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 チヨ子以外の誰もが誰かを疑うように互いの顔をちらちらと見ながら、沈黙ばかりが過ぎていった。
 歩美は、空腹を訴えて鳴り出した自分のお腹を押さえながら、きっと弟を睨みつけた。俊太は俊太で、こちらに怪しむような視線を向けている。
「ただいまー」
 突然響いた間延びした声と鍵を開ける音が、四人の沈黙を破った。歩美は慌てて時計を見上げる。六時二十分。早くても八時すぎにしか帰ってこないはずの父が、どういうわけかこんな日に限って早々に帰宅したのだ。
「あらお父さん、お帰りなさい。今日は早かったのね」
 台所に顔を出した裕二に、妙子がひきつった笑顔でそう声をかけた。母はいつの間にか、さり気なく入口からテーブルを背に隠すような位置に移動している。歩美はほっとして父の方に視線を戻した。お母さん、ナイス。
「それがさ、フロアの配電工事をやるとかで、今日は残業できなくなったんだよ」
 嬉しそうにそう話した裕二は、台所に広がる不穏な空気にようやく気付いた様子で、きょとんとした。
「なんだなんだ、どうしたんだ。揃って深刻な顔して」
「姉ちゃんがカニを独り占めしたんだ」
 俊太が歩美の方を見ながら、じとっとした口調でそう言った。
「馬鹿!」「あたしじゃないって!」
 妙子の叱責と、歩美の弁解が重なった。
 歩美はきっと弟を睨みつけた。だが、俊太は何がまずかったのか、まったく気付いていないようで、まだ恨めしい目で歩美を見ている。歩美は思わず舌打ちした。この馬鹿弟、ほんっと何にも考えてないんだから。
「カニ……」
 裕二は状況を察したようすで呟いて、ひどく遠い目をした。妙子の笑顔が引きつる。
「へえ。カニ……カニね。そうか、カニか……」
「ちゃんと貴方の分もとっておくつもりでしたよ」
 妙子が白々しくそう言った。裕二は何も答えずに、ただ口の端で笑った。
「食べちゃったのは俊太よ」
 歩美はさっきの仕返しのつもりで、父に向かってそう言った。
「俺じゃないって! 昔っから姉ちゃんは、そうやって何でもオレのせいにするんだよな」
「こんな意地汚い真似するの、あんたしかいないじゃない」
 歩美はそう断言して、弟に拳を振り上げかけた。しかし、姉弟喧嘩をよそに、裕二はまだ視線をあらぬ方向に飛ばしてぶつぶつ言っている。
「俺のいないうちに……カニね。そう」
 そのあてつけがましい呟きに、歩美は弟をなじるのをやめて気まずく身じろぎした。妙子をそっと見ると、目が合う。どうやったらうまく宥められると思う? 知らないわよ、そんなの。
 母娘が無言の会話を交わしていると、それまでむすっとしていた俊太が突然はっと顔を上げて、裕二の横顔を見上げた。
「犯人、もしかして父さんじゃないの」
 その唐突な言葉に、全員がぎょっとして俊太の顔を見た。

 俊太は父親の顔をじっと見つめて、反応を待った。
「あのな、俺は今帰ってきたんだぞ。だいたい、今の今までカニがあったことなんて知らなかったんだ」
 ぎょっとした顔でそう反論する裕二に、しかし俊太は引かなかった。
「そんなの、叔父さんから電話があったかもしれないじゃんか」
 俊太がそう指摘すると、妙子と歩美もはっとしたように裕二の顔を見た。チヨ子だけが何も口を挟まず、一人じっと座ったまま、俊太の顔を見つめている。その視線が何か言いたげで、俊太はちょっと身じろぎしたが、裕二がすぐに携帯を出して突き出してきたので、慌ててそちらに視線を戻した。
「今日かかってきた電話は、会社から工事のことで連絡が入った一件きりだよ。履歴を見れば分かるだろ」
 むすっとしてそう携帯を渡してくる父親の手を避けて、俊太は首を横に振った。
「着信履歴なんて、一件ずつ消せるじゃん」
「俺にそんな高度な機能が使いこなせるわけないだろ」
 目を剥いて主張する父親に、俊太はもう一度首を振った。
「知らないよ、そんなこと。大体、会社に電話があったのかもしれないじゃんか」
 そう言うと、裕二は一瞬ぐっと詰まった。だが、すぐに気を取り直したようすで、父は首を横に振った。
「兄貴はそんな用事で会社になんてかけてこないよ。あれでも元サラリーマンなんだから、そういうところはちゃんとしてるって」
 そう反論する父を見て、俊太は唇を尖らせた。
「わかんないよ。品が生モノだからって、今回だけ連絡してきたかもしれないじゃんか」
 俊太は言っているうちに調子が出てきて、皆の顔を見渡すと、頭に浮かんだ筋書きを説明した。
「皆がいないうちに裏口からこっそり入ってきて、食べた後はまた外に出たんだよ。そんでどっかでちょっと時間つぶして、今度は玄関から入ってきた。それならあり得るんじゃないの」
 俊太が披露した推理に、皆が互いの顔を見合わせた。
「馬鹿たれ」
 裕二は情けない顔になって俊太を叱り付けたが、黙っていた歩美がその表情を見つめて、あらためて疑うような顔つきになった。
「絶対にないとは言い切れないわね」
 歩美からまで疑いの目で見られた裕二は、慌てて拳を握って力説した。
「馬鹿、だいたい裏口の鍵なんか、普段から開けてないだろ。母さんしか裏口の鍵は持ってないんだぞ」
 その裕二の言葉に、妙子はああ、という顔をした。俊太が思わず振り返って台所の隅にある裏口を見ると、鍵はたしかに閉まっていた。
 思いつきで適当なことを言っただけだった俊太は、悪びれず舌を出した。
「そういえばそうだわ。あらやだ、あんまりもっともらしく言うから、思わず信じそうになっちゃった」
 妙子は感心したようにそう言って、裕二に気まずそうな顔を向けた。
「お前なあ」
 裕二はほとほと情けない表情になって妙子の顔を見ると、がっくりと肩を落とした。
 俊太はその気落ちした背中を見て、心の中だけで謝った。変ないいがかりつけて悪いね、父さん。

「でも、それなら誰が食べたっていうの」
 妙子はそう呟いて、首を捻った。また話が元に戻ってしまった。
「やっぱり俊太よ。あんたなら、一口で全部食べかねないわ」
 歩美がそう言い出して、妙子は改めて姉弟へ視線を向けた。普通に考えれば、二人のどちらかに違いないのだ。
「んなわけないだろ」
 俊太はそう言い返しながらもどこか気圧されたような顔をした。
 そのとき、今まで黙っていたチヨ子がいきなり立ち上がって、俊太の前に身を乗り出した。
「あたしが食べたんだよ」
 妙子はぎょっとした。全員が呆気にとられてチヨ子に注目している。
「そんなはずないよ。だっておばあちゃん、ずっと部屋にいたじゃない」
 歩美がそう言って首を横に振った。妙子もそれに頷く。チヨ子は頭も足腰もまだまだしっかりしているが、あの短時間で足音を忍ばせて台所に向かい、カニを一匹まるごと平らげてから元通り部屋に戻ったというのは、いくらなんでも考えにくい。
 だが、チヨ子は俊太を背に庇って言い張った。
「あんたたちがいない間に、こっそり食べちゃったんだよ。それですぐに部屋に戻ったんだ」
「そんな、誰もいなかったのなんて、せいぜい二分か三分だったんですよ。そんなわけないじゃないですか」
 妙子は困り果てて、そう反論した。だが、チヨ子はあくまで首を横に振る。
「あたしが食べたんだよ、俊太じゃないよ」
「おばあちゃん、こんなやつのこと庇わなくていいんだよ」
 歩美が俊太を指差しながらそう言った。妙子も頷いた。義母は昔から、俊太を猫かわいがりしすぎるきらいがある。
「そうですよ、お義母さん。お義母さんは、ちょっと俊太に甘すぎます」
「だから、俺じゃないって!」
 何か考え込んでいた裕二が、両手を振って言い張る俊太を見て、突然ぽんと手を打った。
「そうだ。そんなにたくさんのカニを食べたんなら、口から匂いがするはずじゃないか。犯人以外は、まだ誰も食べてないんだろ?」
 その発言に、皆の視線が裕二に集まった。
「そういえばそうね。何で今まで思いつかなかったのかしら」
 妙子はすっかり感心してしまい、しみじみと夫の顔を見つめた。普段は冴えない人だけれども、たまにはいいことを言う。夫はちょっと照れたように笑って、俊太の方に歩み寄った。
「俊太、ちょっとお前、父さんに向かってはーってしてごらん」
 言われた息子はうえっと呻いて嫌そうな顔をしたが、それで嫌疑が晴れるならと思い直したのだろう、おとなしく父の傍に寄って、息を吐いた。
「うん、カニの匂いはしないよ」
 裕二が笑ってそう保障した。だろ? と得意げな顔になる俊太は、改めて歩美の顔を睨んだ。家族の視線が、今度は歩美に向かう。消去法でいくならば、一番可能性があるのは歩美だ。
「あたしじゃないって!」
 歩美はそう叫んだが、妙子はどうだか、と疑わしげに娘を見た。そういえば最初から、この子は俊太に食べさせるのをもったいないと言っていたと、そんなことを思い出しながら。
「全員の息の匂いを嗅いだら、すぐに分かることじゃないか」
 裕二が、得意げにそう言った。
 それでしばらくの間、全員で微妙な表情になりながら、互いに顔を突き合わせて交互にはーっと息を吐いたり、鼻をうごめかしたりした。事件はそれで解決すると思われたのだが、
「違う」
「違うな……」
「しないわね」
 結局は家族全員が、それぞれに首を傾げた。妙なことに、息からカニの匂いをさせるものは誰一人としていなかったのだ。
「どういうこと? 勝手にカニが消えるわけはないし……」
 歩美が眉をひそめて、テーブルの下を覗き込んだ。妙子もその娘の挙動につられて、改めて台所を見渡す。だが、当然ながらどこかにカニの身が落ちているというわけでもない。念のため、流しの三角コーナーやら生ゴミを入れている蓋つきのゴミ箱やらを覗き込んだが、もちろん捨てられてもいなかった。
「あ。犯人はカニを食べた後で、歯磨きしたんじゃない?」
 妙子はふと思いついて、そう言った。だが、娘がすぐに肩を竦めて否定した。
「誰かが歯磨きする物音なんて聞かなかったわよ」
「そういえばそうね」
 妙子は娘のその発言に納得して頷くと、再び首を捻った。
「それに、それなら歯磨き粉のにおいがするだろうしなあ」
 裕二もそう唸って、眉根を寄せた。
 またしても話が振り出しに戻ってしまった。沈黙が、再び一家を包んだ。
「まさか、泥棒がこっそり入ってきて、偶然カニを見つけて食べちゃったとか?」
 歩美がふと思いついたように、そう言い出した。皆がそれぞれにぞっとするような顔をしたが、やがて裕二が「いや」と首を横に振った。
「俺が入ってきたときには、玄関の鍵は閉めてあったよ。ちゃんと、自分で鍵を開けて入ったから、間違いない」
 妙子は頷いた。さきほど裏口の鍵が閉まっているのは確認したし、簡単に出入りできそうな窓もこの家にはない。
「最近、鍵を無くした人はいないわよね」
 妙子は皆を見回してそう訊いたが、全員がそれぞれに首を横に振った。
「まさか、今も家に潜んでいるなんてことはないよな」
 裕二の呟きに、妙子はぶるりと肩を震わせた。まさかそんなと思う端から、刃物を持ってどこかで息を潜めている凶悪犯の姿を想像してしまう。包丁がなくなってたりしないかしらと、妙子は思わず包丁立てを覗き込んで、数を確認してしまった。
「いやでも、こんな家族がごちゃごちゃやってる時間に、泥棒なんか入らないだろうしなあ」
 裕二は自分で言っておきながら、結局はそう否定して首を捻った。皆が釈然としない顔で黙り込んだ、そのときだった。
 にゃーん。
 その鳴き声に、皆がはっとして足元を見下ろした。いつの間にか、猫のスズが台所にやってきていた。
 スズは家族の妙な雰囲気は気にもしない様子で、妙子の足に機嫌よく頭を擦り付けた。
「まさか……」
 歩美がスズを見て、呟いた。
「スズ、あんたなの」
 妙子はさっとスズを抱き上げた。嫌がるその口元に、裕二が鼻を寄せる。夫は、顔をしかめて頷いた。
「……カニの匂いがする」
「うそ!」
「一匹であれだけ食べたのか、お前!」
 ぎゃあぎゃあ騒ぐ家族に、スズは迷惑そうな顔をして、妙子の腕の中で身をよじった。
「いやでも、猫はカニなんか食べたら消化不良になって、吐いたりするもんだよ。こいつ、全然平気そうじゃないか」
 裕二が嫌がるスズの額を指で突っつきながら、そう言った。
「でも、他に考えようがないじゃないの」
 妙子は身をよじって腕から逃れようとするスズを抱えなおしながら、力なくそう呟いた。
「個人差……個ネコ差があるんじゃないの」
 歩美ががっくりと項垂れながらそう言って、床にへたり込んだ。俊太がスズの耳をひっぱって、すごんで見せた。
「スズ、おまえなあ」
「猫に怒ったって仕方ないわよ」
 妙子は息子の手をはたいてやめさせると、スズを床に降ろした。スズは解放された途端、さっと皆から離れて、慌てて台所から出て行った。
「俺を仲間はずれにしようとするからだ」
 じとっとこちらの顔を見て、裕二が恨めし気に言った。しっかり根に持っているらしい。妙子は気まずい思いで夫から視線を逸らした。
「あーあ、せっかくのカニが……」
 俊太が天を仰いでそうぼやく。妙子は横目にちらりと息子を睨んだ。まったく、この子は自分のことしか考えてないんだから。
「残念だったねえ」
 チヨ子が、全然残念でもなさそうにそう言った。

 それから五人はもそもそと、メインディッシュのない夕食を摂った。
 妙子は三角コーナーに捨てたカニの殻をちらりと見て、肩を落とした。本日何度目か知れないため息が口から出そうになったのを、ぐっとこらえる。未練はあるが、悪いことをしようとするから罰が当たったのだと、無理にでも思うことにしよう。
「ごちそうさま。あたし、部屋で宿題してるわ」
 真っ先に食べ終わった歩美が、つまらなさそうな表情でそう席を立った。
「俺も、ゲーム」
 俊太も姉に続いて立ち上がる。
「あんたも宿題を済ませてからにしなさい」
 すかさず妙子が飛ばした小言に、俊太は嫌そうに首を振った。
「今日出た分は、もう休み時間に済ませたよ」
「嘘ばっかり」
 歩美が振り返って横槍を入れる。
「ウソじゃねーし」
 台所を出て行きながらも小突きあっている姉弟のやりとりを聞きながら、妙子はよくもまあ飽きずに喧嘩ばかりするものだとあきれ返ったが、仲良くしなさいと叱るのはよした。何かといっては言い争ってばかりいる姉弟だが、芯から仲が悪いというわけではない。俊太が小学校低学年のときに上級生に苛められて泣いていた翌日、その相手を捕まえてきて謝らせたのは歩美だったし、二年前に歩美が交通事故で腕を折ったときに、誰より心配しておろおろしていたのは俊太だった。
「ご馳走様でした」
 やがてチヨ子がお茶で口の中をすすぎ、空いた食器を手に持って席を立った。
「あら、もう召し上がらないんですか、お義母さん」
 驚いた妙子がそう聞くと、義母は振り返ってにっこりと笑った。
「年を取ると、やっぱり量が食べられないわねえ。ごめんなさいね」
 チヨ子は食器を流しにおくと、早々に自室に引っ込んでしまった。
 二人きりになって、妙子は何となく夫と顔を見合わせた。夫の目はもう恨みがましくはなかったが、妙子は今度こそ素直に頭を下げることにした。
「今日はすいませんでした」
 夫は苦笑して頷くと、お茶を啜った。
「うん、まあ俺も別に、そんなにカニが好きなわけじゃないんだよ。ちょっと拗ねてみただけさ」
 裕二はそう言って、肩を竦めた。本当にもう気にしていないような口ぶりだった。
「ごちそうさん。カニはなくても、飯は美味かったよ」

 俊太は歩美がむすっとしたまま自室に入るのを見届けて、にやりと笑った。
「スズが全部食べちゃった、かあ」
 俊太は自分の部屋に入ると、小さく鼻歌を歌いながら、まず床に放り出していたポテトチップスとシャーペンを拾って机の上に置いた。今日コンビニで買ってきたばかりのものだ。
 それにしても、スズに一口食べさせておいて、正解だったなあ。
 俊太はそう胸の中で呟くと、上機嫌で舌なめずりした。でも、もうすっかり冷めちゃっただろうな。ま、それくらいは仕方ないか。
 俊太は浮き浮きしながら、カニを放り込んで机に置いていたビニール袋を、ひょいと持ち上げた。
 そして愕然とした。
 軽い。
 俊太は動揺のあまりうまく動かない指で袋の結び目をどうにか解くと、袋の中をのぞきこんだ。何も入っていない。入れておいたはずのカニの身どころか、カニから垂れた汁さえも、そこにはなかった。
 俊太は袋をひっくり返して、中を触った。だが、そこは湿ってさえもいなかった。鼻を寄せてみても、カニの匂いは少しもしなかった。
 呆然としたまま袋をまじまじと見つめた俊太は、あることに気がついた。
「これ、俺が買ってきたコンビニの袋じゃない……」
 よく見ると、それは近所のスーパーの袋だった。それも、小さく結んでしまい込んでいたのだろう、袋はしわくちゃだった。誰かがすりかえたのだ。
 いったい、誰が。
 俊太は一瞬、一階に下りて犯人を問い正そうかと思った。だが、そうすると、自分がカニをコンビニ袋に隠して部屋に持ち込んだことまで、一から話さないといけなくなってしまう。
 打つ手なし。
 俊太は呆然と、自分の部屋の真ん中で立ち尽くした。

 チヨ子は自分に与えられた一階の六畳間で、和机の下に隠していたコンビニ袋を取り出した。
「あの子も詰めが甘いねえ」
 チヨ子は小さく呟いて、にんまりと笑った。だが、出来の悪い孫ほど可愛いものだ。
「あんなに慌てて部屋に駆け込んで、怪しまれると思わないんだから」
 食事を知らせる声を掛けていった俊太の、変に急ぐ声の調子と足音から、コンビニ袋の立てるガサガサという音に混じった不自然な湿った音まで、チヨ子の耳にはしっかりと聞こえていた。もちろんそのずっと前から、カニだカニだと嬉しそうにはしゃぐ母娘の会話だって、切れ切れに聞こえていた。
 チヨ子はコンビニ袋から剥き身のカニをつまんで、口に入れた。カニは冷めていても、じゅうぶん美味しかった。チヨ子はにっこり笑うと、心の中で北海道の長男に礼を言った。
 カニはチヨ子の大好物だった。さっさと嫁のところに行って顔も出さない薄情息子ではあるけれども、母の好物はちゃんと覚えていてくれたらしい。
 午後六時すぎ、台所から歩美の悲鳴が聞こえてきた後、チヨ子はじっと耳を澄ましてことのなりゆきを伺っていた。
 そうして足音と漏れ聞こえる声から、俊太が階段を下りて台所に入ったことを確認した後、チヨ子はそっと部屋を出て、足音を立てないようにゆっくり二階へ上がった。そして俊太の部屋からカニ入りのコンビニ袋を回収して自分の部屋に隠すと、何食わぬ顔で台所へ顔を出したのだった。
 途中で誰かに見つかったならば、それでもかまわなかった。そのときは何食わぬ顔をして俊太の悪戯を優しく叱った後に、最初の予定通り、全員でカニを分ければいいのだから。
 コンビニ袋の代わりに孫の部屋に置いてきたレジ袋は、歩いて五分で行ける最寄りのスーパーのものだ。運転免許を持たないチヨ子はときどき散歩がてらその店に足を伸ばしているが、妙子はというと、パートをしているもう一つ遠くのスーパーで買い物をすませてしまう。ヒントのつもりで机の上に置いてきてはみたが、さて、母親の買い物ひとつ満足に手伝わない俊太は、果たして犯人に気付くかどうか。
 チヨ子は上機嫌だった。カニは美味しいし、孫をからかうのも楽しい。
 いそいそとカニをつまむチヨ子の部屋の前で、スズがにゃあと鳴いて襖を引っかくようだった。 

(終わり)
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