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 その家の塀は端が崩れかかっており、風が吹くたびに柱が軋んだ。赤い屋根は色あせ、庭には雑草が生い茂っている。不動産屋が貼り付けた、空き家の表示。もう何年も人の住まない、荒れ果てた家。
 陽の光が夕暮れの気配を帯び始める頃、その軒下に、動く小さな影があった。
「なあ、テナー。いいかげん退屈だよ。何か話をしてくれよ」
「しっ。声を出さないでったら」
 その声は、ごく小さくひそめられた囁きだった。
「そんなにびくびくしなくても、空き家なんだし、塀もあるんだから、外からはわからないよ、ほら」
 そういって軒下から飛び出したのは、消防士の服を着た、フェルト製のぬいぐるみだった。ところどころにできたかぎ裂き。オレンジの消防服には、ちょうど火事ですすけたかのような汚れもいくつかついている。その顔で、糸を縫い付けられただけの口が、にっこりと笑った。
 軒下から、声だけが追いかけてくる。
「だめだったら。はやく中に戻って」
「平気だって」
 消防士の人形は、その場で証明してみせるように、くるりと回転した。
「ああ、やっぱり広いところがいいなあ。君も出ておいでよ。床下のじめじめした匂いったら」
 暗がりの中から、ため息がひとつ。
「ほんものの消防士は、きっとあなたみたいな不注意なひとには、なれないでしょうね」
「そうかな、むしろ必要なのは度胸じゃないかな。失敗をおそれてばかりじゃ、危険には飛び込めないよ」
「ほんとうに消火をしたことがあるわけでもないくせに」
「あっ、傷つくなあ、そのいい方」
 消防士は大げさに、胸を押さえてみせた。
「俺だって、消火活動くらいはしたことがあるんだぜ」
「うそつき」
「うそじゃないよ。俺をもってた男の子の親父さんがね、寝煙草をするくせがあって……」
 言葉がぶつりと途切れた。消防士の人形は、直立不動の姿勢でぱたりと倒れる。先ほどまでのいきいきした笑顔は、もとどおりの、糸で縫いつけられただけのまっすぐな線に戻っていた。
 人間に姿を見られたのだ。テナーは床下で、息を潜めた。いま慌てて駆け寄っては、自分まで、同じことになってしまう。
 年を経て自力で動けるようになった人形たちも、人間の視界に入ったとたん、自分の意思とは関係なく、ただの人形に戻ってしまう。
 テナーはじっと息を詰めて、耳を澄ます。誰かの足音が近づいてくる。ひとつ、ふたつ。靴音が軽い。学校帰りの子どもたちが、冒険心を起こして、探検しているのかもしれなかった。
 ぎしぎしと、テナーの真上の床板が軋んだ。戸が立てられて、家の中には入れないようになっていたけれど、その戸を誰かがあきらめ悪く、がたがたと揺らす音がした。
「やっぱり、入れないよ」
 男の子の声だった。テナーは固唾を呑んで、さらに耳を澄ます。
「なんだ、つまんねえな。……あれ、なんだ、これ」
 ぎゅっと、心臓をつかまれるような思いで、テナーは唇を引き結んだ。
「ボロっちい人形だなあ。こんなの、前にきたときにはなかったぜ」
 消防士が見つかったのだ。テナーはとっさに上げそうになった声を飲み込んで、じっと身を硬くした。庭に向けた視線を凝らす。
「誰か、俺たちのほかにも、探検にきたやつがいたんじゃねえの」
 面白くなさそうに、声は吐き捨てる。床下から見守るテナーの、横に細長い視界に、泥にまみれたスニーカーと、そこから伸びた細い足が、にゅっと現れた。その靴底が、無造作に消防士を踏みにじるのを、彼女はただじっと息を詰めて見つめていた。
 小さいころには誰だって、人形に感情移入する力を持っているのに、いつごろから子どもたちは、人形をただのものだと思うようになるのだろう。テナーは俯いて、スニーカーと白い靴下とを見つめた。彼らはときに、人形に話しかけていた前の自分を恥ずかしいと感じて、なかったことにしたがるように、わざと乱暴に扱う……
 男の子が足をどけたあとには、泥の靴跡のついた消防士が、人形らしい平坦な表情で、じっと空を仰いでいる。彼を捨てたという男の子は、いくつくらいだったのだろう。テナーは何もできないまま、せめて消防士を勇気付けるように、じっと見つめていた。
「しょうがねえな。もう行こうぜ。雨も降りそうだし」
「あーあ。秘密基地にしようと思ったのにな」
 男の子たちの話し声が遠ざかっていく。靴音が完全に聞こえなくなるのを待って、テナーは軒下から飛び出した。中世ヨーロッパあたりの村娘ふうの、ごく素朴な服装が、雲越しの弱々しい夕陽に照らされた。
「大丈夫? どこか破れてない?」
「平気。あーあ、ひどい目にあった」
 服を払いながら、消防士はわざと軽い調子でいって、肩をすくめる。べっとりとついた泥は、ちょっとやそっとでは、落ちそうになかった。
「ま、無事でよかったよ。……なあ、もうじき暗くなるし、そしたら出かけるだろ?」
「あきれた。懲りてないのね。だめよ、暗くなったって、まだまだ人通りは多いんだから。動くのは夜中。何回いったらわかるのかしら」
 ちぇっと、舌打ちをして、消防士は空を振り仰ぐ。それでも文句はいわず、テナーのあとにつづいて、軒下に戻った。
 テナーはじっと、暗がりのなかで膝を抱える。なんでもないふうにしているけれど、きっと消防士は傷ついただろう。消防士のもとの持ち主は、男の子だった。
 そっとしておくのと、話をきくのと、どちらがいいのだろうか。しばらく迷ったあとで、テナーは潜めた声をだした。
「ねえ、あなたの持ち主って、どんな子だったの」
 消防士は、すぐには答えなかった。日没にどんどん暗さを増していく視界の中で、テナーから視線を外し、じっと外を眺めている。
「いいたくないんだったら、もう聞かないわ」
 後悔して、テナーがそういうと、消防士はゆっくりと首を横に振った。
「とにかく、乗り物が好きな子でね、電車とか飛行機とか、大型トラックとか、ゴミ収集車とか」
 最後のひとつがほかから浮いている気がして、テナーは思わず頬を緩めた。小さい子には、乗り物というだけで、同じ括りにはいるのだろうか。
「家の人たちがたまにいう思い出話からすると、どうも、最初はパトカーに乗るのに憧れてたらしいんだけど。でも、いつか家の近くで火事があったらしくて」
 しんみりとした口調で話す消防士に、口をはさまず、テナーはだまって頷いた。
「念のためっていうんで、避難するときに、母親に抱かれて、消防隊員の姿を見たらしいんだよな。それで、まあくんも大きくなったら消防士になるんだって、それが口癖でさ」
 誇らしそうな声で、消防士はいうと、そこでぱっと口を噤んだ。迫ってくる宵闇に、消防士の表情は、テナーには見えない。
 雨の匂いがするわねと、テナーが呟いた。


 夕方にぱらつき始めた雨は、すぐに本降りに変わった。いまは天の底が抜けたようなどしゃぶりで、空はすっかり分厚い雲に覆われている。
「なあ、ほんとに今日も行くのかい」
「だって、声がするんだもの」
 テナーはきっぱりといって、雨の中に飛び出した。雨が、テナーの布の肌を激しく叩く。それでもテナーはひるまず、足早に庭を横切る。
 誰か近くの家で、子どもが泣いている。悪夢に怯えてうなされている。そうした子どもたちの悲鳴は、いつだってテナーの胸を叩くのだ。雨よりもずっと強く。
「そっちこそ、さっきまでは、あんなに外に出たがってたじゃない」
「こんな雨じゃなければね。なあ、おとなしく軒下でのんびりしていようぜ。悪い夢を見たくらいで、子どもは死んじまったりしないよ」
 その声を無視して、テナーは雑草を掻き分ける。布に綿を詰めて作られたテナーの体は、濡れるとひどく重くなる。いつもよりもいくらか鈍い動きで、テナーはそれでもせいいっぱい足早に歩く。
 消防士はため息をついて、思い切ったように飛び出した。すぐに大粒の雨が、オレンジ色の消防服をぐっしょりとぬらし、フェルトの中に染み渡っていく。
「大雨で、いいこともあるわ」
 テナーは笑いながらいった。
「人目にはつきにくいし、ついでに洗濯にもなるし」
 消防士は大きく肩をすくめて、返事にかえた。
「場所は、遠いのかい」
「いいえ、すぐよ。たぶん、五分くらい。晴れてるときの感覚で、だけど」
 その言葉のとおり、雨足に遮られて、その家にふたりがたどり着いたのは、十分後のことだった。
 大きな家だった。お屋敷とまではいわないけれど、周囲の家の倍くらいの敷地はありそうだ。
「庭に犬がいるわ。雨で鼻が鈍ってるといいんだけど……」
「鎖がとどかないところからいけば、大丈夫だろ」
「吼えて、家の人が起きてくると、面倒よ」
「ついでに、そのうなされているっていう子も起きたら、それでぜんぶ解決じゃないのか」
 テナーにきっと睨みつけられて、消防士は視線を逸らすと、手袋の指で頭をかいた。
「で、肝心の子ども部屋は、どのあたりなんだい」
 聞かれたテナーは、いっときのあいだじっと耳を澄ましたあとで、爪のない指を伸ばし、二階の角部屋を指した。
「どうやって上る?」
 テナーは無言のまま、家の外壁を指ししめす。その先には、こげ茶色に塗られた管。雨どいだった。
「あれをよじのぼるのか? 苦労するぜ」
「どこかから飛びうつろうとしても、雨の勢いにおされて落ちちゃうわ」
 テナーはいうと、さっさと門扉の下をくぐる。整えられた庭を、犬小屋をなるべく大きく迂回するように、駆け抜ける。芝がいくらか鳴ったけれど、さいわい、犬が吼える気配はなかった。
 テナーは雨どいをがっしりと掴んだ。降りはまだまだひどく、容赦なく綿を重くぬらしていく。
 雨どいの管には起伏が少なく、次の金具までは、テナーの身長よりも遠い距離がある。手だけで体重を支えるのは無理だ。テナーは必死に壁のささやかな凹凸に足をひっかけて、雨どいと壁の間の狭い隙間に、半ば体をねじこむようにしながら、じりじりと上っていった。体の下から、雨が管の中を勢いよく流れていく、ごうごうという振動が伝わってくる。
 濡れた壁と雨どいから、黒っぽい土ぼこりが、村娘ふうのテナーの服に、べっとりとうつる。壁の起伏が鋭いところがあって、赤いスカートのすそが破れた。一度はテナーのおさげが金具にひっかかってバランスを崩し、すんでのところで落ちそうになった。
 ようやく、一階の屋根の上に出た。テナーはなかば転ぶようにしてそこに着地すると、袖でぐいと顔を拭った。かえって汚れがひろがって、黒い筋になったけれど、それはどこか戦闘民族の化粧のように、勇ましく彼女の頬をかざった。
「あーあ。何が洗濯代わりだって?」
 消防士の声に、テナーはつんと低い鼻を逸らした。
 それでも振り返り際、そのヘルメットにはいった新しいかぎ裂きと、消防服の破れ目にきづいて、テナーは眉を下げた。
「無理につきあってくれなくていいのよ」
「俺だって、好きで君を追いかけてきてるんだよ」
 テナーは頬を赤らめて、消防士の笑顔からぷいと視線を逸らすと、瓦を蹴って、窓の下に移動した。
「そこの部屋?」
「そう。静かにしてて。起きちゃうわ」
 テナーがそういった瞬間だった。
 空が白く染まった。
 二人とも、その場で凍りついた。ほんの一秒ほどの間のあとに、轟く雷鳴。雨が勢いを増した。
 稲光。
 庭の犬小屋で、犬が立て続けに甲高い声を上げた。怯えているのだろう。
 隣の部屋で、がらがらと窓を開ける音がした。物音に驚いた家人が起きだしてきたのだ。
 テナーと消防士は、その場で伏せた。屋根にへばりつくようにして、息を殺す。顔を上げることができないので、あけられた窓と自分たちの位置関係が、正確にわからない。視線がいまにも自分たちの背中をなでるような気がして、二人はじっと緊張に体を竦ませる。
 自分たちの家の屋根に、なぜか見知らぬ人形が、それも二体も落ちていることに気が付いたら、家人たちはどう思うだろう。不思議なことがあるものだと、首を捻るだろうか。それとも、いつかの台風のときに飛ばされてきたか、カラスのしわざと思うだろうか。
 どちらにしても、自分たちの家の屋根に、汚れてくたびれた人形が落ちているのを、そのままにしておくはずがないと思われた。
 まさかこの大雨の中、それも深夜に、すぐに人形を捨てるために、屋根に這い上がってはこないだろう。そう自分に言い聞かせながら、テナーは心臓に氷を突っ込まれたように、胸が冷えるのを感じていた。
 その手を、しっかりと握る指があった。
 テナーは体を動かさないように、慎重に視線だけを横に向けた。消防士の手袋越しの手が、自分の手を掴んでいた。
 手を動かせるということは、少なくとも、まだ人間の視界に入ってはいないということだ。テナーはいくらかほっとして、その場にじっと伏せることに専念した。
 三度目の雷光。少し、雷が遠のいたようだ。今度は音がするまでに、時間差があった。犬はまだ吼えている。
 雨が体の中を通り抜けて、じっとりと重く綿を湿らせる。それでも繋いだ手からぬくもりが伝わってくるような気がして、テナーはその手を握り返した。実際には、人形の手が熱を持っているはずもなく、冒険に汚れた手袋は、雨と同じ温度なのだけれど、それでもテナーにとって、それは温かいように思われた。
 がらがらと、窓を閉める音がした。普通の人は雨が降り込むのをいやがる。それほど長い間のことではなかったのだろうけれど、ふたりにとっては、一時間もあったかのように感じられた。
「……ああ、もうだめかと思った」
 急に頼りない声を出した消防士に、テナーは思わず小さな笑い声を立てて、握ったままだった手を放した。
「どうだい、子どものほうは」
 テナーははっとして、心の耳を澄ました。
「……いけない。まだうなされてるわ」
 ぱっと、窓枠に駆け寄るテナーの背中を、消防士の笑い声が追いかけた。
「ええ、ぜんぜん起きなかったのか? あの騒々しい中で?」
 苦しそうにうなされている子どもに悪いと思いながら、テナーも思わず小さく吹きだした。
 窓に張り付くと、中で眠っていたのは、小学校の中学年くらいだろう、可愛らしい女の子だった。眠りながら泣いている。頬をつたった涙の筋が、街灯のあかりを弾いていた。
「へえ、なかなかの美少女じゃないか」
 横で消防士が口笛を吹くまねをするのを、肘で小突いて、テナーは額を窓ガラスに押しあてた。
(泣かないで)
 テナーが胸のうちで呼びかけると、ややあって、少女の表情がやわらいだ。
(大丈夫、ただの夢よ。悲しいのはもうおしまい)
 くりかえしテナーが囁くと、少女に取り付いていた悲しい夢は、少女の意識から追い出されていった。その気配はしばらくのあいだ、未練がましく頭の周りをぐるぐるとまわったあとで、名残おしげに掻き消えた。
 その表情が安らいだのを見て、テナーはやりとげた喜びに微笑みを浮かべていたが、やがてはっとして、部屋の中を見渡した。
「やっぱり、きみはすごいな」
 消防士が賞賛を送るのにも気づかず、テナーは少女の部屋の中に、必死のようすで何かを探している。
「どうかしたのかい」
「ないの。人形が」
 テナーの悲しげな声に、消防士は訝しく首を傾げた。テナーは俯いて、力なく囁いた。
「わたし、この子のところにきたのは、二回目だわ。さっきまで、気づかなかった。前には犬がいなかったし、家も少し改装したみたい」
 風向きがかわった。雨が窓をたたき、たくさんの筋を作る。人形は涙を流さない。テナーのかわりに窓が泣いているように、消防士の目には見えた。
「前にはいたの。お姫様みたいな格好をしたフランス人形と、テディベアが二体と、この子の枕元に」
 しばらく黙り込んで、ふたりはじっと、部屋の中を見つめていた。
 ベッドとクローゼットのほかには、教科書やノートのならぶ学習机が、二人の位置から見えていた。そしてその上にも、人形やぬいぐるみは、ひとつも見当たらなかった。そのかわりのように置かれた、写真立て。好きな男の子の写真でも飾ってあるんだろうか。
「どこかに、大事にしまってあるのかもしれないよ」
 消防士は慰めのようにそういったけれど、テナーはうつむいて、首を振った。
 テナーにはほかの人形の気配が、なんとなく感じ取れる。この家には、少なくとも何年も大事にされてきたような人形の気配は感じ取れなかった。改装のときに、捨てられてしまったのかもしれない……。
 雷は、もうどこかに去っていってしまったようだった。庭の犬もいつのまにか静かになって、ただ雨音と、たまに遠くを走る自動車のタイヤの水を蹴散らす音だけが、深夜の住宅街に響いている。
「時間は、流れるんだよな」
 消防士はしんみりといった。テナーは顔を上げずに、俯いた。
「夕方の話の、続きなんだけどさ。俺が昔、何回か消火したってのは、ホントなんだよ」
 消防士は、テナーの肩を抱くようにして、ゆっくりと話し出した。
「でも、そのうち親父さんは禁煙に成功して、寝タバコの心配もいらなくなったし、雅也は消防士になりたかったことはすっかり忘れて、心理学の勉強をするんだってさ。いまごろ、どっかで一人暮らししながら、勉強、頑張ってるんだと思う」
 雨に紛れそうな小声で、消防士は話し続けた。テナーは窓の中に視線を向けたまま、じっと耳を澄ましている。その背中を、少し勢いの弱まった雨が、慰めるようになでていく。
「将来の夢は消防士だっていってたのにねって、母親がからかうと、もう本人も覚えてないことを、いつまでもしつこいなって、怒るんだよ」
 大学に合格した雅也は、反抗期が長引いていて、両親のどちらともよく喧嘩をしていたのだと、消防士は語った。
 雅也は引越しのために荷物を整理していて、ずっと押入れにしまいこんでいた消防士の人形を、何年ぶりかでみつけた。そこでまた母親が、懐かしむようにその話を蒸し返した。苛立った雅也は、腹立ち紛れに、思い出の人形を可燃ごみの袋に突っ込んだ……。
「どうしたって、子どもは、変わっていくんだよな。でも、それは多分、いいことなんだよ」
 消防士はいって、寂しそうに笑った。
 テナーはその言葉に、頷けなかった。
 消防士には名前がない。名前をつけてもらえなかったのだ。
 彼のまあくんは、小さいころ、彼のことを、消防士のお人形とだけ呼んだ。名前をもったひとりの友だちになることもなく、やがて忘れられ、あとは何年もずっと、暗い押入れの中に閉じ込められて……。その話を前にきいたとき、テナーは泣いた。人形の目からは涙は出ないけれど、肩を震わせて、テナーはたしかに泣いていた。
 人形にとっては、ありふれた運命だ。どこにでもあるような話だ。わかっていても、悲しかった。
「子どもたちはさ、だんだん、俺たちや、空想の友達よりも、まわりの人間に関心が向くようになるんだ。それって、いいことだよな」
 消防士は重ねていうと、自分を納得させるように、何度も頷いた。それから、にっこりとテナーに笑いかけた。
「元気だせよ。君らしくないぜ」
 テナーは頷いて、しばらくじっと俯いていた。
 長く迷ったあとに、テナーはやがて、きっと顔を上げた。ビーズの瞳が、決意をこめて、消防士をまっすぐに見つめる。
 あのね、と、テナーは切り出した。
「いまのまあくんが、どう思っているかはわからないけど。でも、でもね。自分の意思で動けるようになるのはね、ほんとうに大事に思われた人形だけなのよ」
 消防士は眉を上げて、テナーの顔を覗き込んだ。
「慰めてくれるのかい」
「ちがう。本当に、そうなのよ。誰かに聞いたわけじゃないけど、わたしがこれまで見てきた人形たちは、みんなそうだった」
 テナーはいって、消防士の目をじっと見つめた。フェルト生地の切り張りでできた消防士の瞳が、しばらく、その話を信じるかどうか迷うように揺れていた。
「ありがとう」
 やがて消防士は、かすれた声を落とした。テナーは無言で首を降って、涙をぬぐうように頬を擦った。
 それから二人は黙って、しばらくの間、じっと空を見上げていた。雨は小降りになりつつあった。西の端では、雲がわずかにきれて、星空が垣間見えている。

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お題:「直立不動」「へばりつく」「禁煙」
縛り:「主人公は二重跳びができない(任意)」「小3の美少女が登場する」「天気は雨、主人公は傘をもっていない」「体言止めを多用する」
任意お題:「スクール水着」「犯罪者」「紛らわしい」「何時もホームで見掛ける美少女が最近、現れない」(使用できず)

  夜明けの歌声 へ続く

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