「よう、鳥野郎にワーキリー。てめえら、あいかわらず景気の悪いツラしてやがるじゃねえか」 僕でさえむっとしたというのに、鳥野郎と呼ばれたアカアシは、眉一つ動かさなかった。それどころか気さくに手を上げると、自慢の冠羽を嬉しげにゆらして、興奮した子どものような声で答えた。 「やあ、シャガン。見たよ、きみの彫ったティカ・ティギの女神像。魂を吸われそうだった」 つややかな羽毛に覆われた蝋羽族(ろううぞく)の表情は、僕らにはなかなか判別がつかないが、胸にぶら下げた翻訳機が伝えるアカアシの語調を聞いていれば、彼が本当にうれしそうに笑っていることは、誰にでもわかる。シャガンはまんざらでもなさそうに鼻をこすると、アカアシの撫で肩を無遠慮に叩いた。 「そういうてめえは、なんで何も出してねえんだよ。天尭展は年に二回しかねえんだぜ」 天尭展というのは、世界中から招かれた人々に僕らの作品を見てもらえる、ほとんど唯一のチャンスだ。今日の早朝から明後日の夜までの三日間、大学の敷地を一般に開放してとりおこなわれている、芸術家の卵たちの一大イベント。だから、学生たちはこの展覧会にあわせて、それぞれとびきりの作品を仕上げる。このファナ・ティオトル芸術大学に在籍できるのは、どこの国の誰であろうと、きっかり三年が上限。その六回のチャンスで名前を売ることができなければ、そこから先、芸術家として食べていくことは、ひどく難しい。 「いろいろあってね。冬には頑張るよ」 アカアシはあっけらかんとそういうと、彼らの民族衣装であるトトル・カーサの裾をふくらませて、翼を振ってみせた。 ほんの二十年ほど前まで服を着用する習慣のなかった彼らの間で、このごろようやく広まりつつあるその衣服は、機能的にも意匠的にも、洗練されているとはいいがたい。学内において、彼のこの格好はひどく目立つけれど、普通の人間の服では彼らの体格にあわないから、アカアシはいつも故郷からもってきたわずかな服を着まわしている。 「いろいろってなんだよ」 「シャガン。次の作品にとりかからなくていいのか」 苛立った僕が遮ると、シャガンは目を丸くして下品に口笛を吹いた。 「おう、さすが特待生はいうことがちがうねえ。焦らなくても、芸術の神様は逃げやしねえよ」 「逃げるかもしれないよ。五分後に地震が起きて建物に押しつぶされるかもしれないし、三日後に馬に撥ねられて腕に重症を負うかもしれない」 「何をそんなに苛ついてやがんだよ、ワーキリー。おめえの絵の前に、人だかりができてたぜ」 「それは光栄だけどね、シャガン。僕らはいま、それどころじゃないんだ」 「なんだよ、いったい。事と次第によっちゃ、力を貸すぜ」 シャガンは呆れたような顔になりながらも、なんの気負いもなくそういった。口は悪いし、なにかと偏見に満ちてはいるが、まあ、いい奴なのだ。 「なんでもないよ、大丈夫」 アカアシは翼をばさばさならしながら、まるでほんとうに何でもないかのように、そういった。 「なにひとつ大丈夫じゃないだろう、アカアシ。どうしてきみは怒らないんだ」 いいながらわかっていた。アカアシが怒らないのは、人がいいからだ。あるいは、肉体的にも精神的にも人間なんかよりもよほど強靭で、僕らのせせこましい悪意や嫉妬なんかには、びくともしないから。 「だから、いったいどうしたってんだよ」 話の飲み込めないシャガンが、だんだん苛々しはじめた。 「盗まれたんだよ。アカアシが半年がかりでしあげた絵が」 壁を殴りながらそう吐き捨てると、アカアシは驚いたように羽を逆立てて、鉤爪のついた四本指で、そっと僕の手を掴んだ。 「ワーキリー。ぼくのために怒ってくれるのは嬉しいけど、筆を持つ手を痛めるよ」 いさめられて、思わず唇を曲げた。僕が腹を立てているのは、作品を盗んだ卑怯者に対してだけではなかった。彼の描いた美しい蝋羽族の絵が、行方知れずになったと知ったとき、心のどこかで一瞬といえど喜んでしまった、自分の卑しい性根にも、僕は腹を立てていた。だが、そのことを僕はいまだに、この親友に打ち明けられずにいる。 「ははあ。評判を鳥野郎に持っていかれたんじゃ、人間様の面子がたたねえってか。みみっちいやつらもいるもんだ」 僕はもう一度壁を殴ろうとして、アカアシの静かなまなざしに気づき、どうにか思いとどまった。 同国人に先をゆかれるのはあきらめても、芸術を解さないはずの野蛮な異民族に負けるのには我慢がならないというような、歪んだ価値観を持つ連中がいるのだ。そうしたやつらには、いくらでも心当たりがある。 「嫉妬を愛国心にすりかえて、正義感きどりなんだろうさ。不満があるなら、己の筆と鑿(のみ)で語ればいいだろうに、仮にも芸術を志す人間が、よくもそこまで誇りを失ったものだ」 侮蔑をこめてそういった僕を見下ろして、アカアシはきょとんと首を傾げた。愛国心なんていう感情は、彼ら蝋羽族にはもっとも理解しがたいものだろう。なんせ彼らは、国どころか町も村も、家族というコミュニティさえもたないのだから。 「ワーキリーよ、だいたいの目星はついてんじゃねえのか」 「わからない。何人か、そうじゃないかと思うやつらはいるが、証拠がなにもないからな」 「現物を探すしかねえ、か。まあいいさ、付き合うぜ」 あっさりというと、シャガンは僕らと肩を並べて歩き出した。 ありがとう、とアカアシはいって、頭を下げた。これは彼らにはない習慣で、彼がここにやってきてから覚えた仕草のひとつだ。白銀に光を弾く美しい冠羽が、不器用にぴょこんと揺れた。 「いいさ。妬まれるようないい絵なら、俺だってこの目で見てえしな」 そういうと、シャガンはにやりと笑った。前言撤回、こいつはいい奴なんじゃなくて、ただ美しいものに目がないだけだ。 でもシャガンのその姿勢は、ある意味で正しい。いい作品を作ることができるかどうか、僕らにはつまり、それが全てだ。そのほかのくだらない言い訳や理屈や、おためごかしや嫉妬や人種の壁なんていうものは、何もかもまとめてくず籠に放り込んでしまえばいい。 「で。何を描いたんだ? おまえ」 「蝋羽族の女性だ」 照れて口ごもったアカアシのかわりに、僕がそう答えると、隣を歩く親友は、トトル・カーサの裾から飛び出す尾羽をゆすった。 蝋羽族のひとりが、いまにも崖を蹴って大空に舞い上がろうという、まさにその一瞬を描いた絵だった。体を覆う藍色の羽毛の下に、すらりとした優美な筋肉が脈打っていた。その蹴爪の逞しさに、澄み渡る空をまっすぐに見つめる曇りのないまなざしに、僕は一目見るなり、心を奪われた。それはただ見目に美しいというだけのものではなく、鋭い命の息吹の宿る、力ある一枚だった。 あまり考えたくはないが、犯人の目的がいやがらせなら、最悪、すでに破られるか、燃されている可能性もある。あの素晴らしい力作を、つまらない嫉妬から傷つけるようなやつらと、同じ大学で同じ空気を吸って学んでいくなんて、僕には絶対に我慢ならない。もしも本当にそんなことがあったなら、かならず事実を明らかにして、大学側に掛け合い、犯人は退学処分にしてもらう。 講堂という講堂、作業場という作業場を、隅々まで念入りにひっくり返しながら、僕らは学内を移動していた。わかりやすいところに隠されているとは思えなかったが、ほかにいい方法も浮かばない。 「へえ。その女ってのは、おめえのコレか?」 女性をあらわす下品なジェスチャーで、シャガンが聞いたけれど、アカアシは当然ながら理解せずに、首を傾げた。ため息をついて、仲立ちのつもりで口をはさむ。 「蝋羽族に、特定の異性を独占するような概念はないよ」 「うそだろ!?」 シャガンは何もそこまでというほど驚いて、飛び上がった。 「だって、そんならどうやって」 続けてその口から卑猥な単語が飛び出しそうになったので、先回りするように言葉をかぶせた。 「時期になったら相手を見つけて、出産から育児の間の数年間だけ、いっしょにすごすんだ。子どもがある程度大きくなったら、それぞれまたばらばらに暮らす。子どもとも離れるし、同じ相手と二回は子どもを作らない。だったよな?」 確認するように訊くと、アカアシはあっさりと頷いた。 「ぜったいに作っちゃいけないってわけじゃないけど。でも普通はそうするね。個体数が少ないから、遺伝子の多様性を保つために相手を変えるんだろうって、どっかの生物学者が論文を書いてたよ」 自分たちのことを、まるで獣かなにかのように語られているというのに、アカアシはそのことにまったく抵抗を覚えないようだった。 彼らはほんの数十年前まで、長いこと、少しばかり知能の高い、鳥によく似た動物なのだと、そう認識されていた。彼らの話す言語が、僕らの耳には聞き取れない周波数だったことと、彼らが群れず、農耕も建築もせずに、巣穴を渡って暮らしていたことが、その不幸な行き違いの原因だった。 せめて彼らの文化が、文字でも持っていればと、いまさらせんのないことを思う。それならば、どうにか翻訳して互いに意思の疎通をしようという動きは、もっと昔からあっただろうに。そうであったなら、過去の歴史にみるような、血なまぐさい争いの大部分は、きっと回避できただろう。 だけど彼らは、そうした目に見える文明のかわりに、空を飛ぶことのできる翼と、長時間の飛行を続けられるだけの強靭な肉体と、それから、長い寿命とを持っている。そして文字を持たないかわりに、すばらしい記憶力を誇ってもいる。それは、彼が首から提げている翻訳機がまぎれもなく証明している。 翻訳機、と僕らは呼んでいるけれど、それはただ単に、周波数が高すぎて僕らに聞き取れない音を、低く変換しているというだけのものだ。アカアシはある日、人間種族の作り出した芸術作品の数々に魂を奪われて、僕らの社会に飛び込んできた。それからわずか半年で、僕らの言葉をマスターして流暢に操るようになり、さらにその半年後には、難解なペーパーテストと実技試験とをクリアして、この芸大に入学したのだ。 凡人の嫉妬の集まらないはずがなかった。人は弱い。アカアシたちのように、何にもとらわれず強く生きることは難しい。 だけど、そういう自分の弱さに流されて、どんな卑怯な手を使っても許されるなんて、そんな馬鹿な話はなかった。あの絵がもしも傷つけられていたなら、僕は犯人を許さない。 「そんじゃお前ら、何年かおきに相手をとっかえひっかえってわけか。羨ましいねえ」 下品な感心の仕方をしているシャガンを思わず蹴ると、倍の強さの蹴りが帰ってきた。 「でもよ、未練はあるんだろ。絵に描くくらいなんだからさ。一度は惚れた女が、ほかの男に取られっちまったら、悔しかねえのかよ」 いかにも興味本位といったようすで訊いたシャガンに、アカアシは喉を鳴らして(実際に鳴る音は聞こえなかったが、喉の震えから僕はそう解釈した)笑った。シャガンを嘲笑したのではなく、いろんな相手から似たようなことを聞かれるので、それが可笑しかったのだろう。 「一度でも深いかかわりをもった相手は、ぼくらにとっては、生涯ずっと兄弟姉妹だ。いずれほかの男と番(つがい)になったって、何も変わらないさ」 「はあ?」 シャガンは間の抜けた声を上げた。 気持ちはわからないでもない。僕だって初めて聞いたときはちんぷんかんぷんだった。 「僕らの言葉には、アカアシたちのいうその関係を示すのに適切な単語がないんだ。親友、同胞、仲間、身内、縁者……どれも少しずつニュアンスが違う。とにかく彼らは、一度深い友情や愛情や、信頼で結ばれた相手のことを、その言葉で呼ぶんだそうだ。一緒には暮らさないけれど、生涯その絆が切れることはなくて、何か変事があったときにはいつでも助け合う……らしい」 適切な訳語がないので、彼等はそのことを人類に説明するときに、しかたなく「兄弟あるいは姉妹になる」と表現するのだそうだ。それをしらない人々のあいだでは、誤解だらけの知識が広まってしまっている。連中がそうやってどんどん兄弟姉妹化していったら、種族総ひと家族になるんじゃないかなどという冗談が、いっとき流行ったくらいだ。だが、兄弟の兄弟は自分の兄弟でもある、というような感覚は、彼らにはないらしい。 彼等は国も村も作らない代わりに、個人と個人のあいだにそういう関係を結び合って、たくさんの同属とつながっている。ひとつのカテゴリに括られる集団ではない、ゆるやかな結びつき。 その話を聴いたとき、僕は思わずアカアシにたずねていた。君はこうして学校という集団に所属することが、苦痛ではないのか。規律に縛られることが、蝋羽族であるというだけで偏見の目で見られることが、あるいは外部の人々から芸術家志望だのティオトル生だのといってひと括りにされることが、嫌ではないのかと。 アカアシは不思議そうに首を傾げた。ぼくらにだってタブーはあるし、ここの規律は複雑だなとは思うけれど、守れないほどじゃない。それに、誰に何と呼ばれようと、ぼくはぼくだろう? 僕はその言葉に打たれた。人間の大学になんて入った彼は、同属の間でも変人扱いされているそうだけれど、彼らはそもそも、自らがマイノリティであることを、恐れたり恥じたりはしないのだ。 この大学の学費は高い。僕は奨学金をもらっているが、画材や教本にかかる費用だけでも、貧乏人には目を剥くような額になる。家業を継ぐでも、学問を修めて役人になるでも、体を鍛えて軍人になるでもなく、芸術家として身を立てようなどという不確かな道に進む人間は、当然ながらごく少数で、シャガンのようによほど裕福な家の子弟か(知らなければとてもそうは見えないが)、そうでなければ、僕のような変わり者くらいだ。 道楽のできる資産家はともかくとして、世間一般の芸術に対する理解は、いまだ低い。この大学内にいれば周囲は同類ばかりだが、ひとたび学外に足を踏み出せば、僕らは奇異の目で見られるか、あるいは金持ちの道楽と笑われる。その目が、僕には怖い。 僕ら人間は、大いに彼ら蝋羽族に見習うべきところがありはしないだろうか。僕はそのことを、アカアシと出会って以来、ずっと考え続けている。異民族への偏見の目で満ち満ちたこの学内で、毎日楽しそうに学ぶ友人を横目に見ながら。 学内の空気を震わせて、正午の鐘が鳴る。反射的に空腹を感じたけれど、絵の行方のほうが気になる。こうしている間に、どこかに持ち出されたり、傷つけられたりしないだろうかと思うと、続きは午後にしようという気分にはなれなかった。 「さて、次は材木室……」 いいかけたシャガンは、鼻をひくつかせて、急に厳しい表情になった。怪訝に思い、まねをして臭いをかいでみたが、僕にははじめ、シャガンが何に反応したのか、わからなかった。 「なあ、描いたのは油彩画なんだよな? 溶剤には何を使った?」 「え、ミッカ樹の製油だけど……」 答えるアカアシの言葉をきいて、はっとした。先ほどから、溶剤のにおいがしているのだ。 自分らが同じものを四六時中使っているせいで、アカアシも僕も違和感を覚えなかったけれど、彫刻を専攻しているシャガンには、この部屋の前で油絵用の溶剤の強いにおいがすることの異常さが、すぐにわかったのだろう。 無言で戸に手をかけると、部屋は施錠されていた。舌打ちして、鍵を借りるために教員室に向かおうとした僕をよそに、シャガンが扉をけりつけはじめた。大音量に、耳のいいアカアシが驚いて毛を逆立てる。 「おい、乱暴はよせよ」 「扉の一枚や二枚、あとでいくらでも弁償してやるよ。それよりか、鍵を取りにいってるあいだに、中にいる犯人が逃げちまうかもしれねえだろ」 「中にいるとは……」 限らない、といおうとしたときに、材木室の中でがたんと音がした。僕らは顔を見合わせる。 「てめえ、そっから逃げるなよ! バンガ樹海に放り込まれて黒狼の餌になるのと、オーヅォ運河の底に沈むのと、どっちがいいか考えてろ!」 ごろつきまがいの恫喝をしながら、なおも扉を蹴破ろうとするシャガンの腕を、アカアシがそっと引いた。なんだよ、と振り返るシャガンに、ゆっくりと首を振る。 アカアシはおもむろに一歩さがると、窮屈そうに履いていたサイズの合わない靴をぬぎすてた。それから彼の名前の通り赤く鋭い蹴爪のついた脚を振り上げて、扉に力強い蹴りを入れた。 ふだんは温厚なアカアシのまさかの暴挙に、僕が目を丸くしているうちに、その蹴爪はあっさりと厚い扉を破って、部屋の内側に蹴り倒した。 「やるな、鳥野郎」 口笛を吹いて賞賛するシャガンを、ちょっと困ったように見下ろして、アカアシは首をすくめた。おそらくシャガンがいなかったら、彼はこんな行動には出なかった。自分のためを思う友人に罪を犯させるくらいならと、自ら手を下したのだ。 だけど、本当はそんなことをさせるべきじゃなかった。僕はだまってみていた自分を、内心で罵った。たっぷりの寄付金を持参して入学したシャガンとちがって、アカアシには後ろ盾がない。理事の中には、蝋羽族が芸術を学ぶことに、いい顔をしないやつらだっている。 とっさにシャガンの短慮を責めようとしたけれど、その前に、すすり泣く声が耳に飛び込んできて、僕らは顔を見合わせた。 それは、女の子の声に聞こえた。 中に入り、部屋の暗がりに目が慣れると、奥の大きな材木に隠れるようにして、小柄な女学生がひとり、うずくまっているのが見えた。顔に見覚えがある。とっさに名前が出てこないが、記憶違いでなければ、水彩を専攻している子のはずだ。 人違いだったかと、非礼を詫びようとした僕の腕を、シャガンが掴んで首を横に振った。 「見ろよ」 シャガンが顎で示した先には、布で包んだ画板があった。 無言で歩み寄り、丁寧に布を剥ぐあいだに、シャガンが壁を探って、明かりをつけた。 布の下には、探す絵があった。女の子は、びくりと肩を震わせて、それ以上小さくなりようがないほど、きつく身を縮めた。そこから消えていなくなってしまいたいというように。 ひゅう、と、シャガンが口笛を吹いた。余裕の態度をよそおっているが、その音は掠れていた。軽口のひとつも続かないところをみると、絵がそうとう気にいったんだろう。 黙ってしまったシャガンと、困惑しているアカアシのかわりに、僕が女の子の前に立った。 「……君が、盗んだの?」 情けない話だが、僕の声は、詰問口調には程遠かった。あれだけ腹を立てていたというのに、泣いている女の子を相手に怒鳴る度胸は、どこにもなかった。 「よう、てめえ、いったいどういう了見だ」 ようやく絵から目を離していったシャガンの声も、言葉ほどには力のない、どことなく気抜けしたような調子だった。それでも彼女は、ひどく震えて、怯えた様子をみせた。 「ごめんなさい……わ、わたし、わたし」 口ごもる女の子を見下ろしながら、僕は、彼女の名前を思い出していた。ディア・ウッドフィル、僕らと同じ二年生だ。たしか去年の天尭展に、淡い色使いの、花の絵を展示していた。筆づかいに特徴があったので、印象に残っている。 「ええと。事情を訊かせてくれるかな」 アカアシがやわらかな声音で訊くと、ディアはようやく顔を上げて、震える声で、つっかえながらいった。 「き、きょうの朝、展示室にいって。入場まえで、そのとき、たまたま私しかいなくて、それで」 見るなりひとめで絵に心を奪われたのだと、ディアは口ごもりながら説明した。 てっきり、アカアシを妬む連中のしわざだと思っていた僕らは、思わず拍子抜けした。泣きながら何度も謝るディアの様子は、見つかってしまったので言い逃れをしているというふうには見えなかった。 吸い込まれるようにして、長いこと、この絵に見とれ続けた。この絵が欲しい、自分だけのものにしたいと、つきあげてきた衝動につきうごかされた。そのときに限って、周囲には誰もいなかった。そして手には、自分の絵を包んでもってきた梱包材を持っていた……。 「わ、わたし。怖くなって。言い出せなくて」 我に返って、自分のしたことに青ざめたけれど、おそろしくなり、罪を告白できなかった。それで朝からずっと、ここに隠れていた。ディアはそういいおえると、わっと泣き伏した。 僕はあきれ返って、その無責任や、芸術作品を独占することの心の貧しさをなじろうとしたけれど、謝りながら泣いている可憐な女の子をさらに責めるのは、僕には荷が重すぎた。 「やってしまったことは仕方ない。すぐ返してもらえれば、君が盗んだとはいわないで、もとの場所に飾っておく。それでいいよな、アカアシ?」 僕が情けなさをおぼえながらそういうと、アカアシは首をゆっくりと横に振った。それからそっと屈みこんで、まだうずくまって泣いているディアと、目線の高さを合わせた。 「この絵は、君にあげるよ」 アカアシはゆっくりと、かみ締めるようにそういった。 ディアは言葉を失って、ぽかんと彼を見つめ返している。その驚きに見開いた目から、涙がぽろりと落ちるのを、呆然と目で追ってから、僕ははっと我に返った。 「待てよ、アカアシ。きみは自分が何をいってるのか、わかってるのか」 ほとんど叫ぶように、僕はいった。 「わかってるつもりだけど?」 不思議そうに見つめ返されて、思わず一瞬、絶句してしまった。アカアシの目には、何の屈託もない。それでもどうにか気をとりなおして、拳を振りあげた。 「天尭展で評価がもらえないと、来年の奨学金はないんだぞ!」 アカアシは僕と同じ特待生だ。授業料の免除と奨学金がなければ、財産を持たない彼が、大学にとどまれるはずがない。 ディアは、自分の犯した罪の重さを改めて思い知らされたように、真っ青になって震えだした。 「わた、わたし、知らなくて」 悲痛な声をあげるディアをなだめるように、アカアシはとびきりやわらかい声をだした。 「いいんだ。冬に、倍がんばるよ。それで認められなかったら、それまでの話だ」 アカアシはそういって、むしろ上機嫌に、冠羽をゆらゆらと揺らした。それから、じっと彼女を見つめて続けた。 「だって、君のために描いたんだ」 その言葉に、あっけにとられて、シャガンと僕は顔を見合わせた。ディアはディアで、ぽかんとしている。 「いったい何がどうなってんだ? お前ら、もともと知り合いなのか」 「違うよ。そうじゃなくて」 アカアシはゆっくりと首をふった。 「この絵を好きだといってくれる人のために、僕は、描いたんだ。だからこれは、君のものだ」 本当なら、僕はそこで怒るべきだった。 だけど実際には、とっさに口を噤んで、アカアシの後ろ頭を、ただ睨みつけていた。アカアシの理屈は、無茶苦茶なのだけれど、なんとなくその気持ちが、わかってしまうような気がして。 僕らは何も、名誉や金のために芸術を志しているわけではない。有名になんてならなくても、たった一人、心からその作品を愛してくれる人がいれば、きっと、そのためだけに僕らは、何枚でも絵を描く。 だけど、そんな無茶を黙って見逃すわけにはいかなかった。アカアシの奨学金の問題もあるが、それ以前に、この絵を愛するのは、彼女ひとりの特権じゃない。公開されれば、かならず大勢の人々がこの絵に心を揺さぶられるだろう。 けれど僕がそう諭す前に、彼女のほうが首を横に振って、きっぱりといった。 「お返しします」 アカアシは不思議そうに首を傾げて、ディアを見つめ返した。 本当にごめんなさいと、彼女は深々と頭を下げた。 「いまから正直に、先生に事情を説明して、展示してもらってきます」 「だけど……」 彼女をかばうようなことを僕がいうのも、何か筋が違うような気がするのだけれど、とっさに言葉が口から出ていた。 窃盗に対する処罰はただでさえ重い。まして芸術作品を盗むことに対して、学長も教授たちも厳しい処分をくだすだろう。しかも、よりによって天尭展を妨害したのだ。 「退学処分も、あるかもしれないんだよ」 そういった僕に、彼女ははっきりとした視線を向けて、首を振った。その表情に、僕は圧倒されて、思わず息を飲んだ。さきほどまで怯えて泣きじゃくっていた少女と同じ人間だとは、とても思えなかった。 「私は、それくらいのことをしました。処罰は受けます」 「だって、それじゃあ」 何かいいかけたアカアシを遮って、彼女はいった。もう泣いていない、真剣な目だった。その凛とした横顔が、アカアシの絵に描かれた蝋羽族の女性とどこか重なって見えて、僕は涙の筋の残るその白い頬に、思わず見とれた。 「ひとつ、お願いがあります。来年も再来年も、大学をでてからも、きっと絵を描いてください。わたしはこれから描かれるあなたの絵を、どうしても見たい」 その言葉に打たれたように、アカアシは声を飲み込んだ。 「お願いします」 彼女は深々と頭を下げた。アカアシはいっときの間、羽の一枚も動かさずに、じっと立ち尽くしていたが、やがて無言で、力強く頷いた。何度も何度も、繰り返し頷いた。 (終わり) |