小説トップへ   2話  へ


 
 
 取り返しのつかないこと、というのが世の中にはある。

    *

『DNA登録はお済みですか? 二〇二六年四月から、遺伝子情報の出生時登録が義務づけられました。まだ手続きがお済みでない方は、速やかに市民課本館または最寄りの行政センターへお申し出ください。また五歳以上のお子様で……』
 梅雨明け宣言の出た次の日の朝、テレビをつけるなり、市政広報の棒読み文面が流れた。チャンネルを変えたら変えたで、ほかの放送局は一昨日犯人が逮捕されたとかいう殺人事件の、目新しさのない続報ばかり。電源を切って、ため息をひとつ。
 起きたときから、ついていない日になりそうだという予感はあったのだ。
 なにせ夢見が悪かった。細かいところまで覚えてはいないけれど、なんだか猟奇殺人とか大量破壊とか、そういうかんじの内容。それも殺されそうになる側ならまだしも、なぜだか自分の立ち位置は犯人役のほうだった。気分が悪いことこの上ない。
 最近なにかホラー映画でも観ただろうかと、記憶を探ってみても、心当たりはなかった。ミステリ小説ならときどき読むけれど、スプラッタのたぐいからは、久しく遠ざかっている。
 講義をさぼって寝直したかったけれど、間の悪いことに、朝から必修の授業が入っているのだった。
 しかたなく顔を洗って化粧をはじめたら、睡眠不足のせいでファンデーションののりが悪い、という現象を、生まれて初めて体験した。ああ、行きたくない。
 中学のときも高校のときも、べつにいじめにあっていたわけでもないのに、毎朝ひたすら登校したくなかった。集団というものが、わずらわしくて仕方なくて。
 大学に入ったら少しは何かが変わるかとも思ったけれど、化粧と私服のぶんの面倒くささが加わっただけのような気がする。

    *
 わたしがその男の子の存在を意識しはじめたのは初夏のころ、梅雨入りにはまだもう少し間があるかという時季のことだった。
 須田原雄大。ちょっと珍しい苗字だけじゃなくて、ついフルネームで覚えてしまったのは、名前とは裏腹の小柄な体格をからかわれているところを、たまたま見かけたからだ。
 須田原は怒るでもなくへらへら笑いながら、だけど少しも卑屈っぽくは見えない人あしらいのよさで、相手に軽口を返していた。
 如才ないその様子にというよりも、そのあとに起こった変化のほうに、わたしは気をとられた。興味を失った男子学生が離れていってから、須田原がほんの一瞬かいま見せた、うんざりしたような表情に。
 笑っていなかったら、須田原はなんとなくちょっときつそうなというか、怖いような顔をしていた。
 そのギャップに面食らいながら、この子はもしかしたら、自分と同じような人種なのかもしれないなんて、そんなことを考えた。
 必死になって何かに打ち込むこともなく、自分があとで困るほどにはサボることもなく。人付き合いもそれなりに、特別に親しい友達も作らず。誰が好きだとか嫌いだとか、そういうことでいちいち騒がしい同級生を、ひとごとのように横目で見て、要領わるいなあなんて思いながら、楽な方に流れるように、生きてきた。
 須田原ももしかしたら、そうなんだろうかと思ったのだ。
 その時点では、意識したといっても本当に文字通り、ちょっと気になったというだけのことだった。なんせ直前に、高校のとき付き合っていた彼氏と別れたばっかりだったので。
 別れた、というほどの大仰なことでもなかったのかもしれない。大学が別になるのがわかった時点で、なんとなく自然消滅したようなものだった。
 遠距離恋愛をつらぬくような情熱というか、そういうものを、相手もわたしも端から持っていないことはわかっていた。進学して一ヶ月も経たないうちに、新しい彼女ができたことを悪びれないメールで知らされて、それでおしまい。
 まあ、お互い様ということだったのだろう。付き合ってみない、とかなんとか軽く言われて深く考えずにOKして、なんとなく彼氏彼女っぽいこともして、だけど結局のところそこから情が湧いたりもしなかったし、フラれたときにもたいして傷つかなかった。
 自分でもそういう自分の、冷淡さというか薄情さというか、そういう気質にちょっとうんざりしてはいたのだ。だから彼氏とかそういうのはまあ当分いいかなというのが、そのころの正直な心境だった。
 事情が少し変わってきたのは、もう少し後、六月に入ってからのこと。

 水曜日の午後は授業を取っていなくて、その時間を、わたしは図書館通いにあてていた。大学の図書館は蔵書量こそ多いものの、ちょっと品揃えが好みと違っていたので、すぐに少し離れた市立図書館のほうに行くようになった。
 本が好きなのは、小学校の頃からだった。だけどいつからだろう、本好きイコールちょっと暗くて変わった子、という目で見られるのがいやで、学校ではそのことを隠すようになっていた。
 だから高校にあった図書館でも、けっきょく三年間ほとんど何も借りられなくて、わざわざ家から十五分バスに揺られて、やっぱりいまみたいに町立の図書館を利用していた。
 進学で越してから場所こそ変わったものの、その頃の習慣をそのまま持ち越して、いまに至る。土日がメインだったのが、水曜日の午後に変わっただけ。
 その図書館で、須田原に遭遇したのだ。六月最初の水曜日、英米文学の書架の前。
 須田原は三冊ばかりの本を手に抱えていた。ばっちり目が合って、須田原はそのまま会釈でもして通り過ぎるかどうか、ちょっと迷うような気配を見せた。
 お互い顔は見知っていても、せいぜい二回か三回、話したことがあっただろうかというような相手だ。わたしだって普段ならそうしただろう。須田原が抱えている本の一番上にあったのが、その小説でさえなかったら。
「――その作家、いいよね」
 何を考えるよりも先に、つい、言葉が出た。そのくせ相手の反応を待つ一瞬のあいだ、色んなことを考えてしまって、なんだかやたらに緊張した。へんな女だと思われただろうかとか、そもそもそんなこと言われても須田原はまだその本を読んでないんじゃないかとか。
 だけど身構えたのは心配のしすぎというもので、須田原はぱっと、明るい笑顔になった。
「いいよな。昨日一冊借りて、めちゃくちゃ面白かったから、今日さっそく他の本も探しに来たところ」
 おや、と思った。教室でときどき見かける笑顔とは、まったく別の表情に見えたので。
「電子書籍になってないのがつらいよね」
「あ、やっぱり? 昨日見つけきれなくてさ」
 声が弾んで、それから須田原は周囲の目を気にするようにきょろきょろした。うるさかったかな、という表情。それでとっさに、図書館に併設されているカフェのほうを振り返った。
 須田原もその視線に釣られて振り向いてから、あっちでしゃべる? と目顔で問いかけてきた。
 それでつい、うなずいた。本当に、つい、だった。もちろんべつに、後ろめたいことなんか何もない。同じ作家の愛好家同士ちょっと盛り上がるくらい、などと心のなかで小さく言い訳をしたのは、まあ余分な話。

 結局そのままカフェで盛り上がって、二時間ばかり喋りたおした。
 古典というほどには古くない、だけど少し前の時代のSF作家だった。もうだいぶ高齢のはずだが存命で、本人の意向でこのご時世だというのに、まだ一冊も電子出版されていない。
 そのせいもあってか、日本での読者はあまり多くない。本好きなら名前は聞いたことがあるかもというくらいで、普通の人はまず知らない。もしこれがファンの多い、誰でも名前を知っているような作家だったら、たぶんあれほど盛り上がったりはしなかった。
 この本が好きならあの作家も好きなんじゃないとか、あっちはもう読んだかとか。あれこれ話しているうちに、思った以上に読書の趣味が重なっていることがわかって。それで結局さんざんしゃべり倒したあげくに、須田原に薦められた本を追加で借りて帰ることにしたら、とんだ大荷物になった。
 電子書籍を借りるのは手続きが煩雑だし、貸し出し期間も短いけれど、それでも普段はつい、紙の本のほうを敬遠してしまう。ときどき読みたい巻が貸し出し中だったりするし、なにより荷物になるから。それだから、薦められたけれどまだ読んでいないという本は、必然的に電子版の存在しないタイトルが多くなったのだ。
 それでふうふう言いながら電車で持って帰るなり、さっそくイチオシされた海外SFに読みふけって夜更かしをした。その夜のわたしがどれくらい浮かれていたかというと、夕飯を食べ忘れていたことに、翌朝になってようやく気がついたくらい。
 朝はそのテンションをまだちょっと引きずったまま目を覚ましたのだけれど、その勢いは、電車に乗るところまでしか続かなかった。
 いきなり翌日から須田原に親しげに話しかけるようなことは、冷静になったわたしには、もうできなかった。奥手だとかそういう話じゃない。急に仲良くなったようなそぶりをみせて、周りにからかわれるのがいやなのだ。
 それは向こうも同じだろうと思っていたら、案の定、顔を合わせたときにちらっと笑って挨拶したきり、あとは素知らぬふり。
 まあそんなもんだよねなんて、自分のほうもしらんぷりしておきながら、何となく勝手にがっかりして、そういう自分に嫌気がさしたりして。
 ひとりで浮かれたり落ち込んだりして。馬鹿みたいに。

 勝手にがっかりした手前、水曜の習慣を崩して翌日も図書館に行ったりはしなかった。誰に対して何の意地を張っているのか、自分でもよくわからなかったのだけれど。
 翌週の水曜日、なんとなく落ち着かない気分で図書館に向かった。今日来てるかな、来てなかったら避けられてるってことかな、だけどわたしと違って向こうはもともと毎週来てたわけじゃないんだろうし、そもそも……
 なんていう余計なことを色々考えていたのも馬鹿っぽい話なのだけれど、結果から言えば、須田原はやっぱり、英米文学の書架の前にいた。
 目線がこのあいだの作家とは別の古典作家のところに向いていたあたり、もしかしたら件の作家は読み尽くしてしまったのかもしれない。多作な作家ではないことだし、あり得る話だった。だけど須田原が手に持っているのは全然別の、遺伝子ビジネスがどうたらいう日本人作家のノンフィクションで。
 ついまじまじと見ていたら、須田原は視線に気づいたようすで振り返った。ちょっとびっくりした顔をして、それから、ほっとしたように笑った。
 ああ、なんかもう駄目だ、と思った。
 須田原の笑顔が駄目なんじゃなくって、自分の馬鹿さ加減に、頭がくらくらした。この棚の前にいたのはもしかしたら本を探してたんじゃなくて、わたしを待ってたからじゃないのかとか、いやいや自意識過剰だし、そもそもわざとらしく一週間あけておいて何を図々しいとか。そういういらないことをごちゃごちゃ考えてしまう自分の浮き足立ちっぷりが、なんていうかもう色々と、駄目だった。
 駄目だ駄目だとひとり内心でぶつくさ言いながら、結局その日もアイコンタクトでカフェのほうに移動して、そのまま先週勧め合った本の話題で盛り上がった。一週間ぶりなのに、まるでそんな空白なんかなかったようなテンションで。

 カフェでのその会合だかお喋りだかは、そのまま週イチの習慣として定着した。
 それで、まあ、長々と一対一で顔をつきあわせて喋っていれば、いらないことに気がつくわけだ。須田原が真顔だときついような印象があるのは、つり目でちょっと三白眼気味なのと、黙っているときに顎を引きぎみにする癖があるせいだとか。好きな本を好きだというときの笑いかたに、いつもほんの少し照れが混じって、そうすると急に子どもっぽく見えることとか。愛想笑いと違って普通に油断して笑っているときは、小さく目尻に皺が寄ることとか。そういうものすごくどうでもいいようなことを。
 ついこの前ほかの男にふられたばっかりのくせに。もう彼氏とかは当分いいやとか言っていたくせに。
 そういう引け目があったから、というわけでもないのだけれど、彼女いるのとか、そういうことを聞くような話の流れにはまったくならなくて、本気でただ好きな本の話だけで二時間も三時間も飽きずに話して。本当にただ、それだけだったんだけど。
 八割がた一方的にこっちだけが意識してるんだとわかっていたから、なおさら馬鹿みたいだった。だって向こうにちょっとでもそういうつもりがあったら、少しは恥ずかしそうだったり、緊張してたりしててもいいはずだし、須田原は見るからに女慣れしていそうとかいう感じでもないから、たぶん本当にぜんぜんちっとも意識されてないんだろうなとか。
 まあそんなようなことで、ぐるぐるいらないことに脳味噌を使いながら、色気もなにもない話ばかりしていたわけだ。
 そういうわけで、六月のわたしはどこまでもかっこわるくて、馬鹿丸出しだった。
 だけど七月のわたしは、もっと救いようのない馬鹿だった。

    *
 図書館での遭遇から一ヶ月ちょっと経っても、須田原とのあいだには何の進展もなくて、あいかわらず週に一回顔をつきあわせて、本の話をしているだけだった。
 学校ではほとんど喋らないのも同じ。須田原はいつも静かで、かといって人の輪から外れて孤立しているというわけでもなく、どちらかというと輪のすみのほうで出しゃばらずに、いつも誰かの聞き役に徹しているというふうだった。
 誰かが困っていればさりげなく手を貸すけれど、親切の押し売りはしない。誰から話しかけられても感じよく応対して、よく笑顔を見せる。だけどあの目尻の皺を、学校で見ることはない。

 七月中旬の水曜日、必修の講義を受け終わって、学食の奇跡的に不味いうどんを根性でたいらげてから、いつもの図書館に向かった。
 今年はなかなか梅雨が明けなくて、空のどんより重い日だった。ときどきざあっと強い雨が地面を叩く。返却する本をビニール袋でガードして、バッグごと胸元に抱え込んでも、まだちょっと不安になるような天気。
 はっきり約束をしているわけでもないけれど、その日もやっぱり須田原は来た。雨の匂いのかすかに入り込むカフェは、冷房が効いていて、少しばかり肌寒かった。
 話題はそろそろSF界隈を一巡して、ミステリや歴史小説のほうに広がっていた。
 広がったというか、ミステリはまだしも歴史のほうはわたしはさっぱりだったので、もっぱら聞き役に回っていたのだけれど。なんせ人名が覚えきれないという理由で、これまで可能な限り歴史の授業を避けて通ってきたという経緯がある。
 だけど須田原が面白いというんならきっと面白いんだろうし、この機会に読みやすいやつから手を出してみようかなとか、まあ本好きの前でそんな話をしたらどうなるかは目に見えていて、案の定、また荷物が山盛りになった。
「そういえば、ノンフィクションも読むんだっけ? 何でも読むんだね」
 そんなことを口にしたのは、ほんとうに何の気なしのことだった。
 だけど須田原は、一瞬、顔を強ばらせた。そうしてみると、やっぱり目つきの悪い須田原は、ちょっと怖い顔で。
 あれ、わたし何かへんなこと聞いたかな、いや別にそんなおかしいことは言ってないよね、いやでも前に手に持っていた本のことをしつこく覚えていたっていうのが、もうなんかストーカーぽかった? とかなんとか、思わずいろいろ考えてしまって焦っているうちに、須田原のほうで表情をとりつくろって、
「まあ、たまには読むかな。あんまりジャンルとか気にしないほうだけど、でもやっぱり好きなのはSFだな。子供のころに読んだ漫画がすっげ面白くってさ」
 そんなふうに話を逸らしてきた。逸らされたというのははっきりわかったけれど、とにかく須田原が笑ってくれたのでほっとして、それ以上追及する気にはなれなかった。
 で、そこから漫画の話になって、そうなったらやっぱり漫画のほうもけっこう趣味があって、そこでひとしきり盛り上がった。
 図書館にはさすがに置いていない古い漫画で、須田原が昔からものすごく好きだという、絶対おすすめのやつがあるから、こんど貸してくれるとかいう話になって。
 じゃあ来週持ってくるよと、須田原が当たり前のように言ったので、つい。
「えー。気になるじゃん、あしたの一限、須田原も取ってるでしょ? そのときにさ、」
 ついそんなふうに返してしまったのは、いちばん最初のときのがっかりした気持ちを、まだちょっと引きずっていたからだった。はじめて図書館で会った次の日、学校で知らんぷりされたときの、あの拗ねたような気持ちが。線を引かれたことへの落胆が。
 だけどいざ言ってしまってから、急に相手の反応が怖くなった。踏み込みすぎた、だろうか。
 そしてその不安は、あんまり杞憂でもなかった。須田原は急に表情を曇らせて、ちょっと言葉に詰まったのだ。
 迷惑だっただろうかと、そう思ったら、ひどく悲しくなった。だけど悲しむのも馬鹿な話だ。だって自分のほうでもからかわれるのがいやで、教室では知らんぷりをしてきた。何をどう考えたって、お互い様というやつだ。拗ねる資格がわたしのどこにあるっていうんだろう。だけど、でも。
 混乱したまま、ともかく発言を取り消そうと口を開きかけたところで、須田原が迷い迷い、片手を上げた。
「でも、あんまり俺とつるんでたら、迷惑かかるかもしんないから」
 いまさらだけどさ、とつけたしたその声には、真剣な響きがあった。
「えー、何その昔のドラマみたいなセリフ。いったい須田原なにやらかしたの、あんたと話してたら昔の彼女とかが包丁持ってきて、刺されちゃったりするわけ?」
 なにか多分、とても真面目な話なのだというのは察していたのに、とっさに軽口にしてしまったのは、怖かったからだ。
 茶化したことを、口に出す端から後悔していた。だけど向こうも笑ってのってきてくれた。「いやもうそれが実は、人にはとても言えないあれやこれやが」
 須田原も、もう完全に冗談の口調だった。それでちょっとほっとしたような、よけいに寂しいような気がして、つい変な雰囲気になりかけたのをごまかすように、げらげら馬鹿っぽく笑ったりなんかして。
 じゃあつぎの水曜日に、と笑って約束して、その日はそれでお開きになった。


   2話  へ

拍手する



小説トップへ   2話 へ


inserted by FC2 system