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  珍しくも軽快にキーボードを叩き続けていた指が何の拍子にかぴたりと止まり、私はパソコンの画面から視線を上げた。そうして初めて、いつもは周囲の家々から漏れ聞こえている微かな生活音がすっかり絶えて、辺りがしんと静まり返っていることに気付く。それもそのはず、壁の時計を見ると、時刻は既に午前四時を回っていた。
 私はひとつ背伸びをして、自分で自分の肩を揉んだ。知らず、ううっと唸り声が漏れる。若い頃であれば、一晩中文章を書いた後の徹夜明けにそのまま出勤し、更に残業して帰る、などという無茶な真似も出来た。五十代も半ばを過ぎようという今になっては、そんな細やかな武勇伝も遠い夢のようだ。
 息を吐いてぐるりと椅子を回すと、書斎の真ん中を占拠している小さなローテーブルの上に、いつのまにか妻が置いていってくれたらしい麦茶のグラスが、ぽつんと取り残されていた。
 一体いつから置いてあったのか、全く気付いていなかった。私はパソコンの前を離れ、一人掛けのソファへ腰を下ろしてグラスを手に取った。麦茶はすっかりぬるくなって埃がひとつふたつ浮いてしまっているが、気にせず口をつける。そうすると、思いがけず自分の喉が乾ききっていたことに気付いた。
 せっかく調子よく執筆に耽っていたところではあるが、と、私はパソコンの画面をちらりと見た。今日は土曜日、休日出勤を迫られるような急ぎの仕事も抱えていないことだし、いつもであればここぞとばかりに書き急ぐところなのだが、今日ばかりはここまでにしておこう。
 何せ昼には、一人娘の利恵が久しぶりに初孫を連れて遊びに来るのだから。

 今日はもう休むと決めて布団に入ったはいいが、ついさっきまで執筆に集中していた私はすっかり目が冴えてしまって、なかなか寝付けなかった。何度も目を開いてはカーテンの隙間から差し込む月光が漆喰の壁を斜めに分断しているのを眺め、また目を閉じては妻の規則正しい寝息を聞くと言った具合で、睡魔の気配は生憎とまだ遥か遠いようだ。
 だいたい私の場合、ものを書いていると脳が昂ぶって、眠れなくなってしまうことが多い。だが執筆が捗るのも、大抵は夜更けだ。もしも若かりし頃の自分が仕事を辞めて小説一本で暮らす生活を選んでいたら、生活のサイクルはさぞ滅茶苦茶になっていただろうと、時々そんなことを思う。
 普段であれば眠れない夜には開き直って目を瞑ったまま小説の筋書きを考えるのだが、今日のように早く休みたいと思っているときには、そんなことをすれば余計に目が冴えてどうにもならない。それで私は、何か別のことを考えようと思った。
 眠る前には前向きなこと、楽しいことを考えるのがいい。そう考えた私は、明日遊びに来る娘と、来月には一歳の誕生日を迎える孫娘の顔を脳裏に思い浮かべた。
 かつて、長引いた反抗期の間は殆ど口を聞いてくれなかった娘だが、結婚の前後を境に少しずつ態度は軟化していって、今は小さい頃のように屈託なくとは言えないまでも、随分柔らかい笑顔を見せてくれるようになった。最近とみに笑うようになった孫は、幼い頃の娘に顔立ちがそっくりで、見るたびに丸々と可愛らしく肥えてゆく。明日にはまた、この前に会ったときとと違う顔を見られるだろう。
 そう言えば、昔はこんな風に寝付けない夜には、足音を忍ばせて娘の寝顔を見に行ったものだった。こんなことを人に言えば、過保護な親だと笑われるだろうか。娘が高校生になる頃まで、私のその習慣は続いていた。
 いつも、不安だったのだ。娘が悪い夢に魘されてはいないかと。
 そんなことを感慨深く思い出すうちに、少しずつ体が浮かび上がるような柔らかい睡魔がようやく訪れ、私は途切れがちになる意識の片隅で、もうそろそろ眠れるかなと、そんなことを考えた。

 雪が、アスファルトの上を白く覆っていた。
 ――おとうさん、りえね、おおきくなったら、おとうさんのおしごとのおてつだい、してあげるね。
 まだ小学校に上がる前の小さな娘が、そう宣言した。きっと幼稚園あたりで、大きくなったら何になりたいかというような話が出たのだろう。娘はいかにも精一杯考えたのだという、真剣な表情をしていた。
 ――そうか。利恵が手伝ってくれるなら、心強いなあ。
 私はだらしなく笑み崩れて、そう答えた。これは夢だなと、頭の隅では気付きながら。
 ――うん。いっぱいおてつだいするからね。そしたら、もっといっしょにあそんでくれるよね。
 利恵の舌足らずなその言葉に、私ははっとした。
 そうか、お前、寂しかったのか。手伝ってなんかくれなくても、いくらでも遊んでやるからと、私はそう言って娘を抱きしめようとした。
 だが私の腕をするりと抜けて、利恵は走り出した。
 ――駄目だ、利恵。
 不吉な予感に襲われた私は、娘の後を追いかけた。だが、なぜか小さな利恵の足に追いつけない。先に進むほど、アスファルトを覆う雪は人に踏まれて溶けかけて、ところどころ凍っていた。
 私の声が聞こえていないのか、それとも追いかけっこのように思っているのか、利恵はこちらを振り返り振り返りしながら、楽しげに弾む足取りで雪道を走っていく。
 ――利恵、そっちは駄目だ。戻ってきなさい。
 必死で追いかける私をよそに、利恵はどんどん先へ行ってしまう。私の横を、後ろからやってきた白い乗用車が通り過ぎた。利恵、そっちは駄目だ。利恵。
 私の必死の叫びも空しく、娘が足を止めることはない。
 私の目の前で、先ほど通り過ぎていった乗用車が凍りかけた雪にタイヤを取られ、不気味に蛇行しながら、そのバンパーが楽しげに走る小さな娘の背中へ、

 私は悲鳴を上げて目を覚ました。
 背中にびっしょりと汗をかいている。ひどく恐ろしい夢を見たような気がしながらも、その内容をまるで思い出せないことに、私は気付いた。
 娘が出てきたような気がするのだが、それ以上のことは何も分からない。昨夜、娘のことを考えながら眠りについたからだろうか。
 いったい何の夢だったのかひどく気になって、私は記憶が戻ってこないかとしばらく寝床に転がったまま頭を悩ませたが、いくら考えても夢の内容は蘇ってこなかった。仕方なく私はただ動悸のする胸を押さえて、息を整えた。夢見が悪いのは、おかしな時間に寝たせいだろうか。
 やがてゆっくりと汗が引き、それと同時に落ち着きを取り戻すと、私は寝室の壁に掛けてある時計に目をやった。午前八時半。閉めたままのカーテンの隙間からは、雲に遮られてでもいるのか、どこか弱々しい日差しが差し込んでいた。
 早いとはいえない時間だが、四時間ほどしか寝ていないことになる。年を取ると、望むと望まざるに関わらず目が覚めるようになってしまい、ただ惰眠を貪るということが中々できなくなってきた。平日も一時ごろに就寝して五時過ぎには起き出してしまうのだから、今日だって結局、普段と変わりはしない。
 私は大きく息を吐くと、布団を畳んで部屋の隅にどけ、寝巻きから妻が枕元に置いていてくれた服に着替えた。
 洗面所で顔を洗い、髭を剃ってから洋間の方へ向かうと、妻はリビングと続きになっている台所で洗い物をしていた。
「お早う」
「おはようございます。先にいただきましたよ」
 休日の朝を大抵寝過ごす私に慣れている妻は、いつものようにそう言いながら、私の分の食事を暖めなおしてくれた。それを待ちながら居間のソファに腰掛けた私は、テーブルの上に出してあった小さなダンボール箱に気がついた。開けっ放しの蓋の内側に古いそろばんを見つけて、私は蘇ってきた懐かしい記憶に、一寸ばかり微笑んだ。
「まだ捨ててなかったんだな」
「納戸を片付けてたら、出てきたんですよ」
 妻はそれだけで何のことか分かったのだろう、振り向きもせずに返事を寄越してきた。
 妻はまめに家計簿をつけているが、流石に電卓を使っている。このそろばんは実用品として買ったわけでは勿論なく、かつて娘の一歳の誕生祝いの席で使ったきり、記念にとっておいた品だ。
 そう言えば、来月には孫娘の一歳の誕生日が来る。それでわざわざ引っ張り出してきたのだろう。
 私は懐かしくなって、そろばんを箱から取り出して軽く振ってみた。そろばんの珠というのは、まめに手入れをしておかないとすぐに滑らなくなってしまう。案の定、じゃらじゃらという音が響くことはなく、すっかり固まってしまっていた。さて、流石に手入れの道具まではこの家になかったと思うが、そろばん塾に通う子どもをもつような知り合いもいないし、探して簡単に手に入るものだろうか。まあ、実用品として使うわけではないのだから、このままにしておいても構わないのだろうが。
「できましたよ」
 妻がそう声を掛けてきたので、私は元通りそろばんを箱に仕舞い込んで、ダイニングテーブルの方に移った。
「そういえば、今日、利恵の夢を見た気がするよ」
「あらあら、そんなに待ち遠しかったんですか。夢にまで見なくても、今日のお昼には会えますよ」
 妻は白飯をよそいながら、そう笑った。思わず私も苦笑して、茶碗を受け取る。それでつい、どうもあまりいい夢ではなかったようだと、言いそびれた。不吉な夢は口に出してしまえば逆夢になるというから、よく覚えていないながらも話してしまいたかったのだが。
 遅めの朝食を取っている途中、ふと私は窓をぽつぽつと叩く雨の音に気付いて、外を見た。妻もそのことに気付き、「あらいやだ、二階の窓は閉めていたかしら」と、小走りに階段を上がっていった。
 その妻の足音と駆け比べでもするかのように、雨足はあっという間に強まり、すぐに本降りになった。
 ここ数日は晴れ続きで、すっかり梅雨も去ったと思っていたのに。娘が向こうの家を出る頃には、上がるといいのだが。

 私がもたもたと食事を取っている間に、妻は「買い物に出かけてきます」と言い残し、雨の中、車のキーを持って出て行った。娘たちを迎える昼食の用意をするのだろう。
 たまには買い物ぐらい一緒に行こうかと思わないではないのだが、この年まで何の手伝いもせずにきてしまったことで、かえって今さら気恥ずかしいような気がして、いつも言い出しそびれる。
 私は妻が家を出て十分ほどした頃にようやく食事を終えて、洗い物を流しに運ぶと、書斎に向かった。娘が顔を出すまでに、少しでも執筆を進めておこうというつもりだった。
 私は一応プロの作家、ということになる。ささやかな賞を取ってデビューしたのが三十代中盤となかなか遅咲きで、もとからやっていた仕事を疎かにするつもりは毛頭なかったというのもあり、作家と胸を張って人に自慢するには、あまりにも寡作に過ぎるのだが。その少ない作品も、まるで話にならなかったというわけでもないのだが、特筆するほど売れたというわけでもない。それでも書けば何がしかの形で世に出してくれようという奇特な出版社も一応はいくらかあって、妻の理解と協力もあり、有り難いことにこの年まで細々と執筆を続けることが出来ている。
 今書いているものは特に依頼された原稿というわけではなく、書きあがってうまくいけば馴染みの編集者に相談してみようといったもので、特に期限が差し迫っているということもない。それでも、書き始めたら勢いで一度書き上げてしまいたいのが私の性分というもので、一旦手をつけたものを長く放ってはおけないのだった。
 パソコンの電源を入れ、画面が立ち上がるのを待っているうちに、何がきっかけになったのか、ようやく頭の中に今朝の夢の記憶が蘇ってきた。私はぱっと脳裏に浮かんだ雪に飛び散る赤い血のイメージに、思わずぶるりと身震いして首を振った。
 あれは、ただの夢だ。娘は確かにかつて事故に巻き込まれかけたことがある。だがそれは五月も半ばのことで、そのとき実際に撥ねられたのは娘ではなかった。雪道で白い乗用車がスリップしたのは、後年に私が目撃した別の事故の記憶だ。その二つが私の頭の中のどこかで混じりあって、今朝の夢を作り出したのだろう。
 私は夢の残滓につられて胸にのぼった辛い記憶に、思わず溜め息を吐いた。
 娘の利恵は小学校に上がったばかりの頃、下校途中に車に撥ねられそうになった。
 私たち家族の運命が大きく変わったその日。私の職場に電話がかかってきたのは、昼休みが終わって間もなくといった頃だった。
 妻の震える声が受話器の向こう側で「利恵が交通事故に」と言うのを聞いて、私の頭は真っ白になった。私が妻に続きを言わせず、「今どこだ!」と怒鳴ると、妻はひどく狼狽した口調で、当時の家から程近い総合病院の名前を口にした。
 私はすぐに電話を切ると上司に簡潔に断りを入れて、ポケットに突っ込みっぱなしだった財布の他は何一つ持たず職場を飛び出した。
 勤務先からその病院までどうやって駆けつけたのか、よく覚えていない。とにかく焦りに駆られるばかりで、到着するのに何時間もかかったかのような印象が残っているが、実際の会社と病院との距離を考えるとせいぜい一時間もかかってはいなかったはずだ。
 息を切らせながら私が病院に辿り着いたとき、利恵はぐずりながら妻の足に抱きついていた。その膝小僧と手には白い絆創膏が貼ってあったが、それ以外にどこも悪いところはないようだった。
 私は脱力して病院の廊下にへたり込んだ。けして信心深いほうでもないのに、言葉にならない胸中で思わず守ってくれたご先祖様にひたすら感謝した。
 だが、残念なことに、「何事もなくてよかった」とは、けして言えなかった。
 私たちの利恵を庇って代わりに車に撥ねられたのは、堀井勇君という名前の、近所に住む高校生だった。
 私が病院に到着したときには、娘の命の恩人であるまだ年若い少年は、すでに息を引き取った後だった。
 霊安室でまだどこか事態を呑み込めないような顔をしている少年の両親に向かって、私は土下座してひたすらに詫びた。娘を救ってくれたことへの感謝を述べるには、まだ高校生になったばかりの一人息子を亡くした両親の嘆きは生々しく、察するには余りあった。
 頭を床に擦り付けて詫び続ける私に、呆然としたままの少年の父親が、「いえ、娘さんが悪いわけでは」と言った。ありませんから、と続けようとしたその語尾が掠れて消えて、その横で母親が嗚咽を漏らして崩れ落ちた。私はその慟哭を聞きながら、ただ震えて何度も詫びの言葉を喉の奥から搾り出した。
 確かに、娘が悪いわけではなかった。後で聞いた話によれば、利恵が飛び出したとか道路をはみ出して歩いていたとかいったことではなく、事故の原因は疲労から居眠り運転をやらかして歩道に突っ込んできた運転手の完全なる過失であり、その意味では私たちも紛れもなく被害者だった。
 だが、責任を感じないでいられるはずもなかった。まだ小学校に上がったばかりの娘を、家のすぐ近くの学校なのだからと一人で登下校させていたのは、私たちだったのだから。



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