ファナ・ティオトルの学び舎にて へ  小説トップへ


 
 窓から入ってくる光が弱まったことに気がついて、ふと顔を上げた。斜めにさし込む金色の光が、教室に舞う埃をきらきらと輝かせている。
 ボウディスの夕陽は息が長い、というのだそうだ。故郷から鉄道で四日もかかるこの地方では、空気の乾きも、陽射しの加減も、夕暮れどきに日が沈む速度まで、何もかもがまるで違っている。何より、周囲に崖も高い山も見当たらず、どこまでも広がる平地に、町並みが延々とつづいている。そのことが、ここにきて二年以上になるいまでも、ときどき不思議に思える。
 気が付けば、教室にはもう誰も残っていなかった。さっきまで床にくっきりと落ちていた自分の影が、いつの間にかぼんやり滲んでいる。しらないうちに抜け落ちていた、自分の羽根を拾うと、それは夏羽の残りだった。ああ、秋なんだなあと思うと、なんだか感慨深いような気がした。
 腰を上げて、ゆっくり筆を洗う。顔料の瓶に蓋をする作業にも、とても気を遣う。四本の鉤爪のついた手は、人間種族のそれと比べれば、まったく繊細な作業に向いていない。筆をとって絵を描いている間よりも、むしろ道具類を片付けているときに、よくそのことを感じる。
 画材はどれも、驚くほど高い。友人たちは、よく使わなくなった道具やあまった顔料を分けてくれるけれど、それでもとうてい追いつかない。
 アルバイトをしなくてはならないな、と思う。事務局に出向いていけば、学生向けの求人は案外いつでも並んでいる。友人いわく、ここの学生には金持ちのお坊ちゃんが多いので(この言葉を使うとき、ワーキリーは少し顔をしかめた。彼の家は貧しかったというので、思うところがあるのだろう)、面倒なアルバイトなど、引き受けたがる者は少ないらしい。
 だけど応募はしてみても、向こうのほうで、なかなか雇ってくれない。もう少し南の地方なら、あんがい蝋羽族(ろううぞく)の出稼ぎも目につくのだけれど、いかんせんこのあたりは、ぼくらの領土からは遠すぎて、人々はぼくらの姿になじみがない。
 窓を開ける。溶剤の強烈な匂いにすっかり麻痺してしまっていた鼻が、新鮮な空気を嗅いで、ようやく生き返った。

 遠回りになる渡り廊下を選んで歩いたのは、夕食を、友人とともにとりたいと思ったからだった。ここの人たちはたいてい、食事を一人で摂ることに抵抗がないようなのだけれど、ぼくはどうにもそれが味気なくて、好きになれない。
 知った顔に行き会うと、肩を軽くゆすって挨拶に代える。そんなジェスチャーは、本来なら流儀ではないのだけれど、故郷の習慣を持ち込んで大きく翼を広げると、狭い廊下では、ひどく往来の邪魔になる。かといって、人間種族のまねをして鉤爪のついた手を振り上げると、かれらにはときに、それが脅威にうつるらしい。それで仕方なく、かわりに挨拶らしくみえる仕草を考えた。正確にいうと、ワーキリーと相談して決めた。最初はぎこちなかったのが、このごろようやく、さりげない挨拶ができるようになったと思う。
「よう、アカアシ。ご自慢の羽根が絵の具だらけだぜ」
 にやにやしながら声をかけてきたのは、シャガンだった。彫刻を専攻している同輩で、いまにも動き出しそうな、躍動感のある像を彫る。かと思えば、ひとたび神像や精霊像を作らせると、そこには見る者を思わず畏怖させるような、厳粛な静けさが滲みだす。ぼくらは皆、年に二回ある大きな展覧会――天暁展にあわせて、普段の習作とはべつに、半年がかりで気合を入れた作品を仕上げる。前回、シャガンが出展していた女神像には、まさに神の息吹が宿っているようだった。というよりもむしろ、ほんものの女神が天から降りてきて、なにかの神秘的な力でそのまま石化したんじゃないかと思うくらいだった。
 シャガンは天才なのだと、みんながいう。そして一度でも彼の作品を見たことのある者は、その話を否定できない。その素行の悪さもあって(悪い、らしい。誰もが口をそろえてそういう。ぼくには集団生活における人間種族のモラルが、いまだにうまくのみ込めていない)、学内でもとびきり有名な男だ。
「もうこの頃じゃ、自分でも、落ちなくなった絵の具と、もとの羽根の色と、だんだん区別がつかなくなってきたよ」
「嬉しそうにいうなよ」
 シャガンはさもおかしそうに笑って、それから首をひねった。
「今日はワーキリーと一緒じゃねえのか、珍しいな」
「それが、お母さんが会いにきてるっていうんで、一緒に出かけちゃったんだ」
 ふうん、と相槌をうって、シャガンはなんとなく、面白くなさそうな顔をした。どうしてそんな顔をするのか、訊こうかと思ったけれど、やめた。シャガンには、詮索されるのを嫌がる傾向がある。
「ねえ、君はもう夕食は済ませた? まだなら、一緒に食べてもいいかな」
 訊ねると、シャガンは肩をすくめた。
「野郎とツラを突き合わせて飯を喰うってのも、なんつうか、色気のねえ話だよな。まあ、べつにいいけどよ」
 一瞬、その言葉に驚きかけて、それから、ああ、と思った。何回聞いてもつい忘れてしまうのだけれど、人間種族には発情期というものがなくて、健康な若者は、できることならいつだって、魅力的な異性にアプローチしたいのだ。(……と決め付けたら、前にワーキリーに怒られた。みんながみんな、そういうわけでもないらしい)
 でもこの場合は、たぶん、軽口でいっているだけなのだろう。なんといったっていまのシャガンは、生きた女の子よりも、目下製作中の木彫りの美女のほうに、夢中のはずだから。
「噂の大作は、順調?」
 学生食堂に向かって歩きながら、そう訊くと、シャガンは得意げににやりとしてみせた。シャガンは謙遜をしない。次の天暁展が楽しみだ。
 ファナ・ティオトル芸術大学のキャンパスは広い。シャガンと行き会った渡り廊下から延々と歩いて、彫金科の横を通り過ぎたところで階段を降り、いったん玄関を出る。食堂は別棟だ。
 外に出てふりかえると、千人余りの学生を収容する教室棟は、巨大だった。こういう大きな建物を、大勢の人手を集めて、何年もの時間をかけて作り上げてしまうというところが、人間種族のすごいところだと思う。ぼくらには建物を作る習慣がなくて、そのときそのときで住みよい場所を渡っていく。だけどこれだけ頑丈で、機能性に配慮された建物があれば、夏にも冬にも、嵐が来ても、ひとつの場所に長く住み続けることができるだろう。長らく会っていない知人の消息を知るのも、ずっと楽だ。
「なあ、ワーキリーのお袋さんって、美人だったか?」
 シャガンに聞かれて、思わず首を傾げた。ぼくの人間の顔に対する美的感覚と、彼のそれが一致するかどうか、いまひとつ自信がなかったのだ。
「ぼくは、きれいな人だと思ったけど」
 そう答えると、シャガンもそのことに気がついたらしい。舌打ちして、足元に落ちていた木片を蹴った。転がっていく小さな塊は、多分ゴミなんだと思うけれど、もしかしたら、誰かの作品から落っこちた部品かもしれない。拾いにいくかどうか迷っているうちに、シャガンが大声を出した。
「覗きにいってみるか」
 きょとんとしたぼくの背中に、シャガンは腕を回して、にやっと笑った。
「ワーキリーだよ。あんなカタブツのお袋さんが、どんなんなのか、興味あるじゃねえか」
「でも、どこにいったかわからないよ」
「何かいってなかったのか。行き先とか」
「そういえば、せっかく遠くから来てくれたんだから、観光に連れて行くとはいってたけど」
「このあたりで観光つったら、美術館か寺だろ」
 シャガンは本気らしかった。たしかにここから近い観光地といったら、昔の王様が建てて以来二百年の歴史を誇るという、ティオトル美術博物館と、ヴァーディア教の神様を祭るサン・ティトリ寺院の二箇所だけなのだそうだ。この町にやってきたばかりの頃に、そう教えてもらった記憶がある。
「でも、どっちにいったかわからないよ」
「美術館だろ」
 いって、シャガンは裏門のほうに足を向けた。どうしてそういいきれるのか、わからなくて、首を傾げていると、シャガンが振り返って、唇の端を吊り上げた。
「息子が絵を描くのを歓迎するような親なんだったら、真っ先に連れて行きたがるだろうし、逆に反対されてるんだったら、この機会にゲージュツのスバラシサをなんとか理解してもらおうとか、そういうことを考えるだろ。あいつの性格的に」
 真面目だし、なにより芸術馬鹿だからな。そうシャガンはいって、にやりとした。ワーキリーが芸術馬鹿なら、自分だってそうだろうにとは、ぼくはいわなかった。多分シャガンは、あいつと一緒にするなといって怒るだろうから。

 ティオトルの街は、賑やかだ。陽が沈みかかるころには、早々にきらびやかな街灯がともる。通りを行き交う人の数はとんでもないし、大通りの両側にずらりと並ぶ商店には、およそこの世の中にあるものは何でもひととおり売ってあるのではないかと、そう思うほど、雑多な商品が並べてある。
 これでも田舎のほうだと、シャガンはよくいうけれど、これが田舎なら、この国の都会はどんなのなんだろう。鄙(ひな)びた辺境からやってきたぼくには、とても想像がつかない。あいにく、観光旅行にいくような余裕はいまのぼくにはないけれど、いつか機会があったら、一度は王都の町並みを見てみたいものだ。
 道をゆく人々が、振り返って自分の姿をじろじろと見るのを、ぼくは最初、蝋羽族の姿が珍しいせいだろうと思っていたけれど、しばらくして、自分の服が絵の具に汚れたままだったことに気がついた。学内では、学生のそういう姿は珍しくもないから、すっかり頭から抜け落ちていた。臭うかな。臭うだろうな。
 自分の袖を嗅いでいると、「腹へったな」とシャガンがぼやいた。もともと食堂に行きかけていたのを、いまやっと思い出したらしい。
「美術館の近くで、飯にするか」
 ワーキリー探しはどうするんだろう。そう思いはしたけれど、食事にすることに異議はなかったので、肩をすくめるだけにした。
 ティオトル美術博物館の近くに並ぶ、観光客目当てらしい料理店のひとつの前で、シャガンは立ち止まった。
 それが、どうもそれなりにいいお値段のしそうな店構えだったので(この頃ぼくにも、だんだんそういう見分けがつくようになってきた)、思わず絵の具に汚れた服のポケットをゆすった。心もとない音がする。普段だったら、財布の中身はあまり気にしない。なんせ、学生食堂の食事は安い。とても安い。シャガンはそのぶんきっちり不味いというけれど、ぼくにはそうは思えなかった。味覚が違うのだから、当たり前なのかもしれないのだけれど、ワーキリーも真顔で「この値段にしては、奇跡的にうまいと思うよ」といっていたので、たぶん、シャガンの生家で出されるご飯が、とても豪華だったんだろう。
 財布のほうも心配だったけれど、それだけじゃなくて、あまりいい店だと、そもそも向こうのほうで、ぼくの入店をいやがるかもしれなかった。ぼくはその辺の屋台でものぞくよと、いいだそうかどうか迷っていると、シャガンはきょろきょろと忙しなく辺りをみわたした。
 そんなことをしたって、人通りは多い。これではたとえワーキリーが通りかかっても、見つけるのは難しいんじゃないだろうか。そう思ったのだけれど、結果からいうと、ぼくの了見が違っていた。というのも、
「こんなところで何をしてるんだ」
 探す当人から、そう呆れたように背中を叩かれたのだった。よくよく考えてみたら、ぼくらのほうから人ごみに紛れたワーキリーを探すのは難しくても、逆はそうでもない。ぼくの外見は目立つ。シャガンは最初からそれを見越していたのかもしれない。
「お、やっぱりここだったか。駄目だな、優等生君は。プライベートのときまで、絵のことしか頭にねえってのは、世界が狭すぎるんじゃねえか?」
 嬉しそうにからかうシャガンを睨んで、ワーキリーは鼻に皺を寄せた。
「うるさいな。そういうお前だって、こんなところにいるじゃないか」
「お友達? ……あら、あなたはさっきも会ったわね」
 ワーキリーの背後から、お母さんが顔を出した。小柄なので、姿がすっかり息子の背中に隠れていたらしい。どうも、と頭を下げると、ずいぶんと丁寧にお辞儀を返された。なんていうか、感じのいい人だなと、あらためて思う。ぼくの姿を見ただけで怖がったり、嫌そうにする人は珍しくない。思えば、昼に一度あったときから、ワーキリーのお母さんはすぐに、笑顔で挨拶してくれた。
「うちの子が、いつもお世話になってます」
「アカアシはともかく、シャガンの世話になんかなってないよ」
 むすっと答えるワーキリーは、見たことのないような表情をしていた。その不機嫌の理由がよくわからずに、戸惑っていると、シャガンが「照れてるんだろ」といって、にやりとする。それをきっと睨みつけて、ワーキリーは唇を引き結んだ。なるほど、彼は照れているらしかった。
 結局、四人で連れ立って、近くの食堂に入った。ワーキリーが決めた店は、さきほどシャガンがのぞいたところよりも、ずいぶん気安いところのようで、思わずほっとしながら席につく。周囲の客からは好奇心に満ちた視線が飛んできたけど、さいわい、誰も顔をしかめて席を立ったりはしなかった。
「貴方も絵を描くんでしょう。すごいのねえ」
 料理がくるのを待ちながら、ワーキリーのお母さんはぼくを見て、感心したようにそういった。なぜかそれに対して、ワーキリーがぎゅっと眉根を寄せるのが見えたけれど、ぼくは気にせず、なるべく行儀よく見えるように気をつけながら、お母さんに笑いかけた。どうも、ぼくが全面の笑みを浮かべると、見慣れない人間には、獰猛そうに見えるらしいので。
「こちらに来て長いのかしら?」
「いえ、まだ二年半くらいで。いろいろ、勉強させてもらってるところです。ワーキリーにはいつも、いろいろ教えてもらっていて」
「あらあら。うちの子で大丈夫なのかしら。あんた、間違ったこと教えてたりしないでしょうね」
 その言葉には、思わず目を丸くしてしまった。ワーキリーのお母さんは、自分の息子がどれくらいすごい描き手で、周りからどれだけ高い評価を受けているのか、ちっともしらないのだろうか。
「ワーキリー。もしかして賞をとったこと、お母さんにいってないの?」
 思わず本人に訊くと、ワーキリーはなぜか、気まずいような顔をした。お母さんは、あらまあこの子ったらと、呆れ声を上げた。
「教えてくれたらお祝いするのに、なんで黙ってるのよ。子どもじゃないんだから、手紙くらい書けるでしょう」
 そう憤慨するワーキリーのお母さんを見ながら、ほんの一瞬、シャガンが羨ましそうな顔をした。彼にも誰かを羨ましく思うことがあるなんて、これまで思ってもみなかった。そのことにぼくは初めて気がついて、困惑した。だけど、その表情はほんの一瞬で幻のように掻き消えて、すぐにいつもの、面白がるようなにやにや笑いに戻ってしまった。
「そんな大げさなことじゃないんだよ」
「天暁展の最優秀賞が大げさじゃない、ねえ。お前、そのうち刺されてもしらねえぞ」
 渋面のワーキリーをひやかすように、シャガンはそう笑った。そういうシャガンだって、彫刻部門の最優秀賞を受賞したその夜に、表彰状を酒場に置き忘れてかえったというので、教授たちから白い目で見られたはずだった。
「そうじゃなくて、あの絵は」
 ワーキリーは何かいいかけて、途中で口をつぐんだ。その瞬間に彼がみせた表情が、ひどく真剣な、苦々しいものだったので、シャガンも笑いを引っ込めて、訝しそうに片眉を吊り上げた。
「まあいいだろ、そんなの。それより、料理がきたよ」
 そういって急に明るい声を出したワーキリーが、無理をして笑顔をつくっているのは、ぼくにだってはっきりわかった。

 店を出たとき、さっきは母がすまなかったと、ワーキリーがいった。それはぼくにだけ聞こえるくらいの小声で、そこには何か、強く悔やむような響きがあった。だけど、ぼくには彼が何を謝っているのか、よくわからなかった。
「何が?」
 素直に聞き返すと、ワーキリーは金貨でも飲み込んだような顔になった。
「……いや。君が気を悪くしていないんなら、いいんだ。気にしないでくれ」
 よくわからなかった。ワーキリーはいいやつなのだけれど、ときどき回りくどいと思う。だけど、それ以上この話題を続けたくはないのだと、ワーキリーが手振りで示したので、ぼくも疑問を飲み込んで、口をつぐんだ。
「母さん、宿まで送るよ。……君たちは先に帰るといい。どうせ、夜間外出許可なんて、とってこなかったんだろう」
 すっかり暗くなった空を見上げて、ワーキリーはぼくらにそういったけれど、シャガンはあきれたように苦笑した。
「堅苦しいやつだな。どうせ寮長だって、その辺は適当なんだぜ」
「何かあったときに問題視されるだろう。お前はともかく、アカアシまで巻き込むな」
 苦々しくいわれても、シャガンは平然としている。前からわかってはいたけれど、どうも、シャガンは規則を破ることをなんとも思っていないらしかった。実のところをいうと、ぼくもいまひとつ、外泊だの外出だのといったことに許可をもらう意味が、いまだによくわかっていない。ただ、友人たちの忠告によると、あまり違反がめだつようだと、奨学金がもらえなくなるらしく、そうなると、ぼくには人間種族の間で通用する資産がない。仮にうまく働き口を見つけたところで、授業の合間にアルバイトをしたくらいでは、とてもここの学費はまかないきれないだろう。
 もしこの学校にいられなくなったって、いちおう、絵は描ける。贅沢な画材は使えなくても、安い紙と木炭くらいなら手に入るだろう。なんなら鑿を一本調達して、岩に彫ったっていいくらいだ。
 だけどここでなら、好きなときに美術館に足を運んで過去の素晴らしい作品を目にすることもできるし、なにより教授やワーキリーや、同輩たちから学ぶ技術は、ほかでは身につけることのできないものだ。
 ただ一枚の布や紙の上になにかを描くという、そのシンプルな行為には、驚くほどいろいろな手法と道具と姿勢とがあって、そこには過去の途方もない蓄積に裏付けられた技術がある。ただ目蓋の裏に思い浮かべたものを、紙や布の上にそのまま描き出すという、それだけの単純なことさえ、長い修練を重ねて、数ある技法をつくさないかぎりは、とうていかなわないのだ。
「まあ、そう硬いこというなって。予約してる宿って、ここから遠いのか?」
 シャガンが訊くのと、悲鳴が上がるのが、ほとんど同時だった。
 ワーキリーのお母さんが、誰か知らない男に突き飛ばされて転ぶのを、ぼくは見た。そしてその手から、男が荷物を強引にひったくろうとするのを。
 ぼくが一番、お母さんに近い位置にいた。それでも、もし男がただ荷物を盗んだだけなら、手出しをためらったかもしれない。けれど、とっさに荷物を渡すまいとした彼女に、慌てた男が蹴り付けるところを見たら、もうよけいなことを考えている暇はなかった。
 ぼくは大きく翼を広げて、男に飛び掛った。周囲の人々の間から悲鳴や驚きの声があがるのを、耳はちゃんと拾っていたけれど、途中で思いとどまる気にはなれなかった。
 ぼくは靴を脱ぎ捨てて、両脚の鉤爪でしっかりと男の腕を掴むと、空中に舞い上がった。一呼吸で、高く飛翔する。翼が風をきる音に、じわりと血の騒ぐ感覚があった。
 体の下で、男の引き攣れるような悲鳴があがる。男の腕は、必死にもがいているのだろうけれど、それはぼくには、赤ん坊がむずがるくらいの力にしか感じられない。遠くから、慌てたようなワーキリーの声が聞こえてきたけれど、何といっているのかはわからなかった。
 建物の屋根が遠ざかり、目の前いっぱいに夜空が広がると、ああ、ずいぶん久しぶりに空を飛ぶなと、そんな場違いなことを考えた。学則には、「空を飛ぶことなかれ」とは書かれていないけれど、それはここに来て真っ先に、学長じきじきにいいわたされたことだった。
 なぜ空を飛んではならないのか。いわれたときは不思議に思ったけれど、いまはよくわかる。それは人を、脅かすからだ。ぼくにその意思がなくても。かつて血で血を洗うようないさかいが、ぼくたちと人間種族との間にはあった。その記憶を、呼び覚ますからだ。
 騒ぎになってしまうだろうなと、ちらりと思ったけれど、それよりも、久しぶりに大空に舞い上がることのできた高揚のほうが、ずっと大きかった。
 もう、脚に掴んだ男への怒りも、どこかに吹き飛んでしまった。愉快な気分をもてあましながら足元を見下ろすと、眼下には、星の海と同じくらいにきらびやかな、ティオトルの町の夜景が広がっている。
 空を飛ぶことなかれと、学長はいった。われわれのもとで学びたいというならば、君は、われわれの流儀にあわせるべきだ。ぼくはその言葉に、素直にうなずいた。その理屈はぼくにも理解できたし、何より、絵を描けるんだということがうれしくて、そのほかのことはどれも、瑣末なことのように思えた。言葉を学ぶ努力も、覚えづらい人名ばかりが次々に出てくる難解な美術史を頭に叩き込む苦労も、少しも辛くなかったし、なかなか思うように絵筆を運ぶことのできないもどかしささえ、むしろ楽しかった。
 だけどこれまで、自覚のないまま、ぼくはずいぶんと多くのことを我慢してきたのだということを、いまになって唐突に思い知った。どうして空を飛ぶことを、こんなに長い間、忘れていられたのだろう? 飛ぶことは、ぼくらの命に組み込まれている。風と空と。気流に乗って、どこまでだって飛んでいける。その気になれば、雲の中にだって飛び込める。そうして夜にはかならず、その日の食事にする獲物を狩って、同族と分け合う。ひとつの火を囲む。焚き木の爆ぜる音、獲物の肉を焼くにおいが、鼻の奥に蘇った気がした。
 男は怯えきっているのか、それとも気でも失ったのか、暴れることもやめて、ぐったりしている。なんとも弱く、もろい種族だと、唐突にそのことを思った。力もないし、寿命もせいぜいぼくらの半分くらいのものだ。繊細で、何かあるとすぐ恐慌状態になる。
 だけどその彼らが、壮麗な建物を築き上げて、この眼下に広がる星の海を地上に現出させたのだ。ただ一枚の画布に、魔法のように美しい絵を描き出し、なんていうことのない岩の中から、命の宿る像を彫りだす。
 ワーキリー。友の描き上げた作品と、これまで彼に与えられてきた親切とを思い出した瞬間、すっと波が引くように、冷静になった。
 まずかったかな。瞬きするまぶたの裏に、ワーキリーの心配する顔が浮かんだ。きっと、怒っているだろう。戻ったら叱られるに違いない。少しは自分の立場を考えろといって。
 まずかったな。
 ゆるやかに翼を羽ばたかせて、夜の街に降りていく。星にしか見えなかった数え切れないほどの小さな光が、ひとつずつ、窓の明かりに戻っていく。

「アカアシ!」
 顔が見えるくらいに近づいたところで、ほっとしたように名前を呼んだワーキリーに、謝罪の意思をこめて視線を送ったけれど、どれくらい伝わっただろうか。ぼくのほうは、この頃ずいぶん彼らの表情を見分けられるようになったけれど、逆はどうだろう。
 周囲には野次馬が集まり、おっかなびっくりといったようすで、かれらを遠巻きにしている。その真ん中に向かって、ぼくはゆっくりと下りていった。
 地上に戻って、男を地面に下ろすなり、シャガンが気絶している男の胸倉をひったくるように掴んで、思い切りぶん殴った。
 思わぬその行動に、びっくりして毛を逆立てていると、シャガンはにやりと笑いかけてきた。その余裕のある表情からすると、怒りのあまり、という感じでもない。彼の意図がわからなくて、首を傾げたけれど、シャガンは説明しようとはしなかった。
「大丈夫でしたか。怪我は?」
 すっかり忘れていた気まずさをもてあましながら、そう訊ねると、ワーキリーのお母さんは青ざめた顔で、首を振った。どうやらぼくが飛んでいったことに驚いて血の気がひいただけで、怪我は、手と膝にできた擦り傷だけだったようだ。あとは男に蹴られたところが、打ち身にくらいはなっているかもしれない。
「驚かせてしまって、ごめんなさい」
 肩を落としてそういうと、お母さんは、まだ少し青い顔で、首を横にふった。それから、ぎこちなく微笑みを浮かべた。その傍らには付き添うように警吏らしい男がふたり、それから離れたところにもふたり、警戒するように立っていた。シャガンが男を殴ったのは、まずかったんじゃなかろうか。
「助けてくれて、ありがとう」
 お母さんがそういったとたん、傍らの警吏が、困惑したような顔になった。ワーキリーが睨むように彼らを見据えて、「いったでしょう」と念をおす。それでようやく気づいたのだけれど、たぶん、彼らはひったくりではなくて、ぼくをつかまえにきたのだ。急に街中で暴れだした蝋羽族。周りにいた人たちからは、きっとそう見えただろう。
 けが人が出たこともあって、そのまま解放してはもらえず、警吏に事情の説明をもとめられた。そろって詰所までぞろぞろとついていく間に、ぼくはちらりとシャガンの横顔を見た。にやっと笑いかえしてきたその目は、いったい何がそんなに面白いのかと不思議になるくらい、楽しそうな色をしていた。

 男はどうやらひったくりの常習犯だったらしくて、警吏からはいくつか注意を受けただけで、すぐに解放された。問題はそのあとで、ぼくらは翌朝、早朝から学長に呼び出されて、もれなく釈明を求められ、長い説教をくらった。
 ぼくが空を飛ばないという約束を破ったことについては、怒られてもしかたのないことだったけれど、そのほかの叱責の内容の半分くらいは、何がまずかったのか、よくわからなかった。けれどたぶんそれは、ぼくが人間社会のモラルをちゃんと理解していないせいであって、彼らには自明のことなんだろうと思ったから、じっと黙って怒られていた。シャガンはシャガンで、涼しい顔で耳なんかほじっていた。
 いつまでも続くように思えた学長の言葉に反論したのは、意外なことに、ワーキリーだった。
「彼らは、僕の母がひったくりにあったのを、助けてくれただけです。なぜ彼らが叱責を受けているのか、理解に苦しみます」
 シャガンが口笛を吹いたのは、内容にではなくて、優等生で通っているワーキリーが、学長に対して反抗的な口を利いたからだろう。
 学長の頬が、ぴくりと震えた。表情は冷静なようだけれど、たぶん、ひどく怒っているのだろう。
「相手に怪我をさせてまでかね」
「殴ったのは俺だけですよ。やりすぎたとは思ってます」
 飄々とした顔でシャガンがいったので、ぼくは目を丸くして、友人の横顔を見つめた。たしかにその言葉に嘘はない。だけど、そのいい方は、公平ではない気がした。少なくともぼくの鉤爪で、まちがいなく男の腕には傷がついただろう。だけど、そう申し出ようとしたぼくを目線で押し留めて、シャガンは言葉を続けた。
「アカアシはワーキリーのお袋さんから、相手を引き離しただけです。ワーキリーにいたっては、お袋さんを助け起こしただけで、犯人には指一本さわってもいない」
 学長の頬が、さらにぴくりとした。
「処分があれば、謹んでお受けしますよ。荷物をまとめて、それまでおとなしく謹慎してます」
 口調はいちおう敬語だったけれど、シャガンの態度には、へりくだるようなところはひとつもなかった。むしろ、にやにやして相手を挑発しているように、ぼくの目には見えた。
「それには及ばない。以後、行動には充分注意を払うように」
 怒りを堪えるような口調で、学長はいった。先ほどまでの説教の剣幕とはうってかわったその調子に、ぼくは事態がのみこめなくて、目を白黒させた。
 学長室を出たところで、ワーキリーがぼくらふたりともに向かって、急に深く頭を下げた。
「すまなかった、二人とも。恩に着る」
 何から驚いていいのか、もうよくわからないような気持ちで、ぼくはあっけにとられていた。自分が何を謝られているのかも、よくわからなかったし、ワーキリーがシャガンにたいしてこんな態度にでるのも、初めてのことのような気がした。
「気にすんな。なかなか面白かったからな」
 あの学長の顔! と、シャガンはくつくつ笑った。その笑い声は、壁越しに学長にも聞こえたんじゃないだろうか。
 じゃあな、と眠そうに手をふって、なぜかシャガンは講義棟ではなく、寮のほうに向かって歩いていった。講義をさぼって、寝なおすつもりなのだろう。
 呼び出されて叱責を受けた直後に、太い神経をしていると、呆れたようにワーキリーはいったけれど、声にはいつものような冷たい調子はなくて、口元は、あきれたように苦笑していた。
「結局、なんだったのかな」
 わけのわからないままそう訊くと、ワーキリーが苦い表情でいった。
「シャガンがああいった以上、大学側も、シャガンより重い処分を、僕らにくだすわけにはいかないだろう。……あいつ、そのためにわざわざ、相手を殴ったんだな」
 少し考えて、思い出した。シャガンの家は裕福で、たくさんの寄付金をもって入学したので、ちょっとやそっとの素行の悪さでは、大学側も彼に対して強硬な態度には出づらいのだそうだ。
 その話を、前にぼくに教えてくれたのは、ワーキリーだ。そのときはどちらかというと、彼はそのことを、軽蔑するような調子で話していたのだった。今回、自分が助けられる立場にたって、ワーキリーはどうやら、複雑な心境らしかった。
「君にも迷惑をかけた」
 ワーキリーにあらためてそういわれて、ぼくは慌てて首をふった。ぼくが勝手にやりすぎただけで、彼が何をしたわけでもない。君が謝るのは筋違いだと、ぼくはいったけれど、彼に、謝罪を取り下げるつもりはないようだった。正直にいって、なんで彼がそんなに気に病むのか、理解に苦しむ。ぼくのほうはいつだって、ワーキリーに助けられてばかりいるというのに。
「それよりワーキリー。君、きのう、賞のことで何かいいかけて、途中でよしただろう。あれ、なんだったんだい」
 ずっと気になっていたことを訊くと、ワーキリーはなぜか、痛いところをつかれたというような顔をした。
「……あの賞を取るのは、僕のはずじゃなかった」
 ワーキリーはやがて、ひどく苦く、そう呟いた。その言葉の意外さに、ぼくは思わず声をひっくりかえしてしまった。
「なんで。素晴らしい絵だったじゃないか!」
 ワーキリーは、すぐには答えなかった。しばらく、沈黙のうちに並んで歩いて、渡り廊下にさしかかったあたりで、ようやく彼はぽつりといった。
「アカアシ。本当だったら、君の絵が最優秀賞のはずだったんだ」
 その表情は、なにかを恥じているようだった。なにをいわれているのかわからない。彼が何を恥じるのかも。ぼくは居心地悪く、羽根をもぞもぞさせた。
「まさか。そんなわけないよ」
「君は自分の才能をわかっていない!」
 思いがけず強い語調でいわれて、羽根が毛羽立ったのが、自分でもわかった。
「……ごめん。でも、本当にそうなんだ」
 ワーキリーは真剣だった。その声に、落ち込んでいるような気配をみつけて、ぼくは困惑した。だいぶこちらの暮らしにも慣れてきたつもりだったのに、この二日ときたら、なにかと戸惑ってばかりのような気がする。
「誰かに確かめたの?」
「そうじゃない、けど」
 ワーキリーは言葉を飲み込んだ。
「それなら、君の思い過ごしだよ。君の絵は素晴らしかった。ぼくもそう思ったし、みんなもそういってたよ。あの絵の前に、どれだけの人だかりができたか、見ただろう」
「審査委員をしていた教授のひとりが、君のことをよく思っていない」
 それが悔しくてならないというように、ワーキリーは目を伏せて、歯を食いしばった。彼が何をそんなに悔しがっているのかわからなくて、あきれていると、その戸惑いが伝わったのだろう、ワーキリーは叫ぶようにいった。
「君は、悔しくないのか! 君が異民族だという、ただそれだけの理由で、君の絵は正当な評価を受けていないんだぞ!」
 その剣幕は大変なものだった。普段の彼は温厚で、声を荒げることなんてめったにないのに、絵のことになると、ときどきワーキリーは人が変わったようになる。
 ぼくは少し黙って、言葉を探した。この国の言葉には、もうずいぶん親しんだつもりでいたけれど、こういうときには、すらすらといいたいことが出てこない。それがなんとも、もどかしいような気がした。
「だって、ワーキリー。君はぼくに、自分の才能をわかってないっていうけど、君だってそうだよ。君のあの絵がどれだけ人の心を動かすか、君はそのことを、わかってないんじゃないのか」
 ワーキリーが天尭展に出した絵は、風景画だった。彼の故郷なのだろうか、刈入れを待つ麦の穂が、風に吹かれてゆるやかに波打つ、田園地帯の暮れ方のひとときが、そこにはあった。光というものを、画布の上にここまであざやかに描き出すことができるのかと、目を疑うような色彩で、黄金色の夕陽が風景を照らしだしていた。空の淡く澄んだグラデーションと、薄く流れる雲と、そこに舞う雁の描く軌跡。畑では農夫が鎌を持ち、幼い子どもらが手伝いのつもりで、作業の邪魔をしている。画面の奥の小さな家の屋根からは、煮炊きの煙がたなびいていた。目を閉じると、そのひとつひとつを、いまでもくっきりと思い出すことができる。
 農村に暮らしたこともなければ、肉親とともにひとつ家に住む習慣になじみのないぼくでさえ、あの風景には、たまらなく胸を締め付けられるような思いがしたのだから、そうした光景に身近な人間ならば、なおさらだろう。天尭展の最終日、彼の絵の前で涙を流している老人を、ぼくは見た。
 それなのに、どうしてワーキリーはそんなことをいうんだろう。ぼくだってもちろん、自分の描いた絵に愛着がないわけじゃないけれど、ワーキリーのあの絵にとうてい及ぶべくもないことは、自分でいちばんわかっている。彼は物心ついたときからずっと絵を描いてきた。何万枚という素描のうえに、いまの彼の描きだす線があり、色彩があり、表現がある。筆の運びひとつみていても、まだ絵を齧ってまもないぼくにだって、それがはっきりわかるというのに。
「あんな絵じゃ、だめなんだ」
 うなだれて、ワーキリーはいった。力ない声だった。
 それは、信じられないような言葉だった。誰もが彼の絵を賞賛し、あるいは羨んでいた。自分に彼のような才能があればと、同輩たちがため息をつくのを、ぼくは何度もこの目で見てきたのだ。
 だけど、ワーキリーの言い分は、考えてみれば、彼ひとりのものではなかった。同輩たちは誰も彼も、思うように描けないといって、苦しそうにしている。彼らがもう完成の近い作品や、何か月もかけて描いた絵を、自分の魂を裂くかのような表情で、破り捨てるところを、ぼくは何回も見てきた。その作品のいったいどこが駄目だったのか、どうして彼らが満足を得られないのか、見ていて理解に苦しむのは、ぼくがまだ未熟で、絵を描き始めて間もないからなのだろうか。
「……ごめん。つまらないことをいった。忘れてくれ」
 ワーキリーは頭をかきむしってため息を落とすと、そういった。珍しいことだった。彼が絵のことで弱音を吐くのも、そんなふうに取り乱すのも。
「君の絵はすごい」
 その言葉が、彼の慰めになるのかどうかわからないまま、ぼくはいった。いわずにはいられないような気がした。ワーキリーは顔を上げて、じっとぼくの目を見返してきた。
「賞なんて関係ない。そんなものが発表される前から、天暁展にきた人たちは、君の絵を見て目を輝かせていたし、涙を流していた。見なかったのか? それとも、あの人たちの感動は、君にとってどうでもいいことなのか?」
 ワーキリーは立ち止まり、沈黙した。かきむしったせいでくしゃくしゃに乱れた髪と、迷うようにゆれる瞳が、まったく彼らしくなくて、そんな状況でもないのに、おもわず笑ってしまった。
「君は……」
 ワーキリーは何かいいかけて、やめた。それから長くためらって、ぽつりと、落とすようにいった。
「……いや。ありがとう、アカアシ」
 いって、ワーキリーは目を閉じ、何かをじっと考えるようだった。
 渡り廊下の、開け放たれた窓から、秋口のひやりとする涼風が吹き込んでくる。その風に乗って、始業が近いことを告げる鐘の音が響いた。
「急ごう。遅れると面倒だ」
 我に返って足早に歩き出すワーキリーのあとに続きながら、ぼくにもいつか、自分の絵を破き、悔しさに筆を折るような、そんな日がくるのだろうかと、そのことを考えていた。

(終わり)

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