったところだろう。テナーは寄せていた眉根を少しだけ緩めて、ゴミの臭いのうつってしまった手を、エプロンで拭う。
「やあ、助かった。ありがとう。このままだったら、明日の昼には燃されてしまうところだったよ。それにしても、感激だな。なんて素敵な人形(ひと)に助けてもらえたんだろう!」
 テナーはむっとした。あちこち布の破れてほつれたいまの彼女の姿は、素敵という形容詞にはとてもふさわしくないものだ。消防士の声に、いやみの気配はなかったものの、それでも気分のいいものではなかった。
「ゴミ袋に詰め込まれたときには、目の前が真っ暗になったけど、まさかその先に、こんな運命的な出会いが待っているなんて思わなかった。そうだ、きみ、俺と結婚してくれないか」
「わたし、軽薄な男はきらい。あなたと結婚するくらいなら、パンツのゴム紐とでも結婚したほうがましだわ」
 にべもなく断るテナーに、消防士は傷心の胸を抑えて、哀れっぽい動作でうずくまった。
「パンツのゴム紐……いくらなんでもあんまりだ」
「悪いんだけど、わたし、急いでるの」
 素っ気無くいうと、テナーはふたたび道を駆け出した。耳ではないどこかに届く声は、静まるどころか、いっそう切実さを増している。その声は、胸の深いところでテナーを急きたてた。
「なあ、何か手を貸せることはあるかい」
 テナーは驚いて、首だけで振り返った。消防士の人形が、追いかけてきていた。
「ないわ。わたしの役目なの」
「役目って?」
「この近くで、誰か、男の子が泣いてるのよ。ひどい夢にうなされて」
 テナーが足を緩めずに答えると、消防士の人形は、いやそうに唇をひん曲げた。
「よせよ。人間なんて助けたって、いいことないぜ」
 捨てられたばかりの人形が、そんなふうにいうのも無理はないと、テナーは冷静に考えた。けれど意思を曲げるつもりなど、かけらもなかった。
「あなたには関係ないわ」
 テナーは無造作にそういうと、ブロック塀を見上げた。近くに路上駐車されている自動車と、その手前の電柱の脇に詰まれた古雑誌とを見比べる。
 少し迷って、テナーは、古雑誌に飛び乗った。一番上だけ少年マンガ雑誌にカムフラージュされたエロ本の束は、危なっかしく傾いだけれど、なんとか倒れずにすんだ。テナーはそのうえで、バランスをとりながら何度か屈伸すると、思い切って、自動車のボンネットの上に飛びうつる。
 着地と同時に前のめりに転んだテナーの、もとは赤かったのが色あせたスカートのすそが、びりりと音を立てて破れた。それを少しだけ残念そうに見下ろしたあとは、テナーはすぐにもとどおりのきっとした表情に戻って、今度は車の上で助走をつけた。跳躍。
 ブロック塀のへりに、テナーの爪のない指がかろうじてひっかかった。テナーは腕をぐいとひきつけるようにして、体を持ち上げる。懸垂は彼女の得意わざだ。
「無茶するなあ」
 ぎょっとして、テナーは振り向いた。消防士の人形が、追いかけてきていた。体が大きいぶん、テナーよりは楽に塀を登ってこれたようだ。
「なんでついてくるの」
「なんでって、そりゃ」
 消防士は、口ごもって、顔を赤らめた。それから思い切ったように直立して、いった。
「きみが心配だからさ」
 テナーはもう聞いていなかった。家の庭に植えられた、栗の木の枝に飛び移るために、ブロック塀の上を助走している。
 がっくりと肩を落とした消防士は、首をふりふり、そのあとを追いかけた。


 テナーはもうずいぶん長いこと、旅をしている。彼女はもともと、愛らしい少女の姿をした手作りの人形で、作られて十数年を数えたあたりで、自分の意思で動けるようになった。
 やがて、幼いころから彼女を枕元においていた彼女の持ち主が、二十四歳の若さで早世するなり、テナーはなじんだ家をこっそりと抜け出して、以来、十年あまりにわたって、旅を続けている。
 手作り感のただよう彼女の衣装は、愛玩人形らしいフリルのついたワンピースでも、きらびやかなドレスでもなく、ごくありふれた村娘のような服装で、そこには華やかさはなくとも、素朴な愛らしさがあった。いや、かつてはあったと思われた。
 いまではツギだらけで、隠せないほつれも目立ち、毛糸の髪も乱れて、とても誰かの寝室や勉強部屋に飾られるのにふさわしい風体ではなくなってしまったが、テナーはそのことを、後悔してはいない。


 テナーは栗の木の枝にぶらさがり、振り子の要領で、一階の屋根に飛び移った。その拍子に、手の生地が裂けてまた綿がはみ出したが、テナーはちっとも躊躇しなかった。
 なるべく音を立てないように、瓦の上に着地すると、テナーはそっと雨どいを伝って窓の外に張り付いた。その後ろから、消防士がついてくる。
「何なの。邪魔よ」
「ひどいなあ。……せめて、近くを人が通りかからないか、見張ってるよ」
 消防士はテナーに協力するつもりのようだった。テナーは意外そうに眉を吊り上げたが、何もいわず、ガラス窓に額をつけて、じっとその向こうに目を凝らした。
 人間に見咎められたその瞬間、彼女ら人形は、自分の意思とは関係なく、指一本たりと動かせなくなる。見張りがいるのはテナーにとっても、実のところ、好都合だった。
 部屋の中では、ベッドの上で、寝相の悪い男の子が汗をかいて、すべすべの眉に似合わない皺を寄せていた。その首が、むずがるように、何度も横に振られる。
 テナーはガラスにつけた手のひらから、心だけを窓の向こうに滑り込ませた。
(大丈夫。もう怖がらなくても大丈夫よ)
 テナーが心で囁くと、男の子はごろんと寝返りを打った。じきにその頭の後ろから、悪夢が追い出されて、すうっと暗闇に逃げ、眼を閉じたままの男の子の表情が、きょとんとしたように緩むのを、テナーはじっと見守る。
(怖いものはもういないわ。さあ、ゆっくりおやすみなさい)
 やがて少年の寝息が深く緩やかになるのを見届けると、テナーは微笑んで、窓から額を離した。
「きみ、すごいことできるんだね」
 消防士が驚いたようにそういうので、テナーは屋根瓦に腰を下ろしながら、首を横に振った。
「べつに、特別なことはしてないわ。ほんとうは人形だったら、誰にでもできるのよ」
「……いまのいままで、思ってもみなかったよ。俺も、そんなふうに役に立っていたら、捨てられないですんだかな」
 テナーの隣に座って呟いた消防士の声は、悄然としていた。
「さあ。いろんな子どもがいて、いろんな巡り会わせがあるのよ。運が悪かったんだわ」
「そうかな」
 消防士があまりに落ち込んでいるので、テナーは少し、声を和らげた。
「わたしだって、ゴミと一緒に捨てられたことがあるわ。一歩間違えば、燃されてた。ほんのちょっとのめぐり合わせよ」
 消防士は、はっとして顔を上げた。工作用ボンドで貼り付けられたフェルトの瞳が、テナーのビーズの目を覗き込む。


 テナーという彼女の名は、彼女を作った人間、彼女の持ち主の母親が、むかし愛読していたアメリカのファンタジー小説の、登場人物からもらったものだ。
 その小説の中に出てくるほうの少女テナーは、闇の巫女として神殿で育てられ、のちによき魔法使いに救い出されたあとは、ただの女として生きることを選んだという、テナーとはまるで逆を辿るように生きた女なのだが、そんなことは、人形のテナーにとっては、知る由もない。ただ彼女はテナーと呼ばれ、四歳のあどけない少女に与えられて以来、幾千、幾万の夜を、少女の枕元ですごした。
 たとえどんな悪夢が少女を脅かしても、ひとたび目を覚まして枕もとのテナーを抱きしめるだけで、少女は安らかな息づかいに戻って、暖かな寝床に包まれて眠りの世界に戻っていく。
 どんなにつらいことがあった日でも、泣きながら寝床にもぐりこんだ少女は、テナーを抱きしめると、柔らかな眠りに包まれた。そしてテナーのその魔法は、いつだって成功して、少女を守り続けた。ただひとつ、病魔以外のものからは。
「ずっといっしょよ」
 幼い少女が、テナーを与えられた最初の日、舌足らずな口調でいったその言葉を、テナーは一度だって、忘れたことはない。
 やがて少女が健やかに、それから少しばかり夢見がちに育ち、中学生になって、テナーの名前のもとになった小説、魔法使いたちがドラゴンと言葉を交わし、世界の謎をめぐって数々の冒険をくりひろげるその物語を、きらきらと目を輝かせて読んだあとも、持ち主にとってのテナーはやはり人形のテナーであって、昔なじみの友人だった。
 彼女は大きくなっても、テナーを手放さなかった。一度だけ、少女がいつまでも子どもじみた空想にばかり遊んでいて、現実の友達に乏しいのを心配して、彼女の父親がテナーを捨てようとしたことがあった。
 翌朝起きてそのことを聞いた彼女は泣いて泣いて、顔を鼻水と涙でぐちゃぐちゃにしたまま家を飛び出した。
 子どもの足とは信じられないような速さで両親の手を振り切った少女は、あと一歩のところで出発したゴミ収集車を、大声で泣き喚きながら追った。何度も何度も転び、膝小僧から血を流しながらも、延々と三百メートルも追いかけたところで、仰天して車を止めた作業員が降りてきた。人のいい作業員に無理をいって、少女は車のなかに積み込まれた大量のゴミ袋の中から、無事、テナーを探し出したのだった。
 出会えた喜びにむせび泣き、少女は生ゴミ臭くなったテナーをぎゅっと抱きしめて、何度目かのその言葉を口に出した。
「もう大丈夫。ずっと一緒よ」


 テナーは思い出話を締めくくると、ちらりと窓のほうを振り返って、眠る男の子の表情を確かめた。今度はいい夢を見ているようで、しまりのない口元から、平和なよだれが垂れている。微笑んで、テナーは月を見上げた。
「だからね、わたしはこうして、いまも悪夢にうなされている子どもたちのところを、夜毎にまわっているの。そうしていれば、彼女の心と一緒にいられるような気がするから」
 消防士は黙り込んで、膝を抱えている。
「つまりはただの、自己満足ね。でもいいの。いよいよ動けなくなるまでは、同じことをすると思うわ」
 テナーはぼろぼろにほつれた自分の服を見下ろして、穏やかに微笑んだ。長い旅の中には、犬や猫につかまることもある。人の目に留まって動けなくなり、ただの人形に戻ってしまうこともある。中には、汚い人形だと顔を顰める大人もいれば、蹴り飛ばしたり踏みつけたりする子どももいる。
 テナーの服のほつれの半分は、そうした人間の扱いのせいだ。だけど、テナーの体のあちこちにあるつぎあともまた、彼女を拾った人間の手によるものなのだった。
 ごくまれに、かわいそうにと拾い上げて、彼女を洗い、布を当てて修理してくれる人がいる。それは少女だったり、かつて少女だった女だったりした。親切な拾い主の目を盗んで、その手元を抜け出しながら、テナーはいつだって暖かな家の中よりも、子どもたちの悪夢を追い払って回る過酷な旅を選んだ。そうしていつのまにか、もう十年が過ぎた。
「なあ。君の旅に、俺もつれてってくれよ」
 しばらくの沈黙のあとに、消防士はいった。
「なんでよ。いいことないわよ」
「そんなの、いってみないとわからない。第一、もう俺には帰る場所もないし、……それに、君といると、なにか大事なことを、思い出せそうな気がするんだ」
 消防士は、最初の軽薄な気配など欠片もみせずに、真面目な表情でテナーを見つめた。テナーは頬を赤らめて、ぱっと視線を逸らす。
「さっき、素敵な人形(ひと)っていったのは、嘘じゃないよ。俺の目は間違ってなかった。きみはとても素敵だ」
「ばかじゃないの」
 テナーは目を逸らしたまま、そういったが、言葉ほどには、口調に力がなかった。
「だめかな」
 急に気弱そうにいう消防士に、テナーは怒ったようなそぶりのままで答えた。
「勝手にしたら」
 消防士はぱっと顔を輝かせた。立ち上がってテナーを抱きしめようとするのを、するりとかわして、テナーは屋根のへりに向かった。月明かりに照らされた足元は明るく、栗の木に飛び移るよりも、庭の芝生の上に飛び降りるほうが楽そうだった。ここの家では、犬を飼っているようなふしもない。ほてった顔を夜風に当てながら、テナーは助走をつける。
「それでいつか、俺がパンツの紐より少しはマシな男になれたら、結婚してくれないか」
 背中から追いかけてくるその言葉に、ますます顔を真っ赤にしながら、聞こえないふりをして、テナーは庭に飛び降りた。

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お題:「パンツのゴム紐」「振り子」「哀れ」
縛り:「恋愛もの」「キャラクターとして人間を出さない(任意)」「主人公の服装を描写」
任意お題:「ポテトサラダ」「ドラゴン」「すれ違い」「新種のマウス」「千年無敗」「野球」(一部使用)


  人形たちの夜 へ続く

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