5 できない人の気持ち 「おねえはずるい」
あるとき急に、妹がそんなことを言い出した。 「はあ?」 思わず尖った声が出たわたしを誰も責められないと思う。 夕飯後のことだ。チャーハンを食べるのに使ったスプーンをがじがじと行儀悪く囓って、妹は癇癪を起こしていた。来年には高校に上がろうというのに、完全に駄々っ子のかまえだった。 「父ちゃんはいっつもおねえばっかりひいきする」 「なに言ってんの?」 顔をしかめて、わたしは聞き返した。言いたくはないが、こっちの台詞だった。父はいつだって妹を溺愛していたし、心配していた。 ――弓香はしっかりしてるから安心だ。 ――お姉ちゃんなんだから、妹の面倒を見てあげないとね。 子どもの頃から、何度となく色んな人から言われてきた台詞だ。だけど本当は、わたしだって明里みたいにわがままを言っても「しょうがないやつだな」で許されたいし、たまには心配されてみたい。言わないようにしているだけだ。 明里はぶんむくれた顔でスプーンを囓ったまま、 「あたしには勉強しろ勉強しろってうるさいのに、おねえにはぜんぜん言わないし」 そんな甘ったれたことを言った。 横で聞いていた父も、これには呆れかえった顔をした。「弓香はほっといても勉強してるだろ」 「おねえは勉強好きだから苦にならないんだよ。父ちゃんだって、勉強できたんでしょ。ふたりとも、できない人間の気持ちなんかわかんないんだ」 「なんだよ。わかんないところあるなら父ちゃんが教えてやるって」 「どこがわかんないかわかんないんだもん!」 なんとも頭の痛い台詞だった。それでもここで「あんたが授業中に寝てるのが悪いんでしょ」などと言ったところで、この妹が聞く耳をもつはずがない。明里にお説教をするのにはタイミングが肝心だということは、いやというほど骨身に染みていた。 「勉強のことだけじゃないし。おねえがなんか欲しいって言ったら、父ちゃんすぐ買ってくるじゃん。あたしにはお説教なのに」 「弓香は本当に必要なものしか欲しがらないだろ」 「あたしだってホントにいるものしか欲しがってないし!」 「アイスとかつけ爪とかが?」 「いるじゃん! この部屋暑いし! 明里だって友達とコンビニの新作アイスの話したいし、可愛いネイルくらいしたっていいじゃん!」 完全に子ども返りしている妹に、わたしは額を押さえた。こうなるとスーパーの床で転がって泣き叫ぶ五歳児と変わらない。 「小遣いやってるだろ」 「足りないよ! バイトさせてよ! そしたらアイスも服も化粧品も自分で買うし!」 「駄目だ」 父は相手にしない構えだった。「十代から化粧なんかしてたら肌が荒れるぞ。そもそも中学生っていうのは働けないの。児童労働は違法なの」 「じゃあ高校に入ったらバイトしていいよね?」 「駄目だったら駄目だ。第一、たいていの高校はバイト禁止だろ」 父はにべもなかった。 妹の主張はともかくとして、わたしとしては高校あたりで一旦ちょっと世間様に揉まれるのも悪くないと思うんだけどな、と思わないでもなかった。わたし自身も少し前にバイトをしたいと父に申し出て、駄目だと宣言されたばかりだったというのもある。 「許可取ればいいんじゃない? 高校生向きのバイトとかあるよ。コンビニとかマックとか」 「悪い虫がつくだろ!」 今度は父が癇癪を起こした。ほら過保護が出たぞと思いはしたけれど、妹のことだ。あながちないともいいきれない。「それなら新聞配達とか」 「女の子なんだからひとけの少ない時間に出歩くバイトは父ちゃん許可できません」 「ていうかムリいわないでよ、起きれるわけないじゃん! おねえは他人事だと思って!」 「わたしだって大学に行ったらバイトするし……そしたら少しくらいは生活費も」 「そんな心配はしなくていいから!」 父の矛先がこっちに向かってきて、わたしはわたしで顔をしかめた。金の掛かる娘ふたりシングルで育ててるんだから、それくらい当たり前だと思うのに、父は頑として譲らないかまえだった。「バイトするにしても勉強に差し障らない範囲にしなさい。家に入れる金なんて考えなくていいから」 何か反論しようと口を開きかけたのだが、それより早く妹がまた癇癪を起こして、 「ほら、おねえとあたしで扱いちがう!」 そんなふうに叫ぶので、もうなにもかもが面倒くさくなった。 「明里、あんた顔真っ赤じゃん。ちょっと落ちつきな。アイス買ってきたげようか」 「そうやって人のことすぐ子ども扱いする!」 まるきり小さい子どものようにごねておいて何を言ってるんだかとか、そもそもちゃんと勉強しなさいよとか、言いたいことはいくらもあったけれど、本物のガキんちょみたいな林檎のほっぺを見ていると、まじめに叱る気も失せた。「じゃあいらない?」 「いる」 はいはい、といなしてあとを父に任せ、財布を持ってコンビニに行こうとしたら、今度は父に呼び止められた。「もう暗いだろ。ひとりで出歩くな」 その過保護にはもう笑うしかなかったけれど、反論する愚はおかさなかった。「そしたら明里、一緒に行こ? 自分で好きなの選びな」 また文句を言うかと思った妹は、しかし大人しく靴を履いてついてきた。すぐ戻ってこいよ、という父の声が追いかけてくるのにおざなりな返事を返して、ドアが閉まるなり妹と顔を見合わせた。自分もついていくと言わなかったのは、往来で口論の続きになることが目に見えていたからだろう。 ひとりで出歩くのに躊躇うような時間ではぜんぜんなかったのだけれど、もう残暑の頃で、日が落ちるのが早いのはたしかだった。遅めの犬の散歩をしている人を大回りに避けながら(妹は子どもの頃から犬が苦手だ)、徒歩五分のコンビニまで二人で歩いた。 「あんた、学校でなんかあった?」 そもそもの不機嫌の原因がほかに何かあったんじゃないかと当たりをつけて、道々そう訊ねると、明里はまだふてくされた顔で、「べつに」と唇を尖らせた。 「なに拗ねてるんだか。わたしからしたら、あんたのが羨ましいけどな」 なるべく軽い調子になるように気をつけながら、わたしは言った。 「はあ?」 何いってんの、みたいな顔をする妹に、詳しくは説明せず、 「あとわたし、勉強好きじゃないよ」 それだけつけ足した。 「嘘だ」 間髪いれず決めつけられて、わたしは顔をしかめた。「なんでよ。そもそも勉強好きな人間なんてそうそういる?」 「ええ? だってじゃあなんで好きじゃないこと毎日すんの。意味わかんない」 それはだって、とわたしは呆れた。 「国立大狙ってるし」 できれば奨学金もほしいし、とつけくわえたら、明里は引っぱたかれたような顔をした。 実際、言葉で殴ったようなものだったのかもしれない。だけどわたしが自分でそう思えるようになったのは、ずいぶん時間が経ってからのことだった。 「……あたしは大学なんか行かないし」 意固地な声を聞かせて、妹は拳を握りしめた。 「高卒でちゃんと仕事見つけてくるなら、べつに反対しないけど」 「専門とかもあるじゃん」 「いいと思うよ。でも、どういうところあるかちゃんと調べときなよね」 言うと、妹は口をへの字にした。 「おねえが冷たい」 「甘ったれ」 本当にちびっこのようにいーっ、と歯を見せた明里は、しかしコンビニに入ると図々しくいちばん高いアイスを選んだ。そのくせ機嫌はなおさず、家に帰るまでふくれっ面のままだった。 |