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 星の見えない闇夜の中、テナーは走っていた。小さなシルエットが、音もなく路地を駆け抜ける。人間でいうなら、やっと歩けるようになったばかりの子どもといい勝負の、けれど彼女の体の大きさからしてみれば、危なっかしいほどの速度で。
 中世ヨーロッパの村娘ふうの、素朴な彼女の服には、とれなくなった泥染みがいくつも出来て、あちこちかぎ裂きが目立っている。毛糸で編まれたお下げ髪は、汚れてすっかり色がまだらになってしまっている。けれど、自分の身なりなんて意識の端にものぼらないようすで、テナーは必死に走り続ける。
 暗い路地を照らしているのは、途切れがちの街灯と、遠くの自動販売機の灯りばかり。彼女にとってその暗闇は、本来ならば味方であるはずだった。けれどいまは、視界の暗さが彼女を妨げる。
「消防士さん」
 テナーはささやく。本当なら、大声を出して呼びかけたかった。けれどそれはできない。誰かに声を聞かれるわけにはいかなかった。人間に見つかってしまった瞬間、彼女は指一本動かせなくなってしまう。
 晩秋の冷たい風に、雨粒が混じりだした。頭上を覆う雲は厚く、空は暗い。
 焦りにもつれる足取りで、テナーは走る。柔らかい生地でできた彼女の足は、物音を立てない。けれどそれは同時に、探す相手が彼女の足音を聞きつけることもないということだ。
 切れた街灯の下を、そのまま通り過ぎかけて、テナーはつんのめるように立ち止まる。暗闇に沈んだそこは、ゴミ捨て場だった。
「消防士さん、いないの」
 返事をして。テナーは繰り返しささやいた。耳を澄ますけれど、答える声はない。朝を待たずに積み上げられた、マナーの悪いごみ袋に、それでも彼女は眼をこらす。相手が声も出せない状態にある可能性が、頭をよぎるのだった。
 やがて諦めて、テナーは夜の住宅街を走りだす。どうか間に合ってと、胸のうちで叫びながら。


    ※

 消防士の人形は、近ごろ、ふさぎこむことが増えていた。テナーが話しかけても、上の空で言葉少なに答えるばかり。ときおりふと顔を上げて、彼女が心配していることに気がつくと、かすかに微笑んで、けれどまた黙り込んでしまう。
 なんとか彼を元気づけることができないかと、テナーは消防士の手を引いて町中を歩くことが増えた。昼間は人目につくから、散歩はいつだって真夜中だ。以前は、そうして出歩くのは、テナーの使命――近くの家々で悪夢にうなされている子どもたちを助けるために、彼らの眠る窓辺に駆けつけることだけが、その目的だった。けれどこの頃では、子どもたちの悲鳴が聞こえなくても、テナーは彼を連れて、夜の散歩をすることにしていた。
 太陽の下を自由に歩き回ることが出来たなら、どんなに素敵だろう。ときどきそんなふうに思うこともあったけれど、夜更けにだって、夜気に溶け込む優しい声で鳴く鳥たちはいるし、月明かりに照らされて静かに咲く花もある。晴れた夜には人気の少ない公園や空き地に行って、地面の上に寝転がると、星が瞬くのが見える。
 けれど、消防士がそうしたものに心動かされることは、もう、あまりないようだった。
 それでもほかにしてあげられることがみつからなくて、テナーは毎晩、彼を連れて歩いた。
「ねえ、消防士さん。今夜は満月なのね」
 空き地の前で足を止めて、テナーは消防士の手を引いた。空は夕方からずっと曇っていたけれど、このときは雲の切れ間から、月が顔を出していた。
「そうだね」
 消防士はぼんやりとテナーの指さす方を見上げたけれど、そのビーズの瞳に、月は映りこんでいない。
 気のない彼のようすに、テナーは肩を落とした。以前であれば、テナーがうるさいと怒るくらい、消防士の人形はいつも陽気に話し続けていたし、ことあるごとにテナーをからかおうと、ちょっかいをかけてきたりもした。そうした騒々しい日々が、いまは懐かしかった。
 テナーはため息を飲み込んで、満月を見上げた。
 本当は、月の明るいときに出歩くのは、あまり望ましくない。近ごろでは夜中に出歩く人もめずらしくはないし、天気の悪い闇夜と違って、彼らの姿も人目につきやすい。
 それでも、かびくさい軒下に隠れて息をひそめているよりは、消防士に外の空気を吸わせてやりたかった。
 テナーは気を取り直して、ふたたび歩きだした。
 思いがけず近くで、鋭い吠え声がした。びくりと肩をすくませて、テナーは立ち止まる。道の先に、一頭の犬。毛がところどころ剥げて、痩せこけている。
 犬は警戒に満ちた眼をこちらに向けて、低い唸り声をたてている。テナーは息をつめて、あとずさった。
 犬にも、彼らに関心を持たないものと、過剰に警戒して攻撃的になるものがいる。逃げるべきか、じっと動かずにいるべきか、テナーは迷って、あたりに視線を巡らせた。
 彼らのいるところのすぐそばには、狭い空き地がある。取り壊された建物の土台と、塀の名残りだけが残っていて、その片隅には、ゴミ捨て場でもないのに、いくつものゴミが不法投棄されているようだった。どうやらその中には、生ごみも混じっている。犬は、餌場を荒されたと感じているのかもしれなかった。
「逃げるんだ」
 消防士の声に、テナーははっとして顔を上げた。見上げる彼の横顔は、思いがけず落ち着いていた。
「――あなたもよ」
 テナーはいって、彼の手を引いた。けれど消防士は、その手を強く振り払った。
 ショックで立ちすくむテナーを置いて、消防士は駆けだした。それにつられて、犬も走り出す。テナーは声にならない悲鳴を上げた。
 消防士は、犬の気を引いて、その脇を駆け抜けようとしているようだった。けれど当たり前のように、身をひるがえした犬に、すぐに追いつかれる。
 犬はひといきに消防士に飛びかかると、その体を軽々と押さえこんだ。涎に濡れた牙が、月明かりに光る。
「消防士さん!」
 テナーは叫んで、駆けよろうとした。
「いいから逃げろ!」
 消防士が叫ぶのと、同時だった。彼の体が硬直して、その眼がうつろになった。
 テナーははっとして立ち止まった。その意味するところを、テナーはよく知っていた。――人間が、近くにいるのだ。
「……なんだ、犬か」
「保健所を呼んだほうがいいかな」
 二人分の声と、足音が近づいてくる。
 テナーのいる位置は、塀のかげになっているのか、彼女自身はまだ動くことができた。けれどテナーは体を伏せると、息をひそめた。動いて人目を引けば、彼女も同じ運命をたどるだけだ。
 胸がじりじりと焦りに焦げる。ああ、やはりこんな月の明るい夜に、散歩などするのではなかった。テナーは悔いたけれど、いまさらどうすることもできなかった。
 犬は、警戒の対象を移したのか、咥えていた消防士の人形を落として、人間たちのほうを睨むようだった。やってきた二人の人間は、恐れたように少しあとずさった。一人が携帯電話を出して、どこかと話している。
 犬はいっとき唸り声を立てていたが、相手が悪いと悟ったのか、じりじりと距離をあけてゆき、ある瞬間を境目に、勢いよく走りだした。人間たちは小さく悲鳴を上げたけれど、逃げる犬を追いかけるようすはなかった。
 テナーはわずかに安堵して、消防士をはげますように、視線を送った。オレンジ色のフェルトに無残な穴があいているのが、月明かりのなかではっきりと見えた。
 このまま人間たちが、去ってくれれば。しかしそのテナーの願いは、あっさりと破られた。
「ああ、また捨ててあるな」
 携帯電話で話していたほうの人間が、腹立たしげにそういった。
「看板まで立てたのになあ。……ひとり捨てると、すぐあとが続くんだよな。ずっと監視してるわけにもいかないし」
「どうする?」
「このままにしとくと、また増えるだろ。とりあえず車で運ぶか」
 ひとりの手が、地面から消防士の人形を拾い上げるのを、テナーは絶望的な思いで見た。上げそうになった叫び声を飲み込んで、彼らの気が変わることを、ただ祈るしかなかった。けれど願いは通じず、二人はどこか近所から車を回してきて、不法投棄されたゴミを、次々に積み込んでいった。
 テナーは、消防士がゴミ袋のひとつに押し込まれて運ばれて行くのを、最後まで何もできずに、ただ見ていた。


    ※

 あのときどうして、わたしは飛びださなかったのだろう。
 冷たい雨にうたれて走りながら、テナーは悔いた。
 あのとき、もし矢も盾もたまらず飛び出していれば、すぐに人間たちの視界に入って、指一本動かせなくなっただろう。けれど二人で知恵を合わせて脱出できたかもしれないし、少なくとも、消防士と離れ離れになることはなかった。
 後悔を胸に、テナーは走る。初めはぱらぱらと降っていた雨は、いまや本降りになっていた。ときおり朝の早い家の窓から、炊事の音が響く。夜明けまで、あとどれほどの時間が残されているだろう。
 夜明けまでに見つけきれなかったら――その先の想像に、テナーは顔をくしゃくしゃにする。その瞳に、涙はない。人形は涙を流せない。
「消防士さん」
 ときおり抑えた声で呼びかけながら、テナーは走る。答える声はない。
 あの人間たちは、ごみ袋をどこに捨てただろう? テナーは必死に考える。車で通りかかった最初のゴミ捨て場だろうか、それとも彼らの家の近くだろうか。律義な人間ならば、収集日まで自分の家にでも置いておくかもしれない。
 消防士が突っ込まれたのは、燃えるごみの袋だった。収集日はいつだろう? 真夜中にしか出歩かないテナーは、ふだんあまり曜日を意識することがない。もし明日だったら?
 ぞっとして、テナーは身震いをした。
 悪いことばかりを考えてしまう己を叱咤しようと、テナーは自分で自分の頬をひっぱたいた。明日が収集日だとは限らないし、もしかすると、消防士は自力で脱出したかもしれないのだから。
 けれど、初めてテナーが彼と出会った日にも、消防士はゴミ袋の中から出られずにいた。彼のフェルトの手足では、ビニールを引っ掻いて破るのは難しい。
 それに――テナーは思う。消防士には、逃げ出すつもりがないかもしれない。
 犬にくわえられてぐったりとした消防士の目を思い出して、テナーはぎゅっとこぶしを握った。
 人形の体が壊れなくても、その心が死んでしまうことはある。ちょうど人間にも、ときおりそうしたことが起きるように。
 絶望は人形の心を、たやすく殺してしまう。その心配が、けして大げさではないことを、テナーは知っていた。

    ※

 それは、月のない夜のことだった。
 丑三つ時も通り越し、朝の早い仕事の人々がちらほら動き出す時間になって、テナーは悪夢に怯える子どもの声を聞きつけた。
 声は遠く、か細く、かろうじてテナーの耳に届きはしたけれど、ふたりが走ってその家に到着するまでには、時間がかかった。小さな人形の足だ。しかも、車や人間が通りかかるたびに足を止めて隠れていては、なおさらのことだった。
 ときには間に合わず、子どもが泣きながら目覚めるほうが早いこともある。もっとも、テナーが手を貸さなくても、ほとんどの場合、子どもたちは自力で悪夢を追い払うことができるし、あるいはうなされて飛び起きても、負った心の傷を癒してゆく力を持っている。
 それでもテナーは、彼らの悲鳴を放っておけない。夢の中の心はむき出しで、ひどく傷つきやすい。ときには悪夢の尻尾を引きずって、ほんの何気ない拍子に、悪い運を呼び寄せてしまうこともある。いつもだったら何でもないようなことで苛立ったり、傷ついたり、そういうささいなきっかけが、運命の別れ道になってしまうような。
 二人は必死に急いだ。日が昇ってしまえば、彼らはほとんど身動きが取れない。
「――まだ先かい?」
「もう少し」
「ほんとうに?」首を傾げて、消防士は少しさびしそうな顔をした。「俺には何も聞こえないんだものなあ」
「もうじきよ。あの先の角を曲がって、あとはまっすぐ」
 角を曲がったとき、消防士が急に立ち止まった。テナーが振り返って目線で急かすと、消防士は我に返ったように首を振って、ふたたび走り出した。
「どうしたの」
「このあたり……見おぼえがある」
 テナーが足を止める番だった。
 たしかにその道は、テナーの記憶にもあった。いつか消防士と出会ったゴミ捨て場は、この近くではなかっただろうか?
 彼の持ち主がいた家も、この近くにあるのだ。立ちすくんだテナーに、消防士は微笑んで、手を差しのべた。
「行こう。迷うなんて、君らしくないぜ」
「でも……」テナーは躊躇って、いった。「あなたまで、無理につきあうことはないのよ」
「冗談だろ。ほら、急ごう。ぐずぐずしてると、夜が明けちまう。――どの家だい」
「あそこ。青い屋根の」
 テナーは道の先を指さした。泣き声は、まだ続いていた。ほんの小さな、男の子の声だ。夢の中の怪物に怯えて、泣きじゃくっている。
 幸いというべきか、子ども部屋が、一階にあるようだった。犬が飼われているようすもないし、門扉の下の隙間も大きかった。這うようにしてそこをくぐり、裏庭に回り込んで、テナーは窓辺にしがみついた。
 カーテンにさえぎられて部屋のなかは見えないけれど、テナーには、窓辺のベッドに眠っている男の子の存在を、はっきりと感じ取ることができた。
(大丈夫よ)
 心のうちで、テナーは語りかける。
(なにも怖くないわ。ほら、怪物はどこかにいってしまった……)
 悪夢が少年のうちからすっかり追い払われてしまうまで、テナーは目を閉じて、窓ガラスに額を押し付けていた。だから彼女はいっとき、消防士の様子に気が付けなかった。


 やがて泣き声がやまり、男の子の体から抜け出した悪夢の名残りは、どこへともなくかき消えた。テナーは振り返り、消防士に微笑みかけようとして、はっとした。
 消防士は食い入るように、隣の家を見つめていた。
 小ぢんまりした家だ。温かみのあるクリーム色の外壁に、雨だれのあとが目立ち始めている。
「そのおうちが……」
 いいかけて、テナーは口をつぐんだ。消防士は、彼の持ち主と不幸な形で別れている。どのように彼の傷口に触れるべきなのか、テナーにはまだわからなかった。
 けれど消防士はふっと視線をおろして、テナーに微笑んでみせた。
「うん。ここから二階の窓が、ちょっと見える。カーテンが、俺がいたころと変わってない……」
 何でもないふうを装って、消防士はいったけれど、その語尾は弱く掠れていた。
「――もう、行きましょう」
「夜が明ける。今日のところは、ここの植え込みに隠れるのがいいんじゃないかな」
 消防士がいうように、空がもう白み始めていた。
 二人がいまいる家には、入り込めそうな軒下はなかったけれど、塀の代わりに植え込みがあって、その下が、どうにか隠れ場所になりそうだった。二人はなるべく音をたてないように気をつけて、その隙間に体をすべり込ませた。葉っぱまみれになりながら。
 やがて空が明るみ、住人が起き出す物音の聞こえだす中で、テナーは消防士の手を握った。消防士はちょっと眉を上げて、テナーをからかうように、笑って見せた。


 人形は眠らない。疲れることもない。
 ひとけのない場所――普段は人の常駐していない神社の床下だとか、空き地の廃材のかげでなら、小声で話すことだってできるけれど、こんなふうに、すぐ近くを人間が行き来する場所では、そうもいかない。植え込みの影で、彼らはなるべく体を小さくして、ただただじっと黙りこんでいた。
 けれどあいにく、植え込みはあまり深く茂ったものではなくて、見る角度によっては、道路側から目についてしまいそうだった。
 彼らが持ち主の手を離れて放浪するようになって、すでにけっこうな月日が経っていた。二人とも、衣装も顔もとっくに汚れ、あちこちほころびてしまっている。人目に触れれば、汚いといって眉をひそめられるに決まっていた。それでも、そのまま捨て置いてくれればいいが、見つけた人間によっては、拾ってゴミに出そうとするかもしれない。
 ふつうなら学校のあるだろう時間から、やけに子どもらの姿が目に付いた。目線が低い彼らが近くを通るたびに、ふたりは身を固くした。
 夏休みならばともかく、季節はとっくに秋だ。消防士がひそめた声で、ぽつりとつぶやいた。「そうか、連休なんだな」
 二人には長く感じられる時間がすぎて、やがて太陽も高く上ったころ、回覧板を持った近所の主婦が、隣の家の玄関を訪ねるのが、二人の視界に入った。
 ――あら、息子さん、かえってきてらっしゃるの?
 耳に飛び込んできた言葉に、消防士の体がぴくりと揺れるのを、テナーははっきりと感じた。
 握った手に力を込めて、テナーは首を振った。消防士は振り返って、大丈夫だというように肯いてみせたけれど、その心が、玄関でのやり取りに向いているのは、疑いようもなかった。
 ――そうなの、羨ましい話だわあ。うちのバカ息子なんて、年がら年じゅう……
 ――うちも似たようなものですよ……
 やがて長話が終わり、玄関が閉ざされても、消防士は植え込みの隙間から、その木目調のドアの足元を、じっと見つめていた。その必死な眼差しに、テナーは胸を痛めた。いま彼は、どのような思いでいるのだろう。
 出てこなければいいと、テナーは願った。消防士は、彼のまあくんに、ひと目でいいから会いたいと思っているかもしれない。けれど、それが彼にとっていいことなのか、テナーにはわからなかった。わかっているのは、もしテナーが彼と同じ立場になったならば、やはりどうしても、会いたいということだけだ。


 長い長い時間がすぎて、日が傾きかけるころ、テナーの願いをむなしく破って、そのときがやってきた。
 ――じゃあな。
 家の中に向かって呼びかける声がして、ドアが開いた。消防士がはっとして身を乗り出そうとするのを、テナーは手を引いてとどめた。
 ――次はいつ戻ってくるの。
 ――さあ、正月かな。
 親子のやり取りが、耳に入ってくる。ドアが閉まり、まあくんがスポーツバッグを手に持って、歩きだす。消防士は隣にいるテナーのことなど、もう意識してもいないだろう。飛び出しこそしなかったけれど、消防士の目は、前だけを見ていた。彼の大きくなったまあくんの、くたびれたジーンズの足元を。
 そのまま、通り過ぎてくれればよかったのだ。
 けれどまあくんは、玄関を出たところで、靴ひもが緩んでいることに気がついてしまった。
 靴ひもを結び直すために屈みこんだ青年のつむじを、やせ気味の肩を、祈るように、テナーは見つめた。どうか気付かずに、このまま行ってしまって。
 まあくんは何気なく顔を上げて、そして、植え込みのなかのかれらの姿に気付いた。
 ふたりの体が硬直する。人間の視界に入ったならば、彼ら人形たちは、身動きひとつ取れなくなってしまう。けれど、その意識まで失われるわけではない。
 テナーはぴくりとも動かせない視界の中で、たしかに見た。まあくんの目が、ゆっくりと見開かれるのを。そしてその瞳の中に、見まがいようのない、怯えの色が広がるのを。


    ※

 たしかに捨てたはずの人形が、ある日、自分の家の玄関先に落ちていたら?
 ふつうの人間は、怖がるだろう。呪いや祟り、そういう言葉を連想したからといって、誰が彼らを責められるだろうか。捨てられた人形が彼らを恨んでいるのだと……そう思ったとしても、彼らを責めるわけにはいかない。テナーは理解している。それでも、どうしても恨みがましく思わずにはいられない。
 まあくんは、見てはいけないものを見てしまったように、慌てて走り去った。いっさい後ろを振り返ることなく。その足取りの、焦ってもつれたようすを思い出して、テナーは憂鬱になる。
 あのあと、まあくんは、どうしただろう。見間違いと思って、もう忘れてしまったか。それとも家族に電話を入れただろうか。「家の前にへんなものが落ちてなかった?」――たとえば、そんなふうに。
 何もないわよ。そんなふうに返されて、彼はますます怯えただろうか。それとも、似たような色のゴミを消防士の人形と見間違えたのだ、人形を捨てたことの罪悪感から芽生えた錯覚だなんていうふうに、むりに自分を納得させただろうか。
 おそれるあまりに彼らを拾い上げて燃やしたりしなかっただけ、まだ運が良かったと、そんなふうに思うべきなのかもしれなかった。
 あの日、人目のなくなる時間を待って、テナーは消防士の手を引き、強引に植え込みから這い出た。そうして彼の家のあった場所から離れて、もとの暮らしに戻ろうとした。
 けれど消防士から笑顔は失われ、彼はテナーが何を話しかけても、生返事を返すようになった。テナーが手を引けばあとをついて歩くし、まるで表情がないわけでもないのだけれど、何をしていても、心がいつでもあの日に戻っていくのが、テナーにはよくわかった。
 あんな薄情な人間のことなんて、もう忘れてしまいなさいよ。その一言が、テナーにはいえない。彼女が同じ立場になったとしても、忘れられるはずがないと、よくわかっているから。


「消防士さん」
 ゴミ捨て場や、人形のひそむのに向いた暗がりを見つけるたびに、テナーは呼びかける。どうか返事をしてと、願いながら。
 もし同じことが起きたのが、いまこのときでなかったなら。それならテナーは、消防士もいまごろ自力で逃げ出そうと、必死でがんばっているはずだと、そう信じられたかもしれない。けれどいまは、どうだろう? そんな力が、彼に残っているだろうか?
 雨は止んだけれど、空はまだ暗かった。布と綿でできた体は、水を吸ってすっかり重くなっている。そのうえ道にはいくつも大きな水たまりが出来ていて、テナーは走るのに苦労した。
 通りかかった家の前で、子どもの泣き声を聞きつけて、テナーははっと顔を上げた。ちいさな女の子の声だ。夢のなかで母親に置いていかれて、身も世もなく泣き叫んでいる。
 足をとめて、テナーはためらった。
 彼女に深く刻み込まれた、人形としての本能が、あの子を悪夢から救えと、叫んでいる。けれど、夜明けはすぐそこだった。子どもはじきに悪夢から目覚めて、それからきっと、本物の母親の胸に飛び込むだろう。だが消防士は、いまを逃せば、ごみとともに燃やされてしまうかもしれない。
 迷いは強烈だったけれど、テナーが足を止めていた時間は、長くはなかった。
 持ち主を失って家を抜け出し、子どもたちの夜を守る長い長い旅に出たあの日以来、このとき初めて、テナーは子どもの泣き声に耳をふさいだ。
 ――ごめんなさい。
 心の中で、テナーは何度も謝りながら、子どもの泣き声を振り払うように、ひた走った。消防士は、悪夢と違って覚めることのない現実の中でいま、ひとりきりで絶望しているかもしれないのだ……
 やがてゴミ捨て場を見つけて、テナーは足をとめた。そこには、燃えるゴミの袋が、ぽつりとひとつ、置かれていた。
「……消防士さん?」
 近づくと、そのゴミ袋には、破れ目があいていた。テナーはどきりとする胸に手をあてて、袋の中をのぞきこんだ。
 この袋だっただろうか? あのとき、人間たちが持って行ったゴミに、似ているような気もするけれど、なんせ暗い中で、離れたところから見たっきりだ。はっきりとしたことはわからなかった。
 テナーは破れ目から頭を突っ込んで、ゴミをかきわけたけれど、中に消防士の姿を見つけることは出来なかった。
 彼がここから自力で出たのならいい。けれど――テナーは悪い想像に襲われる。彼のフェルトの手が、こんなふうに鋭くビニールを破れるだろうか? 野良犬や猫に襲われたのではないのか? 消防士から美味しそうな匂いはしないだろうけれど、動いたところを見られて、食べ物だと誤解されたりはしなかっただろうか……
 テナーはゴミ袋からはい出して、明け方の道路に降り立った。雲が厚いおかげで空はまだ暗いけれど、空の端が明るみ始めているのがわかる。
 大声を出すのには、勇気がいった。
「――消防士さん! お願い、返事をして!」
 反射的に体を固くして、テナーは待った。いまの声を聞きつけて、人がやってきたらどうしよう? 悪くすれば、やってくるのは、犬か猫かもしれない……
 テナーはぱっと顔を上げた。自分を呼ぶ声が、聞こえたような気がしたのだった。
「消防士さん?」
 道の向こう、声のしたほうを見つめて、テナーは耳を澄ませた。それからぎゅっと拳を握りしめると、わき目も振らずに駆けだした。


 テナーがつんのめるようにして角を曲がったとき、真っ先に目に飛び込んできたのは、行く手に上がる、炎の色だった。
 塀の前に置かれた、古雑誌の山。そこから音を立てて、火の手が上がっている。とっさに立ちすくんだテナーは、炎に向かって飛び込んでゆく、小さな影を見た。
「消防士さん……!」
 はっとしたように振り返った消防士は、見るも無残なありさまだった。フェルトが焦げて、あちこちに大きな穴があいている。それでも消防士は煤けた顔で、ぱっと笑顔になった。
「テナー! よかった、力を貸してくれ!」
 いうなり、消防士は背を向けて、ふたたび炎のなかに突っ込んでゆく。
 テナーはとっさに悲鳴を上げた。じゅう、と音がして、炎が弱まる。消防士は自分の体を濡らして、炎に覆いかぶさっているのだった。
 消防士は炎から離れて、近くの水たまりに飛び込んだ。身を起こしたときには、胸の焼け焦げはさらに広がって、中の綿が見えていた。
 テナーが立ち竦んでいたのは、一瞬だった。我に返った彼女は、同じように近くの水たまりに飛び込んで、体を濡らした。消防士のあとに続こうとしたのだった。けれど、消防士はそれを手ぶりで止めた。
「待って。二人なら、雑誌ごと運んだほうが早い!」
 テナーは肯いて、炎を上げる雑誌の脇に駆け寄った。消防士が反対側に向かう。
「一度には無理だな。半分ずつ行こう。――せえの」
 二人は呼吸をそろえて、燃えあがる雑誌を持ち上げた。炎がふたりの手を舐めて、しっかり濡らしたはずの布地が見る間に乾いてゆく。人形の肌が熱さを感じることはなくても、自分のからだが焦げてゆくというのは、恐ろしかった。反射的に雑誌を放り出したくなるのをなんとかこらえて、テナーは走った。
 水たまりのそばまで来ると、二人は声を掛けあって、雑誌を放り出した。じゅう、とひときわ大きな音がして、燃え残った雑誌が崩れる。焦げたページの断片が、水面に散った。
「残りも」
 二人は肯きあい、ごみだらけになった水たまりに体をひたすと、いそいで火の手へ駆け戻った。


 消火を終えた二人は、水たまりのそばにへたり込んで、いっとき言葉を失っていた。
 雑誌の積まれていた脇の塀は、木でできたものだったけれど、雨に濡れていたのが幸いしたのか、炎が燃え移ることもなく、やや目立つ焦げ目を残しただけで済んだ。
「雨の降ったあとを選ぶくらいだから、本気で火事にしたかったわけじゃないんだろうけど……」
 いっときして、消防士が呟いた。
 彼は火元を、放火と決めつけているようだった。
 煙草の不始末かもしれないじゃない。そういおうとしたテナーは、水たまりを見下ろして、言葉を呑みこんだ。水面に浮いた燃え残りからは、虹色の膜が広がっている。ガソリンが染ませてあるのだ。
「――行こう。だんだん空が明るくなってきた」
 消防士がそういって、立ちあがった。テナーは肯いて彼を見上げ、思わずちいさく噴き出した。
「なに?」
「ごめんなさい。でもあなた、ひどい格好よ」
 消防士は自分の服を見下ろして、肩をすくめた。焼け焦げだらけの上に、雑誌の燃えかすまで張り付いている。
「――君も」
 消防士はにやりとして、そういった。二人は声をおさえて、くすくすと笑い合いながら、隠れられる場所を探すために、走り出した。


 二人は廃材の積まれた空き地を見つけて、隅のほうに陣取った。テナーはあらためて、まじまじと消防士を見つめて、その手をとった。
「無事でよかったわ……あんまり無事でもないかもしれないけど」
「まったくだよ。――きみ、裁縫とかできないよね」
「できたら、もうちょっとましな服を着てるわ」
 唇をとがらせて、テナーは自分の丸い手のひらを見せた。「夜になったら、公園の噴水で体を洗いましょう。焦げたところは、このままで我慢するしかないわね。……まあ、いまさらだわ」
 そうだねと笑って、消防士はテナーをじっと見つめ返した。テナーは照れて、握っていた手を放した。
「――もう会えないかと思った。よく自力で外に出られたわね」
 テナーが口早にいうと、消防士は肩をすくめて、ベルトにはさんでいた小さな刃を取り出した。「これを見つけてね。まったく、カミソリなんか、燃えるゴミに混ぜて出すなっていうんだよなあ。……まあ、そのおかげで脱出できたんだけどさ」
 しかしそのせいで切ったのか、よく見れば、焼け焦げの穴のほかにも、消防士の手にはするどく裂けた箇所があった。
 空き地の前の道を、人が通り過ぎる気配があって、二人はいっとき黙り込んだ。
 夜中には厚く空を覆っていた雲は、いまは途切れて、青空がのぞいている。風はまだ湿り気を含んでいたけれど、陽射しが廃材の隙間から射しこんで、わずかに彼らの布地を乾かした。
「――もう、このまま処分場に運ばれても、いいかなって思ってたんだ」
 ぽつりと、消防士がいった。
「君は心配するだろうし、悪いとは思ったんだけど――もともとあのとき、捨てられた日に、君に見つけてもらわなかったら、とっくにそうなってたはずなんだし……それに、雅也が必要としなくなった時点で、俺の役割は終わってたんだし、さ」
 びくりと肩をこわばらせて、テナーはうつむいた。その肩にそっと頭をのせて、消防士は続ける。
「だけど、明け方近くになって、歌が聞こえてきたんだ」
「歌?」
 テナーは聞き返しながら、消防士の肩口にあいた焼け焦げの穴を、そっと撫でた。綿がよごれた水を吸って、じっとりと重い。
「ヒーローもののアニメの、オープニングテーマ。今日って、日曜日だったんだな」
 懐かしそうに目を細めて、消防士はその歌を口ずさむ。
「ああ、雅也とよく一緒に見てたなって、思い出してさ。好きだったなあ……ヒーローがいつも迷わず人を助けにいくのが、かっこよくってさ。いっしょに見てる雅也も、目をきらきらさせてて」
 ふっと言葉を切って、消防士は笑った。その笑顔が、ひどく嬉しそうだったので、テナーは不意をつかれた。
「俺にも、君みたいな力があったらなあって――困ってる誰かを、助けに行けるような力が、あったらいいのになって。ゴミ袋越しに暗い空を見上げながら、そう思ったんだ」
 消防士は空を見あげて手をかざすと、いっとき黙って、眩しそうに目を細めていた。
「――不思議だよな。そうしたら急に、物が燃える臭いがしてさ。あの場所とはちょっと距離も離れてたし、それに、ゴミ袋の中にまで、臭いが届くはずもないのに」
 その臭いをかぎつけて、消防士は胸を衝かれるように、行かなくてはと思った。駆けつけてどうするかは、考えていなかった。慌ててゴミ袋を破る方法を探した彼は、中のゴミをひっかきまわして、カミソリを見つけた。そうして、火の臭いをたどっていった先で、燃える紙束を見つけたのだという。
「駆けつけたはいいけど、どうしたらいいかわからなくてさ。君が不思議な力で悪夢を追い払うみたいに、俺にも何か、火を消す能力なんかがあったらいいのに」
 冗談めかして、消防士はくすりと笑った。
 上空に風があるのか、雲が流れるのが早い。ふたりは陽射しで体を温めながら、いっときただ黙って、手をつないでいた。
 思えばさ、と消防士はいった。
「あのころヒーローに憧れて、消防士になりたかった雅也はさ、いまは心理学の勉強をして、悩んでる人たちを、助けようとしてるんだよな。大人になって変わってしまったと思ってたけど――そうじゃなかったんだな」
 テナーは言葉を詰まらせた。それが、消防士の嬉しそうな笑顔の、理由らしかった。
 あんなふうに逃げてゆく背中を見ておいて、どうしてそんなふうに思えるのと、テナーはいわなかった。代わりに、消防士の頭を抱きしめた。
「俺にも、誰かを助けることが、出来るかなあ」
 ぽつりと、消防士が呟いた。
「今日、できたじゃない」
「そうかな」
「そうよ」
 テナーはいって、にっこりと笑った。
「これから、ますます忙しくなるわね。……もうちょっとうまい消火方法も、何か考えておかないと、小火のたびに焦げ穴だらけになるのは、ちょっとね」
「そうしょっちゅう、不審火があったら困るよ」
 肩をすくめて、消防士は笑う。テナーも声を立てて笑った。それから人に聞かれはしないかと、慌てて口元をおさえた。
 テナーの肩に頭をのせて、消防士は空を見上げる。日は高く、夜までにはまだまだ時間がある。それまでは彼らにとって、しばしの休息の時間だ。



(終)


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